時がいつか解決をしてくれるよ。
遠い記憶の中で、幼い君が笑った。
東京に暫く留まって新作の長編を書き下ろす、と申し出た私を温かく迎えてくれたのは長年の付き合いになる片桐さんと、…同じ出版社でお世話になっている作家仲間であった。
家具家電つきのマンスリーに籠り、ひたすら繭を紡いで…そして思い出と決別しようと万端の準備をしてきたはずなのに、いざ籠ってしまうと波の様に押し寄せる思い出に囚われて見動きすらままならなくて…。はじけ飛びそうなぎりぎりの精神を感じ取った彼らが適当に構ってくれた。
…その温もりに徐々に穏やかな時間が訪れ始めては居たけれど。
それでも、後悔と反比例している食欲と…睡眠を蝕んでいく夢の訪れに。
ほんの少しだけ、痩せたかもしれない。鏡の中の自分を見るのが…怖いくらいには。どこか思いつめた様なやつれた表情を晒して始終振りきれないため息を纏っていれば…誰だって不審がるだろうな、と思う。…でも。
だからといって明るく果てしなく前向きに生きていく事は…未だ、出来ない。
人は、…もっと脆いモノなのだと思っていた。
けれど、通り過ぎてしまえば身に起きた出来事のほとんどは思い出となり、そしていつかは儚く薄れていく。身を焦がすような強い想いも、時間が経てばやがて薄れゆくのだろうか。
…アリスには未だソレがわからなかったけれど、でも。
生きていけない訳では無い。
失ったらどうにかなってしまう、そう思っていたキミに逢えなくなってから季節は巡りはじめたけれど。
キミが話していた小気味の良いイントネーションに包まれた地で、ちゃんと生きているから。
『アリス』
そう呼ぶ人は居ないけれど、名前を呼んでくれる人が居ない訳ではない。
…ほどほどに外へ出て笑っていられる様に気を使ってくれる誰かが居るからだ。
「よぅ、センセ!なんか元気なくない?」
「…センセはやめ、言うとるやろ」
待ち合わせのカフェバーで軽快な空気を纏った長身の男がにやにやと薄笑いを浮かべて近づいてくる。
見慣れた姿に、軽く手を挙げて答えた。
そのままするりとスマートな仕草で隣の席に着くと「あ、オネーサン!ギブソン!よろしく」とメニューも見ずに頼んでいる。
「ま、駆けつけ一杯、って事で。何、今日はこんなモード?…ブラッディ・マリーって有栖川、トマトジュース嫌いじゃなかったけ?」
「嫌い…だからや。好きなもんやと頼み過ぎて飲み過ぎてしまうやろ?」
へぇ、と相変わらずの薄笑いを浮かべたまま、ほどなく届けられたグラスを手に軽く献杯してくる男に同じようにしてグラスをあげた。
「じゃ、有栖川の脱稿記念に、乾杯☆」
チンと透き通った音に汗をかいたグラスを少し傾けて紅くとろりとした呑みモノを口に含むと、独特の香りが鼻を抜けていく。やがて咥内に広がっていく酸味に、僅かに眉を潜めた。
ほんの僅かなその行為を見咎めたらしく、くつくつと笑いを含んだ声が掛けられて今度こそ盛大に眉を潜めてやった。
「苦手ならやめときゃいいよ、それか…エル・ディアブロなんてどうよ?」
「…テキーラ、あんま得意じゃないねん。ついでにいうと、サムも苦手や」
「へぇ、そう?ジン飲みやすいけどなぁ…なら、バラライカは?ちょっと冒険してホワイトレディなんてのもある。有栖川に似合いそうじゃん?」
いつもこいつと飲みに行くと、ぶつぶつとお勧めを言いながらこちらが頷く前に勝手に頼んでしまう。その鮮やかとも言える強引さで、手の中のグラスはいつの間にか変わっている事が多かった。
豊富な知識と確かなセレクトにいつだって飲み過ぎてしまうのだ。
…結果、言いたくも無い愚痴ばかり零してはあくる日の朝、後悔している。
でも…。
ふうと無意識に吐いたため息に、私の後悔を感じ取ったのか、それまでの薄笑いとは違う柔らかな微笑みを浮かべて紅いカクテルを奪っていく彼に申し訳ない半面、とても救われている気がしていた。
…気のせいでは、無いのだろうけれど。
「いいって、有栖川。俺でよければ吐きだしちゃいなよ、溜まってンのは躰にも良くないぜ?イってすっきりしちゃうのがいいんだよ。ほら、ブラック・ルシアン。有栖川、確かコーヒー好きだよな?」
「…ありがと」
辛うじて呟いて手の中に収まった背の低いグラスには、茶色い滑らかな色をした液体が注がれていた。
口元へ運ぶとふわりと薫るウォッカの匂いと…嗅慣れたカフェインの甘い香り。その香りに早くも胸の奥からきりきりと締め付けられるような感覚に襲われる。
どちらかと言えば紅茶党の私。コーヒーが…好きなのは、火村の方だ。カフェイン中毒にも似た頻度で温いコーヒーを飲んでいた。
ただ、それだけ。それだけ、なのに。
キミを忘れようと、気持ちを振り払おうと思い出の少ない東京に出てきて半年近くになるが、その生活は依然としてあまり変わり映えの無いモノだった。
無意識レベルで染みついたキミの気配が多すぎて何をしていても、誰と一緒に居ても…どこにいても。要所、要所にキミの香りを見つけてしまうのだから…ソレは病魔の様なモノだと思う。
自分では気がつかないうちに拭いきれない深い部分を蝕んで、やがてソレは全身へと広がっていってしまうのだろう。
「…ほんま、どうしようもないなぁ」
脳内にも廻ったアルコールが邪魔をして私が抱えている後悔の何処までを彼に話したのか、まったく覚えなど無かったが…いつだって彼は何も言わなかったし何も聞かなかった様な気がする。ただ、ただ、オレが零す致し方の無い後悔ばかりを聴いて頷いて…隣に居てくれるだけなのだ。
その踏み込むわけでもない、突き放す訳でもない程良い距離を保った温もりがどんなに私を救ってくれているのか、言う由も無い。
…独りでは、無いのだと。
忘れない様に刻みこんでくれるから。
「どうしようもなくて、いいんじゃない?…そんなもんでショ、きっと誰だって。だから…コレがあるんじゃないの!ほら、俺なんて元が医療用アルコールなんかで利尿作用を高めてちゃっちゃと吐きだしちゃってるんだよ?一種の医療行為だね、まさに。…心だって、気持ちだってさ。時には療養必要ってことでショ」
うっすらと浮かべた微笑みの下で何を思うのか知らないけれど、そうやって何時もギブソンを呷って嫌なことまで流してしまうのだそうだ。
口に含んだアルコールをくっと嚥下して…喉元に留まっている、もやもやとしてささくれ立った何かを飲みほして吐きだしてしまうのだろうか。
器用、なのだと思う。
そうやって身に降り注ぐ避けようの無い現実をうまくあしらって波に呑まれない様にして…それでも逆らわない強さを持って生きているのだろう。
…羨ましい、限りだが、今はその彼の強さの様なものに半ば縋りついてやっとこの場所に立っている気がする。
嚥下する傍から手の中の液体は色を鮮やかに変え、香り立つ匂いすら万通りにも変化して私を惑わせるが、惑わせながら…確かな安らぎへと導いていてくれるのだ。
「…ひむ、ら…」
呟いた声に答えるキミはいなくとも、そっと優しい温もりをくれる誰かが居てくれる。
私は幸せモノなのだと思う。
…だって、こうして立っていられる。
支えが必要なのだとしても、未だ、立っているから。
Author by emi