いつも笑って居て欲しい人っているじゃない?
いつも笑っていられるほど強くないって分かってるけど。
それでも、少なくとも俺の前では笑って欲しい。
わがままでしょ?
俺って、わがままなんだよね。
初めて逢ったのは…確かうちの出版社主催のパーティーだったかな。
年忘れの労いの席だったかもしれない。
…あまりよく覚えていないけどね。
本格的なミステリを書くから、どんなごついおっさんが来るのかと思ってた。でも、現れたのはやけに白くて細い、頼りない見てくれの若い彼だったんだ。
…正直驚いたね。
その文章にはあまりにも似つかわしくない…柔和な雰囲気にさ。
信じられないってのが第一印象だったかな。
それでも、話してみると…ああ、なるほど、と思わせるだけのヤツだったけどね。しっかりした物言いと、以外に幅広い知識に気がつけば時間も忘れて話し込んでいた位、おもしろかった。…時たま外れる話の筋も、なんというか不思議と人を惹き付ける様な魅力を持っているんだと思う。
何時会っても、…代わりの無い屈託の無い笑顔で話しかけてくれた。
その裏に何の闇を隠しているのかは分からなかったけれど、時折見える陰の様な尻尾すら彼の魅力のひとつに過ぎなかったよ。
その尻尾を追いかけて捕まえてみたいけれど、柔らかい微笑みを絶やしてほしくないというような不思議な気分にさせてくれる、そんな人間。
その彼が、東京に居るっていうのを小耳にはさんで飲みにでも行かないかって誘ったんだ。何度も断られたけどね。あまりにしつこく誘うから、仕方なくって感じだったけど、アイツ優しいからさ。
久しぶりに会えるってらしくもなく嬉しくて。待ち合わせた店、奥に座った彼の姿…あまりに違う雰囲気に驚いた。
陰の濃くなった表情に掠れた様な柔らかな微笑みが…今にも消えてしまうんじゃないかと思えるくらいに儚く見えて、とても同じ人間が出す雰囲気とは思えなかった程やつれていた。元々が細かった痩躯が更に細くなっていて、可哀想な印象さえ受ける華奢な手首なんて攫んだら折れて仕舞いそうな程骨がむき出しになっていたんだ。
何かあったんだろう、と…当たり前だけれど、そう思った。
そうでなければ、壊れてしまいそうな危ういバランスを保った瞳はもっと温かい色を備えていた筈だし、自然と赤みを帯びていた口唇は…あんなに蒼白である筈が無いからだ。
闇が、…溢れて彼を覆ってしまったかのような豹変。
少しでも溜め込んだ闇を吐きだしてしまえるようにと、やや頻繁かと思えるくらい外へ連れ出す誘いを掛けた。はじめは億劫そうに断られる事も多かったソレも、機会が増えるにつえ、徐々に乗ってくるようになった。
そうして、…彼の囚われたままの闇を、知った。
「おせっかい、…焼きたくなるんだよなぁ。つい…」
今夜もいつもの様に、波に呑まれた様に穏やかな寝息を立てる有栖川を見つめて拾われない独り言を呟くと、目元に留まった、まるで降り注いだ雨の様な一粒の滴を掬って拭ってやる。小さく身じろぎする仕草を不憫に思いながら鳴らない携帯を開いて…ため息を吐いた。
今度こそ、笑ってるお前と飲みたいよ。
ぐるぐる、と、ゆらゆら、が同時に襲いかかっている。
そんな思考の波間に溺れそうになる感覚を厭うて急に目が覚めた。
細く差している窓からの光りに、徐々に目が慣れ其処が知らない場所である事に気がつく…が。アルコールが未だ抜けない頭でぼんやりとした思考では、知らないけれど、知らない事に対しての不安や驚きといった感情が伴ってこない。
よって…沈む様な躰を動かす気にもなれず、誘われるまま再度、波間の待つ無意識世界へと身を浸していく。
「…ん」
するりと滑るシーツの感触が存外心地よくて、顔を埋める様にして毛布に潜り込んで収まりのいい位置を探す。その、鼻先に。
ふと、薫る…、あの懐かしい匂いがしたようで。
「…っ」
夢の中にまで巣食っている思い出の幻想に、起きぬけの脆弱な思考はあっさりと白旗を上げた。
「ふ…っ、く…、ぁ…」
たちまち溢れだした涙を必死で堪えるも、喰い縛った口元からは嗚咽に近い声が漏れ、流れ落ちないようにと瞑った瞼の淵からは温かい液体が溢れる。
こんなときにまで、不意打ちの様に襲いかかるキミの思い出に、あとどのくらい堪えればいいのだろう。
すれ違いざまに薫る煙草の香りや、よく似通った面影のシルエットに、あとどのくらい怯えて過ごせば…居た堪れない哀しみから解放されるのだろうか。
思い出は、薄れていくモノ、なのに…。
ちっとも薄れていかないキミの気配と抱え込んで色あせない思い出と気持ちに…終止符を打つ事すら許されないのだろうか。
許される…?
ソレは都合のよい、言い訳にしかすぎないのに。
本当は、赦してなんか…欲しくないのだから。
ぎりり、と噛み締めた奥歯から激しい後悔と…苦い思いが込み上げる。赦さないで欲しい、そう願っているのは私のエゴだ。
願わくは、私がキミを抱えて生きている様にキミも…私の事を赦さない代わりに忘れないで…埋没させないで覚えていて欲しいとすら…思うのは。辛くても哀しくても、思い出の中に私が居る、その事実を否定しないで居て欲しいと思うのは、きっと都合のよい私のエゴなんだろう。
その、罪を…。
こうして毎朝、毎夜、受けているのかもしれない。
消えぬ拭えぬ罪を犯して、…傷ついていた筈のキミを掬うどころか更に深く傷つけて。その現実から目をそむけるように逃げ出してきたのは…他でもない、私自身なのに。結局は他の誰かに縋る様にして、与えられる温もりや優しさに甘える様にして…罪の意識が薄れ行くのをただ、待っているだけじゃないか。
なんて…。
なんて、都合のよい…自分勝手な後悔なんだろう。
そう思って自問自答を繰り返しては襲いかかる闇に呑まれそうになって、…代わりに波に呑まれる事によって自衛しているのだ。バカバカしいほど、…生きている。ソレを実感させてくれる。
「…はぁ…」
いつまでも覚めない夢に溺れそうになりながら、ふらつく頭をなんとか支えて躰を起こすと光の射す窓辺に…佇む男の陰を見つけて、自分のいる場所に思い当った。
ああ、ココはきっと彼の部屋なのだ。
呼び出されて飲む店は、決まって何時も彼の住む部屋の傍だった。そして、飲み過ぎて寝入ってしまった自分を抱えて連れて帰ってくれるのは…この部屋に住む作家。
目が覚めて後悔して恐縮する私に、痩せてるから担いで帰るの、別に苦じゃないよ〜、なんていつも軽く笑っているけれど。
一度、だけ。
彼は私を抱きしめてくれた事がある。
ただ、幼い子供が泣いているのを慰める様にぎゅうと、優しく力強く背を撫ぜて。
…でも、その男らしい体温に。終わらせた筈の火村との記憶がフラッシュバックして。
堪えられなかった。
両手を拘束して…いや、たとえソレをしていなくとも火村は私の背中になど手を回す筈も無かったが…優しく背を撫ぜる掌の感覚を知らなくて、与えられなかった火村からの愛を思い知らされる様で、どうしても堪えられなかった。
その体温が耐えられなくて、パニックを起こした私をそれでも彼は優しく慰めてくれた。
…決して手の触れない距離で、優しい言葉でもって。
その出来事があってから、彼はベッドを私に譲ると離れ、傍に居る事はしない。
…体温を感じる距離に、入ってこないのだ。
ベッドを私に譲っていつも彼が眠らずに座ったままなのを知っていたから…だから彼なのだろうと、思った。
佇む人影はちょうど朝日の射す方向、アリスの位置からは逆光になっていて良く見えなかったが、窓枠に掛かるほどの長身は憂いを帯びたシルエットをこちらへと向けて黙ったまま。半身を起したアリスを見てすっとその身を翻してこちらへ向かって歩いてくる。
ゆっくりと…、足音も無く…。
ふわり、と。
鼻腔をくすぐる懐かしい香りが届くのと、声が…届くのが。
「…アリス」
一緒だった。
Author by emi