ああ、なんで。
気がつかなかったんだろうか。
ソレは絶妙なタイミングで…絶望を私に運ぶ。
ソレは銀色に光る…束縛の印。
「…あ、…」
思わず、漏れた声。
釘付けになった私の視線に気が付いたのだろう。火村のため息にも似た声が届く。
「…ああ、コレな。ま、けじめってヤツだな。そういや、コレを填めてから逢ってなかったな。…俺の決意を形にしたもんだ。大した効力を持つわけじゃねぇが、まあ、周囲には納得されたかな」
綺麗な指、大きくて男らしい掌に誇らしげに輝くソレをなんで…愛おしげに撫ぜるの?
どうして…、そんなに。
幸せそうに微笑むの?
どうして…?
それは…私に関係の無い、火村の世界の事、だ。
私は、…そこに、居る筈の無い。
彼の幸せの、話。
目の前に晒された絶望という幸せの証に…私は躰を置き去りにして心だけ、浮いていく様な浮遊感を味わっていた。そんな私に気がつくそぶりも見せず…辛辣にさえ聴こえる火村の言葉は残酷な破壊力を持って続けられていく。
「…はじめはかなり戸惑っていたがな。まあ、こうなった理由が理由だけにおいそれとは受け入れられない部分も多かったんだと思うよ。でもな、…後悔だけは、したくなかったんだ。たとえ薬を盛られていたとはいえ、煽られて…慾情したのは…自分自身だと思ったからだ」
ぐわん、ぐわんと警戒音だけがアリスの脳内に犇めいているのに、こんな時ですら…傍に感じる火村の気配と掛けられる心地よい低いバリトンに…紡がれる言葉は痛くても、嬉しさを感じ取ってしまうなんて。
ああ、なんで…こんなに。
こんなに…キミが好きなんだろうか。
「そこへたどり着くまで…悶々とした日を送って、アリス。お前が…最後通牒をくれて、腹が決まったんだ。確かにお前のした事は…まあ、有り得ない事かもしれないけれど今はもう、許せるよ」
どこか晴れやかにさえ聞こえる火村の台詞。
まるで免罪符のように私に投げかけられる君の台詞がこんなにも辛い。
赦せる…?
赦してしまうの?
心のどこかでは、…赦してくれない事が、私の存在を火村の胸に繋ぎとめておく為のたった一つの理由だと思っていた。
傲慢でもいい。自己満足でもいい。
それでも、私は君が思う中に居たかったのだ。
「赦すよ」なんて優しく突き放されたら…。
きっと私の心は救われない。救われないまま、囚われたまま。
どこまで私は堕ちていけばいいのだろうか。
頭で理解しても、感情はソレを受け付けない。
受け付けず、かといって破裂してしまう事も無く…ただ、そこから離れて逃げる様に遠くの方で怯えているだけ。
今は、…何も言えない、何も、言わないままで。
君の声を、声だけを聴かせて。
「…そこからの日々はあっという間だった。やるべき事が多すぎて、やりたい事は別のところにあって、その葛藤から逃げ出したくなるような毎日が続いていたな。相談、出来る様なヤツもいなかったしな。暫くは酷い有様だったと思うよ。…ばあちゃんにも迷惑と心配をかけっぱなしだった」
ふいに聴こえた以前は当たり前に私の周囲にあった言葉に、蘇る記憶と思い出が少しだけ感覚を呼び戻すけれど。当たり前の様に続いて行く現実を語る火村の言葉に、再度やんわりと突き放されていく。
「自分自身の人生なんてどうでもいい、そんな風に思って生きて来たのかもしれない。無意識のうちにこれから起こりうる全ての事に関して、諦めていたんだろうと思うよ。…あんな事が起こって、正確にはアリス。お前の2回目があってから、改めて自分自身に向き合って良く考える事ができたんだと…俺はそう思ってる。失うものも多かったが…俺は初めて自分の人生に向き合う事が出来たんだと…」
そうやって言葉を紡ぐ間も、指先は薬指のリングを弄っていて、その柔らかいまでの仕草に…火村が浮かべている微笑みが、堪らなく優しくて…未だ毛布を抱えているのに、全身に感じるのは寒さだけ。まるで血の気が…波が引いて行くように失われていき、全身を支配している悪寒だけが全ての様な深い、哀しみと…絶望。
失うもの…それよりも、自分を見つけて生きていく道を見つけた…?
失ったモノは…どんな意味を持っていたんだろう。
オレは…。
キミにとって、どんな価値があったんだろうか。
オレにとっては「全て」だったキミを…失ってしまったオレは。
「まったく、バカげた話だと思わないか?同じ様な事が2回あって、一方は生理的に勃たされて心から拒んでいたというのに、…一方では我を失いかける程、夢中になっていたなんてな。そうやって追い詰められないと…気がつかないことだってあるんだって事、身を持って実感したよ、アリス」
ふと、聴こえなくなった火村の声に…寂しさを感じて固まったままの躰から首をほんの少しだけ動かして声の元を探した。酷い表情をしている事はわかっていた。
でも、私との関係を失って…かわりに手に入れた安住の生活を幸せそうに話す火村には、もう二度と、私と相容れないのだと…わかっていたから。
わかっていた事だけれど、火村を永遠に失ってしまったのだ、と。思ったから…取り繕う事など無駄の様な気がして酷い想いを隠そうともしないで居た。
指先からはとっくに体温が逃げ出して、私の思考からは希望の文字が…消え去っていた。思い出も…これで辛いモノにしかならないだろう。思い出す度、これまで以上に私を苛み、そして…知らしめるのだ。
私が犯した最大の罪を。
ぼんやりと滲んだ視界に火村の姿を求めて動かした顔の先に、驚く位悲壮な面持ちをした彼が居た。
その表情は今まで見た中で…一番とも言える哀しい顔。
辛そうに眉を潜めて…何かに堪える様な、キミの顔。
ああ、私のせいだろうか。…そうなのだろうな。
先に間違いを犯したのは私なのに、まるで責められているかのように酷い表情をしている事が辛い思いをした火村にとっても…辛く哀しいのだろう。
辛いのは、火村の方なのに…私が辛そうにしているから、ソレを見せられる火村はもっと辛いのかもしれない。
ごめん、ごめん、ごめん…。
どうして、キミを困らせてばかりなんだろうか。
失ってまで、…どうしてキミを、苦しめてばかり、なんだろう。
オレは、…どうしたら、いいの?
Author by emi