過ちて改めざる、是を過ちという。
古からはっきりと格言にも宣べられていることだ。間違いは誰にでもあると言うけれど、その後始末をする勇気もなく、ただ惰性のようにしがみつく愚行はきっと許されるものではないのだろう。
火村の黒々とした虹彩に、逢瀬を重ねる度に何かが積み重なっていく。
ずっと何事かを訴えかけられているような気がする。
火村の弱みにつけこんだ罪悪感でその漆黒を正視できなくなってしまった私には、彼が何を伝えたいのかを見極められないでいる。訣別なのだろうか、それとも他の何かだろうか。何ひとつ答えを出せないままに、だけどその瞳がひどく真摯な光を湛えているようで、否応もなく終わりの予感を感じさせるのだ。
私はそんなことにはかけらも気付かないそぶりで、ただひたすらに鈍くて単純な『有栖川有栖』を演じ続けている。とんだ喜劇だ。だが舞台に幕を下ろすそのときが少しでも遠ざかるならば、私はいっそ道化のままでかまわなかった。
火村が何かを言い出そうとする気配を感じては、不自然なまでにそのきっかけを逸らしている。そんな逃避がいつまで通用するというのか。こんな風に避けるまでもなく、私たちはもうとっくの昔に破綻をしていたのかもしれない。
辛いのだ。ずっと不安だった。
火村とゆるく、深く口付けを交わす。抱きしめあって体温を分かち合う。それらが私にとって掛け替えのないひと時であることに変わりはない。偽りであったとしても構わなかった。好きだからこそ失いたくない。だけど好きだからこそ、いっそすべてを投げ出してしまいたい。
私たちは恋人もどきではあっても、決して真実の恋人ではないのだ。火村の恋愛に対して、私はなんら口を差し挟む権利など主張できやしない。誰と付き合おうが、いつか伴侶を紹介されようが、追うことはおろか非難することさえできないだろう。そんな自信はない。試すことも問うことも、愛されている確信があればこそ可能なのだと思う。拒絶になんて耐えられない。贋物でもいいから、少しでも長くこのままで居たいんだ。
そんな弱さと隣り合わせに、それでも私は気付いている。
こうなることは分かりきっていた。だから私はあの時、何があっても火村を拒まなければならなかったのだ。すべてを冗談に紛らわせたとしても、断固として。
愛しているからこそ間違えてはならなかった。
それでも迷路に足を踏み込んでしまったなら、自らの手ですぐにでも間違いを正さねばならなかったのだろう。恋とは別の大切なものまで無くしてしまわないように。火村という存在を、永遠に私の隣から失ってしまわないように。本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことなのだから。
でもこんなにも好きで仕方がないのに、どうやって自分から手を離せばいい?
なあ、火村。
高架をくぐる君と彼女の姿に、噴き出したのはそんな私の矛盾だった。
彼女はきっと火村に恋をしている。父親の無念を晴らした犯罪学者に、感謝以上の気持ちを抱くことに何の不思議があるだろうか。いや、違う。そんなことを考えるまでもなく、私には彼女の想いは一目瞭然だった。いつかの私と似た瞳をしている。まだ純粋に恋だけをしていた頃の私と同じだ。憧憬と信頼と恋情と。事件の渦中にあってさえ、そんなきらきらした何かを秘めていた。
火村が犯人を糾弾した日のことを、私は忘れない。
彼女はひどく複雑な瞳で彼を見た。
父の無念が晴らされた喜び、もう帰らない人を悼む嘆きと無念。憎しみや怒り。被害者の家族として当然のそれらと・・・そして、火村に会えなくなる悲しみ。まるで万華鏡のように覗くたびに姿を変えて、でもそれらすべてが紛れもない彼女自身だ。他の誰が気付かなくても、同じものを持つ私にだけは分かる。あの瞬間の彼女の表情。
一緒にいた火村は恐らくは覚えてもいないだろう。いや、その場にいた他の誰もが気にも留めなかったかもしれない。だが確かに閃いた、あの悲しみの色。喪失の痛み。私だけがいつまでも記憶の隅で抜けない棘のように持て余したままでいる。あんな瞳を私もしているのだろうか。
だけど彼女と私は違う。並んだ姿は、ひどくしっくりと馴染んだ光景だった。それが火村のあるべき未来の形だったからかもしれない。身を引こうとしない私は、彼が得るはずの幸福さえも奪っていやしないのか? 考えると、悔恨にえぐられるように胸が痛んだ。
あの夜、踏みとどまらなかったことへの自責と、こうしていつまでも逃げ続けている自分の弱さに居た堪れないほどの嫌悪が押し寄せる。いつから私はこんな風になってしまったのか。火村の気持ちを慮りもせず、ひたすらに自分のことばかりだ。
なんて、醜悪な。
ただ好きでいればよかった。十年近く続いた親友としての情愛と、気がおけない粗雑な優しさ。片側通行の想いは苦しかったけれど、あの頃は今のような不安などなかった。
欲望にはどこまでも際限がない。体から始まったまがい物の関係に、そうでない何かを、もっと違う精神的な交感をともなった何かを、私はいつの間にか望みはじめてしまったのだろう。欲張りは破滅する。それは昔話を紐解くまでもなく、人としての自明の理なのに。
眩暈がしそうだ。
でも失いたくない。過ちだったのだと簡単に過去にすることなんてできはしない。そうだ、怖いんだ。確かめることに怯えたままで経た時間は、もはや問いを発することさえできない現状を生んでしまった。真似事のような関係で、日々をずるずると過ごしている。
浅ましい。自分でも何をやっているんだろうと深刻な嫌悪を覚える。
火村への彼女の想いも含めて、確かなことなど何もない。物知り顔で邪推をして、違っていればこの上もなく無礼な所業だろう。火村にとっても彼女にとっても。だから、ちゃんと聞けばいいのだ。ただフィールドワークの後始末として事情を聞いていたのかもしれない。偶然出会って行き先が同じ方向だっただけかもしれない。
だけど、そうじゃなかったら・・・?
ずっと言い出しかねていたのだと、お前の上には心などないのだと、火村の口からはっきりとそう宣告されたなら? やっとお前から切り出してくれたと、ほっとした顔で別れを告げられたら?
嫌だ、怖いんだ。知らないままなら夢を見ていられる。愚かでも浅はかでもいい。一刻でも長く火村の傍にいたいんだ。
だから。
あの日から私は火村に連絡をすることができないでいる。
フィールドワークの誘いも締め切りを口実にやんわりと断った。約束していた外出も。情けなくも現実に背を向けて逃げている。そんなことは誰よりも自分が一番よく分かっているから。
どうかあと少しだけ、このまま目を閉じて居させて。
[The author:Ms.Aya] [2010年 03月30日]