夢のあとに Alice side -1-

はじまりに、明確な言葉はなかった。

当時火村はまだ一講師に過ぎなくて、警察に研究の足がかりを求めるべく、地道な努力を積み重ねていた。私はといえば専業作家になって二年が経ち、駆け出しとはいえ生活のサイクルがようやく整いつつあった。互いに夢や目標が現実に少しずつ近づいて、変わっていく環境に明言しにくい焦りを抱いてもがいていたように思う。何かから常に追い立てられている。そんな言葉がぴったりだったのかもしれない。

長いようで短かった二十代が終わりを迎えようとしても、私たちの友人としての絆が繋がっていたのは、もちろん努力をしたからだ。京都と大阪は遠くはないが、都合よく偶然に出会えるほど近い距離でもない。仕事上の関わりなど端からなかったし、多分、連絡を怠れば簡単に縁など切れていた。

火村が私との付き合いをどう考えていたのかは分からない。だが時間に融通のきく私の方から頻繁に連絡し、北白川まで出向いては酒を酌み交わしていた。・・・必死だったのだと思う。ほとんどのアクションは私からだったが、待っていさえすれば彼から連絡が入ったのだろうか? 自問しても答えを得ることはついにできなかった。結果を知るのが怖くて、私には待てなかったから。

確かなのは、そういった行動を火村が拒まなかったこと。

それだけだった。

もちろん一方的な友人関係だったのだと自虐的になるつもりはない。他人と距離を置きがちな彼が、理由と目的が逆転しているような誘いにも関わらず、可能な限りいつも受けとめてくれていた。余程外せない用事でも重なっていない限り、断わられることなどなかったように思う。それがどれだけ得がたいことかを、私はちゃんと理解しているつもりだ。

だが、あの頃の私にはそんなことを思う余裕さえなく、ただただ必死だった。

火村が、好きだったから。

学生時代には既に自覚していた恋心を表に出すことはなかったけれど、早い時期に私は引き返せないところにまで来てしまっていて、忘れることも、他の誰かを好きになることも諦めていたように思う。

ありふれた現実だ。

同性であることさえ無視してしまえば、片恋など世の中にはいくらでも転がっている。

想いを返してもらえるなどとは夢にすら思えなくて、それでも私は幸せだった。彼の恋愛対象にはなれなくても、気を許した笑みを見せてもらえる。言葉こそなくとも、私の生み出した作品たちをとても大事にしてくれている。そんな居心地のいい空気を失ってまで、当て所もない一歩を踏み出すつもりなど決してなかったのだ。

偶然のもたらした一夜を共に過ごすまでは。

火村、火村。

そうやってただ彼の名を繰り返す。皮肉げに笑う仕草や、怜悧な横顔。まくり上げたシャツからのぞいた腕に浮かぶ、骨と筋の流れ。脳裏に焼きついたさまざまな映像がよみがえっては消えていく。勝手に距離を置いているくせに、度し難いことだ。会えなければ会えないほどに、不在が続けば続くほどに、むしろ彼の存在こそが内側を占めていく。いつかあふれてしまったなら、私はどうなってしまうのだろうか。

なんて無様なんだろう。こうなることなんて最初から分かっていたはずなのに。

あおのいて、両手のひらでまぶたをしっかりと覆ってしまう。何も見たくないとばかりに閉ざした目を、ひと際ぎゅっと瞑って暗闇の中へと逃げ込んでいく。うたかたのような頼りなさをともないながらも、繰り返す追憶はどこまでも鮮明だった。息の仕方を忘れてしまったかのような苦しさにうずくまる。私は忘れたいのだろうか。それともなかったことにしたいのだろうか。もうそんなことさえ判断ができなくなってしまった。

あの日、彼はひどく疲れていたのだと思う。

はじまりに、言葉はなかった。

『火村、邪魔してもええ?』

扉の外からかけた声に、答えた低い響きはどこかいつもと様子が違っていた。

何があったのかは知らない。そんなとき、火村は何も語らないから。

いつもなら不自然でない程度に無駄話をして、早々に引き上げていただろう。必要以上に踏み込まないこと、保つべき距離感を見誤らないこと。それは恋に押しつぶされそうだった私が自らに課した、最後の戒めのようなものだった。

でもあと少し、もうちょっとだけでいいから。

疲労の滲む目元が心配で、せめてたわいない話で彼の肩から力が抜ければいい。そうできたならば、どんなにか幸せなことだろう。

いや、そんなのはただの言い訳だ。

私は結局、火村の傍に居たかった。・・・それだけだった。

抗うこともできずに彼へと向かう想い故に離れがたくて、一分一秒でもいいから長く隣に居たかった。どれだけ会いたくても学生時代のように毎日会えるわけではない。でも、会いたい。不自然でない程度におとなう間隔をあけるのに、どれだけ苦心しただろうか。

会社勤めの時分はまだよかった。時間の制約が明確になっている分、休日という口実があったからだ。自由に泊まることはできなかったけれど、かわりに次の約束もしやすかった。でも専業作家になって、スケジュール管理を自分自身でするようになって。極論すれば毎日でも会いに行けてしまう。執筆など大学の図書館でだって可能なのだ。

だが、そうする理由は?

『親友』に会うのに理由なんて要らない。だが、ただの友人がそれほど頻繁に顔を見せるだろうか。秘めた恋心のために私は些細なことに臆病だった。

いつでも会える。

それは翻ってみれば、互いの強い意思なしには叶わないのと同じことだと思う。近くに居るから、いつでも会えるから。そう言って結局は縁遠くなる関係なんて珍しくもない。なかなか会えないからこそ、人は次を大事にするのだろう。

休日という口実を喪って、それでも会いたいならどうすればいい?

帰り際にいつも考えてしまう。次はいつ会えるだろうか。どんな理由で誘えばいいのだろうか。どれだけ長く共に過ごしても、満ち足りることなんてないのは最初から分かっていたけれど。帰り道、火村の姿が見えなくなった瞬間から、もう会いたくなる気持ちをもてあましてしまう。いったい何度、歩いてきた道を引き返しそうになっただろうか。

まだ帰りたくない。ほんの少しでもいいから長くここに居たい。ただ隣に座っているだけでもいいから。多くを求めたりはしないから。

そうして、私は判断を誤ったのだ。

ずるずると別れを引き延ばして、半ば意図的に終電を逃した。火村も何も言わなかったから。泊まる理由を無くなってしまった電車のせいにして、私は浅はかにもそこに留まった。それでもいつもなら話し疲れるか、酔いつぶれるかして、せいぜい雑魚寝するのが関の山だったのだ。

だからきっかけは偶然だった。それは嘘じゃない。

適量を超えた酒が立ち上がった私の足を縺れさせて、火村が咄嗟に支えてくれようとした。そんなよくある触れ合いが、なし崩しに一線を越える導火線に火をつけたのだ。

『・・・アリス』

耳元で囁くバリトンに混じる熱に惹かれて、見上げた昏い瞳に刷かれた欲に心が一息で攫われた。だって好きなんだ。求められて、どうして拒絶することができる? そんな方法があるなら誰か教えて欲しい。好きなんだ。ずっとずっと火村が好きだったんだ。

今も思う。私たちは、どこで間違えたのだろう。

どうすればあの瞬間を回避することができたのか。

答えはない。いや、それとも最初から間違え続けていたのかもしれない。引き返すタイミングは何度もあったはずだった。

声がいつもより少し低かった。表情がわずかに乏しかった。口数が減っていた。シグナルは確かに受け取っていたのに。縺れるように倒れこんだときに笑い飛ばすことだってできた。組み敷かれてさえ冗談にしてしまうことも。ギリギリで嫌だとはね付けることだって。

そうしなかった理由は火を見るよりも明らかだ。

・・・そう、私は望んだのだ。

心が手に入らないなら、せめて器だけでもいいじゃないか。あの極限の状態でそんなことを願ってしまうほどに、私は火村が好きだった。彼がどうしても欲しかった。長い間、彼だけが好きだったから。

はじめて触れる肌の温度に戸惑ったのは、最初だけ。

後は溺れてしまいそうなほどの強いうねりに、ただ翻弄されるだけだった。指を絡め合い、広い背中に必死になって縋りつく。見つめることしか許されなかった彼の首筋に、手を伸ばすことを許されるその小さな悦びにさえ胸が苦しかった。愚かにも手に入れたのだと錯覚してしまいそうになる。今だけだから、一度きりのことだから。決して自惚れてはならないと自らに言い聞かせるその刹那にも、それでも今だけはと。この時だけは彼は私のものなんだと。そう考えるぐらいはいいじゃないかと、心のどこかでか細い声が囁いた。

折れてしまいそうなほどにきつく、それでもまだ足りないのだとばかりに深く抱きしめてくれる腕の力に、いっそこのまま時を止めてしまいたいとさえ願った。

止め処なくこぼれ落ちた涙の源は、いったいどこにあったのだろうか。

何もかもが幻のようで。ただ、熱かった。

火村が何故そんなことをしたのかは分からない。薄いばかりの友人の躰に唐突に欲情したわけではないだろう。彼の相手は常に異性だったし、その性癖を疑わざるを得ないようなそぶりは、十年になろうとする付き合いでも一度もなかった。友情以外の想いを感じたこともない。

酔いがもたらした好奇心だったのか、それとも仮初の逃避を望んだのか。

・・・ただぬくもりが欲しかったのか。

そうして一番大事なことを置き去りにして、私は形だけでもいいからと望んでしまった。魔が差したのだと弁明したくても、土台無理な相談だった。何度あの場面に向き合っても、私は同じ選択をしてしまうだろう。たとえ過去のどの時点に戻ってさえも。

流されたんじゃない。強いられたわけでもない。偶然ですらない。

私はただ、火村が欲しかった。

みっともなくても最低でも、それが事実だ。どれだけ目を逸らしたくても。言葉もなく無意識に、私は彼を誘っていたのかもしれない。

ひどく現実感の薄い白昼夢のような時間は過ぎて、翌朝、残ったのは後悔だけだった。きっと失う。醜い恋情が白日の下に晒されてしまう。目が覚めたとき、火村は既に起き出していた。後始末をしてくれたのだろう。気だるさと躰のそこここに残された小さな名残の他には、部屋のどこにも夜の痕跡は残されていなかった。

表面だけはいつも通りに映る朝。しらじらとした朝陽が虚しくて、友人の振りをして傍にいたことを糾弾される覚悟をして向き合った火村は、しかし何も言わなかった。

私も何も訊かなかった。

火村の沈黙は決して私の抱えた想いへの答えではなかったのだろう。彼が私に距離を置かなかった理由が同情だったのか、それとも一夜の責任か。友情の延長だったのか。結局のところそれさえも分からないままだけれども。

そんな風にはじまった関係は、やはりとても不安定で堪らなかった。

表向きは何も変わらない。これまでどおりの時間に恋愛もどきのやり取りが加わって、見た目だけは少しも違和感なく、だけど本当はひどく歪な形でふたり、時を過ごしてきた。恋人とも呼べない体だけの関係は、いったいなんと称すればいいのだろうか。頭に浮かぶ下世話な単語を否定することもできずに、私はただずっと見ないふりを続けている。

あれから五年。

手に入れたものと引き換えに、失ったものは何だったのだろうか?

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[The author:Ms.Aya]

[2010年 03月30日]