■ 「東日本大震災に想う」そのA<私のできること編>       平成23年4月12日

 平成23年3月11日に東日本を襲った巨大地震と巨大津波は言語を絶する悲惨な大災害をもたらし、先の大戦以来の国難となった。

 4月12日現在、福島原発の収束の方向が見えず、むしろ状況は悪化の一途を呈しているように見受けられる。 本日のしかるべき筋の発表によれば、事故の深刻度をを示す国際評価「国際原子力事象評価尺度」は最悪の「レベル7」へ2段階引き上げられた。

 この事故への対応が遅々として進まないことで、国際問題化へ発展し始めてきており我が国は信用失墜の憂き目に遭遇している。為政者の果敢な決断と実行が望まれるが、このことが我が国の伝統的な課題と言えるのかも知れない。特に戦後このような危機管理や対応をあなた(アメリカ)任せにしてきたことのツケがここにきて全世界にあからさまに晒されてしまったことに、何とも言えない無念さを感じる。

 口をつくもどかしい思いは尽きず、自分自身が何がやれるのか自問自答を繰り返すばかりの1カ月となってしまったが、この1カ月の中で考えたことや、行動に駆り立てられたことなどについて書き留めておくこととした。

□「友人”松ちゃん”」との語らい
□「HAPPY CAPを作って被災地へ送ろう」に参加して



□「友人”松ちゃん”」との語らい

■「”松ちゃん”との出会いと震災の語らいについてその@」

「我が友人”松ちゃん」

 私には同じ町内に住む”松ちゃん”という親友(彼はそう思っているかどうかは分からない)がいる。彼は私と同じ会社に勤めていた半導体の技術屋さんであり、私が広島の半導体工場(子会社)に出向していた時彼の友人であった"亀ちゃん”から紹介を受けたことがきっかけで知り合うこととなった。このトライアングルの関係については別途改めて紹介したいと思っているので、ここでは酒飲み仲間として気の置けない間柄になってしまった無二の友人ということで"松ちゃん”を紹介しておく。

 彼と知り合ってからかれこれ23年、彼が偶然にも同じ町内に住んでいることが分かってからでも既に6-7年が経つ。そしてお互いに定年退職をして自由気ままな生活を始めてから2年が経ち、現在2人で農家から借り上げた猫の額ほどの畑を耕し、いっぱしの園芸家を気取っている。正直申し上げれば、私一人で農業をやるのは心細く無理やりに彼を引きずりこんでしまったのであるが、彼は 二つ返事で快く引き受けてくれたのである。

 畑の土質が最悪だと言っては癇癪を起こし、雨が降らないと言っては嘆き、少しばかりの収穫に狂喜乱舞するやら、自制のコントロールが全く危うくなってしまった私を操縦する彼の不思議な能力は私のカミさんを超えているかもしれない。これはほんの一例である。毎月1回以上は行き付けのこじゃれたレストラン(通称ニンニク屋)で、痛飲し大激論を戦わすことになるのであるが、いつの場合でも彼の不思議な能力が発揮され事なきを得るばかりか、お店に我々の存在を喜ばしめる手腕を度々見せつけられると、彼は”ただもん”ではないと思ってしまうのである。

 こうした友が間近に居ることがどれだけ心強いか本当に感謝に堪えない(前置きが長くなってしまった)。そんな彼との間に、今般の大悲劇のことが話題にならないはずがなく、この間何回かニンニク屋に集合して激論を交わしたのである。

 彼は技術屋らしくいちいちファクトや論理にこだわりながらも、私の3月6日に当HPに掲載した”「東日本大震災」に想う”について支持してくれ、我々オジサン達が果たさなければならない役割を滔々と語った。もとよりこれに異論のありよう筈がなく、久しぶりにまだ寒々とした3月中ごろの夜道を肩を組んで復興日本を叫びながら家路を歩き続けた。


■「”松ちゃんの誘いと震災の語らいそのA」

「素敵な仲間”雑木隊”」


 後日彼から、この町内で活躍している「雑木(ZATUBOKU)」というボランテイアグループに入らないかとの誘いを受けた。このグループは名が示しているように笹(クマザサやネザサ等)やその他の雑木を刈り、美化と防犯を促進する自治会活動をする心根の素晴らしいお仲間の集まりである。もともとこの地は、里山を切り拓いたところで自然豊かなところではあるが、雑草・雑木の宝庫であり手を抜けばえらいことになってしまう。外部へ委託すれば巨額の費用もかかるということもあって結成されたとのこと。

 守備範囲も広く月2回の活動を余儀なくされるとのことであるが、お仲間が何とも素敵な方ばかり。約20人の面々はほとんどが定年退職した者ばかりと思われるが、明るく、前向きで一家言を持った侍に見える。

 誘われて断れる相手ではない。3月に加入し既に3回の活動に参画してきた(また前置きが長くなってしまった)。ボランテイアの利他の精神に心洗われる思いがしたが、中でもお仲間との交流に改めて強い興味を持った。3月末に年次の総会があって全員集合となった。お酒を酌み交わしながらの懇談となったが、誰もが今回の大震災について極めて真摯に受け止めていることが理解できた。

 中には既に横浜のボランテイア活動に参画し活動を始めたものもいた。さらに原発の問題に至り某首相の学校の先輩という方が、その危険性や対応の仕方について持論を展開し始めたときには、単なる仲良しクラブの領域を超えていると思った。"松ちゃん”が恐らくこのような展開になるのではないかと予想し、私をこの会に誘ってくれたのだとしたらこの上もない喜びである。 

 さらにこの後、彼からメールで原発の問題について解説するサイトを知らされた時には日本人の一人としてこの難局にどうやって向き合っていくのかということを投げかけられたように思う。”松ちゃん”とはこのような男であり、私にとっては誠に有難い友である。この問題について今後も彼と激論をしていくことであろうし、具体的な活動をしていくことも必至となることだろう。

□”松ちゃん”からのメール

河合さん目に留まった原発の解説です。参考に。見てると怖くなります。
○解説その1はここから入れます。
○解説その2はここからはいれます。



□「HAPPY CAPを作って被災地へ送ろう」に参加して

 私が所属している横浜市民ギャラリー「あざみ野」のボランテイアセンターから3月29日に緊急のメールが飛び込んできた。内容は「東北太平洋沖地震 被災地応援・緊急プロジェクト/HAPPY CAPを作って被災地へ送ろう!!」というものであった。これは「あざみ野コンテンポラリー」の出品作家・松本力さんの提案を受けたもの(実際は帽子作家をしている彼の母からまだ寒さの続く被災地で使ってもらえるよう、手編みの毛糸帽子を出来るだけ多くの人達に送れないだろうかとの話があったとのこと)で、その名も「HAPPY CAP」と称し、アートサポーター各位へ呼びかけられた。

 編み物などというものにはとんと縁がなく参加することに躊躇したが、毛糸の玉さえ持参すれば懇切丁寧に教えて差し上げますとのことと、指で編むのでとても簡単でありむしろ男の方には向いているとの案内文を読み参加することにした。もっとも、被災者のために何かできないかと思っていた気持ちが、”男の方には向いている”との言葉にどれだけ後押しされたか。何かせずには居られなかったのである。

 前日に毛糸の玉を買い込みギャラリーに行った。当日は小、中、高校生の女の子から、70代の男性の方まで30人くらい集まり、1日がかりで編み物に挑戦することとなった。私にとっては、遣りなれないこともあって大変苦労をしたが、先生の熱きご指導もあって少しばかり居残りとはなってしまったが、CAPらしきものを作ることが出来た。

 これにメッセージを書いて下さいと言われ、面映ゆい気がしたが「一生懸命編んだよ!! 君を寒さから守ってあげられますように!!」と記(しる)した。CAPの出来栄えを問われれば恥ずかしい限りで、ちょっと触ればほどけてしまいそうで誰が受け取ってくれるか誠に心許ないが、私にとってはとても充実した時間となった。私が一生懸命になった気持ちを伝えられればこれに越した喜びはない。この活動に参加して本当に良かったと思う。

 それにしても、突然の知らせにもかかわらずこれだけ多くの方が参加し、善意の気持ちを届けようとする一心不乱の活動に改めて深い感動を覚えた。日本人の本当の心を知ったように思う。復興は間近いに違いないと確信した次第である。

≪参考≫ 当日の事務局からのメッセージ
 ■□■ 横浜市民ギャラリーあざみ野  ■□■
 ■   あざみ野アートサポーター通信     ■
 ■□■ 《2011年4月4日発行》     ■□■

東北地方太平洋沖地震 被災地応援・緊急プロジェクト
★HAPPY CAP★をつくって被災地へおくろう!!
〜みなさん、お疲れ様でした!!〜

 昨日、緊急開催した「HAPPY CAP」づくり。急なお知らせだったにもかかわらず、昨日は約30人の皆さんが集まり、帽子作りが行われました。

 小、中、高校生の女の子から、70代の男性の方まで参加者の方もさまざま! 意図的にそうしたわけでもないのに、なぜかなぜか、どれもその人ならではの個性がにじみ出る帽子ができあがりました。

 出来上がった帽子には、帽子をつくった方のあたたかなメッセージと、アーティストの松本力さんの絵を添えました。この帽子は、松本さんのお知り合いを通じて塩釜のオルタナティブスペース「ビルド・フルーガス」と、気仙沼の教会に送られるということです。

○「HAPPY CAP」づくり当日の様子(ブログ)はここから入れます。


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