辿るべき路-4-






疲れを滲ませて…それでもどこか穏やかに眠る。そんな君の寝顔をずっと見て居たかった。

ずっと変わらずに、傍に居たキミを。

これからも変わらず見つめていられるのだと…錯覚していた。





これで、最後だから、と自分に言い聞かせてそっと頬を撫ぜると、嫌がる本心に背いて部屋を後にする。

すでに荷物は送っていた。後は簡単に後始末をして書き置きを残すだけだ。


望まない手段で拘束していた火村の手足は見るのも辛い位に鮮やかな傷を付けていて、出来るだけ痛まないといい、そう思い慈しみながら手当をすると、覆い隠す様に包帯を巻いた。薬の効果で起きる事は無いだろうが、それでも最深の注意を払ってベッドを整え、乱れていた着衣は脱がせるときちんとプレスをしてハンガーにかける。


…シャツだけは、血の染みが付いてしまったから、と書いて新しく用意してあったモノを一緒にして置いた。


シャツの買い置きが出来るのはサイズを知っているから。…そのくらい、傍にいたから。


何をするにも火村と過ごしてきた時間、私たちのあまりにも近い距離を感じてしまう。

それは、酷く優しくて…残酷な現実だと思う。


何度目になるか分からない溜息をついてアリスは寝顔を見つめていた。

火村が気づく気配は、無い。


それで、いい。
きっと、ソレが、いい。



幾日も前から計画していた事だった。

このまま火村が結婚してしまうなんて、信じられなくて。受け入れがたい現実をやっと正面からとらえる事が出来た頃、諦めきれない自分の気持ちと決別する為に…あってはいけない、そしてきっと間違っている計画を立てた。彼女と同じ事をして、憎まれて…嫌われて。そして、火村から離れようと決めたのだ。


離れる…?

それは勝手にアリスが想っている事で、火村にしてみればまったくもって理解しがたい事なのかもしれない。

それでも、ひた隠しにしてきたけれど、ただの友人の域を超えたもっと深い部分で二人は繋がっているのだと…勝手に思っていた。

少なくともアリスにとって火村は…かけがえの無い大切な人、だったのだ。その大切な人が、自分自身の人生に対して、どうでもいい、なんて…あまりにも辛い。今までにも、火村は度々自虐的な事を言ってきたけれど、その度どれだけ投げやりな言葉を吐いても堪えてこられたのに。降ってわいた、いわば災難とも言える出来事を回避するでもなく、淡々と受け入れてしまうスタンスに…アリスの気持ちが暴走した。



人の心は、思っているよりもはるかに脆弱で…傲慢なのだと思い知った。


なんで…、なんでなん?
そんな、どうでもええなんて、じゃぁ、どうして…。


オレじゃ…ダメなん?



こんなことで、他の誰かの意思によって火村を奪われてしまうくらいなら、自分の意思を以て火村を失った方がいい―そう思った。単なる言い訳にしか…過ぎない事は一番自分が知っているのに。

でも…。


失うなら、せめて…一度だけでも。その温もりに触れたい。





その計画を実行に移せば、火村との縁はあっけなく切れて消えてしまうだろう。火村に逢えないのに、そこかしこで火村の気配を感じるこの部屋で、このまま穏やかな毎日を過ごせるとは思えなかった。

だから、思い出を、思い出として封じ込めるために暫く東京へ行くことを決めた。マンションの部屋はそのまま残すことにして必要最低限のモノを纏めて新しく借りた東京の部屋へと送り、住み慣れた夕陽丘の部屋を綺麗に、念入りに掃除して…そして。



がらんとした空虚な部屋に立って…急に怖くなった。


いつもの部屋。

見慣れた家具もカーテンも、全ての物がどこかでアリスを拒絶している様に見えたから。


…火村が寝ていたソファも。
眠そうな顔をして新聞を手にしていたダイニングも。


なにも、かもが…火村を失う事を拒絶している様に思えて。



…いやや。
こんなん、いやや!

譬えその計画を実行してもしなくても、火村という男を失う事に変わりはない。ただ、一度きりの温もりを選んで思い出を抱えていくか、逢えない事を厭い他の誰かを傍に生きていく火村をただ見つめていくのか、選択肢はたった二つしかないからだ。



…そのどちらにも、アリスの隣に火村は…居ない。
譬え一緒に居る事はあっても、心に添うのは…アリスでは無いからだ。



やめよう。

主生活の基盤を移した空虚な部屋で、独りそう思った。…その時。

胸のポケットで呼び出しがアリスを現実へと引きもどした。震える指先を叱咤し、何とか取りだした携帯。映し出されるディスプレイの「火村携帯」の文字に何度切ってしまおうかと思ったか。それでも、切ってしまえる程の勇気も無くて、冷たくなった指先で通話ボタンを押すと、耳に馴染んだバリトンが届く。

『アリス…?今現場に向かっているんだが、来るか?』

いつもと変わらない言い草。火村の言葉に、おかしいくらい血の気が引いて行くのを感じて、発する声が震えない様に努めて冷静な声を出すのに必死だった。冷たく震える指先で携帯を落として仕舞わぬように…ぎゅうと握りしめた。

『ん〜、今日はパスや。すまん』
『…そうか、わかった。また、掛ける』

「…っ」

声は、震えていなかっただろうか。
うまく、話せていただろうか。


たった、一言。

短い言葉を残して電話は切れて、耳に残った火村の声がいつまでも離れていかなくて、切れた電話を握り締めて座り込んでいた。また、掛ける、の一言に。居た堪れない絶望感を感じて。



「…火村」


届かない自分の声は、きっと永遠に届かないまま。諦められない自分の弱さに未来永劫囚われたままだ。それでも、キミを、諦めるなんて…出来そうにない。


ぐぅっとせりあがってくる哀しみ苦しみの重たい圧迫から逃げ出すようにアリスは部屋を飛び出していた。

…染みついた煙草の薫り。

脳裏に焼きついたままのたくさんの君の記憶に、堪えようにも涙が溢れてどうしようもなかったから。


そうだ、思い出も何もかもから逃げて、このままどこかへ行こう。

ふとそう思って電車に乗った。

京都方面へ向かっていたのは無意識だったかもしれない。


けれど、もう一度、キミと過ごしたあの街並み、あの道を歩いて、それからキミの居ない知らないところまで行こうと流れゆく車窓から見える景色を眺めていた。


あの日、出逢わなければよかったのかな…。


キミを知らないままでいられたら、こんな思いはしなくて済んだかもしれないから。

…でも、それでも、キミが隣で笑ってくれていなくても、二人で過ごしてきた時間まで、否定する事なんて出来そうにないよ。



二人で電車に乗った事もある。
吊革の上、一番高いバーに捕まった君の綺麗な掌を飽きることなく見つめていた。

窓の外に流れる鴨川のヘリを散歩した事だってある。ちょうど、キミが大学に残る事を決めた時だ。

いつかは、最年少の教授に、なんて言いあって二人で笑ったよな。


いつだってこの道を辿る先には君の香りがしていた。いつから、だろうか。君に逢いに行くオレの胸が締め付けられる様になっていたのは。…わくわくとすら、していたのは。


キミを、…大切に思う様になっていたのは。



持てる意識のほとんどを思い出に飛ばしながら、ふらふらと通い慣れた道を歩くオレに、神様がくれたのは残酷なまでの偶然と避けようの無い…最後通牒だった。


『…アリス?』
『…え?』

『…アリス、お前、何してんだ…?』
『あ…、偶然…、用事があって…も、帰るとこや、から…』

『…そうか。帰るなら送ってやるよ』

『やって、君、此処京都やで?…そのまま、帰ったらええやろ、俺は大丈夫やから』
『…車を取りに行くから一緒にこい。アリス、…頼むからそのままで独り帰るな』

思い出の中で火村の声を聞いていたオレに、差し出された皮肉な運命にどうして抗えなかったのだろう。…どうして、諦める事が。出来なかったのだろう。

その手を。拒む事も…振り払う事も…。
どうして出来なかったんだろう。






寝室の扉は軽く音なく開いてアリスを吐きだす。扉が閉まりきる寸前、もう一度だけと自分に言い訳をしながら寝入る火村を見つめた。ずっと、隣で見つめてきた大切な人だ。
…大切な、人、だった。


これからも。…アリスにとって、一番大切な人。


リビングのテーブルに手紙と小さな銀色の鍵を置く。

ひとつ、深呼吸をしてからそっとその背を撫ぜた。冷たい、無機質なソレに思いのたけを残していくかの様に。

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Author by emi