1-5:1999年4月16日〜4月30日
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99年4月30日
憧れのバリヤリーフを訪れた!

 念願の「グレート・バリヤリーフ」へ出かけた。8時半出発の船で、先ず1時間弱で到着する「Green Island」という珊瑚礁の島に立ち寄り2時間ほど観光したあと、更に1時間弱で「バリヤリーフ」へ到着するコースを選んだ。観光客の半数は日本人、2割程度がスペインからの団体客、他は種々の人種の混成といったところである。

 「Green Island」は、小さなバンガロー風のホテルもあるが、基本的には緑の木々に覆われた珊瑚礁の島で、海岸も水も美しい。到着草々に海に入る人達が多かったが、水の冷たさに躊躇して、暫く海外を散歩したあと木々の間に巡らされている小道を散歩してみた。驚いたことに、そこは「メジロ」の楽園であった。人影に怯える様子もない数知れない「メジロ」の群れについ立ち止まって見入ってしまった。子供の頃に、冬になれば山で「メジロ」を捕って飼うのが楽しみであったが、今は日本でも禁鳥となっており、飼うことは出来ない貴重な鳥である。日本でも種子島当たりの「メジロ」が珍重されていたが、基本的には暖かい地方の鳥ということであろうか。

 「バリヤリーフ」は、大方予想していた通りの光景があった。洋上に姿を表した珊瑚礁の島は存在せず、海中に固定されたポンツーンが基地となっていて、その中に食堂も備えられ、海中探索のグラスボートの発着所、ヘリコプター観光用のポートが常備している。ポンツーンの直下がダイビング・ポイントとなっており、周りはシュノーケリングの格好の場所となっているのだ。先ず、グラスボートで珊瑚礁の海中を観て廻った。色とりどりの珊瑚の間を色とりどりの魚が泳ぎまわっている光景は、かってテレビの画面で観たものと同じで、暫しうっとりとするものであったことは間違い無い。ただし、水の透明度は予想していたよりは少し悪い。

 水が多少冷たいこと、二日前から風邪気味であることを考えて海には終に入らず仕舞いであった。若い人達だけでなく中高年者も、かなり多くの人達がシュノーケリングに興じていたのは、ここまで来れば当然かもしれないが、意外な感じも持った。

 帰路は、乗客3人の小型ヘリコプターを奮発して、船で約2時間弱の工程のところを25分で帰ってきた。これは、本当に正解であったと思う。空中から、海に点在する珊瑚礁をゆっくりと観ながらの道中は、船では決して味わえない格別のものがあった。リーフは連続して何キロにも渡っているものと考えていたが、それは半径500−1000m程度の塊で点在しているのだ、ということが良く観察出来たのも大きな収穫であったと考える。

 早く帰れたので床屋に行こうと思ったが、予約が一杯で駄目とのこと、町を探してみたが見当たらずで、今日は諦めた。町に出たついでに夕食を外で済ましてきたので、今日は時間的な余裕があって、のんびりした夜である。11時就寝。



99年4月29日:
ケアンズの海辺で         

 オーストラリアは広大な国で、熱帯から寒帯まで広がりをもっている。国としては大いに「季節の有る国」である。パースは一日の内に四季があるともいうほどに気温の変化が大きい場所だと聞かされているし、97年に自らも経験している。メルボルンの冬はどんよりとした天気が続き寒いと言う。中央部から北部の内陸部には、広大な砂漠地帯が広がっているなど、オーストラリアは色んな顔をもっている。ただし、ケアンズに関してみると、南緯16度程度で北半球のフィリピンと似たような地帯に属している。この国の多くの人がケアンズは熱帯で高温多湿で住みにくいというほどに、ここケアンズは「季節の無い国」と言ってよかろう。

 長い間憧れていたケアンズへ28日早朝、バリ島経由で到着した。快適な気候である。12月から4月初旬にかけた雨季が終わったばかりと言う。夜は20℃弱、昼間は27℃くらいの気温で、寒くもなく、汗も出ない快適このうえない気候が待っていた。ゴールド・コーストの時と同じで訪れた時期が良かったということと思うが、これが望んでいた気候(この国の人は春がもっと良いと言う)である。

 町はゴールド・コーストを一(二?)回り小さくした規模で、人通りも多くなく、静かな雰囲気である。日本人の新婚らしい二人連れ、若い日本女性の2−3人連れも時折見かけるが日本人観光客で混み合ったいるという状況ではない。老夫婦が連れ立って散歩している光景をよく目にするのは、ゴールド・コーストの場合と同じであるが、定年後にこの当たりに移住する人が多いということだろうか、推測の域を出ないが。小生が宿泊したホテルの裏手には、長期滞在者向けと思われる2階建てのアパートらしき建物が、数多く点在していて、老夫婦が出入りしている姿を見かけるなどそれらしき雰囲気はある。

 到着して早々に海岸に出てみて、意外な発見をした。グレート・バリヤリーフを想定して、またゴールド・コーストを思い起こして、珊瑚砂の白砂が広大に広がる海岸線が頭の中にあったが、現実は大違い。到着時は干潮で、一面に粘土質の広大な干潟が広がっていたのだ。干潟では無数の蟹が走り回り、水鳥が群れていて、今にもマングローブが生え出して来そうな光景が展開されていた。しかし、海岸線に沿って、椰子の木陰に芝生が張り巡らされており、そこで水着姿で寝そべっている光景はやはり海辺の景色ではある。

 今日、ゴルフ場までの70Kmは殆ど海岸線に沿って走ったが、山が海近くまで迫り出しており、白砂の海岸は少しだけ目にしただけであった。山が海岸から退いた場所では、マングローブが生茂っており、インドネシアと変らない景観を呈して、南国そのものであった。ゴルフ場のなかでも、各ホールはマングローブの林で囲まれたところが多く、初めての経験であった。町の南端に流れる川の向う岸も、一面のマングローブ林であり、大珊瑚礁が近くにあるとはいえ、大陸側の海岸は全く予想と違ったものであった。昔は鉱山と砂糖きびの町であったとのことで、今でも郊外には砂糖きび畑がみられ、南国の景観である。何事も自分の目で確かめることが肝要!

 今日、ゴルフ場までの70Kmは殆ど海岸線に沿って走ったが、山が海近くまで迫り出しており、白砂の海岸は少しだけ目にしただけであった。山が海岸から退いた場所では、マングローブが生茂っており、インドネシアと変らない景観を呈して、南国そのものであった。ゴルフ場のなかでも、各ホールはマングローブの林で囲まれたところが多く、初めての経験であった。町の南端に流れる川の向う岸も、一面のマングローブ林であり、大珊瑚礁が近くにあるとはいえ、大陸側の海岸は全く予想と違ったものであった。昔は鉱山と砂糖きびの町であったとのことで、今でも郊外には砂糖きび畑がみられ、南国の景観である。何事も自分の目で確かめることが肝要!

 <ケアンズのゴルフ環境は不満足!>

 Mirage CCという当地でプレイ費が一番高いゴルフ場へ出かけた。ケアンズの町から約70Km、車で約1時間ほど北上した場所で、三井観光と日本信販の経営らしい。同じエージェントで、朝出かける時に車が一緒になった大阪の若者3人(堀江、長沼、竹鼻)と一緒に、27ホールを休み無し(昼食はサンドウィッチをカートの上でほうばりながら)にプレイした。少しゆっくりした休日を、と考えていたが好きなことは止められない、若者の誘いに喜んで乗ってしまった。距離もたっぷりあって、難しいコースであるが、「よせ」が好調で39,43(計82)のスコアに纏めた。

 ゴールド・コーストで見たのと同じように、コースの周りには住宅が配置されたリゾートそのものであるが、ここも殆どの家が空家ではないかと思われる。閑散としていて、定住するには寂しすぎる環境である。近くでもう一つゴルフ場が造成中で、高級リゾートがこの当たりに移りつつあるとの話もある。広大なマングローブの林を切り開いて、造成したと想像されるが、10年を経たとは云え荒削りな感じがあって、ゴールド・コーストの名門より大分劣るという印象は拭い去れない。それにしても、1ラウンドで220$、1.5ラウンドで290$というプレイ費は異常に高い。日本でのビジター並の料金は海外では初めての経験である。

 5時半過ぎに帰着、シャワーをしたあとホテルで夕食をとった。客も少なく、ざわついた雰囲気がなく、ウェイトレスの笑顔も綺麗で友好的に話しかけてきて、なかなかいい。外に出るまでも無い。毎日ここで夕食をとることにした。

 今日も9時過ぎにマッサージをやった。1時間85$のマッサージはかなり高いが疲れには勝てない。今日は、昨日よりも格段に上手く、最近経験のないほど効果的であった。疲れも和らいだので、11時過ぎまで書き物をしてから、ベッドに入った。
 

    

99年4月28日

ケアンズはインドネシアと同じような気候である!

 昨夜は途中ダーウィンに立ち寄って、ケアンズに6時10分(現地時間はジャワと3時間、バリと2時間の時差あり)に着いた。バリ・ダーウィン間が約2時間半余り、ダーウィン・ケアンズ間が約2時間くらいで、バリからノンストップだと4時間半ていどの距離であるようだ。夜行の途中止まりの便で睡眠がとれず疲れたので、アーリーチェックインをしてホテルでゆっくりした後で、これからの遊びの予約をし、町をふらついてみた。


 全く予想に反して海岸は、珊瑚砂の白砂ではなく粘土質の大干潟が広大な範囲で展開されており水鳥が群れていた(夜になって満潮となると岸辺まで水がきていたが)。ゴールド・コーストと趣が全く違っている。今にもマングローブが生え出してきそうな東南アジアの海岸にも似た海岸風景は予想していなかった。しかし、それなりに海岸の趣があって、人々は海岸線に沿って整備されている椰子の木陰の芝生の上で水着で寝そべっている。そこはやはり海辺なのだと納得した。

 朝の到着時は非常に爽やか、昼間も快適で暑さは感じない、湿度も少なく(多くのオーストラリア人にケアンズは暑くて湿度が高いと言われていた)思っていたよりもかなり快適な天候である。夏(12月―4月初旬)は雨も多いらしいが、10日ほど前に雨季が明けたばかりで、今は秋、気温も最高27℃前後で、よい時期に来たということか。

 殆ど寝ていないので、夕方マッサージをしたあと夕食に出かけ、8時半にホテルに帰ったらすぐ寝た。

99年4月27日
いよいよオーストラリア廻りの帰国の途についた!

 いま、バリのデンバサール空港でこれを書いている。オーストラリアのケアンズへ向かう飛行機を待つ間30分くらいの時間が出来たので、ラウンジでコーヒーを飲みながら時間の有効活用を図ることにした。

 今日のゴルフは楽しかった。平日でコースも空いており、ゆっくり廻っても1ラウンドが4時間足らず、7時にスタートして2ラウンドを終えたのが3時半ごろで、Mr.Choiも十分に堪能したようである。この1年も、ゴルフ場に遠いところにいがらも、実によくやった。回数は日本にいたときよりも少ないが、ラウンドの数はむしろ多い結果となったようだ。疲れが残るくらいやりすぎたとも言えよう。

 午後5時コースを出発、7時20分のGAでスラバヤを発ちバリ(現地時間)へ9時過ぎ着、10時30分バリ発という慌しい旅の出だしとなった。

 <インドネシアでの最後の日>

 短期出張では時々来るであろうが、15ヶ月に及んだ長期滞在の最後の日は、この1年余り毎週末通い詰めたFINNA Golfで締めくくった(小生の帰国前に間に合うように来訪された信和のChoi副会長が行動をともにしてくれた)。この長期滞在中、何のストレスもなく健康で来られたのは、ここのリゾートホテルとゴルフ場の存在があってこそであり、心から感謝したい。例によって、ゴルフも2ラウンドやって、名残を惜しんだ。

 ただ、少し心残りなのは昨夜泊まった「Suruya」ホテルである。この1年Tretesで2番目の「Natour」というホテルを定宿にして、「Suruya」には初めて泊まった。この涼しい場所ながらエアコンも完備しており、立地も最高の場所で眺望も抜群、「Natour」とは格段の差がある。値段も3倍近いということで毎週泊まるには考えものであるが、月に一度くらいは使ってみたかったという思いで一杯である。何でも先ず自分で確かめて見ることを実践しなかったことへの悔いが残る結果となった。

 このホテルがある地帯(Tretes)は、海抜約800Mくらいとの情報があるが、はっきりとした確認はしていない。エアコンなしでも、毛布がなければ寝れないほどの気温であり、800Mという話は事実に近いであろうと推定する。FINNAゴルフ場は、Tretesの手前で海抜が400−500Mという。ジャカルタやスラバヤの平地のゴルフ場で苦しめられる暑さとは無縁の世界である。この環境が1年余りで100ラウンドを越すプレイを可能にしてくれたということであろう。現場から往復5−6時間を厭わず毎週通えたのはこの環境があってこそと思う。

 FINNAゴルフに付随のバンガローも快適さ・豪華さでは多に類を見ないほどの素晴らしいもので、日本の雑誌でも写真入りで紹介されている。他の条件が整えば老後長期滞在の第一候補地であるが、いまは決心できる状況にない。仕事があって、仲間がいるという条件下では、物価も安く、多くの人が友好的なインドネシアは最大の魅力ある国の一つであることは間違いない。

99年4月26日
最後の日にFinnaの最良のホテルを発見した!

 朝一番にMr.Choiと打ち合わせ、その後西、保里両氏と当面の課題処理について打ち合わせた。ここ1ヶ月が大きな山場となろう。お互いに良く連絡を取り合い有終の美をかざれるよう努力しなければならない。前任者から保里君が引き継いだ厄介物もその処理を信和へ依頼して、問題を先送りしないよう取り計らった。信和から依頼されたP-BONDのリリース、M/Cのレターは今日処理した。当面の重要事項は総て完了したと考える。

 客先は除いてEPC内初め関係者全員に帰国の挨拶をした。荷物の片付けが残っていたので、宿舎に4時過ぎに引き上げるまで忙しい一日であったが、なんとか慌てず処置出来て何よりというところである。

 ここ2週間くらい前から、現地女性従業員から「北園さん、もう日本に帰ってしまうの?」と問い掛けられることが続いたが、このての話は何処も同じで女性の間では瞬くの間に広まるらしい。何時も何処かで起きる「出会い」と「別れ」の話、避けては通れない。

 当面の最後を心置きなく過ごすために、また当地で世話になった連中に別れを言うために、Tretesの「Suruya」ホテルにMr.Choi他と泊まることにして、宿舎を6時20分に出発、9時頃Tretesに到着した。

 「Suruya」ホテルは初めてであるが、想像以上に素晴らしいホテルで、少々驚いた。Tretesの一番高い位置にあり、眺望が素晴らしく、この涼しい場所でもエアコンが完備しており、これほどのホテルならば、Shangriaよりここを利用すれば良かったのにと、今までの調査不足が悔やまれる。

99年4月25日
パイトンメンバーとの最後のFinnaでの戦いは終わった!

 パイトン現場メンバーとしては、最後のゴルフをFINNAで楽しんだ。最初のハーフは40で無難に纏めたが、後半で大叩きがあって大荒れのゴルフとなった。若者を喜ばせる一日となり、結果としては良かったということである。仕事、遊びともに残りの時間を考えて多少無理なスケジュールを組んだため、疲れが蓄積しているようだ。これが最後であり、仕方あるまい。

 2ラウンドをこなして8時半頃帰着、夕食を済ませたのが9時、という相変わらずの日曜日となった。多少の片付けと日記をつけてりしているうちに、11時近くになり今日も睡眠が不足しそう。明日はまたTretes泊まりになるので、明日中には総て片付けねばならず、効率的に処理しないと遣り残しがでそうであり、寝不足とはいっておれない。

99年4月24日
ゴルフのためなら労を厭わず!

 「Gading Serpong」(今までよくやったSerpongの近く)という初めてのコースで、五洋の中村氏、高田の石田氏、TECの府川君、古賀君達と1ラウンド廻った。開場後2年位の新しいコースで手入れもよく、花壇も綺麗に作られており、素晴らしい且つ美しいコースである。ジャカルタの中心部からも車で30分程度と地の利もよく、こんなコースで土曜、日曜とプレイ出来るジャカルタ住民が羨ましい限りである。今回のジャカルタ訪問はこれで有意義であった、と考えることにしよう。パットが安定してきており、38、38 計76(バーデイは1個のみ)の好スコアで五洋の中村氏にも圧勝した。益々、楽しいジャカルタ訪問であったと言えよう。

 昨夜は初めて“Kempisuki”というホテルに泊まった。1年位前にオープンした新しいホテルで総てが綺麗で快適である。立地も当社のオフィスから歩いて3,4分、Sahid Jayaホテルと隣り合っていて好都合の場所にあって、ホテル内も静かであり大いに気にいった。テレビ放送もNHKを含めてチャンネル数も多く、その他のサービスも一流ホテルと遜色ない内容であり、今までジャカルタでは、もっぱらMeridienホテルが定宿であったが、こらからはこのホテルに宿変えすることにしたい。

 ゴルフ後ホテルでマッサージを1時間やって、慌しくスラバヤ(Tretes泊まり)へ向かって、25日のFINNAでのゴルフに備えることにした。途中ジャカルタ空港で信和のChoi副会長と会いスラバヤまで道中を共にした。本当に忙しい!一日であった。

99年4月23日
帰国前にジャカルタ方面へ挨拶(?)廻り!

今日は8時に宿舎を出発して、スラバヤを12時の飛行機でジャカルタへ13時20分着。そのままCAPCの現場へ入った。久し(2年)振りのチレゴン、ホテルもCAPC プロジェクトで5,6年前に良く使った懐かしいMarina Beach、いまのパイトンの宿舎よりリゾート雰囲気があって心地良い。

 昨夜は府川、古賀両君に加えて、五洋の立石氏、高田の秀島氏でチレゴンの日本食やで食事をした。新鮮な刺身、寿司を十分に堪能出来た。今朝は8時過ぎまで海辺を散歩したり、海を眺めながらゆっくりした後、ジャカルタへ向かった。

<西ジャワの海辺で>        

 凡そ2年ぶりに、西ジャワのチレゴン地区の海辺のリゾートホテル(Marina Hotel)に宿泊した。CAPCのエチレンプラントの建設がピークの頃には足繁く通った所で、懐かしさが蘇った。

 昔、ここへ宿泊した時は、夜に到着し朝早く出かけるという生活の繰り返しで、ゆっくりとここの良さをあじわうことも少なかったので、昨夜到着時と今朝も海辺を散歩した。家の前に海が広がり、海に近いといいながらも海は見えないパイトンの宿舎では、決して味わえないリゾート雰囲気を十分に堪能できた気分である。

 椰子の林の中に点在するバンロー風の家の前に海が広がる長閑なリゾートホテルで、ホテル敷地内には大型のクルーザーが停泊するマリーナもあり釣りに対する憧れがまた頭を持ち上げてくるが、それよりも小生の気を引いたのは地元漁民の2人乗り位の小型カヌーである。雑誌の写真でよく目にする、丸太を繰りぬいただけの船に転倒防止のサイドをつけた簡素な造りのものである。小笠原諸島でも使われているようだが、南太平洋の島々でよく使われているものをもっと小型化したものである。パイトンの海辺でも見かけるが、ここでは数10艘が一同に集められており、圧巻である。このような小船に揺られて釣りをするのが長年の夢であったが、果して実現する日が来るか。長期滞在で1泊120,000Rp程度とのことで手ごろな長期滞在地の候補といえよう。

 インドネシアの治安が改善されれば、ここも老後を楽しむ格好の場所の一つであることに間違いないのだが。今は多くの場所を見て、多くの情報を入手しておくことである。

99年4月21日:
帰り支度は予定通り順調に進んでいる!

 長期ビザの解約手続きを行った。これで1週間以内にインドネシアを離れなければならない。M/Cも来週草々には目処がつきそうであり、何とかケジメはついたことになろう。明日からジャカルタで、26日は信和のMr.Choiの来訪で時間が取れないと予想して、少ない荷物であるが、持ち帰りの書類、本類を箱詰めした。準備はほぼ完了。

 三井の緒方PM,古賀CPMに、小職が27日に当地を離れること、基本的には千葉側で当ジョブを管理するが、必要あれば何時でも短期でサイトインする用意があることを話した。また、今日サイトインしたDFDPD Mr.M.Reddyにも同じ趣旨の話をした。今回は、工事に関してはもはや先も見えて来たということで、いずれも理解を示してくれたと考える。三井の加藤PDの意向で、当面は客には離任を伏せておくということであり、客には無断で離任するしかない。ジャカルタでもLandry社長には挨拶をしないことになった。

 5月の成果報告の纏め方(方針)について、西、保里両君と討議した。状況は益々厳しく先行きも不透明ななかで、どう整理するか非常に難しい判断が求められる。TECの経営に大きな影響を与えるだけに、頭が痛い。甘え、不安、迷いを払拭して強い決意をもって事態に立ち向かうしか道はないこと、5月中にその後のコスト回収の目処をつけられない場合には「尻をまくる」決断(会社経営として)をしなければならない事態にも至るという覚悟が必要なことを再度確認し合った。このような状況下での離任は、責任放棄という思いが頭を過り、気が重い。千葉側でしっかりと見守っていくしかあるまい。

 現場の気楽な事務所環境で身についた習慣を帰国後一気に変えることが出来るか、些か不安もある。特に喫煙が心配である。


 <新聞の話>

 日本ではあまり読むことが無い日経新聞(シンガポール発行の国際版)を1年余り購読した。日経新聞は、予想以上に自分が欲しい情報が多くて、読み始める前に抱いていた先入観を一変させるものがあった。日本へ帰ったら、読売から日経へ変更することを決めて、既に娘に手続きを依頼した。

 東南アジア地域で読まれている邦字新聞は、日本から発送されてものではなく、シンガポールで印刷されているのが多いとのことである。殆ど時差なしで、日本語で日本のニュースが手元に届くサービスが出来あがっている。

 何処にいても、日本のNHK国際放送が観られる時代であり、海外にいても日本の事情に疎くなるということもないが、文化、経済、政治、スポーツほか総ての分野の細かな情報の入手はテレビではなく新聞に頼わざるを得ない。

 インドネシアに住みながら、現地の新聞を読むことは殆どなかった。情けない事ではあるが、インドネシア情報も日本の新聞を経て入手したものが、比較的に多かったように思う。

99年4月20日
アッと言う間に一日が過ぎてしまう!

 昨夜は2時半近くまで麻雀をした。さすがに今日はきつかったが、仕事(会議)が忙しく眠気を覚える暇もない状況で、アットいう間に一日が過ぎた。久しぶりで十分楽しませてもらったが、戦績は悲惨な結果に終わった。小生の帰国をもって、「Saloon de Paiton」も完全閉店となる運命となったようだ。

 8時から阪上、西、保里の3氏と今後の仕事の進め方に関して討議した。現状、阪上氏と西、保里両君が一体となりきっていない、と思われる(保里君自身の感触)状況を早く改善すべく、率直に話し合いをもった。PMが「TECの戦略は斯く在るべし」を早急に自らの言葉で文書化し、迷いを断ち切り組織をリードすることが重要であることを確認しあった。

 本社の事業本部長から電話があり、今週か来週に一日だけでも帰国できないかとの要請があった。常任監査役の事情聴取のためらしいが、この時期(残り1週間)にスケジュールの調整は不可能ゆえ、連休明けに本格的な聴取を受けるよう調整を依頼した。取り敢えず、阪上氏に27日はつないでもらうことにした。まだまだ、このプロジェクトから離れられそうにない。

 今週末のジャカルタでの予定は、CAPC現場サイドとジャカルタ事務所の連絡悪くダブル・ブッキングになっていたが、夕方調整が出来てうまく落ち着いた。両方とも小生の訪問を待っている様子だし、高田、五洋などの工事業者も会いたがっているようなので、一度に目的が果せて好都合である。予定通り24日中にスラバヤへ引き上げ、25日は最後のFINNAの月例に参加し米谷、保里両君ともプレイすることが可能となった。先ずは目出度し!今夜は、ゴルフ仲間の夕食会をもった。先の2日間のプレイの成績発表をかねて最後の懇親の場を設定したものである。

99年4月19日
残り少なくなって社外の関係者の動きが活発!

 昨夜9時前にベッドに入ったので、思ったより疲れが残らなかった。睡眠を十分にとることが疲労回復の最良の薬であることは間違いない事実のようだ。

 ゴールド・コーストのMr.Mark Parsonsから電話があった。ケアンズ訪問の予定を話したが、彼曰く「ゴルフに関しては、ケアンズはよくない。断然ゴールド・コーストがよい。ケアンズを止めてこちらに来るべし。何時になったら、またゴールド・コーストへ来る予定か」と。D/MのMr.Eliasもそうであったが、オーストラリアの人は、ケアンズは熱帯気候で雨も多く快適ではないという概念を持っているようだ。ただ、小生としては前々からの思い込みがあるので、この目でじゅっくりと確かめてみたい。さもなくば、如何しても納得がいかない部分が残ることになる。(今日になってホテルの予約が難しいことが判明。Matoson Plazaしか空いていないと言う。立地的に多少難点はあるがこの時期であり、仕方あるまい)

 三井造船から、工事費追加の査定結果を確認するための電話があった。当方からは最終査定として合計○MM$を提示。再度三井造船から電話があり、どうしても○MM$は欲しいとの申し入れあり、即答は避けて26日に再度電話を受けることにした。予想していたより、低い再申し入れで幾分安堵したが、先方も長い期間の交渉に疲れてきている感じがする。もう一粘りか。

 信和のMr.ChoiからP-bondのリリースを早めて欲しい旨の催促の電話があった。切羽詰った様子で、何時ものことであるが、泣き多くて図々しいところは変らない。丸山君に社内稟議書の作成を急ぐよう依頼した。

  <最後の麻雀 Saloon de Paiton

 疲れはあるが、今日をおいては機会がないので、パイトン現場で最後の麻雀をやるべく、Saloon De Paitonを開店(今年になって2回目か?)した。それにしても、この現場では麻雀をする機会は非常に少なかった。1年以上滞在して、10回も無かったのでは?と思う。最近の若い人は麻雀に興味を示さないと言われて久しい。麻雀以外にもっと楽しい遊びが沢山あるから、というのがその理由であるとも言われている。その傾向は、通常の事務所生活時もそうであるが、現場に出ても同じである。

 この現場でも、“Saloon de Paiton”と称して、小生の宿舎のなかの第2居間を雀荘として開店しているが、利用されることは殆どない。この1年間で数回という程度の利用しかなかった。麻雀好きが揃ったということもあるが、週末のゴルフも出来ない環境のインド マンガロールの現場では、マージャンが最大の娯楽として頻繁にやられているらしい。ここでは、週末は泊りがけのゴルフが最大の娯楽であり、その為に麻雀にさく時間も少ない、というより殆どないというのも大きな理由であろう。小生も、「麻雀好き高齢者」の一人を自認しているので、日本ではゴルフ帰りに時折“ご開帳”となるが、その点では、ここでの生活は些か寂しいものがあった。

 麻雀はギャンブル性が高いということで、麻雀を禁じている国が多い。中国、タイ、インドネシアも原則としては、麻雀は禁じられているらしい。そういう環境でも種々冒険は試みるもので、20数年前、当時4人組が強大な力を持っていた頃、他になんの娯楽もない中国では、厳しい監視の目をかいくぐって連夜麻雀に興じたものであった。また、10数年前の旧東ドイツでも、麻雀が最大唯一の娯楽として盛んにやったものであるが、この頃までは日本国内でも麻雀がサラリーマンの娯楽の最大の娯楽と見なされていた時期かも知れない。麻雀はギャンブルとして金が動くということで、若者にも嫌われているが、各人の個性がよく見えると言う点で面白いし、頭の訓練という面でも有意義であるともいう見方が多い。将棋の「永世名人」大山さんは、勝負感を養う点で麻雀は将棋にもプラスにと観点で麻雀も盛んにやったらしい。しかし、いまは、日本でも現場に出ても麻雀は限られた人達の趣味として狭い範囲に閉じ込められ、多くの人達には忘れられた存在になりつつあるようだ。

 帰国を前に、連日予定が立てこんでおり、今日を逃せば機会がないということで、小生の発意で“Saloon de Paiton”を開店するはこびとなった。アドミ担当のボヤキの太田君、冷静な法律屋の井上君、押さえてはいるが内心激し易いAPM保里君、仕事も遊びもネチッコサNo.1のPM西の4氏が協力してくれて、楽しい一夜となったことを感謝したい。

 

99年4月18日
ゴルフの成績の悪さを疲れのせいにした!

 2日間4ラウンドを終えて、夜6時40分頃に帰着した。兎に角、疲れた。今までに例がないほどの疲れである。16日の夜喘息の発作がひっきりなしに起こりまともに寝ていないということと、17日が朝から雨で足場が悪かったということが重なったためでもあろう。レンチャンは慣れているが、2日間でこんなに疲れた記憶はない。恒例のマッサージもやらずに宿舎へ帰った。スコアも最近では一番悪い結果となった。最後に皆を喜ばせて良かったということで、万事目出度し!。

 24日ジャカルタで五洋の中村氏ほかと、25日FINNAの最後の月例、27日信和のChoi氏と、残り3回で当面のインドネシアでのゴルフもおわりとなる。日本へ帰ったら、無理をしないペースでゴルフを楽しむことにしたい。ここでは他に遊びがないので、つい無理なペースでのゴルフに走ったが、こんな形のゴルフではスコアをまとめる習慣も失われよう。疲れた! 本当に疲れた!

<:もの書きが好き?> 
                 
       
 この2ヶ月余り夕食後は殆どの時間を「もの書き」につかった。
何故これほどまでに熱中したのか、自分でも容易に説明できない。本来メモ好きであり、小さな手帳に隙間無く種々の情報を書き込む習慣はあって、何年分かの記録が残されている。ただし、後で読みかえしたという記憶は少ない。読みかえす気を誘うほど綺麗に整理されていないというのが、その原因であろう。パソコン入力と言う手段を用いれば、整理も、後で検索するのも容易であること、書き直し書き足しも苦にならないことなど、書くと言う欲望を簡単に満たしてくれる条件が揃ったので、今まで溜まっていたものが一気に噴出したというようなことかも知れない。そういう気分である。

 家系的に、「もの書き」が好きな者が揃っているということもありそうだ。父は忙しい仕事の合間に、懸賞論文の募集があると寝る間も惜しんでチャレンジしていた記憶がある。それで、入賞を果したことがあるかどうかは定かでないが、ひたむきな父の姿に尊敬の念を抱いた幼少の頃の思い出はいまでも鮮明に残っている。最後の仕事として「町長」を3期12年間努めて現役を退いた後、町の「園芸史」を自費出版して国会図書館にも収蔵されているということを多少得意げにはなしていた父の姿も今はもう遠い昔となってしまったが。

 教職にありながら「郷土史家」として、ひとかどの名を馳せていたオジ(父の兄)もかなりの記録魔であったようだし、教職を退いた後も県立図書館の顧問を勤めるなど、ものを書くことに携わっていた。

 小生の妹は、「編集人」、「代筆業」、「出版代行業」らしい(いづれが正しいか、小生が正確な仕事の内容をよく理解していない)仕事を自営しており、「もの書き」専門であることは間違いない事実である。

 何はともあれ、「書く」ことで頭の中で雑然としていた考えが整理されるという利点が一番大きいように思う。あれこれ迷っていた考えを一つに収束させることが容易なのである。文字にしたことで、自分にも納得させ易いという思いもある。とくに、高齢になってきて「ものわすれ」現象が心配される年になれば、自己防衛の意味合いも出てこよう。

994月16日
現場滞在が残り少なくなっても心配事は多く残っている!

 早いもので、今日は妻良子の3回目の命日である。昨年の3回忌には、ここインドネシアにいて法事にも出席出来なかったので、5月中には一度郷里へ帰ることにしたい。

 M/C達成のための課題としてやるべきことは3項目に絞られてきた。客の気変わりがなければ、来週中もしくは小職帰国前には達成できるか。M/Cはコントラクターにとって、契約上の大きなマイルストーンの一つであり、新社長も一番気にかけている事項であり、何とか目処がつくことを祈らざるを得ない。これが達成されれば、小職が4月まで残った意義があったということになる。それにしても、気になるのが水処理関連装置の錆びの問題である。ドラムスクリーンも予想以上に錆びが発生している模様で頭が痛い。
       
    
           

 前々から危惧していた事態が訪れつつある。小職の帰国を前に、身のまりで些かの混乱が見られる。いずれにしろ、19,20日頃に本音で話し合って問題があとに残らないようにしておかねばならない。

 千葉サイドでは、5月の連休時に本社が東京から移転するのに合わせた準備作業が進められているという。本来、本社が東京になければならない理由はないが、このような経営状況で止む無く移転するというのは、寂しさを禁じ得ない。ただ、トップとのコミュニケーションも図り易くなるなど、利点も多くなってくるが。

 明日はインドネシアの公休日、日曜日と繋がるので、相変らずの行動パターンで2日間のゴルフ三昧のために今晩から出かけることになった。小生の送別ゴルフと銘打って2日間の総合成績で勝敗を競うとのことで、最後の見せ場を作るべきか。