夢のあとに -Prologue-

それは些細な出来事だった。

火村を偶然見かけたのは、大阪駅の御堂筋口から阪急側へと向かう梅田の交差点。ニュースでよく取り上げられるそこは工事中のためにごった返していて、自由に進めないほどの混雑にうんざりと天を仰いだ時だった。見慣れた後姿へ反射的に声をかけようとして、不意に隣にいる女性に気付く。

華奢な躰。きちんと手入れされていることが一目で分かる、さらさらとした黒い髪。彼の肩ほどまでしかない小柄な背中は凛と伸ばされていて、隣り合った光景がやけにしっくりと馴染んでいた。

まるで、あるべきものがそこにあるとでも言うかのように。

胸にわだかまる小さな逡巡に口籠ったその瞬間、ぶつかってきた男から火村が彼女をかばった。自然な仕草だった。見上げて礼を伝えているのだろう。ほころんだ彼女の横顔はとても綺麗で、どうしてか喉の奥で声が凍りついた。

あれから、火村に連絡ができないでいる。

愚かなことだ。二人きりだったからといって、付き合っていると考えるのは早計に過ぎるだろう。何を気にすることがあるんだと理性は告げている。なのに携帯電話の履歴を呼び出す度に、どうしても発信ボタンを押すことができないのだ。

そもそも彼女が誰なのかを私は知っている。

中津で起きた殺人事件の被害者の娘だ。事件自体は一ヶ月ほど前に解決している。複雑な人間関係と動機、隠蔽しようとした犯人の思惑と関係者たちの利害が絡み合って捜査は難航したが、火村が大阪府警に協力を要請されてから丸三ヶ月、最後は初動捜査で見過ごしていた矛盾を准教授が指摘して、泥沼化しかけていた事件はあっけなく終結した。

例によって私も助手として同行していた。期間が長かったからすべての現場に足を運んだわけではなかったが、主だった事情聴取には立ち会ったので、関係者の多くに面識がある。特に彼女は第一発見者でもあったから、何度も顔を合わて話を聞いた。推理作家という職業柄も手伝ってか、相手側も私の顔と名前はすぐに一致したようだった。

父親を失った辛さや長引く事件の重苦しさを、どうにか吹き飛ばそうとでもしたのだろうか。奇しくも有栖川有栖の作品を以前から愛読していたそうで、捜査本部の面々と打ち合わせをしている火村を待つ間、手持ち無沙汰だった私にも気軽によく話しかけてくれた。人当たりは柔らかいけれど、きっと芯の通った人なのだと思う。殺人事件という有り得べからざる事態に直面してさえ、周囲に気を配り、きちんと背筋を伸ばせるほどの強さ。女性特有にも映るそのしなやかさが、今の私にはひどくまぶしかった。

声をかければよかったのだ。そんなことは分かっているのに。

火村と彼女が並んで歩いていたのだって、事件にまつわる用事でもあったのだろう。考えるまでもなく頭では理解している。なのに何故、こんなにも胸が痛むのか。

『火村』と名前を呼んで、彼女にも『お久しぶりですね』と挨拶をする。それだけで私が抱えている取るに足りない不安は、一笑に付して片付いていたのかもしれない。訊き損ねたことが割り切れないなら、今からだって彼に直接確かめればいい。

簡単なことだ。

『梅田になんか用でもあったん?』

そう軽く聞いてしまえばいい。その程度の質問、ただの世間話だ。電話でも五分もあれば事足りるだろう。それに多分、私には聞く権利だってあるのだ。

・・・仮にも付き合っている相手のことなのだから。

火村と私が恋人とも呼べる関係になって、もう五年が経つだろうか。今となっては遠い過去にすら感じられるはじまりの夜が、私の内側でまたリフレインする。何度も再生した記憶はそれでも擦り切れることはなく、思い出すたびに後悔してはひとり苦しんで、だけどどうしても投げ出してしまうことだけはできなかった。

火村。君は今、どこで何をしているのだろうか。

雑多な本に囲まれた狭苦しい研究室でいつものように、引き写しだと舌打ちしながらレポートの採点でもしているのだろうか。それとも住みなれた下宿で、婆ちゃんの淹れたお茶でも飲んでいるのかもしれない。もしくは甘え上手な猫たちを膝に乗せて、たまった専門書を片っ端から読んでいるのかもしれなかった。どれもが彼の日常だ。想像するまでもなくその姿が浮かぶ。

だがまぶたの裏に映ったのは、あの日の二人。

・・・もしかしたら。あんな風に私じゃない誰かと逢瀬を重ねてでもいるのだろうか。そんな埒もない思考の迷宮に囚われて、どうしても抜け出せないでいる。

『火村英生 090XXXXXXXX』

フラップを開いたままの携帯電話はすでにバックライトが消えてしまっていた。かろうじて読み取れる文字に、躊躇したままで過ぎていった時間の流れを否応もなく思い知らされる。

このままほんの少しだけ指先を動かせばいい。どれだけ離れていても、それで彼へと回線が繋がるだろう。心の距離は縮まらなくても声を聞くことならばできるのだ。

火村、火村。なあ、本当は会いたいよ。

会いたくてたまらない。だけど、君にだけは会いたくない。

液晶画面に沈む名前が、こみ上げてくる何かでぼんやりと滲んだ。

Next

素晴らしいprologueから始まりのコラボ小説は、絢音;絢さまとのリレー小説です!…絢さまの素敵で繊細な作品のファンのみなさま!!申し訳ありません。心情を分けて描くという形式のコラボとなります。僭越ながら絢さまの素晴らしい世界にお邪魔させて頂きました(汗)最後までお楽しみ頂ければ幸いです。

[The author:Ms.Aya]

[2010年 03月30日]