ここでは、秦野市の地勢と農業と"かりんとう"との関係についてお話しします。

かりんとうを作るためには、多量の油を使います。
座間市史6 民俗編に、
「揚げ物やテンプラは油が沢山必要でお客さんでもなければとても食べられなかった」 とあるように、
昔は、貴重品の油を揚げ物に使うことは少なかったのですが、
なぜ秦野では「カリントウ」が多くの農家で作られていたのでしょうか?

█秦野の地勢と農業
█秦野の農業生産の特徴
█秦野のタバコとナタネの関係
█秦野のナタネ栽培の特徴

参考資料
参考資料
「秦野市史 別巻たばこ編」昭和59年3月 秦野市発行 秦野市管理部市史編纂室
「秦野市農協 20年史」 昭和58年8.1発行 秦野農協
「秦野地方の農と住の記録集」 1993.8.1発行 秦野農協
「秦野ふるさと料理集」1992.6発行 秦野農協
「享保改革期における関東の菜種・唐胡麻政策」大石 学 (巨大都市江戸の周辺)
「米麦大豆煙草菜種共進会報告書」明治16年6月 農商務省 農政局刊行
「岡山県民俗資料調査報告書」 1967年  岡山県教育委員会
「井原市史 Y民俗編」2001.3 井原市発行
「明治11年農産表」明治13年4月 勧農局発行



1 秦野の地勢と農業

秦野市は神奈川県の西部に位置し、東部は伊勢原市、西部は足柄上郡松田町、大井町、南部は足柄上郡中井町、平塚市、北部は厚木市、愛甲郡清川村、足柄上郡山北町に接しています。中心部は北に丹沢山地、南に渋沢丘陵に挟まれた盆地です。
人口は17万人(2010)で、自然が豊かな市です。

秦野市は江戸時代までは、相模国に属し、明治初期神奈川県と足柄県に分かれていましたが、明治9年に神奈川県に属すようになりました。(明治9年全国農産表には神奈川県相模国大住郡と表記されています)
明治22年(1889)には秦野町、東秦野村、南秦野村、北秦野村、西秦野村、大根村、上秦野村の1町6村があり、大部分が大住郡に、上秦野村が足柄上郡に、西秦野村が足柄中郡に含まれていましたが、現在では秦野市となっています。

丹沢山地に降った雨は山側で土壌に浸んでしまいます。盆地内には地下水として保存され、下流で湧水を形成しています。(この湧水は名水百選に選ばれています)

このため、耕作地の90%以上は畑であり、秦野の特産物である葉タバコの生産は1666年以前(江戸時代初期)から始まっています。 最古の史料は寛文6(1666)年の「渋沢村年貢皆済証文」で、葉タバコを納めたことが書かれてあるそうです。(秦野市史)

1707年に富士山の宝永火口の大爆発により、耕作地は噴火による推定厚さ50cmもの降灰によって不毛の地と化し、他の作物の耕作が困難な状況となる中で、 この火山灰と混じった土壌がタバコ作に適していることが分かり、換金作物としてタバコの作付が増加しました。
これは幕府による禁煙政策が緩み (参考:
JT タバコの歴史)喫煙の風習が拡大したことも、秦野地域の煙草耕作が盛んになった原因の一つと言われています。

江戸時代、明治、大正とタバコは農家の最大の収入源でしたが、タバコの他には麦とナタネが広く作られています。
ナタネは油として現金収入源でもありましたが、
油糟がタバコの良い肥料でもありました。

JAはだの前組合長 松下雅雄氏は、このコムギとナタネの栽培が秦野で「かりんとう」がつくられた理由の一つと指摘しています。


秦野の葉タバコとナタネの栽培と、
「かりんとう」はどのような関係にあるのでしょうか?


秦野の農業の特徴から、「かりんとう」との関係を推定してみます。


なのはな

2 秦野の農業生産の特徴(秦野農協の20年史から)

大正期から昭和にかけての菜種を中心に農産物の生産の変遷を見てみます。

統一したデータが少ないのですが、
大正13年の記録で現秦野市域の稲(水稲、陸稲)と麦類の作付面積比から田畑の状況を推定してみます。
大根村(1:1.03), 秦野町(1:1.8)、東秦野村(1:2.9)、南秦野村(1:3.8)、北秦野村(1:2.9)、西秦野村(1:5.5)

ですから、南秦野村は田と畑の耕地は秦野市域の平均的な地域と考えてよさそうです。

この南秦野村の大正15年の記録では、
耕地面積の94%は畑
であり、水稲作は少なく、 たばこは全体の生産額の60.1%を占めています。
さらにタバコを除く農産物は、 麦、落花生、ソバ、菜種、陸稲、甘藷、さといも、ダイコン、養蚕、が主なものでした。
下に示すように、
南秦野村の作付面積では、麦が最も多く、菜種は蕎麦に次いで多く、稲に近い作付となっています。

菜種の作付面積は蕎麦より少ないですが収穫高は同じで生産額は蕎麦の約2倍であり収益が良いことが示されています。
菜種は油の原料であり、油糟は葉タバコの肥料でした。

(参考 大正4年データ)


煙草を除く主要農産物の作付面積と収穫高(大正15年 南秦野村)
麦(大麦、小麦) 稲(水稲、陸稲) 落花生 蕎麦 菜種
町歩 305 83.5 126.9 95 76.3
総生産額(円) 76706 54609 38070 9405 17856



この麦とナタネの栽培は「秦野のかりんとう」に深く関係していそうです。

私の行った聞き取り調査でも多くの方が、材料に自家製粉と自家菜種油を使用したと話しています。
当時、市内に油搾り工場がありました。

秦野の小麦とナタネ、タバコの関係をもう少し見てみましょう。(タバコ、ナタネのカタカナ表記は原著に従う)


秦野市の戦後、昭和25年以降の収穫面積は、下表のようであり、


戦後の秦野市の収穫面積
(ha)
水稲、陸稲
小麦
大麦
ビール麦
タバコ
落花生
ナタネ
昭和25
970
723
887
233
430
396
204
昭和30
777
1081
451
昭和35
926
687
852
493
354
820
198
昭和40
767
699
564
456
276
760
13
昭和45
598
586
381
383
134
717
5
昭和50
386
233
118
89
33
487

菜種栽培は、昭和40以降はタバコ生産とともに減少し、タバコ生産終了に先だってナタネ耕作は終了しています。ナタネは煙草栽培の冬の輪作作物でもありました。

これらの資料からも分かるように
昭和35年頃までは、秦野ではナタネが盛んに栽培されていました。
秦野の春は一面黄色の景色であったと想像できます。

「山ふところの民俗誌」 H4.3.27発行 秦野市管理部文書課
「上秦野村 ひとびとのくらし」
 の中に
葉タバコの生産でのよなべについて書かれたところがあり 「娘のいる家には、若い衆が手伝いに来た。夜食にカリントウやノダヤキを作りお茶をごちそうした。現在70歳代のおおかたは経験している。」 と書いてあります。
タバコ耕作と、菜種栽培、カリントウは相互に関係がありそうです。 すべてのかりんとうを作る農家が自家製の油では無いにしても、菜種栽培が終了した昭和30年頃まで、カリントウがつくられていたことと全く無関係ではないようにも思えます。

菜種油が「秦野のかりんとう」の鍵であるとすると、

  • 秦野ではナタネはいつごろから作られていたのでしょうか?

  • また、
  • 葉タバコ栽培と菜種の栽培にはどのような関係があったののでしょうか?
  • 3
    秦野の菜種栽培

    江戸時代から明治初期の秦野市での農産物の特徴は、
    「秦野市史2, 神奈川の地名」の中の村明細帳の特産品の記載に見ることができます。
    この中では、
    今泉、曽屋、大竹村では、

    曽屋村    1726年 大麦、小麦、大豆、稗、粟、タバコ
    今泉村  明治3年(1870) 大根、菜種、辛子、蕎麦、タバコ
    曽屋村  明治3年(1870) 大麦1,500石、菜種300石、小麦90石、タバコ金4000両
    大竹村  明治3年(1870) 麦、小麦、菜種、大豆、小豆、粟、稗、蕎麦、芋、タバコ

    を産するとあります。

    曽屋では、 江戸時代1729年(享保年間)には、タバコは有っても、菜種は記載されていません。
    このことは、関東での菜種栽培政策が、享保年間に開始されたことと一致します。
      参考 本稿「カリントウ」の歴史 3,原料の歴史

    ところが、明治3年には、曽屋、今泉、大竹村で、菜種とタバコが書かれていますし、秦野市史たばこ編によれば、元治元年(1864)頃にはタバコの冬の輪作作物として菜種の耕作が記録されています。
    したがって、明治3年には既に特産物とされていますので、江戸末期にはナタネは広く生産がされていたものと思われます。

    明治12年発行の明治9年全国農産表では
    相模国大住郡124村(現在の秦野市の大部分を含む)の菜種生産量は6086石でこの時期の日本でも多い量を産しています。


    4 秦野の葉タバコとナタネ栽培の特徴

    秦野の葉タバコ栽培では、肥料として、油糟が使われています。

    明治16年6月 農商務省 農政局刊行の「米麦大豆煙草菜種共進会報告書 煙草之部」の煙草の由来切略
    の中に、
    煙草公労履歴書 故山内四郎左衛門の中で

    薩摩の山内四郎左衛門が、「宅地の片隅に年々栽培して其の趣旨を残せり。寛文の頃に至り国府煙草全国中の名産となれり故に、益々盛大に栽培に熱心し種々工夫凝し、種子を分与しこの時迄は培養の方法なし故に各村に良種を頒ち又選種法施肥法の改良に尽力しこの際菜種油粕を用い培養せし処品位上等にして収穫最も多し故に各村にこの法を教え油粕を以て第一の施肥となすに至れり」 と書かれています。

    1650年ころには、煙草の肥料として菜種油粕を用いる施肥法を考案し、薩摩国内に広めていたという。
    明治11年の農産表では、国分のある鹿児島県大隅郡の菜種生産量は鹿児島県全体の9割を占め、秦野を含む旧大住郡の菜種生産量の20倍もの量であるし、古くから菜種生産地として名の挙がっている岡山県(美作・備前・備中)の2倍の生産量と抜きんでています。 鹿児島県内の煙草の生産は薩摩国12郡の方が、国府のある大隅国10郡の4倍近い生産量ですが、薩摩国12郡の菜種生産量は全県の7%に過ぎません。
    薩摩藩では大隅郡で生産される多量の菜種油粕を肥料として利用したものと考えられます。


  • 煙草と菜種油粕


  • 煙草の肥料として菜種粕が優れていることは薩摩では知られていましたが、明治時代でも、全てのタバコ生産地で油粕が用いられていた訳では無く、一部の優良生産地に限られていました。

    「秦野市史 別巻たばこ編」 昭和59年3月 秦野市発行 (秦野市管理部市史編纂室) によると
    明治八年 内務省の織田完之が相模に出張した日誌で、「秦野の煙草には菜子・油粕・干鰯を使っていること」が書かれていますので、秦野では明治初期には油粕が用いられています。


    明治27年には、栃木県から物産視察員が秦野葉煙草耕作の詳細な調査に来訪しました。
    最も感心した技術として、   
  • 苗床手入れの周到致密であること、
  •   
  • 本畑の整地肥料に注意していること、
  •   
  • 移植の期を早めたこと、
  •   
  • 乾燥に調整に努めていること

  • 等をあげ、このため
    色光沢、香味にすぐれた葉煙草が生産でき高価で買い取りされているとしています。

    また、同市史の資料中の、
    明治28年 大蔵省 主要産地煙草耕作実況概表によれば、

    肥料として油糟を用いている 鹿児島県国分、茨城県久慈、神奈川県秦野、徳島県三好、滋賀県中野、福島県田村郡、山形県北村山郡、新潟県三島 
    肥料として油糟を用いて無い 栃木県那須、岡山県山中(?)・大庭・真島、熊本県合志、長野県北安曇東筑摩など

    つまり、明治28年の葉タバコの栽培に必ずしも菜種糟を使っていない産地も有るということです。

    秦野では、葉タバコ栽培の技術改良に従って、菜種栽培が必然性をもって行われていたと考えられます。
    畑の多い秦野での、換金作物として、葉煙草と菜種が耕作され、油糟が肥料に用いられ、菜種油は換金されると同時に農家には比較的豊富にあったものと推定できます。これは聞き取りの結果からも裏付けられます。

    このため、料理に油を使うことさえめったに無い時代に、油菓子なども作られていたと考えられるのです。

    「秦野市史 たばこ編」戦後の秦野煙草の章 昭和27年 優良耕作者座談会傍聴記 第六 菜種

    「盆地を中心とする地帯は菜種生産地でもあるから大体粕交換をしていると思う。静岡では所要量を確保するために強制作付をしていると聞いている。」 とあり、煙草の肥料を得るために菜種を植え付ける場合もあった可能性もあったことが分かります。

    カリントウが秦野周辺の農家に広く作られていた理由の一つとして、タバコ耕作の肥料として、菜種油粕が重要で、貴重な菜種油が古くから身近に有ったからだと考えることができますが、
    カリントウがいつごろどこから伝えられたかについては資料はありません。

    ただ、通常の地方では、油で揚げることなど出来ない時代に、秦野地方では、お盆に秦野の実家に戻った嫁さんのお土産にカリントウを揚げたのですし、また、煙草葉の"のし作業"の夜なべのお菓子がカリントウだったのです。  


    次に、秦野カリントウのルーツを考えることにしましょう。


    秦野葉煙草耕作技術の全国普及と秦野カリントウへ

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    なのはな




    参考 ナタネの収益 (秦野農協20年史より)

    大正4年の北秦野村では、ナタネは、蕎麦の約3.5倍と比較的収益も良かったようです。


    大正4年 作物別収益(北秦野村)
    タバコ 粳米 大麦 菜種 蕎麦
    反収(円) 50.94 25.20 10.44 9.9 2.75


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    2010.4.7