ゴルフ見聞録
(2.プレイ仲間・交友編)



巧言令色多仁(鮮仁)<誉め殺し> 猛者達の話
60歳ピーク説 犬の小便小僧(右足?左足?)
個性派ゴルファー(1軸回転、他)  カンニング男
TEC習志野会 奥村学園


巧言令色多仁(鮮仁)
<誉め殺し>

 2年ほど前だったろうか、映画化されて大きな話題を呼んだ「失楽園」という小説の作者である 渡辺 淳一氏が、最近日経新聞のなかで、「巧言令色多仁」と題して、売れない若い作家時代の苦労話しを書いていた。

 “昔からの諺に「巧言令色鮮(少なし)仁」というのがあるが、必ずしもそうではない。言葉巧みで、対応も如才ない場合(人)には、徳がないというが、むしろ「巧言令色多仁」といえることも多い。同氏が、まだ若く売れない作家であった時代によく通った飲み屋のママに励まされ続けたことが、今日の渡辺 淳一を在らしめたのだ。飲みに行く度に、売れない作家の不遇をぼやく彼にたいして、彼の小説を一度も読んだことのないママがいつも「あなたは才能があるから、いまに売れるわ」と繰り返し励ましてくれた。俺の小説を知らないくせに、と思いながらも悪い気はしないし、段々と自信が湧いてきてやる気がたかまった。巧言令色と分っていても、鮮仁とだけ受け止めず多仁となることも多いのだ”

 ゴルフでも同じことが言えると小生は考えており、実践している。シングル・ハンジキャップの上級者の場合は別として、多くの一般ゴルファーの場合、その人の強点を見つけてそれを褒め上げること(弱点の矯正も当然必要であるものの)が、その人にやる気を起こさせ上達へ導く最良の道である。「多仁」の心をもって、「巧言令色」を行うことである、と理解しておきたい。

 ただ、この行為は度が過ぎるとしばしば誤解されるので注意が必要である。数年前になるが、竹下元首相の叩き潰しに右翼の連中が使った手段「誉め殺し」と同じ、と曲解されるのだ。
             <1999年03月記>

猛者達の話 

 ゴルフに関する格言集で「ゴルフの最大の欠点は面白すぎることである」という格言(?)を目にした記憶があるが、人によってはさほどにゴルフは面白いものなのだ。だから、それに溺れてしまう人達も多い。

 定年後に全国のゴルフ場を総て制覇するという大目標を立て、実践にかかっている老体の記事を読んだことがある。妻に先立たれた一人身で、小さなアパートを所有していて生活費に窮することもない気軽な身分であり、定年後に計画しすぐさま実行に移したという。当時はバブルの最盛期で、彼が制覇するゴルフ場の数以上に新しいコースが開設されるような状況で、なかなか目標が達成されず、苦境に立たされているとことであった。その後、彼が目的を達成し、全国制覇を成し遂げたかどうかは聞き及んでいない。

 「日本列島改造論」を掲げて、日本経済の隆盛を作り上げた 田中 角栄 元首相のゴルフは慌しいものであったという。一日に、短時間のうちに一気に3−4ラウンドも廻るというゴルフが多かったという。同伴者が音を上げる様子が何となく窺いしれる。千葉県の茂原市にも、一日に連続で何ラウンド廻れるかに挑戦し続けている老体がいて、新しい挑戦の度に、新聞の地方欄に小さな記事になったことを記憶している。

 世の中には、ゴルフきちがいと称される人種は多い。上記の例の他にもいろんな挑戦をしている例は、枚挙にいとまがない。斯く云う小生も、昨年(98年)は珍しい経験をした。オーストラリアのゴールド・コーストで、毎回コースを変えながら一日2ラウンドを6日間、合計で12ラウンドを連続してまわり、さらにインドネシアへ移動して3日間(移動日だけ除いて)で5ラウンドをこなすと言う、馬鹿げたことをやってしまった。さすがに、疲労が溜まり集中力もなく、スコアは良くなかったが、ゴルフに飽きるという気持ちは湧いて来なかった。ゴールド・コーストに7日間居て、ゴルフ場以外は何処も知らないと言う、徹底したゴルフ旅であった。それまでにも、日本の夏休みに4日間毎日1.5ラウンド、合計で6ラウンドをこなしたことは幾度かあったし、バリ島で3日間で7ラウンドという経験もあったが、旅行日の一日を挟んで9日間で17ラウンドは全く初めてのことであり、二度とこのような経験をすることはあるまい。馬鹿げた話かもしれないが、途中で止めようという気持ちが湧かなかったほど、ゴルフは面白い遊びなのだ。
           
<1999年03月記>

60歳ピーク説

 「サラリーマンゴルファーの腕前のピークは60歳である」と主張していた先輩S氏は、いまは70歳になろうとしているが、毎週元気で1ラウンドをこなしている。同氏の腕前のピークが60歳の頃であったかどうかは多少疑問はあるが、60歳ピーク説には小生としても大いに頷けるものがある。(もっとも、S氏の場合は62,3歳の頃には65歳ピーク説に変わり、65歳を過ぎてからはピーク説は忽然と消えていたが)

 若いうちからクラブを手にする人も増えては来たが、多くのサラリーマンの場合コースに出る機会は、経済的な理由もあって、40歳代、50歳代と順次増えてくるのが一般的な傾向である。ゴルフでも体力が強いに超したことはない。若いうちから練習を積んで鍛え上げれば上手になることは間違いないだろう。しかし、ゴルフは体力が絶対的に支配的なスポーツではない。「ゴルフの科学」という本の中で強調されているように、ゴルフは“条件反射”の利用(活用)による部分が最も大きく、如何に練習によって“条件反射”を強化するかが支配的であると思う。そういう観点から、コースに出る機会も増え、それにつれて練習にも熱が入って来る60歳に向かった後半期(50歳代)に、腕前がますます上がって来るということは十分にあり得ることである。事実、多くのクラブで60歳前後のシングルプレイヤーが活躍しており、60歳を過ぎてからシング・ルハンデキャップとなった人も幾人か知っている。アマチュアの場合シニア選手権がむしろレベルが高い傾向もある。

 小生は60歳まであと1年、密かに「我がピーク」に向かって研鑚しているか、というとそうでもない。インドネシアの地方都市のコースで毎日曜日に2ラウンドをこなしているが、コースに出る以外は全く練習もしていない。時折り居間のじゅうたんの上でパターの練習はするが、ただそれだけのことである。しかし、ゴルフが悪くなって来ているかといえば、そうでもない。パッチングを除けばむしろ快調と言えよう。ドライバーの飛距離も決して落ちていないし、幾分伸びているようにも思われる。まだ、衰えの方向にはない事だけは事実である。この3年位、日本で月例に参加しておらずハンデキャップの改善意欲は全く失せていたが、これを書きとめながら意欲らしきものが湧いてきた。「60歳ピーク説」を自ら実証してみたい願望が突如として湧きあがってきたように思う。気負わずチャレンジしてみるか!   <99年02月記>
    
後日談:
幸運にも、隠居がシングルハンディキャップになったのは61歳と7ヶ月の2001年7月 で、60歳ピーク説は嘘ではなかったようだ。


犬の小便小僧
(右足? 左足?)

 ショットの瞬間に体重を左足の方向へ移動することは、強い打球を生み出す為の重要な要素である。下半身を柔らかく使って、この目的を苦も無く達成できれば理想的かも知れない。これが容易でない場合には、体重移動に会わせて、右足を高く跳ね上げるというスタイルに頼る人もいる。これもその人の体形、体力等によって合理的な方法といえよう。習志野CCの仲間であるA氏もこのスタイルをとることが多い。

 逆に「明治の大砲」と言われるショットスタイルがある。後ろに大きく引ける、言いかえれば後(右足)に体重が大きく残るスタイルである。ドライバーの飛距離を伸ばす為には、体重は多少右に残した方がよい(中島常幸プロはそのように主張している。野球では巨人の松井も同じ言いかたをしている)というプロもいる位だから、それが自然と受け取れる範囲内で上手く身につければ効果があろう。ただ、このスタイルの打法が極端になると、多くの人が左足を跳ね上げながら後方へ引くという挙動に繋がってくる。同じ習志野CC仲間のS氏が典型的なこのタイプである。あったと表現したほうが適切かもしれない。最近左足を我慢して跳ね上げないよう努力し、その効果が出つつあるからである。同氏の場合は、極端にクローズドスタンスに構えるため、ショットの瞬間体を大きく開かないと玉がとんでもない方向へ飛び出して行くのを防止しているとも受け取れる。

 共に片足打法のこの両者が対戦するとどうなるか。両氏には些か申し訳ないが、大いに興味をそそられるところである。小生も幾度と無く両氏と同時にプレイしたが、双方ともに相手の仕草が気になるらしく、プレイ中につい相手の真似をしてしまいお互いに相手を揶揄してしまう、という事態に陥ることもある。失礼ながら、「目糞、鼻糞を笑う」の感がないではないが。さて、両者の勝敗や如何に!現状はハンデキャップも含めてほぼ五分の戦いが続いている。小生の場合には、バタ足過ぎて体の回転がないために、体がデカイ割には飛距離が伸びないと言う欠点があるように思う。改善の必要性大なり!  
                     <99年05月記>


個性派ゴルファー
<1軸回転、海老踊り、
マシンガン

 海外のプロゴルファーのスイングは、画一的でなくヒューリックやフロイドなどのように個性派も多くみられる。日本の、特に若手のプロゴルファーの場合には、フォームにさほどの差はないように見えるが、素人ゴルファーに関しては千差万別、数え上げれば限がない種類のフォームを眼にすることが出来る。かく言う自分もスウィングの写真を見たくないほどの変則であるが、それはさておき、これらの個性派フォーム(またはスタイル)のなかで、小生が特に印象的と感じている2,3の例を挙げておきたい。

 1軸回転 

 O氏は30歳代の後半、若い頃に機械体操をやっていたとのことで、小柄ではあるが筋肉隆々で体力抜群の男性である。スコアは「今一つ」の域にあるが、飛距離は素人離れしていて将来性抜群の魅力を持ち合わせている。

 同氏のスイングは、他にあまり例を見ない個性的なものである。ショットの瞬間、左への体重移動につれて右足を跳ね上げる例は先にも書いたように幾つかの事例はあるが、同氏の場合は、左足に体重を乗せた後は左足を一本の軸として体全体を大きく回転させる、その時右足は左足に巻きつくようにして完全に一回転させるという珍しいスイングである。これによって、大きな回転が得られボールは勢い良く遠くへ飛んで行く。ただし、完全な横振りとなるため、強く振りきれば左へ大きくフックし、それを気にして多少力をコントロールすると右へ押し出してしまう。真っ直ぐ行くのはカット気味に入って多少スライスの高いボールが出るときである。クラブヘッドの軌道からみても、玉筋は誰でも推測できるものである。問題点で一番大きいのはバックスイングにあろように思われるが、O氏は他人の忠告に耳をかさず頑固にこのスタイルを3年以上も維持し続けてきた。最近になってようやく少しの変化が見え初めてきたのは、多くの心暖かい友人の忠告に耳を傾け出したということだろうか。

 早く改善の効果が出てくることを期待している。ただ、これに近いショットをする人に共通の強さは、ショートアイアンが壷に入ればグリーン上でよく止まる高いボールが出ることである(これも理屈に合っているが)。

 海老踊り 

 スイングでは「逆海老形」、即ち下半身を左へ送り込みながらも頭は元の位置にしっかりと残して体が海老の反りのようにみえる形が理想形だと言われた時期があった。今でもそうであるかは多少の議論はあるようであるが、そのことはここでの話題ではない。

 これはパッチングスタイルの話である。

 N氏は、性格的に真面目で、粘っこく、かつ几帳面である。仕事上も、手抜きがなく丹念で容易に諦めない、従って業務の内容は信頼性が高い、と多くの人が認めている。

 ゴルフでもフォロースルーにその性格が現れているように見受けられる。体の回転よりも、手首と一緒にクラブのヘッドも打球方向と同じとなるよう心がけており、打った後のボールの行方に執着している様子が窺える。ボールを打った後も、ボールの行方をコントロールしているかの如く受け取れる。パッチングにおいては、この傾向がもっと顕著である。パターでボールをヒットしたあと、ゆっくりと体を左に開きながら、顔をボールの行く先の方向へ突き出し、一方腰はうしろへ引いてボールの行方を見つめている。またパターはボールの方向へ突き出されており、ボールがカップに吸い込まれるまでボールを操ろうとしているかの如くである。体の開きが大きくなると、時折 左足でグリーンを掻き毟りながら足を左後方へ引いていく。この動きが極端になると、最後には両足でグリーンをバタバタと叩く現象がでる場合もある。仕事仲間の米国人が、この様子を例えて「海老踊り」と名づけたが、当人がこのことを気付いているかどうかは定かでない。

 数多くのゴルファとプレイを重ねており、類似のパッチングスタイルは幾人かお目にかかているし、N氏に限ったことではない。

 しかし、N氏のこのパッチングスタイルも、最近では大分違ってきたようだ。上記のような動きがほとんど見られなくなって来ている。そのためか、最近はパッチングの回数が多いという。パッチングは、個性に合わせていろんな形があってもよいとおもう。無理して直さないことが肝要だ!

 マシンガン 

 I氏は仕事上でも決断が早い。処理能力も高く、かつ迅速である。多少短気な面もあるが、淡白でサッパリしている、という表現がよく当てはまる。また、体格もよく、その上に並外れた強靭な体力を有しており、ゴルフでもその飛距離はプロ級との評価がある。パッチングも思いきりがよく、強めに打って難なくカップインさせる。ただし、彼にも弱点はある。ドライバーショットの方向性である。距離の出る素人ゴルファーの共通の悩みでもあるが、ドライバーでのOBが多い。それでも彼は飛距離に大いに拘っているので、右にも左にもOBが出てスコアが纏まらない時もある。

 彼のゴルフで最も特徴的なのは、OBが出た後の処理の仕方である。多くのゴルファーは、自分の打ったボールがOB方向に向かい、間違い無くOBゾーンに入ったことが確認されても、暫し呆然とし、気を取り直して打ち直しするまでに多少の時間が必要である。I氏の場合は、全く違った場面が展開される。打ったボールがOB方向に向かったと見えると、彼は次のボールを素早くティーアップしており、OBボールが到着点に辿りつく前に次のボールを打ち出している。打ち直したボールがまた同じ結果なら、また次の行動が開始されている。大袈裟に言えば、普通のゴルファーが一打に要する時間と彼が三打で使う時間に差はない。まさに「マシンガン打法」と名づけたいショットスタイルである。

 パッチングも小気味よい。最初のパッチングで大きく外しても、必ず「お先に」で難なくカップインさせてしまう。彼曰く、「最初のパットのイメージが消えないうちに、素早く次のパットをやることが、パットの秘訣」   <99年7月記>

カンニング男

 「ゴルファーがスイングを意識することが出来るのはミスする時だけだ」という名言があるという。また、「アドレスはスイングの始まり、アドレスに入ったらボールを打つことに関心を向けるだけ」と忠告するプロも多い。

 とはいうものの、素人ゴルファーの多くは、日頃の練習の成果を間違い無く実践で発揮するために、自分なりに整理した幾つかのチェックポイントを、頭の中で反復しないとスイングにはいれないようだ。なかには、密かにチェックポイントを書き込んだ縮小コピーを作成してポッケトに忍ばせている人、アドレスに入ってから人知れず(大部分の他人が気付いているが)口元をモグモグさせて反復している人と多様多種である。

 もっとも特徴的なケースはS氏の場合である。ドライバーでも、アイアンでも、アドレスに入る前に、必ず右手のひらを半分開きながら目をやっている動作に気付いたのは、スタートして5ホールくらい行った時だったと思う。毎回繰り返している動作が尋常に思えず、右手に異常でも発生したか、と気遣って覗き込んでみてビックリ仰天! 右手の手のひらは、真っ黒になるくらいボールペンで書き込みがされているではないか! 恥かしげに手を閉じたS氏に、それ以上の追求は避けたが紛れも無く「チェックポイント」がぎっしりと書き込まれていたのだ。本当かどうかは定かではないが、子供の頃聞いたカンニングの常習者がよく使ったという手段をゴルフで応用したのだ。  <00年5月記>

    

TEC習志野会

 993月27日、小生の所属する「TEC社習志野会」の63回目のコンペが開催された。会員の老齢化が進み、体調不充分の会員も多く出て、僅か3組の些か寂しいコンペとなったが、インドネシアから一時帰国中の小生も、小雨のなか何年振りかで参加し、幸運にも9回目の優勝(会員中で最多回数)の栄誉を頂いた。

 当会は、同じ会社の仲間で習志野カントリーに入会している者だけで構成された、極めて限定的な会であるが、全盛時には会員数約50人の賑やかな集まりであった。会社内での職制の力関係も何ら影響せず、皆が気さくに付き合える、気の置けないゴルフ仲間の会である。今は会員の高齢化が進み、幾人かは既に他界され、会員数も40人を切るまでになっているようだが、現役と元現役?との交流の場でもあり、未だに延々と続いている。

 今の会員構成は、現役社員(役員含む)と退職済み元社員とが凡そ半々であるが、あと2年も経過すれば約8割が元社員で占められるという年齢構成となっている。会の発足後今に至るまで、若手の会員の補充が全くなく、ただひたすらに高齢化へ向かって突き進んでいる、何時かは消滅の運命を辿るであろう会である。

 発足当初は年間で2、3回のコンペを不定期で開催していたのを、年間4回、即ち3ヶ月ごとの開催を決めてから、既に約15年が経過しているが、年4回のコンペの開催ペースは確実に守られて現在に至っている。

 小職も会社を退くまで残り3年足らず(?)、最近この会の意義がますます強まって来ているような思いがある。現役中は、仕事を離れた交流(例えばゴルフのプレイなど)も、会社内の仲間であれ、社外者であれ、何かと機会は多くあるものだが、現役引退後はある程度は限定されたものとなって来ることはやむを得ないことであろう。何時までも会社離れしない生活も誉められたものではないが、長い間仕事を一緒にやってきた仲間の動静が気にかかるのも人の情であろう。この会の消滅が、小生のゴルフ人生の終わりであるような気がしてならない。

 残念なことに、習志野カントリーは、今苦境のなかにある。経営母体の「日東興行」が、バブル経済期の豊満経営のため倒産し、和議で再建を図るべく手続き中であるのだ。当面はプレイ権は確保されているが、この先どう推移するか全く不透明な状況になっている。プレイ権を失えば、この「TEC社習志野会」の存続もあり得ず、会員は不安の真っ只中にあるということである。会員権の償還は、何ら期待していないが、プレイ権は小職のゴルフ人生が続く限り存続することを祈らざるを得ない。
          <1999年04月記>

奥村学園

 「TEC社習志野会」のなかには、二つのグループがあって、その一つが「奥村学園」、別称 ギャンブラー・グループである。ありとあらゆる“握り”のルールを採用して、真夏、真冬も欠かさず、年間の毎土曜日に、1.5ラウンドの熾烈な戦いを2組で展開してきた、まさにゴルフ狂の集団(構成員約20人)であり、既に15年以上も続いている。全盛時には、北海道や九州宮崎に3日間3プレイのゴルフ・ツアーを実施したり、開園10周年大会を開催したり、と活動も盛んであった。習志野カントリーでも、殆どのキャディーがこのメンバーに付いた限りは、1.5ラウンドを覚悟しなければならないことを知っていた、というほどに周囲にも認知された集団である。

 ギャンブラー・グループとは言っても、サラリーマンの集まりであり、賞金を稼ぐことが目的ではなく勝敗を競い合うことが主目的であるので、掛け金が大きくならないような制約はいろいろと設けられている。先ず、1ポイント当たりの単価を安くすることは当然として、勝者は敗者を救済(?)するというシステムも設けられているのだ。一日の総合勝ち点が、50点(5000円)を越したら中2階と称して同伴者に一杯の飲み物を振舞う、100点を越したら本2階と称して茶そばやラーメンなどの一品を振舞う、150点を越したら大2階と称しツマミつきの一本を振舞う、というのも利益配分・弱者救済ルールの一つである。(何で2階か? 習志野カントリーの食堂は2階に存在する)

 この「奥村学園」も、メンバーの高齢化、学園長(校長先生と呼ばれていた)の他界、幹事長であった小生の長期出張などが重なって、最近では1.5ラウンドが1ラウンドとなり、2組が時には1組になり、“握り”のルールも緩和され、と変容してきているようだ。小生も、この学園の「幹事長(兼)生徒会長」という得体のの知れない役職を長年勤めて、出張で不在の時以外は必ず出席(年間で約40回)して、学園の活動の盛り上がりに貢献してきたので、いまは些かの寂しさを感じざるを得ない。小生の帰国後は、また以前の隆盛を取り戻すべく、力を尽くさねばなるまい。

 学園の存在は、云うまでも無く、校長先生と呼び親しまれた奥村氏の力によるものである。奥村氏はTECに勤務時には当然として、60歳で定年となり会社を退いてからも変らず、毎週土曜日の朝一番のスタートからの2組を生徒達のため(本人のためでもあったが)に、欠かさず予約し続けてきたのだ。生徒各位は、自ら参加の意思表示をするか、奥村氏からの電話を待つだけで、予約と言う面倒な仕事から何時も解放されていたのだ。奥村氏を中心としたゴルフ狂の集団を、何時しか「奥村学園」と称するようになったのは、ごく自然の成り行きであったように思う。小職の記憶でも、奥村氏の予約忘れという事態は一度たりともなかったと思う。習志野カントリーの予約係りも、奥村氏の電話を毎週待っていた様子で、同氏の電話を受けた途端に希望のスタート時間を指定したという(予約日に電話を忘れても何時もの時間は空けてあったということだ)。氏は50歳を過ぎてから始めたゴルフが唯一の趣味で、年間60回以上もコースに出ていたが、習志野での1年間の戦いの結果は、各人毎に年賀状で詳細に報告してくれるという几帳面さも持ち合わせていた。氏の老後生活は、皆の憧れの的にもなっていたように見えた。その奥村氏は、ゴルフを楽しんだ翌々日に突如「蜘蛛膜下出血」で倒れ、療養生活に入ったが、不運にも1年間の療養の甲斐も無く、98年4月に他界された。今も奥村学園で週末のゴルフを楽しめることを心から感謝したい。   
            
<99年05月記>

今日が命日かも?
好敵手
新桜会
60歳過ぎてシングルハンデ


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