仁杉圓一郎氏からの書簡
(前略) 伊賀守幸通の北条家臣でないとする点と、三国同盟に於ける駿東郡の管轄者の二点に付き、いまひとつご納得いかない様でしたので、此の事にっき私なりに別の両から見てみたいと思います。 ・エ藤幸通より仁杉幸通となるは納得頂けたと思います。 ・北条家臣で仁杉伊賀幸通であるとする説が正しいとすると、
@朱印状の仁杉伊賀守は誰であるうか。
家臣なら、一擦帳(武士間の事に当たりて心を一にして進退を共にする誓約書云々と朱印状に記さず、命令文でよい、末尾件の如し(前述の通り)でよい。 家臣なら、直接に命令を伝之るに、笠原を介して鰯れる(伝え)必要なし。
A伊賀幸通の名は不自然すぎる名である。
B伊賀守でないとすると姓名は、仁杉二郎三郎幸通となるべきなのに、その記載はない。
C幸通の役高の五十貫は西清寺分と記してあるが、これは寺領分であり寺の収入となるべき貫目であり、幸通の貫目は無いとなる、他の伊豆衆と言われる北条家臣で全ての貫目が寺領分の記載は一人もいない。
D代々従五位下伊豆守であり、同じく従五位下伊豆守工藤二郎、二郎幸通が、北条家臣となりひと杉の地へ赴任させられたとすると、苗名は人杉でも一杉でも良かったのではないかなぜ仁杉なのか。
E同じく代々の伊豆の国主の身分なのに、単なる仁杉伊賀幸通.貫目無しで家臣となったとしたら不自然である、代々の家臣はその当時でも伊豆に大勢いるので考えられない。 むしろ反発や不満を抑えるため厚遇するはずである。
F幸通の立場より考えてみると、氏康の祖父伊勢新九郎に伊豆国留守の間に国を武力にて奪われ、取り返すことの出来なかった無念さを思うと、憎しみや敵対心があって北条の軍門に降り、知行地も無く従う家臣も無い身分となり、伊豆に移住するであろうか考えられない事である。むしろ京に居て、父や祖父と同じく将軍家側近として居たほうが身分もあり、保身も虫来たはずである、朝廷よりの信も有ったであろうから保身は十分可能なはずである。
(中略) 此の様に考えてみると、墓前碑文や系図書きの通り、従五位下伊賀守幸通であり、北条「家臣に葬ず」、富士山東部の駿東郡は「管轄所領の地」であり、江戸期末まで所有できたのではないかと推察できるが如何なものでしょうか。
私が申し上げた、あらゆる面から真実か否かを検証するの一つが右記した様な面での検証です。
小田原役帳について
小田原役帳の記載に誤り無きかと言えぱ、小和田教授も江戸後期に写し書きされ、更に転写より転写されているので、原本も無く全く正しいとはは言えないとしており、 仮説として 五十貫寺領分仁杉伊賀守
と原本に記してあるを、転写の時「守」では五十貫は少ないので守でないとして、守を削除したか、始めから原本には記載が無いのに、後に他の記録の中より見つけ役帳に書き加えたものか (材木方勤めの如く)、
幸通の武蔵国桜田の88丁の記載無く(奉通の項に記載されるべき)。 朱印状の加賀守は、伊豆の大草加賀守しか該当者なく、幸通旧臣で391貫の石高だが、これも役帳に記載無し。
幸通以外の仁杉姓の者の(五郎三郎除く)記載無いのはなぜか、家臣であれば嫡男幸高の貫目や姓があっても不思議でない。
注)小和田哲男氏著 「中世の伊豆國」227ページに小田原衆所領役帳について下記のような記述がある。
小田原衆所領役帳の作成 正しくは『北条氏所領役帳』 3代氏康のとき、永禄2年(1559)2月であるが、氏康の命をうけて、家臣の太田豊後守.、関兵部丞為清、松田筑前守康定、安藤豊前入道良整らが編纂した一冊の台帳がある。 残念ながら、永禄2年に作成された原本は伝わらない。 しかし、もと、高野山高室院にあった原本を元禄5年(1692)、武蔵国豊島郡王子(東京都北区岸町)の金輪寺の第5世宥相という僧が写しをとっており、その後、原本は焼失してしまったが、宥相の写しからさらに写しがとられ、転写されて今日に伝えられている。 もっとも、最近、神奈川県平塚市史編纂の過程で発見された「今丼家本」は、宥相の書写本(「宥相本」)とは別系統であるといわれ(平塚市史 資料古代.中世)、韮山城主だった北条氏矩の末裔狭山北条家伝未のものと考えられている。 さて『小田原衆所領役帳』の書名であるが、戦前に出版された『東京市史外編集註小田原衆所領役帳』にしても昭和44年(1969)、杉山博校註の『小田原衆所領役帳』(日本史料選書)にしても、書名は「小田原衆所領役帳」の名で、これが広く流布している。 しかし、実は、厳密にいえば正しくない。というのは、この役帳は、表(仁杉家の祖・幸通)に示したように、小田原衆だけでなく、江戸衆・伊豆衆などいくつかの衆単位の集大成で、小田原衆がその冒頭に書かれ、一番最初の小田原衆の所領役帳が全体の書名になってしまっているという事情があったからである。
氏直朱印状庚寅(天正18年)2月17日付について 仁杉圓一郎
諸説あるので、秀吉の小田原攻めの時の北条家の動向等から推測してみる。
北条滅亡5年前の天正14年11月、秀吉は領地争いを繰り返す北条に対し、秀吉に従うか否かの書状を送る。
しかし抗戦派の氏政は奥州伊達正宗と同盟を結び、抗戦を主張し秀吉に従わなかった、それぱかりか同月関東全域に命令を発し「15歳以上70歳迄の全ての領民は武器を持ち集合の事、この触に背く者は死罪とする」と触書を出し、90以上の支城を整備する。
一人でも多くの兵員の欲しい北条は、家臣でない幸通に対し加勢を頼んだと思之る。
幸通は伊豆国旧主でもあり、氏康以来の結びつきも有りむげに断れず、代々の伊豆の留守役の大草加賀守等と相談をし、援軍を出すを承諾し天正15年から17年の間の3月(辰の月)に約書を発したのであろう。
武将間の、事に当たり心を同じくし進退を共にするとする約書を一揆帳と言う、農民一揆とはまったく性質がちがう。
北条滅亡の前年天正17年12月、真田氏の守る沼田城を北条が攻めた事に端を発し「北条は領地境争いを禁じる触を踏みにじり争いを起こした、関白秀吉は公儀に変わり討つ」と宣戦を布告する。
ここに小田原攻めが始まる、秀吉軍進軍の報に接し氏直は幸通に対し、一揆本帳で約した如くの援軍を求める書状を、東浦(田方郡伊東圧)の笠原美作守が触れ(伝える)るとして発した、北条虎の印を押した朱印状と言われるものである。
一揆帳(約書)では「約1千の兵を出しましょう、その内槍は240人、170人は弓、他の600人は得手な武器を持たせましょう」との内容である。
その後この人数が訓練の為動員され、それを氏直か笠原が見たのであるう、「旗は一様に白くしてあり見えにくいので、墨でも朱でもよいから紋を出して下さい、槍は2間以下は見えにくいので、獣毛を二重ねにして柄の先に付けて下さい」と触れ(伝え)られている。
この事は援軍なので、北条軍と区別して分る様にする為であろう、又、御日限の儀又は御下知等の儀は御付けある事とあり、目下の者へ宛てた書状ではない。
幸通は駿東郡と相模の境にある最も近い山中城へは援軍として入らず、仁杉より兵を率い本貫の地の伊豆の韮山城に援軍として入る、代々の家臣も伊豆に多く居る為か。 この時幸通は伊豆国旧主の時の姓名の、工藤二郎三郎と名乗り戦っている。
秀吉は北條家菩提寺の早雲寺に本陣をおき、天正18年3月29日、小田原城の西の支城で、4千の兵が守る山中城を7万の軍で攻め、わずか半日で落城させる。 山中城から小田原城まで支城なく、小田原城を10万以上の軍で囲む。 以後次々と90近い支城は落ち幸通援軍として篭城した韮山城も、3万5千の兵に囲まれ攻められたが、城主北條氏矩止む無く韮山城を開城し、伊賀守幸通は故墟仁杉へ戻る。
駿河仁杉にある幸通墓前の碑文に2箇所、仁杉圓一郎氏の主張を裏付けるような記述がある。 1)「氏康が幸通に甲駿の管轄を託す。」という部分 2)「北條氏矩が篭城する韮山城に強者を率いて来援」 の2箇所である。
もっとも、これは子孫の与力仁杉五郎左衛門が書いたものだから、身内のひいき、「我田引水」の可能性もある。
仁杉伊賀守幸通墓前の碑文
嚢祖仁杉伊賀守藤原朝臣幸通其先南家祖左大臣
武智麻呂九世遠江守為憲曽孫駿河守維景嫡男
伊豆押領使維職五世伊東九郎祐清嫡男左衛門権佐
祐光十二世孫也世々居豆州伊東君有故移住干
駿州仁杉邑因以仁杉為家競以其地接干甲州北條
氏康託君令為陸階轄武田今川等聞其威名
不能敢侵彊而伊豆海陸屡乱或父子相諍或兄弟
相凌僉曰國旧主何律之守因君帰本圀化其民人
教以廉恥兼励武備遠近聞之愈益恐擢称伊豆四将
之一也天正庚寅之役豊臣氏進攻北條氏干小田原
其族氏矩守韮山城君率逞兵来援為故其城終不抜
雖然氏直敗走諸城尽屠於是君歎曰大廈之顛豈
一木之所支哉遂去隠干仁杉故墟澹然養志蓋待
名君之起乎可惜天不借之齢天正二十年壬辰九月廿日
以病卒即葬干仁杉之地法謚曰大乗寺殿八代裔孫
仁杉五郎左衛門幸信文政六年癸未四月建碑干墓前 |
世々(だいだい)豆州ノ伊東二居ル、君(幸通のこと、以下同じ)故有リテ駿州ノ仁杉邑二移住シ、因リテ仁杉ヲ以テ家号ト為ス。其ノ地甲州二接スルヲ以テ、北条氏康、君二託シテ甲駿ノ管轄為ラ令ム(たらしむ)。武田・今川等其ノ威名ヲ聞キ、敢エテ彊(さかい)ヲ侵ス能ハズ。
天正庚寅(かのえとら)五(天正18年 1590年)ノ役(小田原の陣)二、豊臣氏北條小田原二進攻ス。其ノ族北條氏矩韮山城ヲ守ル。君逞兵(つわもの)ヲ率ヰテ来援ス。故二其ノ城終二抜ケズ。
|