その手を離すべきだと、自分の弱さを言い訳にして檻に閉じ込めたままのアリスを解放してやるべきなのだと、目前に広がる”当たり前の光景”を目の当たりにして痛いほど思い知った。
その世界にとって俺たちの関係は、あまりにも不自然で有り得ないものだったから。
いや。
今までだってそうした光景を見てこなかった訳ではない。
ただ、きっと、受けとめる俺の気持ちに余裕がなさすぎたのだと思う。アリスの身体だけを手に入れて…引き換えに失った大切なものから目を逸らせなくなって追い込まれた精神の上に、その光景はまるで引導のような効力を発揮した。
ちょうど半年ほど前に起きた事件の現場で、それは起きた。事件自体は複雑な人間関係と動機が絡み合って解決の糸口を見いだせないまま3カ月という長い期間を費やしていた難しい事件だったが、その事件の関係者で第一発見者でもある被害者の娘、その彼女の出現で俺達二人がいかに不自然な関係であるのか、改めて思い知らされた気がする。
『有栖川…有栖、さん?あの、推理作家の?』
助手と言う酷く曖昧な名目にであるにも関わらずフィールドに同行してくれる様になったアリスは、その事件においてもいつもの様に助手として同行してくれていた。もちろん、ずるずると長引いた捜査期間中、すべてに同行していた訳ではないが、それでも関係者に何度か顔を合わせる程度には同行していた。その先で。
『あ…、はい。えっと、私を御存じで…?』
事件の第一発見者でもあり、被害者の娘でもある彼女と面会した際。たまたまアリスの著書を読んでいた彼女とアリスは傍で見ていて驚くほど自然に打ち解けた様だった。
事件捜査中でも、軽い笑み交じりの会話を交わす位には。
元来が人あたりのよいアリスだ。べつに事件の関係者だからといって堅苦しいままでいる必要はない。ないけれど、微笑みを浮かべ見つめ合って寄り添う二人に…現場だというのに、目眩さえ覚えた。
肩を寄せ合って話しているのは、事件に関係ない話をしているからアリスや彼女が気を使っているのだと分かっていた。でも、声が周囲に漏れない様に囁く様がまるで仲睦まじく会話を交わす…恋人同士の様に見えて。
すらりとした男性にしては細いアリスの体躯も、女性らしい華奢で小柄な彼女の横では頼もしくさえ見える。茶みの濃いアリスの髪もさらさらとした黒髪をきらめかせる彼女の横では驚くほど相まって見え、息がとまる位の「当たり前」がそこにはあって…簡単に見いだせる筈の矛盾にすら、惑わされてしまうくらいには動揺、していた。
実際に、そうやって傍に寄り添う様に立っていたのは俺だった筈だ。
だけれど彼女と俺は…根本から違う。並んだ姿は、ひどくしっくりと馴染んだ光景だった。それがアリスのあるべき未来の形だったからかもしれない。曖昧に笑うアリスの優しさに…流されてくれた酷く優しいその強さの上に胡坐をかいてずるずると纏わりついて…身を引こうとしない俺は、彼が得るはずの幸福さえも奪っていやしないのか?考えると、肺腑が抉られるように胸が痛んだ。
大切だった。誰よりも大切で、たぶん…好きだったのだと思う。
だからこそ、本当の意味でアリスを想ってやらなければいけなかったのに、自分本位の…弱さからアリスに頼って溺れて…離せなくなってしまったんだろう。
だから、コレは罪に対する罰なのだと思った。
ずるずると続く、弱さ故の俺の罪を…アリス自ら絶ち切ろうとしているのだと。
解れ始めた事件の舞台で、無意識に視界にはアリスの姿があった。うわべだけは変わらない二人。俺の視界の端にあるのは隣で考えを口にする横顔だったり、隅の方でじっと何かを想う物憂げな表情であったり、最近では常にどこか苦しげな表情が抜けきらないアリスだった。それでも、見つめて居たかったんだ。浅はかな執着からアリスを捉えたまま…ふと、視線を感じて見上げた先に彼女の瞳があった。
それはまるで、何かを想い誰かを想う、そんな混沌とさえした色を浮かべた瞳。
すっと逸らされた視線に、きっと見つめていたのは…アリスなのだと、思った。くしくも俺と彼女は同じ方向を見つめていた様に思えて。同じ、想いの籠った視線を向けていたのは、間違いないのだろうとざわざわと落ち着かない思考の片隅で感じていた。
真相を究明し、罪を糾弾するその間すら、彼女は複雑そうな顔をしていた。何故、解いてしまうのだろう、何故解けてしまったのだろう、…でも、父の無念や真実の意味を知っているからこそ、判明した事には喜びを感じる。そんな矛盾を孕んだ表情で小さく頭を垂れた彼女。きっとその場に居た誰も彼女の見せた辛そうな微笑みがもつ本当の意味など気が付かなかっただろう。そして…。
アリスが見せた辛そうな表情の意味にさえ。
ああ、そんな場面においても俺は気が付いていたじゃないか。
どこか冷静に状況を見つめ判断し、そして考えるだけの思考はあったのに…あえて、気が付かない振りをしてしまった。
辛そうな苦しそうな表情をしていたのは、彼女だけじゃなかった。その姿をそっと見つめていたアリスもまた、同じように胸中を写取った様な物悲しい顔をしていたのに。
それは一瞬だったかもしれない。他の誰にも気が付かない、ほんの僅かな表情の変化だったかもしれない。それでも…ずっとアリスを見ていた俺には…気が付く事が出来る、アリスの確かな気持ちだ。
隣で、微笑むべきは俺、じゃない。
見つめ合って、寄り添うべきは俺じゃないんだ。
一体俺はアリスに何を与えて来たのだろう。
幸せな微笑みか?約束された未来か?それとも。心温まる安らかな時間か?
いずれでも無いのだ。
自嘲的に笑うアリス、視線を交わさない逢瀬、伝えられない想い、交わすだけの身体。
何ひとつ、何一つとして…喜ぶべき物は無い。
でもきっと…彼女には、それがある。
祝福に満ちた世界すら、いとも簡単に与えて仕舞うだろう。
俺が、この手を…離しさえすれば。
「アリス、アリス、アリスっ…!」
俺だけが呼ぶ、その短い名はまるで呪文の様だ。
唱えれば俺の全てに色が挿し、全ての世界に光が満ちる。
それなのに、お前はどうしてそんなに苦しんでいるのだろうか。
俺が…そうさせている、そうなんだろう?
俺は、弱いな。弱くて脆いんだ。
あの日、事件を撃ち落としたあの場所で、アリスと彼女の気持ちに気が付いていたのに…結局気が付かなかった振りをしてしまった。お前の手を離して、幸せを願った筈なのに諦められない気持ちが…ソレを赦さなかったんだ。最後だ、最後だからと自身に言い訳ばかりして目の前の温もりに手を伸ばしていた。泣きだしそうにさえ見えるアリスに、最後の優しささえ俺は与えてやる事が出来なかった。
好きだ、好きなんだ。
堪らなくお前が大切な筈なのに、お前の幸せを願うのに、理性とは裏腹な欲望ばかり先に立って…その先にある自分に都合のよい希望に縋りついているんだろう。
なんて醜悪な、執着。
優しいアリス。俺がまれに見せる弱さという切り札に絆されてどうしても言いだせない、どんなに辛くても、自分から俺を切り捨てる事が出来ないほど…優しいのに。
俺はその優しさすら利用して傍に居ようとしている。
そんな風に痛みを抱え、俺を受け止めて辛さに堪えて来たアリスの苦しみは…一体誰が癒してくれると言うのか。そんな隙間さえ与えない俺が言うべきことではないのだろうと思う。きっとそんな資格さえ、俺には無いからだ。
だから、…深い執着と懺悔と後悔に悩まされていた俺の目の前に彼女が現れた時。
諦めるなら今だと思った。
事件の終幕とともに別の意味での終幕が訪れていた筈のあの日から1カ月が経とうかと言う頃。事後処理で出向いた先で偶然彼女に会った。くしくも向かう先は同じで少しの間、同行した際に…齎された言葉に、本当に諦める最後のチャンスなのだと思い知った。
『…もし、よかったら今度お食事でも行きませんか?…あの、有栖川さんもご一緒に』
ただの社交辞令かもしれない。もともと会話の続かない俺との妙に空いた間を埋めるために口にした言葉だったかもしれない。それでも、彼女が確かに見せる恥じらいや期待感という明らかな想いがその誘いが偽りでは無いのだと物語っていた。事件が終結した今、こうして俺たちと彼女の繋がりが続く意味は無いから、…繋がる物なら、自らの意思で繋げて仕舞おうという彼女の意向が見え隠れする誘いの言葉に…終わりで始まりの音が響いているのを知った。
『…いえ、私は忙しい時期なので、有栖川だけ御誘いになってみてはいかがですか?』
『えっ…、で、でも…あの、それだと…』
切りかえした俺の答えがあまりに突き放した言い方だったのだろうか、戸惑って…それでも変わらない俺の表情を見てとった彼女は心なしか硬い表情を浮かべていたように思えたが、そんな様子に構ってやれるほど余裕も無かった俺は、一足飛びで悪いとは知りながらもアリスの連絡先を教え…気がそぞろになった彼女が前から来た男性にぶつかりそうになったのを手助けしながら目的地に着くと、挨拶もそこそこに別れた。
それだと…火村さんに悪いです、とでも言うつもりだったのだろうか。残念そうな微笑みを浮かべて会釈を返した彼女はきっと、女性らしい細い指先を躍らせてアリスに連絡をとったのだろうと思った。なぜならその日を境に…辛うじてアリスに繋がっていた俺の糸は徐々に細く不確かなモノへと変化を遂げたから。
[The author:Emi] [2010年 03月30日]