辿るべき路-7-


目が覚める直前に見る、夢。


望みを反映する、夢。


とても残酷で、甘美な…。







夢ならば、甘く想いを秘めていたあの頃のまま想い出の中で火村は私に優しく微笑みかけてくれる筈。柔らかささえ滲ませたあのヴァリトンで…優しくアリス、と囁いてくれる筈。


私自身が後悔と罪の意識に苛まれているとしても。

夢ならば、私が本当に望む火村を見せてくれればいいのに。

「アリス」


夢の、続き…。



にしては、ドライでそっけない呼びかけに、ぼんやりとしたままだった思考がクリアになっていく。


クリアになった視界に飛び込んできた、その姿。

それは、紛れも無く…思い出に閉じ込めた筈の、火村、だった。


「なん…、なに…?」

混乱してベッドの上でうろたえるオレに向かって、何処までも無表情の火村が歩み寄る。その姿を、毛布を掻き抱いて…ただ、見つめていた。


なぜここに火村が居るのか。

…そして、そんな疑問など飛び越えた部分で勝手に心が喜びの声をあげている。この期に及んで嬉しい等という自分の浅ましさに…心底驚いた。

“アリス”と。

耳馴染みの良いバリトンが再び私の名を呼んでくれた事に…心が歓喜の声をあげているのだ。


自身を抱きしめ、固まってしまった私を見つめる双眸は…間違いなく長年傍にあった闇を孕んだ漆黒の瞳で、その全身から漂う洋煙は馴染みの香りで…どこか人を拒絶した気高いオーラは…私が愛した男のモノだった。


愛しているだなんて、おこがましいけれど。


「久しぶり…だな、アリス」
「え…、あ…?」

あまりに突然の出来事に置いて行かれた思考が、状況を理解できないと悲鳴を上げている。会えた悦びこそ上回っていたけれど、理解は出来ない状況。分からないのに、嬉しい。嬉しいけれど、理解できない。見つめる先で、優雅にさえ見える仕草で火村がベッドの端に腰を下ろす振動に、鼓動が高鳴る。


息が…出来ない位。


「別に…、この時期はいつも東京に来てただろ?学会の年収めでホテルのハシゴだからな…まあ、今回ばかりは面倒な事もあったけど」


心底面倒くさいといったニュアンスで話す火村に、自分が長い間悪い夢を見ていたかの様な気分にさせられる。だって目の前で話す様子はいつものままの火村だったし…あまりに変わらないその雰囲気に、振ってわいたような状況に…夢だと思った方が自然だと感じたから。


夢なら、よかったと。…思いたかったのかもしれないけれど。


でも。


驚きが呼吸をおろそかにして、呑み過ぎたアルコールが酸素を奪って…締め付けられる様に襲う頭痛がそれを夢では無く現実なのだと知らしめていた。




夢ではないと躰で認識したおかげで少し落ち着いてきたアリスは、改めて部屋の中を見渡して、其処がいつも連れてこられる作家の部屋で無い事に気がついた。雑然と共通項のないインテリアで埋め尽くされていた部屋とは違い、統一された色彩によって綺麗に整理された独特の雰囲気は…ホテルの一室のようだった。窓辺に居たのは、細く窓を開けて煙草を吸っていたからかもしれない、窓枠のところに置かれたままの灰皿と見慣れた箱が置かれていたから。

…その香りがアリスの意識を、浮上させたのだろうか。


「…なんか、飲むか?」
「え、あ、…水、でええよ」


火村、と。

呼びかけた、筈なのに。何度も擦り切れるほど呼んだ名前が急に出せなくなる。

何故だか、呼んではいけない気がして…声が、出せなかったんだ。
おかしな話だ。

こんなにも当たり前に話せているのに、名前すら呼べない。


いや。

名前を呼ぶことが出来ないのが、当たり前なのだ。



こうして、普通に会話が出来る事こそ、有り得ない筈なのに…。

私たちはあまりにも近くに居過ぎた、ただそれだけだ。


普通に会話が出来ている事に自惚れてしまわないようにと、自身に強く言い聞かせる。

私は未だ、いや。未来永劫、許されざる罪を犯したのだから。


それなのに。必死で律する自分をあざ笑うかのように口が会話を続けてしまう。


「なんで、オレ、ここにおるん?」
「ああ…?酔っ払って電話掛けてきたのはお前じゃねぇか。たまたま東京に来てるって言ったら押しかけてきやがって…挙句に寝ちまいやがった…、ほらよ。水」


え…?

ぽんと放られた水のペットボトルは綺麗な弧を描いて私の右側へ埋まった。

いつもように、いつかのように投げられたソレを受け取れなかった。返ってきた答えの衝撃に動けないで居たからだ。

…なんだって?電話を掛けた?

「ったく、アリス!呆けてんな…?参るよな、まったく」

傍らに落ちたボトルを拾おうともしない程固まったままの私を見て、呆れた様な火村の声が耳の遠くで聴こえる。

ほら、と拾ったボトルを差し出されて反射的に受け取ると、ほとんど無意識にキャップをひねって水を流し込んで嚥下した。


「…それ、ほんま?」
「え?ああ、電話?嘘だったらここにお前が居る理由を説明して欲しいね。それも俺が納得できる形で、だ。そうだろ、アリス」


酔って電話した…?私から?
事もあろうに…火村に?


にわかには信じがたい事由だったが、それでも火村の言うとおりソレ以外に私がここにいる納得できる理由など…思いつきもしないし心当たりもなかった。でも、一緒に居た筈の彼はどうしたんだろうか。いい加減、愛想を尽かして放っておかれたのだろうか。…だから、寂しくて火村に電話してしまった…?

深酒が齎した曖昧な記憶によって疑問ばかりが頭の中で渦巻くが、考えても、考えても、答えはちっとも見えてこない。それどころか益々、曖昧模糊としていくばかりだ。

彼の行方を火村は知っているのだろうか。ふと、そう思いついて傍らに立ったままの火村を仰ぎ見た。


「なぁ…おれ、独りで来た?誰か、おらんかった?」
「…ああ、なんとか言う作家だろ?お前を置いて戻ったぜ。…というか、アリス、お前…」


「なに…?」

すぐ近くに立ったまま、じっと私を見つめる火村の視線がやけにまっすぐで居心地の悪さばかりを感じて目を逸らしたまま、手の中のペットボトルに描かれた蒼い山ばかりを見つめていた。


ああ、あんな仕打ちをしておいて酔ったとはいえ、電話なんてかけて…あまつさえこうして迷惑をかけるなんて。どれだけ自分を貶しめればいいのだろうか、…これも、罪を犯してしまった私への罰なのだろうか。それは本当に一瞬の間、だったかもしれないのに、まるで刑の執行を待つ様な緊迫感を感じて呼吸さえ、辛く居た堪れない。


そして投げかけられた疑問に、さらに悶える事になる。

「…アリス、お前、そのシャツ…。いつかの、オレのシャツ…だよな?」
「…え?」


それは、置いて来た筈の鍵とは違って唯一、持ち出していた…火村の香りがするものだった。

染みがついて汚れてしまったから、という書き置きをして新しいシャツを代わりに置き去りにしてそっとかばんに詰め込んだ、…火村のシャツ。


キミの…匂いがする、シャツ。

女々しいと思った。

何度も止めようと思った。

捨てようと、思っていた。


でも…。


君の香り、思い出を…どうしても、手放せなかった。



「あっ…、これ、あの…違う、違うねん!汚れ、付いたから新しいの、置いてきたんやけど…ほら、勿体ないから、な。着てるだけやねん」
「…アリス」



ああ、どうか。

どうか、これ以上…、何も起こらないといい、何も…私を追い詰めなければいいのに!それでも、慌てふためいて言い訳をする私はどんなに滑稽だったろう。火村の着ていたそのシャツは…普段着る様なカジュアルのシャツでは無い。サイズすら…逞しい体躯をした火村と私とでは明らかに違っているにも関わらず、だ。

ソレを後生大事にしているのみならず、…身につけて、いるなんて。


さぞかし…。

視線を合わせる事でおかしい私の行動を咎められるのが怖くて、俯いたままで火村の顔を見る事が出来ない。手にしたペットボトルの中身が震える掌から伝わる振動で水模様を刻んでいるのを必死で隠そうとして、…指先が冷たくなるほど掌を握っていたらしい。

「アリス、離せ…」

呆れた様な火村の声が耳元に響いて、身を、竦めた私から有無を言わさず…でも優しい掌がボトルを抜き去っていった。

その、左手の…薬指。

填められた…所有印に。


目眩が…する。

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Author by emi