ここでは、秦野たばこ耕作技術が全国に普及したことと"秦野かりんとう"との関係についてお話しします。



参考資料
「秦野市史 別巻たばこ編」昭和59年3月 秦野市発行 秦野市管理部市史編纂室
「秦野たばこ史」 昭和53年6月発行 専売弘済会文化事業部
「小田郡誌下巻」昭和16年小田郡教育会編纂 (昭和50.3 名著出版による増訂追補版)
「井原市史 Y民俗編」2001.3 井原市発行



秦野周辺の農家で、カリントウが作られてきた理由として、原材料の小麦粉と菜種油が自家製(搾油は工場で)で手に入りやすかったことと、その菜種がタバコ耕作と深く関係することについて触れてきました。

では、カリントウそのものはどのようにして、秦野に伝わったのでしょうか?

秦野カリントウがどこから伝えられたかを示す資料はいまのところありません。
いつから作られていたかは明確ではありませんが、聞き取り調査などでも、秦野では明治初めから中頃にはカリントウは広く作られていたようですから、一部ではずっと早い可能性もあります。

原材料の菜種油が秦野で手に入る時期を踏まえて、かりんとう製法情報の入手時期と経路について考察してみます。
かりんとうが唐菓子からか、南蛮菓子からかにせよ、長崎が起源であることは変わらないでしょう。秦野のカリントウの起源としては、直接長崎から入手したか、あるいは姫路を経て入手したかということになるのでしょう。



  • 江戸時代 草山氏が長崎で医学を学ぶ


  • 秦野での葉煙草栽培がいつ始まったかについては諸説ありますが、その中の一つとして興味有る話があります。

    井上卓三著「秦野たばこ史」 昭和53年6月 専売弘済会文化事業部発行によると

    小田原城主大久保忠隣の頃(1594〜1614年)に薩摩藩主島津氏から種をもらいうけたのが秦野葉の始まりとの説が一つとあります。
    また、「秦野市平沢「御嶽神社社務記録」に御嶽神社祠官・草山貞宝・医名を仁斎と称した。 貞享4年(1687年)頃、長崎に趣き医学を学び数度往復した。その時煙草種子を持ち帰り栽培した」 とあり、秦野の葉煙草に関しては長崎説と鹿児島説があるとのことです。

    さらに、富士山の1707年の宝永噴火ののち、
    草山貞真(御嶽神社祠官)(1767年頃の人)は享保2年から4年(1717〜1719年)まで、長崎で医学を学び、たばこがは火山灰地に適することに自信をもち帰村後はたばこ栽培を氏子に熱心勧めたと書かれています。

    注目すべきは、秦野と長崎の間で、何回も往来が有ったということです。草山貞宝が長崎に留学した貞享4年(1687年)頃には、薩摩では山内四郎左衛門が既に菜種油粕を肥料とする施肥法を考案して薩摩藩内に広めています。特に草山貞真の長崎から帰った数年後(享保11年)には、関東での菜種栽培を幕府が政策として展開始めたころになります。
    (本稿 「かりんとう」の歴史 菜種油の中で触れました。)
    草山貞真が2年から3年間の長崎滞在中には、医者の視点から、南蛮菓子の油の滋養に注目したことも推測できます。
    秦野かりんとうは、このように長崎から直接技術が持ち帰られたものかも知れません。

    姫路の「カリントウ」はこれより下った1808年頃に長崎に菓子職人を派遣して技術を持ち帰ったことから始まっています。
    当時、鹿児島では既に煙草の施肥法として、菜種油粕が優れているとして使われていましたから、 煙草栽培技術として当然、土壌(鹿児島の火山灰地)の知識だけでなく、肥料(菜種油粕)の知識も持ち帰ったと考えるのが普通でしょう。
    ただ長崎から帰った頃には、まだ関東では菜種の栽培は行われていなかったので、数年後、奨励政策とともに煙草と菜種油と油菓子という組み合わせができた可能性もあります。

    秦野では、菜種は明治3年には特産品とみなされていますから、幕府の菜種栽培奨励政策から江戸後期には秦野でも広く栽培され、油粕が煙草の肥料に用いられていたと考えられます。
    画像1 画像2

  • 秦野葉煙草耕作技術を全国に広める


  • 更に、秦野では、優れた葉煙草栽培技術を全国からの要請にこたえて、指導者として南は鹿児島から北は福島県まで短期あるいは長期間、多くの人が派遣されていましたし、視察も多かったようです。参考「秦野市史 別巻たばこ編」

    このようなことも「カリントウ」が伝えられたことに関係するかもしれません。


    明治5年  改良された秦野煙草耕作法は、草山貞胤が神奈川県下・埼玉県・栃木県・愛知県に出張し煙草耕作方法を教示しています。

    明治27年(1894) 栃木県物産視察員による復命書(煙草の部)によると肥料の種類は第一に種粕とあり、耕作の経費として、菜種粕の費用が最も多いことが記されています。
    明治28年には、草山門下生を煙草栽培教師として、栃木・徳島・大阪・島根・鳥取へ派遣して秦野煙草の栽培法を伝えています。


    秦野市平沢淨円寺にある
    草山貞胤の碑
     




    従五位勲四等瑞宝章
     御嶽神社宮司
     出雲大社相模分祠長
    と彫られている。
    また
    隣のお墓には
    報徳二宮神社祠官兼少教正
    草山貞胤千規矩八量大人之墓
    賜 自賞勲局 緑綬褒章 自高輪御殿玉串料
    と彫られている。
    (孫草山惇造著 草山貞胤翁には 明治38年 常宮周宮両内親王より特に玉串料を賜るとある。)
    草山貞宝、貞真、貞胤が祠官を務めた秦野市平沢の御嶽神社



    さらに、
    農業技術者 関野作次郎(安政6年 現秦野市名古木生まれ)は、

    明治29年栃木県より栃木県煙草栽培実業教師を命じられています。
    明治30年 たばこは専売制となり、秦野には一等専売所と煙草試験地(のち試験場)が設けられると、同氏は秦野専売局秦野試験場技師となり、明治34年に煙草種子播器を発明しました。

    明治38年  秋田県へ講師として指導に行き、村長らから感謝状と硯箱をもらっている、
    明治39年 広島県へ講師として指導に行き、感謝状と銀杯をもらっている。この結果、僅か5年で全国の煙草産地がこの点播を実施するようになりました。

    煙草産業は、明治31年政府の専売制となり、葉煙草の検査・収納・保存・売買を行う(葉煙草専売所)が全国に61ケ所開設されました。
    秦野市には一等専売所と煙草試験地(のち試験場)が設けられ、明治後期にこの試験場からは耕作技術向上のために「秦野地方煙草耕作法」の指導員として全国に派遣されています。

    関野作次郎が講師に行った広島県神石郡は、明治13年の農産表で広島県最大の煙草産地です。
    この神石郡に関野作次郎が講師に行き、54名の講習生に指導を行い、神石郡農会長より「総会の議決を以て深く感謝の意を表す」と、感謝状と銀杯を貰っています。
    秦野市平沢
    JAはだの構内にある
    関野作次郎
    の胸像
     

    関野作次郎が講師に行った広島県神石郡に隣接する岡山県井原市には煙草製造所が有りました。

    現在はこの井原市に属する旧小田郡美星町でのカリントウの現地調査では、
    煙草の栽培、菜種の栽培、そばの栽培、がされており、同じようなカリントウが作られていることなど、 秦野と全く同じ農業環境にあるところで同様なカリントウが作られていたことに驚きを隠せませんでした。

    秦野から誰かが来たのではないかとさえその時思ったのでしたが、 その可能性が全く無いとは言えないということが
    葉煙草耕作技術の指導者派遣事業から推察することができます。

    備中、備後も秦野と関係が有る地域ではあるようです。

    カリントウの技術は、先に述べたように草山氏が長崎から直接持ち帰った可能性もありますし、
    明治時代に煙草技術の指導に派遣された人たちが、長崎や姫路から入手し、煙草農家に定着させたものとも考えられます。

    神奈川県西部の民俗資料からは、カリントウの作られていた地域は煙草耕作の地域と一致し、また秦野の葉煙草を運んだ軽便鉄道の沿線に広がっています。

    通常の地方では、油で揚げることなど出来ない時代だからこそ、お盆に秦野の実家に戻った嫁さんのお土産がカリントウを揚げることであったし、また、煙草葉のし作業の夜なべのお菓子がかりんとうだったのでしょう。
     


  • 秦野と岡山県旧小田郡の農業生産の違い


  • 旧小田郡美星町でのカリントウの現地調査では、非常に秦野と似た環境にあることを知りました。明治大正時代にこの二つの地域の関連性はあったのでしょうか?
    農業生産の点から見てみることにします。

    秦野の農業の作付や収穫高に関しては、秦野市史に部分的にではありますが、掲載されています。
    岡山県井原市美星町は多くの町村合併を経て現在に至っており、現在の美星町は昭和29年小田郡美山村と堺村、宇土村、川上郡日里村の四村が合併して発足した町で小田郡美星町となりました。さらに平成17年(2005年)に井原市と合併し現在、岡山県井原市美星町となっています。
    昭和15年旧小田郡教育委員会で発行された「小田郡誌」に現在の美星町の昭和12年当時の位置が分かる地図が添付されていました。これを見ると現在の星の郷付近は小田郡堺村と美山村のちょうど境界付近になっていることが分かりました。
    地図をみると美山村と堺村のどちらも山間地になっています。
    そこで、堺村と美山村の農業生産、とくに煙草と菜種に関して調べてみました。

    「小田郡誌下巻」歴史門 第八編現代 第十二章「産業の発達」の煙草
    の項では
    「往古より栽培し、堺、美山、宇戸、美川、川面、中川、小田等は其主要産地たりとも、煙草専売法の実施以後栽培区域減少し、僅かに堺一村となりしが、大正二年より美山、宇戸両村に試作を許可せられ、稍復興の機運に向かいしが、近年外国種栽培を奨励せられ、収益多くなりければ美山、稲倉、城見、金浦、堺各村を主とし其他数村に栽培せられ、産額年を逐ふて増加するの勢いを示せり。」 とあります。

    つまり、明治31年の煙草専売制以降は大正12年まで、小田郡では、堺村だけで煙草栽培が行われていたということになります。明治12年の全国農産表の備中の煙草生産地とは異なるようです。

    昭和12年当時 堺村では 農家戸数447戸 田187町、畑206町で畑が耕地の52%を占め、美山村では農家戸数423戸 田226町、畑147町で畑が耕地の39%を占めていますが、両村での水田は約50%以上です。
    葉煙草は小田郡の11村で栽培していて、美山村が最も多く作付面積は19.7町で全畑の13.4%、堺村は5番目で作付面積は7.5町で全畑の3.6%です。
    菜種は吉田村(作付1.4町)が挙げられているのみで小田郡でも3.7町の作付にすぎません。

    美山村と堺村の米・麦・豆などの普通作物と葉煙草などの特用作物を合わせた全作付面積はそれぞれ460町と450町で、旧秦野町の曽屋と下大槻地区を合わせた明治21年の全作付面積460町にほぼ等しい規模です。ところがこの2地区の煙草の作付面積は117町で美山、堺村の6倍から15倍、菜種の作付面積は115町にも及んでいて大きな違いとなっています。

    これを全体の作付割合で比較してみます。図1は堺村の昭和12年の農産物作付割合、図2は美山村の作付割合です。その他には薄荷(ハッカ)が含まれています。
    図3は明治10年の岡山県後月郡の生産高割合です。藍や綿が特徴です。
    これに対して、図4は明治21年の秦野町作付割合で、図5は秦野町の時価割合です。秦野町のタバコと菜種の作付がいかに多いか分かりますし、農家の収入は、たばこが60%も占め、換金作物としては菜種が次いで多いという特徴があります。

    現地調査で美星町と秦野とがかりんとうと農業環境が良く似ていると感じましたが、美星町が属していた旧小田郡では明治30年の専売制の後に煙草栽培は堺村一村となり、大正12年以降に他の村での栽培許可が下りてから栽培が盛んになっています。
    当時、専売局では、秦野地方煙草耕作技術を広く全国に広めていましたから、専売制後の煙草耕作では広島県神石郡のように秦野から指導員が訪れた可能性もあるのでしょう。
    図1 図2 図3
    図4 図5


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    2010.4.12