ばかな、女が、居た。
バカな女だと、すぐに分かった。
ろくでも無い女だと分かっていたのに、避けられなかった俺が悪いのだと言う事も。
アイなんて、ある筈も無い。
それでも…。
「子供が出来たわ。あなたの子よ。…わかるわよね?結婚、してちょうだい」
至極当然の権利を主張していると、勝ち誇った笑みを浮かべ女が言い放つのを、どこか他人事に捉える冷えた心で聞いていた。ああ、してやられた―、と。だから、なんだ、と心のどこかで感じていた事も事実だったが…大半はどうでもいい、そう思っていた。
一番に望むものなど、到底手に入らない。
それ以外のものを望むつもりも、ない。
それならば、…もとから俺の人生にソレが無いのなら。そんな人生など、どうでもいい物の様な気がしていた。今思えば、諦めの境地だったのかもしれない。
バカバカしい位、用意周到な女。有力者からの強引なセッティングで避けようがなかったお見合いの席で、女の方が薬を盛るなんて誰が考えるだろうか。席が空けて、お茶に誘われた。さっさと帰ればよかったものの、受けたのは本人に直接断りを入れようと思ったからだ。独りでは心細いからだと言い、同席させていたのは弟だなんて言って居たけれど、明らかな偽りであると分かっていた。大方、彼女の男とかそんなところだろう。出されたお茶は妙に苦くて、あっという間にふらつき始めた俺を上の部屋へと運ぶ為の役割を担っていたに違いないのだから。予想だにしなかった手段をもって簡単に一服盛った女は…自由が利かない様に両手を、両足を、拘束して…。
ご苦労な事に、それをしっかりと映像に収めて居やがった。『…私のしたこと、犯罪的な行為かもしれないけれど、私の望みを貴方は拒まないわ。そうでしょう?』そう言って嘯く顔が酷く歪んで見えたのは気のせいでは無いと思う。なんて醜い生き物なんだ。呆れを隠さず吐いたため息にさえ、薄く笑うさまが悪寒が走るほど嫌だった。『だからなんだ』と突っぱねても良かったのだ。いくらなんでも道理に反した行為ゆえ、責任などどこにも存在しないだろう。それでも諦めるつもりなど毛頭ないつもりだと、彼女は父親までも持ち出して圧力を掛けて来た。面倒なことに女の父親は理事会のメンバーで。研究を盾にとどめを刺した。
『よろしくね。未来の旦那様…?』
生きていかなければならない。
そして、生きていくのは辛いものだ。
前へ歩んでいく為に研究だけは護りたかった。だから…。
だから?
だから、なんだ。
愛していなくてもいいんだと言うのだから、勝手にすればいい。生憎と、誰かと共に生きるつもりはない。…誰だって心まで添える、そうは思えないからだ。傍に居なくてもいいのなら、好きにすればいい、そんな風にすら思った。
どうだって、いい。どうだって―。
嫌な、厭な、夢を見た。
まさしく苦虫を噛み潰した様な、厭な苦みを口いっぱいに感じて意識が浮上し、妙に気だるい躰を起こすと、其処はアリスの寝室だった。
「…ああ、そう、だ…」
まだはっきりとしない頭を振ると、振る度に靄が晴れていくように状況を思いだし始めた。試しに動かした手足はすでに拘束を解かれているようで、抗って、…もしくは行為に夢中になって動かそうとした事によって出来ただろう痣の様な手足首の傷は直接確認する事ができなかった。…丁寧に巻かれ包帯が覆い隠していたからだ。
その白く手厚い処置をじっと眺めて、未だ力の入りきらない上半身を起こすと辺りを見回した。当たり前かもしれないが、アリスの姿は、無い。自然と漏れたため息は、安堵からだったのかもしれない。今この状態で、アリスと何を話したらいいのか、…正直わからなかったからだ。わかっているのは、おそらくきかっけとなった俺の言葉だけ。どうでもいい、という投げやりな気持ちのまま、結婚する事になったいわば成り行きを伝えた事によって今回のアリスの暴走が起こったのだと思う。
心が凍ってしまう惨事と言っても過言ではない出来事を、そしてその結果をアリスに告げたのは、事件が起こって1週間後の事だった。
ただ、告げた。結果だけを淡々と伝える事に、たいした意味なんて無かったように思う。今思えば、なんてらしくない事をしたのか。投げやりに言葉を掛けて仕舞った事を悔やむばかりだが、心のどこか片隅で、ああ、これで解放される、と。安堵していたのかもしれない。
逃げ出すという事に、ではなく、自分の気持ちから逃げ出す理由が出来た事に。
『子供が出来て、結婚することになった』
はじめ、ぽかんと口を開けて聞いていたアリスは、ややあって、笑いを含ませながら否定した。
『そんなん、冗談にもならんで?そんな相手がおるならとっくに気がついとるわ。…陰も形も見えんかったやないか』一番近くに居たアリスが知らないなんて、まずあり得ない事だと思うだろう。実際、その通りなのだが。仕方なく、嵌められたのだと告げた時。いつもは温かみを湛えたアリスの瞳さえ、凍ってしまうのではないかと思った。すうっと。血の気が引く音さえも聴こえる程の表情の去り方に、思わずぞくりとさえする…顕著な反応だった。
『…そう、か。そう、なんや…』
あまりに訝しいアリスの反応に、自分の本意ではない理由を告げてしまったことを猛烈に後悔してみても、事実が変えられる筈もなく、また、そこから何が変わるわけでもないと思ったし、なによりアリスだってあっという間に表情を取り戻していたじゃないか。それが…。
「なんだって、今、なんだ。…アリス」
思ったよりも強く大きく発せられた自分の声に、驚いた。アリスに聴こえてしまうかもしれないと、はっとして扉の向こうを窺うも物音ひとつしない。改めて寝かされていたベッドを見ると…あれだけの痴態を繰り広げたにも関わらず、シミ一つ残っておらず、剥がされた着衣こそなかったものの、脇には真新しいガウンが掛けられていて、シーツも、掛けられていた毛布も、きちんと洗濯してあるモノだった。…気を、失う様に眠ってしまった俺を独りで動かしてシーツをかえ、服を脱がして身を清めてくれたのだろうか。そうだとしたら、…いや、おそらくそうなのだろうが、アリスだって疲れ果てていたはずなのに。その状態で動いていたのなら、相当の無理をしていたはず。リビングで眠ってしまったのかもしれないなと思う。
頭が混乱している状態で、すぐにアリスと顔を合わせなくて済んだ事に安堵してみたものの、何一つ安心できる事など無いのだと頭を抱えた。ベッドサイドに置かれていた腕時計を見ると、アリスの部屋に来てから6時間が過ぎようとしていた。最後にアリスに会ってから、…正確には結婚するのだとアリスに告げてから、なにかと忙しくしていた火村が、久しぶりにアリスをフィールドに誘ったのだが、あっさりと断られた。その事件の帰り。偶然、街でばったり出会ったアリスに驚きの声をあげてしまった。…驚くほど、血の気の引いたアリスの顔を見て、思わず…その腕を攫んで送っていく、そう有無を言わさぬ強さで言っていたんだ。
『やって、君、此処京都やで?…そのまま、帰ったらええやろ、俺は大丈夫やから』
『…車を取りに行くから一緒にこい。アリス、…頼むからそのままで独り帰るな』
それでもなお、何か言おうとするアリスの腕を引くと、強引に下宿まで連れていき停めてあった車へと向かう。助手席に押し込むと大阪までの道のりを逆戻りした。終始、黙ったまま。だか、沈黙に気まずさを感じるには一緒に居る期間が長すぎた。何かを言う気も起きなかったし、…いや、何かを口にするのがおこがましくも思えていたのかもしれない。とにかく二人とも、一言も発する事無くアンティークなベンツはマンションへと滑り込んだ。
『…着いたぞ。アリス』
『ありがと、…なぁ、火村。…少し、上がっていかへん?明日、早いんか?』
エンジンを切った車内はしんとした空気に囚われていた。その空気に気圧される様にか細いアリスの声に、漠然とした厭な感じを覚えていたのは確かだ。纏わりつく空気すら重く厚く口火を切るのがなんとなく嫌な感じがする雰囲気の中で、それでも口は勝手に答えを紡ぎだしていた。
『いや、明日は午後からの授業を休講にしてあるから、夕方に府警に行くだけで早くはねぇな』
俺の答えを聞いたアリスが何故苦しそうに顔を歪ませていたのか、その理由がやっとわかったよ。部屋にあがってお前が用意したコーヒー。いつもと違う味がしたのは、俺の気のせいなんかじゃなかったんだよな。ふらつく俺に差し出した手を、肩に掛けた俺の躰を支える様にして寝かせたベッドの脇で。…ごめん、と呟いたのは。辛そうにアリスの顔が歪んでいたのは、辛い決意を…滲ませていたからなんだろうか。
「…俺が、時間的に余裕がなかったら…?」
お前は、なにもせずに居たのだろうか。一体、何のつもりで…、と考えても考えても答えなど一向に見えてはこない。それどころか、更にわからなくなるだけだ。それくらい、アリスは何も言わなかった。何も、伝えてはくれなかった。…俺自身がそうしなかったように。
同じなのかもしれない。
俺はアリスに結論しか告げなかった。どうでもいいと諦めてしまった…忌わしい過程など、口にしたくも無かった為だが、もしかしたらアリスには知られたくなかっただけかもしれない。そうやって俺が自分の気持ちを押し隠してしまった様にアリスもまた、結果だけを俺に伝えたのかもしれないのだ。自分だけで悩んで、結論を出していた?何を思ってしたのかすら伝えるつもりも無く?そんなふうに暴走ともいえる行為すら、やむにやまれぬ思いあってのことかもしれない…。
考えても考えても、どうしてアリスがこんな行動にでたのか…分からなかった。
分からない、当たり前かもしれないと思う。
いくら長い間傍に居たからと言って、考え方も感じ方も違う。
相手が何を考えているかなんて…言葉にしなければ伝わらない。
アリスも、俺も。
だから。
俺たちは、伝えあわなければならないんだろうな。
どのくらいそうしていただろうか。火村は自分の中に一つの結論を出した。そして、アリスの答えを聞くべく重い腰をあげ、閉じられていた扉のノブを回すと寝室からそっと足を抜け出す。廊下の先に見えるリビングからはやはり、物音がしない。夜中ということもあって、薄暗い室内には、キッチンの光りが漏れ出しているのみだ。…眠っているのだろうか。
もしかしたら…。
泣いているのかも、しれない。
ふと、そんな風に思って出来るだけ音を立てないよう気配を殺してリビングへの扉を開けた。
がらん、とした室内にアリスの姿は見えない。
やはり死角になっているソファに寝ているのだろう、と足音をさせずに近付いていく。部屋に上がらないかとアリスに誘われた時も漂っていたいつもと違う空気、妙に片付けられた室内からどうしようもない違和感を感じるが、それが何であるのか分からずに居た。その違和感の正体に気がついたのは背の裏、いつも自身が横になっていた場所を覗いた時だ。
「…アリス?」
そこには、何もなかった。
久しぶりにあがったアリスの部屋に感じた違和感の正体…それは。
見回した部屋に、アリスの気配が無かったからだ。
Author by emi