「アリス、話がある」
火村が突然訪ねて来たのは、会わなくなって二ヶ月近くが過ぎた頃だった。
自分から掛けることのなくなった携帯電話には、もっぱら火村からの着信履歴ばかりが残るようになっていた。フィールドワークの連絡、何気ない日常の誘い。そんなすべてを断わっているうちに、あっという間に日々は過ぎた。
どれほど忙しかろうとも、わずかな暇も融通できないほどの生活なんて、よほどでなければ有り得ない。ましてや電話の一本が取れないわけがないのだ。
そんなものは所詮、気持ちひとつでどうにでもなるものだから。
もちろん物理的に忙しかったことなら過去に何度でもあるけれど、私にとって火村は常にたった一人の特別だった。出会ってからの十数年、意識するしないに関わらず、彼を誰よりも優先してきたのだと思う。
会いたいと思えばこそ、会社勤めの頃も専業作家になってからも、私は火村と過ごすための時間をなんとかして捻出し続けていた。大型プロジェクトの納期前だろうと、缶詰寸前の締め切りの間際でも、どんなときにも変わらずに。思い返せば一ヶ月と間が開いたことがあっただろうか。もちろん無理をしていたわけではない。離れたままの寂しさが耐え難くて、せめて声だけでも聞きたくて、隙を見ては北白川へと足を伸ばした。電話だけならばもっと頻繁にかけていた。
その私から唐突に音沙汰がなくなったのだ。
さすがに不審だったのだろうか。
元より嘘が得意なわけではない。次第に苦しくなっていく言い訳も尽きて、最近では居留守を使うことも多かった。繰り返される電話にもメールにも、こちらからは単語だけに近いショートメールを返すのが関の山で。
そうこうするうちに、火村からの着信の頻度も次第に高くなっていった。液晶画面にずらりと並ぶ履歴を眺めては自嘲する。助手としての私以外に、火村がこんなにも連絡を取り続けてくれたことがあっただろうか。有栖川有栖という存在は火村にとって、それぐらいの価値はあったと思ってもよいのだろうか。自虐的にそう考えて、非難めいた思考回路を嫌悪する。前にも後ろにも進めないでいる私に、彼を批判する権利などどこにもない。
いきなり音信不通のような状況になっているのだ。火村は理由を知り得ないだろうし、これといった心当たりもないに違いない。友情があれば心配ぐらいはするものだ。ただそれだけのことだと、打ち消しきれない期待が浮かぶごとに強く否定を重ねる。
逃げるばかりの自分が厭わしかった。
「・・・ひ、むら・・・」
目の前に佇むのはずっと会いたくて、だけど絶対に会いたくなかった人の姿だ。体が芯から凍ってしまったかのように動かない。手足から血の気が引いて冷たくなっていく。かろうじて絞りだした名はかすれた吐息のようで、あまりの不自然さに自らを呪いたくなった。
「・・・入れて、くれないのか?」
その長身を呆然と見つめたままの私に、こんなときにさえ懐かしく耳に沁み入るバリトンが静かに催促をする。いつだってどんな状況に置かれたって、心はとどまることも知らずに火村へとなびいていく。まるで水が高いところから低いところへと流れ落ちていくかのように。話せることなど何もないのに、同じ場所にいるというだけで、涙が出るほどに嬉しいとすら感じてしまう。
好きだ、好きだ。もうどうしようもない。
だが駄目なんだ。今の私に火村とどう向き合えるというのだろう。醒めない夢はない。幻想はいつまでも続かない。理解していてなお、誰かに問い詰めたくなる。どうして人は偽りに溺れたままではいられないのだろうか?
いっそここから逃げ出してしまいたい。誰何もせずに玄関を開けたことを悔いてももう遅かった。今更、居留守を使うこともできない。
『相手を確かめずに扉を開けるな』
それは皮肉にも火村自身が何度も私に注意をしてきたことだった。
我に返ってそれでも閉じようとしたドアに火村が足を割り込ませて、半ば強引に玄関扉の内へと入り込んでくる。強硬な態度に来たるべき終末を予感して、背筋を言い知れぬ恐怖がざわりと駆け抜けた。
「・・・アリス」
静謐な声だ。
咄嗟に見遣った野趣の強い容貌には、どんな表情も浮かんではいない。だけどその瞳だけは思いつめたような光を放っていて、驚きに四肢が強張った。
・・・どうして君がそんな顔をするんだ?
どこか深く闇い絶望を宿したまなざし。かたく険しく結ばれた唇の形に、見ない振りをしていた罪の意識がこみ上げた。
私は火村にこんな顔をさせるために、今まで傍にいたのだろうか。
長い付き合いでさえ滅多に見られない、肩の力の抜けた優しい笑みが好きだった。夢を恐れずに眠る夜を、穏やかに目覚める朝を、いつの日か手に入れて欲しかった。湧き出す恋情はいつも息苦しくなるほどに私を消耗させたけれども、それでも彼のためにただ幸せを願った出会いの頃の純粋な気持ちを、私はどこに忘れてきてしまったのだろうか。
いいのか? 本当にこのままでいいのか。
いつか近い未来に別れの時を迎えるのだろう。だが最後の瞬間を先延ばしにするほどに、私は尽きることなく彼を傷つけて、取り返しつかない痕を残してしまうのかもしれない。例え永遠に忘れ去られることがなくても、私が欲しかったのはそんなものじゃなかった。
真っ直ぐに私へと向けられた墨色の眼。
ずっと直視することのなかった彼のまなじりには、今、見過ごせないほどの疲労と焦燥が濃く深い影を落としていた。
ああ、私は。
こんな風になるほどに、火村を追い詰めてしまっていたのか。
酷薄ぶった挙動の裏で、彼が誰よりも愛情深いことを私は知っていたはずだ。なのにどうして身勝手なことしか考えられなかったのだろう。
そうだ。火村が苦しまないわけがなかった。彼が身内と認めた数少ない者たちをどれほど大切にしているのか、理解しているつもりで、私は何も分かっていなかったのかもしれない。恋じゃなかったとしても私はきっと愛されていた。その私が。過ちをずるずると続けようとすることに、火村が擦り切れないはずがなかったのだ。
願うのは、彼の幸せ。それは決して偽りではなかったのに。
心の深淵を探る。嫉妬も打算も逃避も醜さも、すべてをかき分けたその先には、はじめの優しい想いがまだ失われずに残っていた。パンドラの一条の希望めいて、奇跡のように綺麗なままで。それこそが私の中の一番美しいものなのだろう。捨ててはならない、私の誇りだ。
今この時も苦しいよ、失いたくはないんだ。
だけど、火村。私はそんな顔が見たくて、君の隣に居たのではなかった。
私が傍にいる彼の不幸と、私が退くことで得る彼の幸せ。そのどちらを選ぶのか。それは、問われるまでもない明らかなことだ。静寂を裂く赤暗い叫びにも、彼を犯罪の現場へと駆り立てる古い憎悪にも。私はひどく無力だったけれど、それでもたったひとつだけ、私にもできることがあるんだろう。
ずるずると続く過ち、正すのは誰だ?
きっかけが私自身の弱さだったならば、私こそが幕を下ろさねばならないのだ。愚かだった。卑怯だった。火村の言葉に耳を塞いでしまうほどに、その視線から目を逸らしてしまうほどに。逃げて逃げて逃げてその挙句に、結末の責任まで押し付けるわけにはいかないだろう?
終わらせること。もしそれを彼が望むなら、私がこの手で決着をつけよう。そう願ってさえ、火村は苦しむのかもしれない。でもリスタートがやがて彼の笑顔へと繋がるのであれば。私はそれを選んでみせよう。
彼がいなければ生きている意味さえないと、そう嘆く弱さはまだ抱えているけれど。
欲しいのは彼の犠牲ではなかった。
叶うならもっと違う形で、火村に安らぎを運んであげたかった。身近な場所でその幸福を見守っていたかった。だが、そうだね。私たちはいつからちゃんと笑っていないのだろう。奪い搾取するばかりで何も差し出せないのならば、せめてエンドマークの責任ぐらいは引き受けようと思う。それこそが私の贖罪だ。優しい彼の手を不当に独占し続けた咎は、私が一人で負うべきものなのだろう。
火村、だからそんな顔をしないで。
君が好きだ。ずっと好きだった。この瞬間も、そして多分これから先も。
さようならを越えた向こうに、私たちが友人として共に過ごす可能性はあるだろうか。恋心を殺して、火村の傍に立つことのできる強さが私にはあるだろうか。過去を呑み込んでなお、私といたいと願ってくれるだけの絆が彼と私の間にはあるだろうか。
もう手遅れかもしれない。だけど、それでも。
君が好きだよ、だから。
もう一度きちんと顔を上げて、前を向こうと思うんだ。
[The author:Ms.Aya] [2010年 03月30日]