北条家家臣   トップ
北条家臣団の構成
 北条家は左図のように、北条家が次々に他国を侵略して領地として行く過程で土地の土豪を家臣に加えて行った。
 家臣になった時代により。左図のように江戸衆、小田原衆、玉縄衆などの集団として家臣団に組み入れている。
 
 小田原旧記は北条氏の家臣団名簿で、表筆頭は北条早雲の草創時代からの家臣である「御由緒家」7家であり、駿河から伊豆に打ち入る時に従った「御供衆」4家がこれに次ぐ。
 伊豆打ち入り後伊豆一国平定に味方した「伊豆衆」は20家で、仁杉幸通はこの20家に入っておらず、浮役寄合衆28家のひとつとされている。
 また御馬廻衆(各壱手持)に弟の仁杉五郎三郎(正通)の名も見える。

小田原旧記による家臣分類

御由緒家 大道寺、多目、荒川、荒木、山中、有竹、松田の7家
御供之家 葛山、九嶋、岩本、朝比奈の4家
伊豆衆 桑原、横井、笠原、松下、遠山、富永、高橋、鈴木、山本、佐藤、安藤(狩野)、山角、村田、上村、梅原、朝倉、横地、田中、南条、清水の20家
相模衆 省略 4家
御馬廻衆 仁杉五郎三郎など120家
浮役寄合衆 仁杉伊賀守など28家

小田原衆所領役帳
 
 「小田原所領役帳」または単に「小田原分限帳」は永禄2年(1559)、北条家3代氏康の命をうけて太田豊後守、関兵部為清、松田筑前守、安藤豊前入道良整らにより編纂された。
 小田原衆だけでなく、江戸衆、伊豆衆、玉縄衆、御馬廻衆、津久井衆など北条家全体の家臣団を衆として編成し、その所領と役高(貫高で表現)を記載しているので「小田原衆・・」は正しくなく、「北条氏所領役帳」と呼ばれるべき内容である。
 役帳に記録されている人数(寺社も含む)数は560人、役高は72668貫余となっている。
 原本は小田原落城の折、高野山に落ちていった氏規などにより高野山高室院に保管されていたが後に焼失してしまっている。
 しかし、原本焼失前の元禄5年(1692)、武蔵国豊島郡王子(東京都北区岸町)金輪寺の第5世宥相という僧が写しをとっており、その後、宥相の写しから更に写しがとられ転写されて現在いくつかの写本が存在する。
 明治になって内務省も写本をとっている。下は東京堂出版の復刻版(佐藤栄校注)の表紙と内閣文庫に保存されている筆写版の仁杉幸通に関するページ。(小田原編年帳)



内閣文庫に保存されている筆写版の仁杉幸通に関するページ

 これとは別に、平塚市史編纂の過程で平塚市今井治良氏所蔵の「小田原役帳」発見された。
 これは宥相の写しとは別系統であるといわれ、韮山城主だった氏規の末裔河内狭山藩主の北条家伝来のものと伝えられる。

 平塚市今井治良氏所蔵の「小田原役帳」 
 仁杉伊賀(守)についての記述は、内務省の写本など宥相系の写本にくらべて左図のように簡潔であり、「子孫が熱海の商人になった」といくだりはない。この文章は内容から見て、明らかに江戸時代、それも後期になってから書き加えられた文章である。
 右は仁杉伊賀の記述のあるページ
      静岡県史 中世第3編より


















文  
































西



























幸通の所領
 上記の小田原衆所領役帳によれば、仁杉幸通は伊豆衆の1人として西清寺分50貫、御蔵出から10貫、計60貫を給されている。
 伊豆衆は北条早雲が伊豆を平定したときに家臣となったものを中心に、北条早雲親子が小田原城に移った後の伊豆国を支配するために、韮山城に所属する家臣団として形成された。
 伊豆衆全体で役3400貫。これが29人の伊豆衆家臣に割り振られている。

 北条家の伊豆支配は平時は伊豆北郡(田方郡)と伊豆奥郡(賀茂郡)にそれぞれ郡代をおき、戦時には北条一族が城主として赴いて領国を支配した。
 北郡の郡代は伊豆衆筆頭の笠原綱信、奥郡郡代は清水康英がつとめた。笠原美作守綱信は所領447貫余、またの名を玄蕃助といい、伊豆北郡代と評定衆を勤めた。北条家重臣笠原一族の一人。
 清水太郎左衛門康英は所領829貫と伊豆衆の中で最大の禄。永禄12年上野介、のちに上野入道。伊豆奥郡代、評定衆、奏者を務める。天正16年(1588)には下田城主。

 北郡代の笠原綱信には肥川、仁杉、吉原、成瀬、藤崎の5人の家臣が所属し、それぞれ所領に応じた兵員・武器をもって韮山城の守備と領国支配にあたった。奥郡郡代には村田氏を筆頭に22人の家臣が所属し、下田城などを本拠に南伊豆を守った。



  「北条氏所領役帳」の伊豆衆
          「北条早雲の戦略・戦術」「北条早雲のすべて」による
  名前   役高    役       知行地 蔵出分
伊豆北郡
笠原美作守
肥川
吉原    
成瀬    
藤崎    
仁杉伊賀 
447貫150文
100貫746文
20貫
20貫65文
15貴
50貰


大普半役

大普半役
大普半役

材木方役
西郡多古、豆州矢田ほか
西郡飯富、豆州落居
倉田内
中郡坂問火文字分
豆州悔名之内
西清寺分





10
伊豆奥郡
清水太郎左衛門
村田     
清水小太郎   
西川藤四郎  
小針
高橋      
矢野     
大谷     
西島藤次郎  
池田      
秩父次郎左衛門
大見衆三人  
西原次郎右衛門
三宅
倉地
伊東九郎五郎
江川
加藤又五郎
多米弥次郎
渡辺蔵人
大谷善左衛門
山中参次郎
相良四郎
829貫700文
70貰 
45貫
16貫681文
12質584文
10貫
255貫
44貫
20貫
20貫
578貫23文
130貫
20貰
 5貫
144貰
55貫
30貰
10貫
20貫
22貫575文
80貫
245貫
100貰



大普半役
大普半役
大普半役


大普半役

大普半役
大普半役


大普半役





大普半役

役御免

豆州加納、熊坂ほか
豆州妻良、福良
豆州河津ほか
豆州東福寺分
豆州大沢
雲見
安良里
蝶ケ野
熊坂内給田
多田内給田
中郡津古久、豆'州間宮ほか
大見・東郡堤
豆州矢田伏給田
江間之内給田
豆州西浦河内山堂
豆州奈古谷ほか
豆州立戸
御免郷内
奈古谷内給田
三島中村
豆州中条・同増分
豆州小野、佐野ほか
豆州吉田
17貫34文
10貫












5貫

40貫




 5貫
60貫
50貫



 永禄2年(1559)の史料では表のように、郡代の笠原、清水を除く伊豆衆家臣が27人おり、その役高は579貫(秩父次郎左衛門)からたったの5貫(三宅某)まで幅が広い。
 幸通は27人の中で上から10番の役高である。 永禄2年現在、北条家全体で560人いた家臣の中では「中の上」に位置していたと見られる。

 平時は家来や小作人に田畑を耕させ、知行に応じて工事、普請などの賦役につくが、戦時になると定められた軍役に従って参陣する。しかし、幸通は御蔵出10貫をも受けており、知行役(普請などの賦役)が免除され、平時も番衆として役についていた。

 小田原分限帳に
   「材木方義被仰付間知行役御免」
とあり、材木の調達などの役目を持っていたものと考えられる。

 天正14年の北条氏政朱印状〔森六夫氏所蔵文書)には仁杉氏や大野氏が伊東山、狩野山(天城山に比定されている)管理していたことがわかる記述が多く見つかっている。
 また同17年の北条家朱印状(大川文書)は伊豆長浜〔沼津市)の大川氏が購入した東海船を伊東の湊に運び、仁杉氏に渡すよう命じており、伊東氏が伊東の湊にいたことがわかる。
さらに天正18年には出陣準備を命じる北条家朱印状を受けている。
 小田原市史 中世史料(120ページ)によれば幸通は材木奉行のほかに伊豆郡代笠原氏の触口(役職の内容は不明)をつとめていたと見られる。
 後に述べるように、戦国遺文 4巻2957、2995、3111、3180、5巻3651にその記述がある。

 幸通が知行したという「西清寺」がどこであるかいまだ不明である。「国清寺」の誤記ではないかとする歴史書もある。
 国清寺は韮山の奈古屋にある、康安2年(1362)創建の古寺である。奈古屋には弟五郎三郎の所領もある。
 ところで60貫文という所領はどのくらいか。 100文で1斗4升と言われているから(韮山町史)、60貫文で840斗、江戸時代の石高に換算すると84石となる。


静岡県史の幸通に関する記述
 静岡県史通史編2 中世の巻第二節「北条氏の伊豆家臣団と水軍」に仁杉幸通の「材木方」という業務についての記述があるので紹介する。

所領役帳と伊豆衆

―前略
豊かな森林資源を持つ天城山が中央に位置する伊豆国は山の国でもあった。重要な軍事物資である材木の管理にあたった「材木方」の任に就いたのが仁杉伊賀(幸通)であった。伊豆衆の特色のひとつを示す存在である。狩野山(天城山)からの材木を伊東湊まで運ぶ際、伐採した材木の数量の確認、受け渡し、運搬などの監督にあたっている。
天正17年、北条家が買い取った東海船が西浦より伊東湊まで浦伝いに回送された際、船の受取人の一人にもなっている。

「材木方」というのは伐り出された材木の運用、そのひとつである造船、船の管理までの広い任務に就くことがあったと考えられる。こうした特殊な任を負っていた仁杉伊賀は、知行役を免除され、蔵出として北条家より10貫文を支給されていた。

ところで、天城山の材木資源の重要さに着目した北条氏は、狩野山を直轄領とし、狩野山奉行を置いた。狩野山檜奉行とも云われたこの山奉行になったのが大川神左衛文であった。 伊豆衆などに編成された家臣ではないが、山中彦次郎を地頭とし、その下で北条家より佐野(天城湯ヶ島町)に10貫文の地を与えられた。

―中略

先の仁杉伊賀が「材木方」であるのに東海船の受け渡しに立ち会っているのと同様に山中氏も天城山の材木の監理とともに船方番銭の徴収に当たるという「山」と「海」の双方の任務を遂行している。

伊豆国は山と海の国であると言われている。その伊豆国の特色を伊豆衆の山中彦次郎や仁杉伊賀がよく具現しているといえよう。

―後略



 以上のように、仁杉幸通が北条家の家臣であったことは多くの史料にあり、間違いないと考えられるが、仁杉圓一郎氏は「幸通は北条家の家臣ではなく、朝廷から派遣された武将」と主張している。  「幸通は北条家臣にあらず」参照。



北条家臣の軍役
 
幸通は材木方の役目についていたので知行役を免除されていたが、60貫文の知行を受ける家臣は戦いの時にどの程度の軍役負担があったのか。
 北条家の貫高基準では田1反あたり500文、畠1反あたり165文となっているので、仮に全所領が田ばかりだったとすると、50貫文は100町歩の田を所領していることになる。
 貫高は軍役の基準にもなり、事あれば7貫に1人の割合で軍勢を引き連れて参陣する義務があった。
 下は寺家鴨志田(横浜市青葉区)に27貫200文を与えられていた大曽根飛騨守という武将に宛てた着到定書(戦場に赴く時に引き連れて行く侍や足軽の人数、持って行く武器や装備を書き上げたもの)に基づく想像模型の写真である。
 27貫余は4人の軍勢ということになり、図のように本人と足軽3人で戦いに出向いて行ったという。
「着到定書」には下表のように武器や装備について事細かく規定してある。
 幸通は合計60貫であるから、この2倍、7、8人の家来を連れて本陣に馳せ参じる義務を負っていたことになる。.
 幸通が受領したと考えられていた朱印状には「弐百四拾人鑓、百七拾余張弓、参百人弓にても鑓にても鉄砲にても存分次第云々とあり、60貫余の軍備、軍装はとは規模の差があり過ぎる。
    幸通朱印状参照
 このことから、朱印状に記された軍備は伊賀守、加賀守への軍備指示ではなく重臣笠原美作守の触(ふれ)担当としての笠原傘下の家臣団に軍備を命じる文書で、伊賀守、加賀守は受信人ではなく、むしろ笠原の代理としての発信人だという解釈がある。



大曽根飛騨守の軍装復元模型
     (横浜市歴史博物館)

 27貫余の知行で足軽3人を引き連れての出陣が義務づけられていた。
足軽1 鑓は2間(約1m36cm)の長さで箔をおす。その鑓を持つものは手具足と皮笛をかぶる。
足軽2 指物は、縦6尺5才(約lmg5cm)で横が4尺2寸 (約lm26cm)。指物を持つものは具足を付けて皮笠をかぶる。
本人 甲と面肪を付ける。立物は5尺7才 (約lm52cm)で立物を付ける位置は上でも横でも後ろでも構わないが、必ず左右の長さはこのようにする。さらに具足・手蓋・馬鎧を付けること、それらに金紋を付けるのは構わない。
足軽3 歩者は、具足に皮笛。手蓋を付け、指物を持つ


      
関連サイト

            後北条氏の家臣団