夢のあとに Alice side -4-



「中、入ってや」

まだ靴すら脱いでいない火村へと、意識して真っ直ぐに視線を合わせる。

「・・・もう、逃げへんよ。君の話をちゃんと聞くから、俺の話も聞いて欲しい」

顔を上げていることが今も少し辛い。だけど向き合うと決めたから、瞳は逸らさない。五年前のあの朝に閉ざしてしまった唇を今度こそ開いて話をしよう。モラトリアムはもうおしまいだ。

リビングへと歩いていく彼の背中をじっと見つめる。

幅のあるしっかりとした肩のライン。これといって運動などしていないはずなのに、無駄な肉の窺えない体躯。二本の腕の動きに従って、肩甲骨の隆起する様が好きだった。不精で伸びた後ろ髪で首筋が隠れている。ねこっ毛の私とは根本から質の違う、硬くて癖のないそれ。出会った頃よりずいぶんと白いものが増えた。数えきれないぐらいに掻き乱しては縋った。抱き合った時に、私の額へと落ちてくる前髪の感触さえも愛おしかった。

肩から肘、豆状骨の目立つ手首と、大きくて節ばった手の形。

器用に動く指先に、いつだって視線を奪われた。指を絡めてぎゅっと握られると安心した。両の腕を回した背の厚みも好ましかった。この男は私のものなのだと、束の間だけでも信じていられたから。

どこもかしこも好きな所だ。

ぜんぶ好きだなんて、陳腐だと嗤われるだろうか? でも事実だから仕方がない。特に後ろ姿は火村自身の眼を気にすることなくゆっくりと眺めていられたから、よく覚えている。ひとつひとつのパーツはもちろん、それらが組み合わさった造形もすべて、目を瞑っていても浮かべることができる。

彼を失うとしても、記憶だけは私のものだ。誰にも奪えない。

忘れないでいることを、火村は許してくれるだろうか?

「・・・急に来て、悪かったな」

二ヶ月間の空白。電話すら途絶えたのは多分はじめてのことだった。その声音も懐かしい。話す口角の動きや、声の低い響き。烏色の深い瞳。もう会うことさえ叶わないかもしれないから、どんな小さな動きも見逃したくはない。いっそ消えない記憶を脳に焼きつけてしまいたい。

「ええよ。俺も締め出そうとしてごめんな。・・・コーヒーでも飲む?」

互いに話しあぐねている。そんな空気を感じ取りながらも、私はきっかけを待った。気持ちを整理するために一度キッチンに行こうとして、背を向けようとした瞬間に腕を捕らわれる。

「何もいらない。・・・話が先だ」

ああ、そうだ。覚悟を決めなければならない。

時間を置けば置くほどに、話せなくなると何度でも思い知ってきたはずだった。結末の責任を火村に押し付けたりしないと、そう誓ったばかりだろう? 押し潰されそうに苦しくても、握りつぶされたように心臓が痛んでも。火村と別れた後に独りうずくまるとしても。この時こそは面を上げて、きちんと乗り越えてみせるんだ。彼の記憶に無様なだけの私の姿が残らぬように。彼の心の柔らかい場所に、これ以上の苦い想いを植えつけてしまわないように。深呼吸をする。・・・さあ。

―――言え!

「・・・もう、やめよ?」

そうしてきっぱりと笑う。

上手に微笑むことができただろうか? だが、見苦しくひきつっているとしても、意地でも虚勢でもいいから、今日だけは絶対に泣いたりなんかしない。

「ごめんな、俺のせいで君に我慢をさせた」

それだけを告げて、まぶたを下ろす。

断罪にさえも焦がれるように、愛しい声が答えるのを待つ。

火村は楽になってくれるだろうか。それともいきなり身勝手だと罵るだろうか。むしろ安堵に脱力でもするのだろうか。負担ばかりをかけてしまったから、偽りの恋の終焉にぐらいは苦しめずにすむといい。かつての気を許した笑顔が懐かしい。最後に一度でいいから、笑ってはくれまいか。過ぎた贅沢かもしれないが、ずっとそんな大切なものを見失っていたから。

だが握られたままの手首に、痕が残りそうなほどの力が篭められて戸惑う。

「・・・・・・っ」

反射的に見上げた瞳の強さに言葉を失った。

凪いだ水面のごとく静かだった漆黒に、燃え立つような青白い炎が閃いている。怒りと見紛うばかりの激情の焔は、だけど真逆の色を映しているようにも感じられた。

「アリス。俺はお前に、耐え難いほどの苦しみを与えたんだろうか」

平坦な調子で鼓膜を震わせる疑問は、だけどまるで懺悔のようだった。

「お前の優しさにつけ込んだ俺の卑劣さに、お前はずっと沈黙を守っていてくれたから。俺はそれに甘えたままで、お前がそんな風に限界を迎えてしまうほどに無理をさせてきたんだろうか」

掴まれた部分が鈍い痛みを訴えている。悔いるような表情とは裏腹に、決して離さないとばかりに握りこまれる力の強さに呆然とするしかなかった。

・・・何を、言っているんだ?

つけ込んだ? 無理をさせた? 違う、それは私のほうだ。

「もういい加減に嫌になったんだろう? 望んでもいないような理不尽な関係を維持し続けることに、耐え切れなくなったとしても不思議はない。そうだな。文句が言えた義理じゃない。あれから、もう五年だ。お前は随分と頑張ってくれた。分かってはいるんだ」

言い募る口調には、火村らしくもなく落ち着きがなかった。こんな彼は見たことがない。異様なまでの雰囲気に呑まれたのか、きちんと話そうと決意したにも関わらず、私は火村の真意を質すことすらできないでいる。

「なに、言って・・・」

「それとも。恋人ができたのか?」

かろうじて差し挟もうとした問いにかぶせるように、火村が強く尋問する。

「お前に男と付き合うような性癖がないのは、初めから分かっていたことだった。最初のあの日、お前が拒まなかったことに卑怯にもつけ込んで、俺はたった一度の過ちをなし崩しに続けてきたんだ。それが愛情からじゃなく、お前の労わりだったんだと理解していたのに。惰性なんかじゃない。故意犯だよ、俺は」

歪めた頬は嘲笑めいて、でもその眼だけが裏切っている。

「お前が黙って許してくれながらも、いつも辛そうにしていたのだって知っていた。少しずつ顔色に精彩をなくしていったのも。笑わなくなったのも、だ。気付かなかったんじゃない。俺はそれをはっきりと意識しながらも、見ない振りをしていたんだ。・・・失いたく、なかったから」

灯りのない真の闇夜のように、その瞳はただ昏かった。秘めた絶望と諦念に混じった、かすかな願い。苦しそうに細められたまなざしに切れ切れに喘ぐ。

「・・・ひむ、・・・」

なあ嫌だよ、火村。私は君のそんな表情が見たかったんじゃないんだ。私はまた何かを間違えているのか? 導いた答えはまた過ちだったのだろうか。

ただ、笑って欲しかっただけなのに。

「この間の事件の彼女から、連絡でもあったのか? 正式に付き合いを始めて、それで俺との不毛な関係にようやくけじめをつける気になったのか。だとしても俺にはそれを制止する権利なんかないんだろう。本来ならば受け容れる性じゃないお前に無理な役割を求めて、戸惑いを利用して最低の付き合い方をしてきたんだ。奪うばかりだった俺は、むしろ糾弾されても当然だ」

唇を歪めて火村が問いかける。

「・・・だがな、アリス」

何のことかも分からないままに、私はただ息を呑んだ。血を吐くような独白の果てにも、火村の眼はひどく真摯だったから。

「お前のためを思うなら、俺は身を引くべきなんだろう。お前からの連絡がなくなった時点で、すぐにでもそうするべきだった。俺からの電話を避けだしたときに、そのままで逃げさせてやるべきだった。そんなことは頭では分かっているんだ」

諦めたような小さな笑みは、それでも熱く切なかった。

「決別すべきだと自分に言い聞かせても、すぐに電話をかけてしまう。いっそお前の番号を消してしまおうともしたが、それでも駄目だった。例え手帳からも携帯の電話帳からもまとめて削除したところで、記憶までなかったことにはできないんだ。昔のように指でダイヤルをしなくなった今も、家電も携帯の番号も、お前のだけはずっと覚えてる。手元に何も無くても諳んじていた。それほどに傍にい続けて、今更どうして忘れることができるんだ」

教えてくれよ、アリス。

そう訴えかけるバリトンの響きは嘆きのようで。言葉が何も出てこない。胸が締め付けられてたまらなかった。

「手を離してやるべきだ。何度もそう考えた。だが、アリス。お前を逃がしてやることがどうしてもできない。空を羽ばたく鳥の羽を、人間の都合で切るような残酷な真似をしているんだろう。身勝手なエゴだ。だがお前だけは手放してはやれないんだ」

火村、火村、火村。なあ、それはどういう意味だ。

信じられないんだ。まさか、まさか。『まさか』と、そればかりが脳裏に浮かぶ。君のその願いは執着か、それともただの独占欲か。自虐的に浮かぶそんな考えを、他ならぬ君の絞り出すような声音が否定する。

「・・・最初に告げるべきだった。もう遅いかもしれないが、せめて言わせてくれ」

狂おしげに、でも真っ直ぐに見つめられるこの歓びが伝わるだろうか。

「アリス、お前が好きなんだ。出会った頃から一時も絶えることなく」

ひと際苦しげに、でも瞳はひどく熱かった。

「・・・愛している」

なあ、火村。

私たちはこうしてずっと誤解をしたままですれ違ってきたのだろうか。それがいつか来る終わりに怯えて、互いに眼を逸らし続けてきた報いなのだろうか。

だが、遅くない。きっと遅くない。

出会ってからの十数年、そしてあの夜からの長い五年。

しじまの夜や朝焼けの空を、私たちはきっと同じ想いで過ごしてきたのだと思う。まるで鏡絵のようだ。眼前の相手よりも空想へとただ逃げていた。火村の愛情ゆえの変化を、私の失いたくないがための逃避を、決別への序章だと誤解してしまうほどに。

だけど二人が同じだったなら、想いが片側通行でないことに気付いたなら。過去の苦しみも痛みも、一緒に分かち合うことができるんじゃないだろうか。

火村、私も君が好きだよ。君だけを愛してきたんだ。

まずはそこから話すから、ゆっくりと聞いてくれないだろうか。

独りの夜の切なさと、愛など存在しないと嘆く朝の虚しさを。今からでもきちんと伝えたい。苦しかったけれど、それでも愛しい日々だった。壊れることを恐れながら、どうしても求めないではいられなかった。

それは君と過ごした時間だからこその想いなのだ。

積み重ねた辛い夜を二人で乗り越えよう。前を向いてもう一度、君とはじめたい。そうしていつか、この苦しみさえも糧だったのだと笑って言える朝を共に迎えたいと思うんだ。

長い長い、夢のあとに。

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というわけで、絢音:絢さまとのコラボ小説「夢のあとに」でした。素敵なタイトルは絢さまが付けて下さいました☆書き始める前にどんな感じで話しをすすめましょうか?という御言葉を頂戴してずうずうしくも「恋人で些細な勘違いからすれ違ってしまうけれど、結果ラブ」などという難しいテーマを言い放ってしまった私。「我儘を言うんじゃないよ!」といっそ罵って下さっても構わないほどのリクエストにも快いお返事を下さり、絢さまの真骨頂であられる繊細で綺麗な心理描写満載のストーリーをアリス視点で描いて下さいました♪…もういっそ、このまま絢さまだけのお話で止めとけばいいのにね(><)調子に乗って申し訳ありません!!火村サイドからのお話を書かせて頂くという暴挙に…。せめて結末は絢さまの素敵な御話で終わらせて下さい、と重ねての我儘にもお応え下さいましたお優しい絢さま。改めて有難うございました。

そんな絢さまの素敵サイト様はコチラ絢音

[The author:Ms.Aya]

[2010年 03月30日]