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東欧4ケ国:旅の思い出

 
Prahaプラハその1の1

2005.11.2〜3朝





3年振りの成田空港


定年後2000.11(イタリア):.2001.8(中国);2002.9(スイス、ドイツ、フランス)と3年間続いたのですが、しばらく振りの成田に少し戸惑いました。今回はQLライナ−という業者に自宅(札幌)から成田まで往復、ス−ツケ−スを依頼し手ぶら同然の出発でした。

11/2朝 千歳発7:45なので自宅を出発したのはかなり早かったが千歳発〜成田着でしたので、前日泊もなく助かりました。オ−ストリア航空のゲ−トのある第2旅客タ−ミナルの2Fに9時15分に予定どおり到着、集合は3FでQLライナ−のス−ツケ−スの引き取りも同じ3Fだったので楽でした。


税関手続き

集合時間の9:45分に5分程度遅れたが事前に連絡していたのでOKだった。添乗員からチケットと手荷物と税関手続きについてサポ−トがあり、手荷物はウイ−ン経由プラハまでとして預け、税関手続きも問題なく完了した。3年前もそうだったが免税店でジョニ黒のポケット瓶を1700円で購入した、時折酔いの醒めた就寝前に少しづつ楽しみ帰国する前の日に空になりました。プラハのホテルの冷蔵庫にもミニチュア瓶のウイスキ−が入っていたが100コルナ前後だったので5〜600円になります。水もガス入りとガスなしがあり、地元の人は水道水を平気で引用しているようです(細菌の問題は心配ないがカルシウムとマグネシウムが日本より多めとのこと要するに硬水ということなのでしょう;)そして購入する水はほとんどガス入りのようです、ガスなしはスティルwaterというそうです、冷蔵庫のガスなしは余り利用されないのか高めで500mlでミニチュアのウイスキ−を買う位の値段だった(街で買うと40コルナ程度)。



東欧4ケ国のツア−ル−ト

ウィ−ン空港より乗り継いでプラハ空港へ→チェコのプラハ市より今回の夢の旅はスタ−トします







モスクワ辺りの上空

モスクワ辺りの上空と思います;雲間からの太陽がまぶしくとても綺麗でした。2回機内食があり、本場のワインはとても美味しく何度か戴きました。

特に赤ワインは美味しく感じました。ビ−ルも日本のようにホップはそれほどでもないが、さすが濃い味のするなかなかのものでした。







オ−ストリァ航空はANAと提携関係にあるようでマイレ−ジの加算もOKとのこと機内には日本人のスチュ−ワデスもおり、少し気が楽でした。

制服が真紅に近い夕日色というのか要するに赤でストッキングも含めすべて赤づくめ、オ−ストリア人は女性も体格が良くぴったりの制服にお尻の下着のラインがかすかに浮き上がって見え何ともsexy、なんとなく目が行ってしまい困りました(ごめん(-_-)/~~~ピシー!ピシー!)、でもみなさんさわやかなスチュアデスさんでとても愛嬌があり結構でした。










機内でオ−ストリアの可愛らしい男の子;


空気枕

今回はお尻に当てる空気座布団と首に巻く空気枕を用意して参りました;周りを見渡したら結構首に巻いて心地よさそうに使っている乗客が目に付きました。

空気枕をするとフワフワして楽ちんなのですが、私の場合枕から伝わってくる飛行機の騒音が少し気になりした。その内室内も照明が消され、疲れも加わり騒音も気にならなくなり、うつらうつらと寝てしまいました。








ウイ−ン空港のトイレ



ウイ−ンには予定時間の16;00頃(日本時間は8時間進んでいるので11/3の深夜零時頃になるのでしょうか)に到着;次のプラハへの乗り継ぎの搭乗まで30分位ありトイレにまず直行しました。

男子用トイレの便器が日本のように下まで長いものではなく長さが1/3位のサイズのものが壁の途中に設置されています。

オ−ストリァ人の平均身長に合わせているので私のように156cmしかないものは背伸びしても少し難しく参りました(その後のブタペストもプラハも同じつくりでした)。

隣同士は壁もなく、チラット目を横にやると大変なんです、いやびっくりしました。

でもトイレ独特の変な匂いもなく清潔でした。






プラハ空港


左の写真はプラハ空港での成田からのス−ツケ−スがベルトコンベァに乗せられて出て来るのを待っている模様です。

荷物を受け取ったあと添乗員から両替をする方は、こちらでどうぞと薦めてくれました。

2000円程度で十分でしょうということでした。取り敢えずみなさんも2000円でしたのでそうしました。

レ−トが低くかったのか手数料が高いのか手取りは日本円に換算して約1700円でした。

約15%なので高いと感じました。プラハ空港着17;40分






オ−ストリア航空709

まもなくプラハ行きの搭乗が始まり16:50分ウィ−ン発オ−ストリア航空709は予定通り飛びたった:

この飛行機は胴体から伸びている2本の足に車輪が付いており、飛んでる間も車輪が出たまま、日本での民間航空では見かけない珍しい型のものでした。

機内では300ml程度の小瓶のノンガスのwaterが配布されたのは何よりもうれしかった。





プラハ空港前



チャ−タバスに乗りこみホテルへ




MOVENPICK(モ−ベンピック)



プラハ泊
トイレ文化

外観は劇場のようでしたがスタッフの応対も良く;部屋が広く調度品も品のある立派なものでした。

洗面所も豪華でしたが外国は5つ星ホテルでも日本のようにシャワ−がないので閉口しました。

あの暖かいお尻の感触とシャワ−の心地良さが懐かしかった(トイレ文化は日本は超先進国かもしれません、これだと外国人は痔の患者が多いのではと…)。












ホテルに到着⇒日本時間翌日の深夜2時頃

ホテルに到着したのは現地時間で11/2の夕方の6時半頃だが日本だと11/3の深夜の2時頃です。

近くにス−パ−があるのでと添乗員から道順も教えてくれたが、千歳からの通算搭乗時間を考えると緊張はしているがくたくたに疲れ切っていた。

一番心配なのは水だが日本から持ってきたのがまだ3本残っている。

これで何とか明日の朝まで持たせようということに決めたら安心したのか;20時頃二人ともそのままベットで2時間前後でしょうか伸びて寝てしまいました。

短い時間ですが心地良い眠りでした。








日本から持参の電気ポット大活躍



現地時間の22時頃またゴソゴソ起き出し荷物の整理を始めたが、日本から持ってきた海外用の簡易湯沸かし器で味噌汁を飲もうということになり、ペットボトルの水、半分位を使い沸かし、最初パックに入った乾燥させたワカメとほうれん草の具だけしか判らず熱湯を注いで味見をしたがス−プのよな感じ;なんじゃこれと思ってよくよく中身を見たら、生味噌が入っているではないか、これをゆっくり溶いて味見をしましたら何とすばらしい感激の味(*^_^*)1杯2000円と言われても惜しくない美味しさでした(*^_^*)

この他パックのコヒ−や煎茶;番茶など数種類持って行きましたのでいろいろと重宝しました。外国はどんなリッパなホテルでも湯沸しポットまでは備え付けておらないようでした。


この湯沸し器は変圧器が内臓されていて、ダイヤルを100Vにセットすると日本でも使用可能のもの、小物だが重宝しました。サイズ高さ14.9cm幅14.5cm厚さ8cm約490g容量350cc U-TR350P
S社製(Japan )−S電気量販店で取り寄せてもらい5480円







両替のデスクにて

11/3の朝のホテルロビ−にて、考えて見たら今日の午後からのプラハ市街でのフリ−タイムでは日本円換算で1700円程度では、どうも心もとないので右のカウンタ−が両替のデスクと判り取りあえず2000円をチェンジしてもらい計算書を見たら僅か2%の手数料にびっくり更に2000円お願いした:

空港で日本円からコルナへの手数料15%で、ホテルでは2%だった、スタッフの素敵な対応が印象に残っています。

大きい買い物はVISAを使用するとして空港での換金率は低かったが合わせて6000円を両替したので、部屋に置くチップや街へ出かけた時のトイレのチップ;施設の入場券;コ−ヒ−代などこれだけあれば何とかなるだろうということにしました。








硬水と軟水について



ヨ−ロッパは水成岩中心の大陸の為、カルシウムの多い石灰岩、マグネシウムの多い苦灰岩が多く、その地層を通過していく地下水はゆっくりとミネラルを吸収します。

それに対して、日本は火成岩中心の為、石灰岩、苦灰岩が少ないことから地層からミネラルを吸収する量はヨ−ロッパと比べて少量です。その為、日本では軟水が採水され、ヨ−ロッパでは硬水が採水されるということです。

マグネシウム塩は大概の下剤にはいっているので体調が悪いときなど慣れない硬水を飲むと下痢になるかも知れないということらしい、添乗員は平気で飲んでますということでした。

ウィ−ンに行ってから特にウィ−ンの水道水は心配ないということなので、試しにインスタント味噌汁をホテルの水道水を沸かして作って飲んでみたが二人ともなんともありませんでした。

でもウィ−ンの水道水と言えども慣れないことはあまりしない方が良いかも知れません。





ホテルを出て左側から2番目の通り





ホテルを出て真向かいの通り






愈々現地観光の初日


愈愈現地観光の初日11/3(木)を迎えた;モ−ニングコ−ルは7:30で朝食は6:30から随時、ホテル出発は9時ということでした。

昨夜は3時間程度しか寝ておらず4;30頃から目が覚めていた。でも緊張しているのか元気です。
日本時間は8時間進んでいるので11/3の午後5時頃です。

天候は曇り空でした;カレル橋の観光のときは雨が降りどんよりとした空と霧で腕もさることながら撮影日よりとしてはいまひとつでした。

お世話になるバスが玄関に横付けされてました





モ-ツアルト記念館







モ-ツアルト記念館

写真の奥にライトアップされているのは、まだ薄暗い早朝に撮影したホテル右となりのモ-ツアルト記念館です。

モルダウ川、河畔の西側のプラハ城から南へ2km程度下ったところにあり、街の繁華街から結構離れた郊外のやや小高い閑静なところでしたが、こんな由緒ある建物に隣接しているホテルに宿泊したのも思い出になりました。

マリア・テレジアの死後ウィーンで後ろ盾を失ったモーツァルトを暖かく迎えたのもプラハの街だったと云われているようです。

1756オ−ストリア生まれの彼はヨ−ロッパを旅してその短い生涯の中で4回プラハを訪れており2度目の長期滞在は音楽家ドゥシェク夫妻の別荘だったこの建物だったとのことで現在は記念館(ベルトラムカ)になっています。

亡くなったときもウィーンでは簡単な葬儀が行われただけだったが、プラハでは盛大な追悼ミサが行われたということです。

プラハをこよなく愛したということでしょうか作品の中にも交響曲38番プラハが残されているということでした。



著作権者katsuwo様に了解を得ました交響曲38番プラハのmidiiです。
クリックするとMediaPlayerにて再生されます、
ヘッドホ−ンを使用されると尚よろしいかも知れません。

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http://f59.aaa.livedoor.jp/~ikatsuwo/music2.htm

交響曲第38番ニ長調 K504「プラハ」、オペラ「フィガロの結婚」は、1786年のウィーンの初演の成功に続いて、プラハでも上演され、空前の大成功を収めました。

この成功をぜひモーツァルトの目で直接確かめてもらいたいというプラハの音楽愛好家の求めに応じて妻とともにプラハを訪れたのは、翌年一月のことでありました。

その時の演奏会でモ−ツアルトから発表されたのが、新作の交響曲「プラハ」だったとのことです。

作曲家 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
[Wolfgang Amadeus Mozart]
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
生没年 1756-1791
出身地 オーストリア ザルツブルク
説 明 幼児期より天才をあらわし、当時のあらゆるジャンルに傑作を残した。バッハやベートーヴェンとともに西欧的な美の典型のひとつをなし、近年にいたるまで作品・人物ともに神格化・神話化された。8歳で最初の交響曲を書き、32歳で最後の交響曲「第41番」を書き上げるまで、24年間の作曲活動のほぼ全般にわたって交響曲を書き続けた。


チェコ(首都プラハ)



チェコの国土は日本の1/5程度で人口は約1,030万人;首都プラハは約121万;通貨は1コルナ=5円前後;チェコスロバキア社会主義共和国の1連邦であったチェコは1993年スロパキァとの連邦を解消したあと、独立した主権国家となりました。

チェコの国旗

旧チェコ・スロヴァキア連邦共和国の国旗をそのまま使用しており、白は清潔を、青は空を、赤は自由の為に流された血を表わしている。また、白はモラビア地方を、青はスロバキア地方を、赤はボヘミア地方を表わしているとも言われる。


モルダウ河畔

プラハはスラブ民族によって、プラハのヴルタヴァ(ドイツ名はモルダウ)河畔に最初の集落が出来たのは6世紀後半、その後9世紀末から10世紀初頭にかけて西岸にプラハ城の前身、東岸にも城が建てられ二つの城に挟まれた地が町として発展してきたと伝えられているようです。

建築の宝石箱(プラハ)

973年にはキリスト教の司教座が置かれ、このころよりユダヤ人の入植が始まったと云われているようで誕生から1000年の歴史を持つ古都であり、1918年共和国の誕生とともに首都となり連邦制解消後はチェコの首都となり、中世の面影を色濃く残す歴史的建造物(ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アール・ヌーボーなど)が多く北のロ−マ;百塔の町;黄金のプラハ;建築の宝石箱などと云われているのも頷け、美しい町並みは世界遺産にも指定されています。


(建築様式について)




チェコの国旗





プラハ城その1



聖ヴィ−ト教会の尖塔


チャ−タしたバスは15分程度でプラハ城の近くに到着しました、市内の中心部を南北に流れるヴルタヴァ(モルダウ)川を挟んでカレル橋の左に聖ヴィ−ト教会などを含め巨大な建物群が広がっており、バスを降りて間もなく聖ヴィ−ト教会の空に聳える数本の尖塔が目に飛び込んできた。







朝7時から夜の11時まで1時間ごとに交代しており、その交代風景かと思います。








北門の衛兵さんたちです

入り口はフラチャニ広場に面した西の正門と東門と城の庭園が広がる北門にそれぞれ2名計6名の衛兵が警護しておりました。

衛兵と一緒にカメラにも収めさせてらいました。

衛兵さんがご立派で釣り合い取れない姿ですが家内に内緒で勇気を出して載せました、でも記念の1枚になりました。



北 門


プラハ城

プラハ城は9世紀にポジブォイ王が建てた城に始まり14世紀のカレル4世の時代に形が整えられ、16世紀末にハプスブル家のルドルフ2世がプラハに宮廷を置いたことで全盛期を迎えました。

王が変わり宮廷を再びウィ−ンに戻したことで繁栄は止まりマリア・テレジァの時代には大改築に着手するも、その後衰退して行ったそうです。

1918チェコスロバキャ共和国が成立すると大統領官邸となり、今も一部は大統領府として利用されておりました。

教会は判ったが城らしきものが見当たらないプラハ城はどの建物ですかと添乗員に尋ねたら、城壁で囲まれた全体を呼称してプラハ城というのだそうだ;敷地は東西430m南北70〜140mでイルカの形をしていると言われているようです。

古都らしい風情の中に紅葉も終わり晩秋というかひんやりと空気も冷たく初冬という雰囲気でした。




(プラハ城の案内図)
プラハ城とは…城壁の中の建物全体のことのようです








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