「くそっ…」
もう何度目になるか分からない位、同じ番号ばかりをダイヤルする携帯からはとうとう呼び出しの電子音すらしなくなっていた。辛うじて返ってきていたメールすらここ数日は音沙汰がない。
分かっている、わかっているつもりだ。
繋がらない呼び出しが、戻らないメールが何を意味するかくらいは。
予感が不安へと変わり…やがて不安は焦燥へと変わる。周囲の人間がどう思おうが気にもならないが「少し…休息が必要かもしれませんね、ヒム。学生が気にしていますよ」とウルフが苦笑交じりにわざわざ忠告しに来たところをみると、酷く険しい態度と表情をしているのだろうと思った。
遠巻きに様子を伺う学生。
気遣いをしてくれる同僚。
だが、今はそんな事にかまけていられる余裕など無い。
「っ―…!」
握りしめた掌の中で、携帯が鳴る度心臓が止まってしまうのではないかと思う位に飛びあがり着信を確認するのにもいい加減慣れた。…望みの名前が画面に表示される事はなかったけれど。それでも、気が付くとこうして指先は勝手に番号を弾きだしている。
手を…離してやるべきなのだと分かっては…いるのに。そもそもが不毛な躰だけの関係だ。そこに気持ちや情があるわけもない、だから…このあたりが限界だったのだと思う。思うけれど、二人で過ごしてきた友人としての時間、かけがいの無い思い出たちが邪魔をしてどうにも割り切る事が出来ないでいる。
「…アリス」
親友だった、あの日までずっと。 そして、あの日からずっと…二人は躰を合わせる代わりに…心を、遠ざけ続けている。
「…アリス」
そっと声にならない呟きで呼びなれた名前を呼ぶ。…たった3文字の短い名前だ。それでも。いつも傍にあって俺を支え続けてくれた、大切な人の名前だ。
いつだって柔らかく温かな優しさを滲ませた瞳でお前は笑ってくれていた。忙しい時期だってあったろう。辛い事だって多かっただろう。それでもそんなそぶりを微塵も見せず、いつでも変わらずに向けられるその笑顔にどれほど多くの救いを貰って来たのか…今となっては分からない。
人は独りでは生きていくことが出来ない。少なくとも社会という囲いの存在する世界においては、その規模が大きいにしろ小さいにしろ、人の存在は関わり合いによって形成されているからだ。…独りで居たく無いかどうかは別にして。つまり人として当たり前に生きていくためには、当たり前のように誰かと関わり、付き合い、そしてすれ違って行く必要がある。そんなこと、今更…分かりきった事、の筈。だったのに、避け様の無い波となって襲いかかる重圧に堪えられない弱い自我は知らず知らずのうちに…お前を、必要としていたのかもしれない。同じ、波を受けている筈のお前に。
それなのに、厭う事なく…傍に居て笑っていた。
そんな優しさに附け込んだのは俺だ。
そうやって学生から社会人になっても変わらない距離感に甘えていたんだと思う。やがて俺は研究の為に警察に協力要請をして…思う様な返答が得られない時期が続いていた。アリスはといえば、専業作家として駆け出しとはいえ、きちんと生活のサイクルが整うくらいには自立していた頃だ。
酷く追い込まれて疲れていた。ただの言い訳かもしれない、でも…温もりが欲しい、全てを優しく受け止めて欲しいと感じていたからこそ、なんとなく気まずい雰囲気の中でも留まり続けるアリスに心の中でしきりに「此処に居て欲しい」と念じていた。…反面。これ以上、傍に居て欲しく無い…きっと甘えからアリスに手酷い事をしてしまうかもしれない、だから「一刻も早く立ち去って欲しい」という矛盾を唱え、否応の無い危機感を覚えるほどに抑制しきれない自我を持て余していたのも事実だ。
卑怯なのかもしれない、こんな時、辛いとか、苦しいとか…うまく言えていたら、あんな風に堕ちていったりしなかったのかもしれない。でも、俺はそんなに…器用じゃ、なかった。
紡ぎだす言葉は極力抑えた。
零れ堕ちる声すら、いつもより熱の籠ったものになっていたかもしれない。
時折、アリスが見せる少し戸惑った様な表情がなによりソレを物語っていた。
避けるべき、タイミングに気が付いて居た筈なのに。
願い虚しく、アリスは部屋に留まり続け、何の悪戯か体勢を崩し温もりが手の中に堕ちて来た。もっとも、アリスの手を取ったのは偶然でも、視線を合わせ、熱を絡めたのは…間違いなく自分の意思だったと思うが。
「…アリス」
思わず零れた自分でも驚くほど熱の籠った声に…縋りつくように腕の中に居るアリスがそろそろと視線を合わせて来る仕草に箍が、呆気なく外れた。
きっかけは勢い。気が狂いそうになるほどの快楽に呑まれ…思うがままにアリスを蹂躙している間もアリスは何も言わなかった。拒絶をするどころか、酷く甘い表情すら浮かべ…錯覚をしてしまうほどの反応を見せた。
そう、甘い錯覚に犯されて「求められているのだ」と自惚れてしまうほど…全身で受け入れてくれたのだ。
だけれど、それが錯覚なのだという哀しい自覚は…どこかにきっとあったのだと思う。
狂おしく全身を支配していた熱が冷め、半ば意識を失うように眠りに付いたアリスの憔悴しきった青い顔を見て、急に我に返った時の恐怖。
俺は…何をした?
いくら拒まなかったからといって「親友」であるはずのアリスに…俺は一体、何をしたんだ?
「アリス―…!」
ぐったりと四肢を投げ出し、横たわるアリスの肢体には明らかなる情事の残滓が散っていて、呆れた事にその姿にすら込み上げるモノがあった。だいぶ無茶をして無理を…させたのだと思う。
幾らかマシになっていた思考の中で、取りあえず目のやり場に困るアリスの身体を清め、そうして寝かしつけたアリスの横で蹲り眠れぬ長い夜を過ごした。
あんな事をしておいて、隣でのうのうと眠れる筈も無かった。
優しさに附け込んだ、その訳を…アリスが目を覚ました時にちゃんと言葉にして伝えるつもりだったんだ。流されてくれたアリスにせめてもの償い、訳を話して距離を置くべきなのだろう、と。
アリスが望むのなら、なんだってするつもりだった。
決別さえ、覚悟した。
それなのに…臆病な自分の心が、言葉をどこかへ追いやってしまった。目を覚ましぼんやりとしながらも状況を徐々に把握していくアリスの前で、俺の口からは言い訳すら出る訳も無く、辛そうに…泣きそうな表情を浮かべて俺を見つめるアリスを見て、何かを言える筈も無い。
いっそ、口悪しく罵ってくれればよかった。
お前なんて金輪際顔も見たくないと、罵声を浴びせてくれて構わなかったのだ。
それなのに、実際に訪れたのは酷く現実的な朝。
…いつも通りの。
アリスは何も言わなかった。
そうして糾弾の時は去り、かわりに訪れた曖昧な関係が幕を開け、曖昧な境界線から踏み出したのか、踏みとどまっているのかわからない状態で…気が付けば5年と言う短くない月日が廻っていた。
あの頃とは、環境も違う。
作家として駆け出しだったアリスはそのポジションを徐々に安定させており、研究の一環として警察に出入りするようになった俺は、大学に置いても一介の講師から准教授という立場へと変わっていた。友人としては、相変わらずの俺たちで程良い距離感を保ったまま学生の頃と変わらない様な付き合いを続けていた。言いたい事、他愛も無い事、楽しい事、辛い事。差しさわりの無い程度には語らって、お互い負担に為らない場所に居るんだと思う。
変わったのは…その先にある、酷く不自然な関係だけ。
べつに合図が有るわけでもない。熱い視線を交わして…愛ある抱擁ともまた違う。きっと互いが求めあって、と言うのも当てはまらない。
なんとなく、…いや。触れるのは、いつだって俺からだ。
熱の籠った視線の意味に気が付くアリスがふいに瞳を逸らすのが…まるで合図の様で、よせばいいのに気が付くと俺はアリスに手を、伸ばしている。それはまるで、毒に犯されて中毒になっている様に。
どうしても、止められない。
変わってしまったのは、身体の関係だけでは無いのを知っているのに。伸ばす手を、どうしても抑えきれなかった。
それは、小さな、それでいて確かなシグナル。
手元の本に視線を落としている時、何気なく外を見て煙草をふかしている時、フィールドで犯人が残した矛盾や足跡を探している時。ふと目を向ければ交わり合うことの多かった互いの視線も、最近では一切絡む事は無い。意図して覗き込んだとしても気が付かないほど自然に…それでいて不自然に視線は避けられてしまうからだ。
その後に見せる…アリスの辛そうに歪んだ横顔に。
漠然とした何かを感じていたのは事実だ。
柔らかい微笑みを手放したアリス。
絡まなくなった視線の代りに熱を、躰を交わして…想いを通じさせる代わりに…態度すら擦れ違わせてきた。
そうやって変わっていく関係に…どれくらい目を瞑ってきただろう。
手に入れたものは仮初の温もり…では、失ったものは一体どれほどの意味があるんだろうか。
見えない振りをして、気が付かない振りをしてきた俺達に確かに警鐘は為らされていた筈だったのだ。追い込まれ、逃げ出して仕舞う前に…きちんと、させておくべきだったのかもしれない。
夢が…覚めてしまう前に。
残酷な現実が牙を剥く、その前に。
[The author:Emi] [2010年 03月30日]