文学研究
森鴎外ドイツ三部作の現代語訳です。
「うたかたの記」(以下に掲載)
「文づかい」(完結)
「舞姫」(完結)

森鷗外「うたかたの記」(現代語訳)

 何頭ものライオンが挽く車の上に威勢よく突っ立った、バワリアを象徴する女神ミネルバの像は、先王ルードヴィッヒ一世がこの凱旋門に据えさせたものだという。その下からルードヴィッヒ街道を左に折れた所に、トリエント産の大理石で建てた大きな家がある。これこそバワリアの首府で名高い見所の美術学校である。校長ピロッチイの名はあちらこちらに鳴り響き、ドイツの国々は言うまでもなく、ギリシャ、イタリア、ローマなどからもここに集まってくる彫刻家、画家は数え切れない。日課を終えた後は、「カフェ、ミネルバ」という店に入り、コーヒーを飲み、酒を酌み交わしたりなどして、思い思いの遊びを楽しむのである。今夜もガス燈の光が半ば開いた窓に映り、中で笑いさざめく声が聞こえる頃、門にやって来た二人の人物。
 前に立ったのは、褐色の髪が乱れ逆立っているのも気にせず、幅の広いネクタイを斜めに結んでいる様子から、誰の目にもこの地の美術学生と見えよう。立ち止まって、後ろにいる色の黒い小男に向かい、「ここだよ」と言って、扉を開けた。
 先ず二人の顔を襲ったのはタバコの煙で、いきなり入った目には、中にいる人を見分けにくい。日は暮れたけれど、暑い頃だから、窓を全部開け放つわけではなく、このような煙の中にいることにも馴れているのであろう。
「エキステルではないか、いつ帰ってきたのか」
「やはり死んではいなかったねえ」
などと口々に呼ぶのを聞くからには、先の学生はこの連中に馴染みのある者であろう。その間、周囲の客は珍しそうに、後ろについて入って来た男を見つめていた。見つめられた人は、お客の無礼を不愉快に思ったのか、ちょっと眉をひそめたが、すぐに思い返したのであろう、かすかに微笑を浮かべて、一同を見渡した。
 この人は今着いた汽車でドレスデンから来たので、茶店の様子が向こうとこことで違っているのに目を奪われていた。大理石の丸テーブルが何脚かあるが、白いテーブルクロスの掛けてあるのは、夕食が終わった後をまだ片付けてないのだろう。裸のテーブルに寄りかかっている客の前には陶製のジョッキが置かれていた。ジョッキは円筒形で、燗徳利を四つ五つも合わせた大きさであるが、弓なりの取っ手をつけて、金属製の蓋を蝶番風にしてかぶせていた。客のいないテーブルにコーヒーカップが置いてあるのを見ると、皆逆さまに伏せてあって、底の上に砂糖が何個も盛られた小皿が載せてあるのも面白い。
 客は身なりも言葉もさまざまだけれど、髪もとかず、服装もきちんとしていないのは一緒である。けれども、決して下品に見えないのは、さすがに理想の世界に遊ぶ連中だからであろう。中でもひときわ賑やかなのは中央の大テーブルを占領している一団である。他は男客ばかりなのに、ここにだけは少女がいた。今エキステルに連れられて来た人と目を見合わせて、お互いに驚いたかのようであった。
 来た人がこの連中には珍しい客だからであろうか。あるいはまた少女の姿が、初めて会った人を動かすのに十分すぎたのであろう。前庇広く飾りのない帽子をかぶり、年は十七八くらいに見える容貌は、ヴィーナスの古い彫像に劣らなかった。その振る舞いにはおのずから気高さが備わっていて、普通の人とは思われない。エキステルが隣のテーブルにいる一人の肩を叩いて、何か話しているのを呼んで、
「こちらには面白い話一つ、できる人がいないわ、この様子ではトランプに逃げたり、玉突きに走ったりなど、不愉快な目に合うかもしれません。お連れの方と一緒にこちらへいらっしゃいませんか。」
と微笑みつつ勧めた、その声の清らかさに、今来た客は耳を傾けた。
「マリー嬢のいらっしゃる所へ、誰が行かないもんですか。みんなも聞いてくれ。今日この『ミネルバ』の仲間に入れようとして連れて来たのは、巨勢(こせ)君といって、遠い日本から来た画家だ。」
とエキステルに紹介され、付いて来た男は近づいて行って会釈するが、立ち上がって自己紹介などするのは外国人だけだった。それ以外は座ったままで応じたけれど、馬鹿にしたわけではなく、この仲間の癖のようであった。
エキステルが 言った、
「僕が、ドレスデンにいる親戚を訪ねて行ったことは、みんなも知ってのとおり。巨勢君には向こうの美術館で逢い、それから付き合い始めて、今度巨勢君がこちらの美術学校にちょっと足を止めようと出発された時、僕も一緒に帰途に着いたんだ。」
みんなは巨勢に向かい、はるばるやって来た人と知り合えた喜びを述べ、そして、
「大学にはお国の人も時々見えるけれど、美術学校にいらっしやったのは、あなたが初めてです。今日来られたのなら、まだピナコテエクや美術会の絵画館なども御覧になっていないでしょう。けれど、余所で御覧になった感じでは、南ドイツの絵をどうお思いになりましたか。」
「今度来られたあなたの目的は何ですか。」
などと口々に尋ねる。
マリーは制止して、
「ちょっとちょと、そんな風に口をそろえて質問されたのでは、巨勢君とかの迷惑、皆さんそう思いませんか。聞きたいのなら、静かにしましょう。」
と言うと、
「いやはや、女王様の厳しいこと」と言ってみんなが笑う。巨勢は口調こそ変わっていたが、まずくはないドイツ語で話し始めた。
「私がミュンヘンに来たのは、今回が初めてではありません。六年前にここを通ってザクセンに行きました。その時はピナコテエクに掛けてあった絵を見ただけで、学校の人たちと付き合うことは出来ませんでした。それというのも、故郷を出たときからの目的だったドレスデンの美術館へ行こうと心が急かれたからです。けれども、再びここに来て、諸君の賑やかな集まりに入ることになった、その因縁はすでにその当時結んでいました。」
「大人気ないと打ち消さないで聞いて下さい。謝肉祭が終わる日のことでした。ピナコテエクの建物を出たときは、雪が今晴れたばかりで、街の中央の道の並木の枝は、一つづつ薄い氷に包まれていましたが、今灯された街燈にきらめいていました。いろいろな特徴ある服を着て、白または黒の目鼻しか見えない仮面をつけた人が、群がって行き来し、あちらこちらの窓は毛氈を垂らして見せ物にしていました。カルル広場の角にある『 カッフェ、オリヤン』に入って見ると思い思いの仮装が派手を競い、中に混じった普段着も映えるような気がしました。皆これは『コロシュウム』、『ヴィクトリア』などというダンスホールの空くのを待っていたのでしょう。」
 このように語っているところへ、胸から続く白いエプロンを掛けた女給が、ビールの泡だったのを溢れそうに入れた、例の大ジョッキを四つ五つづつ取っ手を寄せて両手に握り、
「新しい樽からと思って、遅くなりました。御免なさい。」
と詫びて前のジョッキを飲み干した人たちに渡すのを、少女は、
「こちらへ、こちらへ。」
と呼び寄せて、まだジョッキを持っていない巨勢の前へも置かせる。巨勢は一口飲んで語り続けた。
「私も片隅の長椅子に腰掛けて賑やかな様子を見ていると、扉を開けて入ってきたのは、みすぼらしい十五歳くらいのイタリアの栗売りで、焼き栗を盛った紙袋をうずたかく積んだ箱を抱え、『マロオニイ、セニヨレ』(栗を召せ、君)と呼ぶ声も勇ましく、後にくっ付いて入って来たのは、十二三歳とおぼしき女の子でした。古びたフードを深々とかぶり、凍えて赤くなった両手を差し出して、底の浅い、目の荒い竹篭の縁を持っていました。その竹篭には常緑樹の葉を敷き重ね、その上に季節はずれのスミレの花束を、かわいらしく結んで載せていました。『ファイルヘン、ゲフェルリヒ』(スミレはいかが)と、うな垂れた首を上げることも出来ないで言った声の清らかさは、今も忘れません。この少年と女の子とは連れとは見えませんでしたので、少年が入るのを待って、その機会に女の子は来たのだろうと思われました。」
「この二人の姿の特別さは、すぐに私の目に焼き付きました。人を人とも思わない、ほとんど憎らしく見える栗売り、優しく可憐なスミレ売り、どちらも寄り集まっている人の間を割って客席の真ん中から、カウンターの前あたりまでやって来ましたが、そこで休んでいた大学生らしい男の連れていた、イギリス産の大犬で、今まで腹ばいになっていたのが体を起こして、背をかがめ、四肢を伸ばし、栗箱に鼻を突っ込みました。それを見て、少年が払いのけようとすると、驚いた犬が後について来た女の子に突き当たったので、『あれっ。』とおびえて、手に持っていた竹篭を落としました。茎に銀紙を巻いた、美しいスミレの花束はキラキラと光って、四方に散らばったのを、好物を手にしたと思って、その犬は踏みにじり、咥えて引きちぎったりなどします。床は暖炉のぬくもりで溶けた雪に濡れていたので、あたりの人たちがあっちで笑い、こっちでののしる間に、落花狼藉、残らず泥土にまみれてしまいました。栗売りの少年は、足早に逃げ去り、学生らしい男はあくびしながら犬を叱り、女の子は呆然として見ていました。このスミレ売りの子がこらえて泣かないのは、辛い事に馴れて涙の泉が涸れてしまっていたのか、そうでなければ仰天して一日の生活費がこのために無くなってしまうことにまで思い至らなかったのか。少したってから、女の子は潰されずに済んだ花束二つ三つを力なく拾おうとしましたが、その時、カウンター係りの女の知らせで、ここの主人が出てきました。赤ら顔の、腹の出っ張った男で白い前掛けをしていました。大きな握り拳を腰に当てて、花売りの子をしばらく睨み
『わしの店では、行商人のような商売をさせないのが、決まりだ。とっとと出て行け。』
とわめきました。女の子がただ、何も言わずに出て行くのを、室内の数多くの眼は一滴の涙を流すこともなく、見送っていました。」
「私はコーヒー代の白銅貨をカウンターの石板の上に放り投げ、コートを取って駈け出してみたところ、花売りの子は一人しくしくと泣いて行くのですが、 後ろから呼んでも振り返りません。追いついて、『なんて、いい子だ、スミレの花の代金を払おう。』と言うのを聞いて、初めて顔を上げました。その容貌の愛らしさ、濃い青い目には底知れぬ憂いを含み、一度でも振り向いた時には人に断腸の思いをさせるようです。財布の中に『マルク』が七つ八つあったのを、空っぽの篭の木の葉の上に置いてやり、驚いて何も言わない間に立ち去りましたが、その顔、その目はいつまでも目に焼きついて消えません。ドレスデンに行って、美術館の額を模写する許可を得て、『ヴィーナス』『レダ』『マドンナ』『ヘレナ』の、どの絵に向かっても、不思議に、スミレ売りの少女の顔が霧のように、自分とキャンバスとの間に立ち昇って邪魔をしました。これでは所詮、自分の画業の進歩はおぼつかないと思い、旅館の二階に籠もって、長椅子の革のカバーに穴があくまで頑張ってみようと思った頃もありましたが、ある日勇気を奮い起こして、自分のありったけの力を出して、この花売り娘の姿を永遠に残そうと思い立ちました。けれども、私が見た花売り娘の目は、春の潮を眺める嬉しそうな風があるわけではなく、夕べの雲を見送る夢見地があるわけでもなく、イタリアの古跡の間に立たせて辺りに一群の白い鳩を飛ばすようなこともふさわしくありません。私の空想はあの少女をラインの岸の岩根に座らせ、手に一張の竪琴を持たせ、むせび泣きをさせようと思い定めました。下流には私が一艘の小舟を浮かべ、そちらの方へ向かって両手を高く上げ、顔には無限の愛を表しました。舟の周りには数え切れない、『ニクッス』、『ニンフ』などの姿が波間から現れてからかっています。今日このミュンヘンの都に来て、しばらく美術学校の『アトリエ』を借りようとするのも、行李の中の、ただこの一枚の絵の下書き、これをあなた方師友の間で相談して、完成させたいと思ったからです。」
 巨勢はわれを忘れて話し込み、このように言い終わった時は、モンゴリア風の細い目も光るばかりだった。「上手に話したね」と声を掛ける者が二三人。エキステルは冷ややかに笑って聞いていたが、
「諸君もその絵を見に行ってくれ、一週間程で巨勢君の『アトリエ』も準備できるから。」
と言った。マリーは話の半ばから、顔色を変えて、目は巨勢の唇ばかり注視していたが、手に持っていたジョッキさえ一度は震えているように見えた。巨勢は初めてこの集まりに入った時、すでにこの少女がスミレ売りの子に似ているのに驚いていたが、話に聞きほれてこちらを見つめている目つきで、間違いなくこの子だと思った。これもいつもの空想の仕業なのかどうか。話が終わった時、少女はしばらく巨勢を見ていて、
「あなたはその後、二度とその花売りにお会いになりませんでしたか。」
と尋ねた。巨勢はすぐには答えるのに適当な言葉が見つからないようであったが、
「いえ。花売りの少女に会ったその夕方の汽車でドレスデンに出発しました。けれども、無礼な言葉をお咎めにならないなら申し上げましょう。わが脳裏に焼きついたスミレ売りの子にも、わが『ローレライ』の絵にも、時々間違いなく現れていらっしゃるのは、あなたです。」
その場の連中は、大声で笑った。少女は、
「それで、額縁の絵ではない私の姿と、あなたとの間にも、その花売りの子が立っていると思われたのですね。私を誰だとお思いですか。」
と言って、立ち上がって、真面目だとも戯れだとも分からないような声で、
「私がそのスミレ売りです。あなたの愛情へのお返しはこうです」
少女はテーブル越しに背伸びして、うつむいていた巨勢の頭を平手で抑え、その額に口づけした。
 この騒ぎで少女の前にあったビールはひっくり返ってスカートにかかり、テーブルの上にこぼれたのは、蛇のように這って人びとの前へ流れて行こうとした。巨勢は手のひらを両耳の上に感じ、驚く間もなく、またそれより熱い唇が額に触れた。
「僕の友達に目を廻させないで下さい。」
とエキステルが声を掛けた。人々は半ば椅子から立ち上がり、
「とんでもない冗談だ」
と一人が言えば、
「俺たちは継子扱いなのが悔しいね」
と他の一人が言って笑うのを、
余所のテーブルからも、皆興味ありげに見つめていた。
 少女の傍に座っていた一人が、
「僕も愛して頂戴よ」
と言って、右手を延ばして少女の腰を抱き寄せた。すると、少女は、
「なんとも無礼な継子たちだねえ、お前たちにふさわしい口づけの仕方というものもあるよ。」
と叫び、振りほどいて突っ立ち、可愛い目から稲妻が飛び出しそうなほどに、しばらくその場を睨み付けていた。巨勢はただ、呆れ果てて見ていたが、このときの少女の姿は、スミレ売りにも似ていないし、「ローレライ」にも似ず、さながら凱旋門上の「バワリヤ」だと思われた。
 少女は誰かが飲み干したコーヒーカップに添えてあった「コップ」を取って、中の水を口に含んだように見えたが、ただ一吹きし、
「継子よ、継子よ、お前たちの誰が美術の継子でない者がいるか。フィレンツェ派学ぶ者はミケランジェロ、ドルシイの幽霊、オランダ派学ぶ者はルーベンス、ファン・デイクの幽霊、わが国のアルブレヒト・デュラーを学んだとしてもアルブレヒト・デュラーの幽霊でない者は稀だろう。美術館に掛けた『スッジー(習作)』の、二つ三つが、いい値段で売れた暁には、われらは七星、われらは十傑、われらは十二『アポストラ(使徒)』と好きなように見立てての自画自讃。こんな屑かすにミネルバの唇がどうして触れようか。私の冷たい口づけで、満足せよ。」
と叫んだ。
 吹きかけた霧の下のこの演説を、巨勢は何事かともよく分からないが、いまどきの絵画を軽蔑した、風刺だろうとぐらいには推測して、その顔を仰ぎ見ると、女神バワリヤに似ていると思った威厳は少しも崩れず、言い終わってテーブルに置いた手袋のビールに濡れたのを取って、大股で歩いて出て行こうとする。
皆興ざめな顔つきをして、
「狂人」
と一人が言えば、
「近いうちに仕返ししないでおくものか」
と他の一人が言うのを聞いて、入り口で振り返り、
「恨みに思うようなことか、月の光に透かして見よ、額に血の跡は残っていないだろう、吹きかけたのは水だから。」との口上。


           中
 風変わりな少女が立ち去ってから、間もなく人々は散らばって行った。帰り道にエキステルに訊くと、
「美術学校でモデルをしている少女の一人で、『フロライン』ハンスルという者です。ご覧になられた通り奇怪な振る舞いをするため、狂女だとも言い、また他のモデル嬢と違って、人に肌を見せないので、片輪だろうと言う者もいます。その経歴を知っている者はいないけれど、教養があって気性が普通ではなく、汚れた行いがないので、美術学生の仲間には、喜んで友達にする者も多いのです。よいモデルだということはご覧になったとおりです。」
と答えた。
巨勢「私が絵を描くのにも必要な人です、『アトリエ』が、準備できた日には、来いとお伝え下さい。」
エキステル「承知した。けれども十三歳の花売り娘ではないし、裸体の研究は、危ないだと思わないでしょうか」
巨勢「裸体のモデルをしない人と君も言ったが。」
エキステル「いかにも、そう言われました。そうだけれど、男と口づけしたのも今日始めて見ました。」
 エキステルのこの言葉に、巨勢は赤くなったが、街頭の暗い、シラー記念像のあるあたりだったので友人は気づかなかった。巨勢の「ホテル」の前で、二人は別れた。
 一週間ほど後のことであった。エキステルの斡旋で、美術学校の「アトリエ」一室が巨勢に貸された。南に廊下があって、北に面した壁はガラスの大きな窓に半ば占められ、隣の部屋との仕切りには帆布のカーテンがあるばかり。頃は陰暦六月半ばなので、旅に出た学生も多く、隣に人もいず、仕事を邪魔される心配のないことを嬉しく思った。
巨勢は額縁を載せた台の前に立って、今入って来た少女に「ローレライ」の絵を指差して、
「あなたにお話したのはこれです。 面白そうに笑い興じていらっしゃる時は、似ているとも思いませんが、時々あなたの面影が、この絵の姿とそっくりの時があります。特に違わないのは目です。」
少女は、高らかに笑って、
「どうか、お忘れにならないで下さい、あなたの『ローレライ』の元になったモデル、スミレ売りの子は私ですということは、先日の夜にもお話しましたのに。」
このように言ったが、急に改まった顔をして、
「あなたは私を信じて下さらないのね、なるほどそれも無理ありません。世間の人は皆私を狂女だと言いますから、そのように思っておいででしょう。」
その声は冗談とは聞こえなかった。
 巨勢は半信半疑であったが、耐えかねて少女に言った、
「あんまり長く苦しめないで下さい。今も私の額で火と燃えているのは、あなたの唇です。ちょっとした悪戯だと思って、無理に忘れようとしたことは、何度あったか分かりませんが、迷いは遂に晴れませんでした。ああ、あなたの本当の身の上、差し支えなければ聞かせて下さい。」
 窓の下の小机に、いま行李から取り出した古い絵入り新聞、使いさした油絵の具の錫のチューブ、粗末なパイプにまだ葉巻の端の残っているのなどを載せたその片端で、巨勢は頬杖をついた。少女は前にある籐の椅子に腰を掛けて、話し始めた。
「先ず何からお話いたしましょうか。。この学校でモデルの許可証を受ける時も、ハンスルという名前で通したけれど、それは私の本当の名前ではありません。父はスタインバハといって、今の国王に可愛がられて、一時は名声を博した画家でした。私が十二歳の時、王宮の冬園で夜会があって、両親が招かれました。宴たけなわの頃、国王の姿が見えなかったので、人々は驚いて、移植した熱帯の草木がこの上なく茂っている、ガラス屋根の下を、あちらこちらと探しました。庭園の片隅には、タンダルジニスが刻した、ファウストと少女との有名な石像がありました。私の父がその辺りにやって来た時、胸が張り裂けるような声で、『助けて、助けて』と叫ぶ者がいました。声を頼りに、黄金の丸天井をかぶせた、『キオスク』(四阿)の入り口に立ち寄ると、周りに植えた棕櫚の葉に、ガス燈の光は遮られていたが、濃い五色で描いた窓ガラスを洩れて差込み、薄暗く怪しげな影を落としていたが、その中で一人の女が逃げようと抵抗しているのを、押さえつけているのは王でした。その女の顔を見た時の、父の心はどんなだったでしょう。それは私の母でした。父はあまりのことに、しばし決断できずためらっていましたが、『お許し下さい、陛下』と叫んで、王を押し倒しました。その隙に母は走り逃れましたが、不意を打たれて倒れた王は、起き上がって父に組み付きました。肉付きがよく太って力の強い国王に、父はどうしてかないましょうか。組み敷かれて、傍にあった如露でひどく殴打されました。このことを知って諫言した内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタイン城の塔に押し込められることになっていましたが、援後する人がいて、助かりました。その夜私は家にいて、両親の帰るのを待っていましたが、女中が来てお父上母上がお帰りになられましたと言いました。喜んで出迎えますと、父は担がれて帰り、母は私を抱きしめて泣きました。」
 少女はしばらく黙った。今朝から曇っていた空は、雨になって時々窓を打つ雫が、はらはらと音を立てる。巨勢が言った、
「王が狂人となって、シュタルンベルクの湖に近い、ベルクという城に移されなさったことは、昨日新聞で読みましたが、ではその頃からこんな事があったのですか。」
 少女は話を続けて、
「王が賑やかなところ嫌って、田舎ばかりに住み、昼間寝て夜起きていらっしゃるのは、ずいぶん前からのことです。ドイツとフランスの戦争があった時、カトリック派の国会に勝ち、プロシア方についた、王の中年の功績は、次第に暴政の噂に覆われて、公然と言う者はいませんが、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなどを、理由もなく死罪に処そうとされたことを、その筋で秘密にしていることは、誰も知らない者はありません。王が昼寝をなさるときは、近臣は皆遠ざけられましたが、うわごとでマリーというのを、何回もおっしゃるのを聞いた者がいると言います。私の母の名もマリーといいました。望みなき恋が、王の病をひどくしたのではないでしょうか。母は容貌が私に似たところがあって、その美しさは宮中で比べるものがなかったと聞きました。」
「父は間もなく病気で死にました。交際が広く、けちけちせず、世間のことには非常に疎かったので、家に遺産さんは少しもありませんでした。それからはダハハウエル街の北の果てに、裏通りの家の二階が空いていたので、借りて住みましたが、そこに移ってから母も病気になりました。こんなときに移り変わるものは、花のように移ろいやすい人の心ですね。数え切れない苦しみごとは、私の幼い心に、早くも世間の人を憎ませました。明くる年の一月、謝肉祭の頃でした、家財・衣類なども売りつくして、毎日の暮らしも立てられないようになったので、貧しい子供たちの中に入って私もスミレを売ることを覚えました。母が亡くなる前、三、四日間を安心して送ったのは、あなたのおかげでした。」
「母のなきがらを片付けたりなどする時は、世話をしてくれたのは、一階上に住んでいた仕立て屋でした。可愛そうな孤児を一人置いておいてはいけないといって迎えられたのを喜んだことは、今思い出しても悔しいばかりです。仕立て屋には、娘が二人いて、ひどく好き者で、自分を誇示する風に見えましたが、迎え入れられてからこっそり見ていると、夜になってからたびたび客が来ました。酒などを飲んで、果ては笑い騒ぎ、また歌ったりなどしました。 客は外国の人が多く、お国の学生なども見えたようでした。ある日主人が私にも新しい服を着よと言いましたが、その時私を見て笑った顔は、何となく恐ろしく、子供心にも嬉しくは思いませんでした。昼が過ぎた頃、四十歳くらいの見知らぬ人が来て、シュタルンベルクの湖水へ行こうというのを、主人も一緒になって勧めました。父が生きていた時連れられて行った嬉しさはやはり忘れていなかったので、しぶしぶ承知しましたが、『それでこそいい子だよ』と皆が誉めました。連れて行った男は、道中ひたすら優しく扱い、向こうでは『バワリヤ』という座敷船に乗り、食堂に行って物を食べさせました。酒も勧めたけれど、それは馴れない物なので、断って飲みませんでした。ぜースハウプトに船が泊まった時、その人はまた小舟を借り、これに乗って遊ぼうと言います。だんだん日が暮れていく空に心細くなった私は、早く帰ろうと言いましたが、聞き入れず漕ぎ出し、岸辺に沿っていくうちに、人気のない葦間に来ましたが、男はそこで舟を停めました。私はまだ十三歳で、初めは何ごとかも分かりませんでしたが、後には男の顔色も変わって恐ろしくなり、我を忘れて湖水に飛び込みました。しばらくして我に返った時は、湖水のほとりにある漁師の家で、貧しそうな夫婦ものに介抱してもらっていました。帰る家がないと言い張って、一日二日と過ごすうちに、漁師夫妻の素朴さに馴染み、不幸な自分の身の上を打ち明けたところ、可愛そうに思って養ってくれました。ハンスルというのは、この漁師の名前です。」
「こうして漁師の娘になりましたけれど、か弱い体では舟の櫂を握ることも出来ず、レオニのあたりに、富裕なイギリス人が住んでいてそこに雇われて、小間使いになりました。カトリック教を信じる養父母は、イギリス人に使われることを嫌いましたが、私が物を読むことを覚えましたのは、その家の雇われ女教師のお蔭です。女教師は四十余りの未婚の女性でしたが、その家の高慢な娘より、私を愛すること深く、三年くらいの間に多くもない先生の蔵書を全部読んでしまいました。誤読はさぞかし多かったことでしょうが、また本の種類もさまざまでした。クニッゲの交際法があれば、フンボルトの長生術がありました。ゲーテ、シラーの詩抄は半ば暗誦して、キョオニッヒの通俗の文学史をひもとき、あるいはルーブル、ドレスデンの美術館の写真絵を次々に広げて、テーヌの美術論の訳書を漁ったりしました。」
「去年イギリス人が一族を引き連れて国に帰った後は、それ相当な家に奉公したいと思いましたが、身元がしっかりしていないので、その地の貴族などに雇ってもらえませんでした。この美術学校のある教師に、思いがけなくも認められて、モデルを務めたのが縁となって、結局許可証を得ることになりましたが 、私を有名なスタインバハの娘と知る人はいません。今は画家の間に混じって、ただ面白く日を送っているだけです。けれども、グスタァフ、フライタハはさすがに嘘は言いませんでした、画家ほど世に素行の悪いものはいませんので、独立して付き合うには、少しも油断できません。寄らず触らずという風にしたいと思って、図らずも御覧のようなおかしな曲者になりました。時々は私自身、自分も狂人ではないかと疑うほどです。これにはレオニ村で読んだ本も、少し災いしているか思いますが、もしそうならば、世に博士と呼ばれる人は、そもそもどういう狂人でしょう。私を狂人とののしる画家などは、自分が狂人でないことをこそ悲観すべきです。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気がなくてはならないことは、セネカの論を、シェクスピアの言葉を待つまでもありません。御覧あれ、私の学問の博いことを。狂人にして見たい人が、狂人でないのを見るその悲しさ。狂人にならなくてもよい国王が、狂人になったと聞く、それも悲しい。悲しいことばかりが多いので、昼は蝉と一緒に泣き夜は蛙と一緒に泣いていますが、かわいそうだと言ってくれる人もいません。あなただけは冷たくあざ笑ったりはなさらないと思いますので、気が済むまでお話しするのを咎めないで下さい。ああ、こんな風に言うのも狂気でしょうか。」

 
 不安定な空模様のうちにも雨はやみ、学校の庭の木立の揺れているのだけが、曇った窓のガラスに透けて見える。少女の話を聞いている間、巨勢の胸には、様々な感情が戦っていた。ある時は昔別れた妹に会った兄の心になり、ある時は廃園に倒れ伏した「ヴィーナス」の石像に、心を悩ます彫刻家の心となり、ある時は又あでやかな女に心を動かされ、自分は堕落せぬぞと戒める僧侶の心ともなったが、聞き終わった時は、胸が騒ぎ体が震えて、我を忘れて、少女の前に跪こうとした。少女はふと立ち上がり
「この部屋の暑いこと。もう学校の門も閉められる頃ですが、雨も晴れました。あなたと一緒なら、怖いこともありません。一緒にシュタルンベルクへ行きませんか。」
と 言って、傍にあった帽子を取ってかぶった。その様子は巨勢が一緒に行くのを、少しも疑っていないようで、巨勢はただ、母に手を引かれる幼子のようについて行った。
 門前で馬車を雇って走らせると、間もなく停車場についた。今日は日曜だけれど、天気が悪いからだろうか、近場から帰ってくる人も多くはなく、ここは非常に静かである。新聞の号外を売る婦人がいる。買って見ると、国王はベルクの城に移って、容態が穏やかなので、侍医グッデンも護衛を緩めさせたという。汽車の中は湖水の畔に避暑に来た人で、買い物に首都に出た帰りの人が多い。王の噂でもちきりである。
「まだホオヘンシュワンガウの城にいらっしゃた時とは違い、王の心は平静でいらっしゃるようです。ベルクに移される途中、ゼエスハウプトで水を求めてお飲みになりましたが、近くにいた漁師らを見て、優しく頷いたりなどなさいました。」
と訛りのある言葉で話したのは、買い物を手に下げた老女であった。
汽車で走ること1時間、シュタルンベルクに着いたのは夕方の5時であった。徒歩で行ってようやく一日道のところだけれど、早くもアルプス山脈の近さを、ただなんとなく感じて、この曇り空の景色にも、胸を開いて 呼吸をしてしまう。汽車はあちらこちらを回り、 丘陵のたちまち開けた所に、見えたのは湖水だった。停車場は西南の隅にあって、東岸の森林、漁村は夕霧に包まれてほのかに認められるが、山に近い南の方は、一望千里。
 所の事情をよく知っている少女に導かれて、巨勢は右手の石段を登ってみると、ここは「バワリア」の庭という「ホテル」の前で、 屋根のない所に石のテーブル、椅子などを並べているが、今日は雨の後なのでじめじめとして人けも少ない。黒い上着に白い前掛けをつけた給仕のボーイが、何事かをつぶやきながら、テーブルに倒し掛けてあった椅子を、引き起こして拭っていた。ふと見ると片側の軒に沿って、かずらの蔓を絡ませた棚があって、その下の丸テーブルを囲んで1グループの客がいた。これはこの「ホテル」に泊まっている人たちだろう。男女が混ざり合っている中に、先日の夜「ミネルバ」で見た人がいたので、巨勢は行って話そうとしたが、少女が引き止めて、
「あそこにいる人は、あなたがお近づきになる連中ではありませんよ。私は年の若い人と二人で来たけれど、恥じるべきは向こうで、こちらではありません。彼は私を知っているので、御覧なさい、長くは座に耐えられなくて雲隠れするでしょう。」しばらくして、その美術学生は案の定立ち上がって「ホテル」に入って行った。少女はボーイを呼び寄せて、座敷舟はまだ出るかと訊くが、ボーイは矢のように飛ぶ雲を指差して、この心もとない空模様だから、もう出ないだろうと言う。それなら車でレオニに行きたいと言って、命じた。
 馬車が来たので、二人は乗った。停車場の傍から、東の岸辺を走らせて行く。この時アルプス颪がさっと吹いて来て、湖水の方に霧が立ち込め、今出て来たあたりを振り返って見ると、だんだん鼠色になって、家の棟、木のてっぺんだけがひときわ黒く見えた。御者が振り返って、
「雨だ。幌を掛けましょうか。」と訊く。
「いえ」と答えた少女は巨勢に向かって、
「なんて気持ちのいい遊びかしら。昔私が命をなくそうとしたのもこの湖です、私が命を救われたのもまたこの湖です。だから、どうしてこんなことにと思われるあなたに、真心を打ち明けてお話するのもここでと思い、この通りお誘いしました。『カフェ、オリヤン』で恥ずかしい目に合っていました時、助けてくださったあなたにまたお会いしたいと思う心を命の綱にして、何年過ごしたことでしょう。先日の夜、『ミネルバ』であなたのお話を聞いた 時のうれしさったら。平生は木の端くれなどのように思っていた美術学生の仲間でしたので、人を馬鹿にして不敵な振る舞いをしていたのを、下品だと思って御覧になったでしょうね。けれども、人生は大して長くはありません。嬉しいと思う一瞬の間に、口をいっぱいあけて笑わなかったら、後で悔しく思う日もあるでしょう。」
このように言いながら被っていた帽子を脱ぎ捨て、こちらへ振り向けた顔は、大理石の血管に熱血が躍動しているようで、風に吹かれる金髪は、首をひと振り長くいななく駿馬の鬣にも似ていた。
「今日です。今日です。昨日があってもなんになりましょう、明日も、あさっても空しい名目に過ぎません、はかない響きがあるだけです。」
この時、二つぶ三つぶ、大粒の雨が車上の二人の服を打ったが、瞬く間に激しくなって、湖上からの横しぶきが、荒々しくやって来て、紅潮した少女の片頬にぶつかるのを、のぞいてみる巨勢の心は、ただ空っぽになっていくのであろう。少女は背伸びして、「親方、チップはあげます、早く走って、一鞭あてよ、もう一鞭。」
と叫んで、右手に巨勢の頸を抱き、自分は項をそらせて上方を見つめた。巨勢は綿のような少女の肩に、自分の頭をもたせ掛け、ただ夢見心地でその姿を見ていたが、あの凱旋門の上の女神バワリアがまた胸に浮かんできた。
 国王の棲んでいらっしゃるベルク城の下に来た頃は、雨はいよいよ激しくなって、湖水の方を見渡すと、吹き寄せる風が一吹き一吹き、濃淡の縦じまを織り出して、濃い所は雨が白く、淡いところは風が黒く見える。御者は車を停めて、
「ちょっとの間です。あんまり濡れるとお客様も風邪を引かれましょう、また古びていますけどこの車、ひどく濡らすと、主人の怒りを買いますので。」と言って、手早く幌をかけ、また一鞭当てて急いだ。
 雨はなお止むことなく降り、雷がおどろおどろしく鳴り始めた。道は林の間に入り、この国の夏の日は、高いはずの頃なのに、木下道はほの暗くなった。夏の日に蒸された草木の、雨に湿った香りが馬車の中に吹き込んで来たのを、渇きを覚えた人が水を飲むように、二人は吸った。雷の音の絶え間には、恐ろしい天気に臆病になったとは見えない「ナハチガル」鳥が、透き通った声を振り上げてしきりに鳴くのは、寂しい道を一人行く人が、わざと歌を歌うのに似ていようか。この時マリーは両手を巨勢のうなじで組み合わせ、身体の重さをもたせかけていたが、木陰を漏れる稲妻に照らされた顔は、見つめ合って笑いを含んでいた。ああ、二人は我を忘れ、我が乗る馬車を忘れ、馬車の外の世界をも忘れていただろう。
 林を出て、坂道を下って行く間に、風は群雲を追い払い、雨もまた止んだ。湖の上の霧は、重ねた布を一枚、二枚とはがすように、束の間に晴れて、西岸の人家も、また手に取るように見える。ただあちらこちらの木の下の蔭を通り過ぎる度に、梢に残る風に吹き払われて落ちる露を見るだけである。
 レオニで馬車を下りた。左に高く聳えているのは、いわゆるロットマンの岡で、「湖上第一の景勝」と題した石碑が建っているところである。右に楽人レオニが開いたという、湖水に臨む居酒屋があった。巨勢の腕に両手を絡めて、縋るようにして歩いてきた少女は、この店の前に来て岡の方を振り返り、
「私が雇われたイギリス人の住んでいたのは、この中腹の家なの。年老いたハンスル夫婦の漁師小屋も、もう百歩ほどよ。私はあなたをそこへ、お連れしようと思って来ましたが、胸騒ぎがして堪えられませんので、この店で休憩したいわ。」
巨勢はもっともだと思って、店に入って夕食を注文したが、「七時にならないと準備が整いません。まだ三十分待っていただかなくてはなりません。」と言う。ここは夏の間だけ客のあるところで、給仕する人もその年毎に雇うので、マリーを知っている者もいなかった。
 少女は急に立ち上がって、桟橋につないだボートを指差し、
「ボートが漕げますか。」
巨勢「ドレスデンいた時、公園のカロラ池でボートを漕いだことがありますし、上手いという訳ではありませんが、あなた一人を乗せて行くくらいのことは、出来ないことはありません。」
少女「庭の椅子は濡れてますわ。そうかといって、屋根の下は、あんまり暑いし。ちょっと私を乗せて漕いで下さいませんか。」
 巨勢は脱いだ夏のコートを少女に着せて小舟に乗せ、自分はオールを取って漕ぎ出した。雨は止んだが、空は依然として曇っており、夕闇はすでに岸の向こうに迫っていた。さっきの風に揺さぶられた影響であろうか、舵を敲くほどの波はやはりあった。岸に沿ってベルクの方へ漕ぎ戻していると、レオニの村が尽きる辺りにやって来た。岸辺の木立が絶えた所に、細かい砂の道が次第に低くなっいき、波打ち際に長椅子の据えてあるのが見えた。葦の一叢が舟に触れて、さわさわと音を立てる折りしも、岸辺に人の足音がして、木の間から出る人の姿があった。身長は180センチ近く、黒いコートを着て、手にすぼめたこうもり傘を持っていた。左手に少し引き下がって付いて来たのは、ひげも髪も皆雪のような老人であった。前の人はうつむいて歩いて来たので、縁の広い帽子に顔が隠れて見えなかったが、今木の間から出て湖水の方に向かい、ちょっと立ち止まって、片手に帽子を脱いで持って、上を向いたのを見ると、長い黒髪を、後ろに掻き撫で広い額を露にし、顔色は灰のように蒼白で、落ち窪んだ目の光は人を刺すようであった。舟では巨勢のコートを背に着て、うずくまっていたマリー、彼女も岸の人を見ていたが、この時突然驚いたように、
「あれは王です」
と叫んで立ち上がった。背にしたコートは落ちた。帽子は先程脱いだまま、居酒屋に置いて出て来たので、乱れた金髪は、白い夏服の肩にさやさやとかかった。岸に立っていたのは、実に侍医グッデンを引き連れて、散歩に出た国王であった。不思議な幻影を見たように、王は恍惚として少女の姿を見ていたが、たちまち一声「マリー」と叫び、持っていた傘を投げ捨て、岸の浅瀬を渡って来た。少女は「あっ」と叫んだが、そのまま気を失って、巨勢の助ける手のまだ届かない間に倒れたが、傾く舟の一揺れ揺れると一緒に、うつぶせになって水に落ちた。
 湖水はここで、だんだん深くなっているが、傾斜が緩やかなので、舟の止まったあたりも、水は150センチもないだろう。けれど、岸辺の砂は、次第に粘土混じりになっているので、王の足は深くはまり、もがいても自由にならない。そのすきに付いてきた老人は、これも傘を投げ捨てて追いすがり、年はとっても力は衰えていなかったのだろう、水を蹴って二歩三歩、王の襟首をむずとつかみ引き戻そうとする。こっちは引っ張られまいとする間に、コートは上着と共に老人の手に残った。老人はこれを投げ捨てて、なおも王を引き寄せようとするが、王は振り返って組み付き、あちらもこちらもお互いに声さえ立てず、しばらく揉み合っていた。
 これはほんの一瞬のことだった。巨勢は少女が落ちた時、わずかにスカートをつかんだが、少女が葦の間に隠れた杭にひどく胸をぶつけ、沈もうとするのを、ようやく引き上げ、水際の二人が争うのを尻目に、もと来た方へ漕ぎ帰った。巨勢はただ何とかして少女の命を助けたいと思うだけで、それ以外のことを考える暇がなかった。レオニの居酒屋の前に来たが、そこへは寄らず、ここから百歩程度だと聞いた、漁師夫婦の苫屋を目指して漕いで行ったが、日もはや暮れて、岸には「アイヘン(オークの木)」「エルレン(はんの木)」などの枝が茂り合い広がって、水は入り江の形をなし、葦に混じった水草に、白い花の咲いているのが、夕闇にほのかに見えた。舟には解けた髪が泥水にまみれているのに、藻屑までかかって倒れ伏している少女の姿、誰が哀れと思って見ないものがあろうか。ちょうどその時漕いで来る舟に驚いてか、葦間を離れて、岸の方へ高く飛んで行く蛍がいた。ああ、これは少女の魂が抜け出たのではないだろうか。
 しばらくして、今まで木蔭に隠れていた苫屋の灯火が見えてきた。近寄って行き、
「ハンスルの家はここですか。」と尋ねると、傾いた軒端の小窓を開いて、白髪の老女が、舟を覗いた。
「今年も水の神が生贄を求めたんよ。主人はベルクの城へ昨日から駆り出されて、まだ帰っておらん。手当てをしてみたいと思わっしゃるなら、こっちへ。」
と落ち着いた声で言い、窓の戸を締めようとした時、巨勢は声をふり絞って、
「水に落ちたのはマリーです、あなたのマリーです。」
と言った。
老女は聞きも終わらず、窓の戸を開け放ったまま、桟橋のほとりに駈け出て、泣く泣く巨勢を助けて、少女を抱き入れた。
 入って見ると、半ば板敷きにした一間だけであった。今灯をともしたと見える小さな「ランプ」が、かまどの上でかすかに燃えていた。四方の壁に描いた、粗末なキリスト一代記の彩色画は、煤に包まれておぼろげだった。藁火などを焚いたりして介抱したけれど、少女は生き返らない。巨勢は老女と遺体の傍らに夜を徹して、消えて跡形もない泡のような、はかなくつらい世を嘆き明かした。
 時は西暦千八百八十六年六月十三日夕方の七時、バワリヤ王ルードヴィッヒ二世は、湖水で溺れて亡くなられたが、年老いた侍医グッデンはこれを救おうとして、ともに命を落とし、顔に王の爪痕を留めて死んだという、恐ろしい知らせに、翌十四日ミュンヘンの騒ぎは並大抵でなかった。町の角毎に黒く縁取った張り紙に、この訃報を書いたものがあり、その下には山のような人だかりがしていた。新聞の号外には、王の遺骸を発見した時の模様に、さまざまな仮説を付けて売るのを、人々は争って買った。
点呼に応える兵士が正装して、黒い毛を植えたバワリヤ兜をかぶったのや、警察官が馬に乗り、あるいは徒歩で走り行き交うなど、人の込みようは言いようがなかった。長い間人民に顔をお見せにならなかった国王であるが、さすがに心を痛めて、憂いを含んだ顔も街には見えた。美術学校でもこの騒ぎにまぎれて、新入りの巨勢の行方が不明なのを、気にかける者もいなかったが、エキステル一人は友の身の上を心配していた。
 六月十五日の朝、王の棺がベルク城から、真夜中に首都に移されたのを迎えに出て帰ってきた、美術学校の生徒が「カフェ、ミネルバ」に引き上げて来た時、エキステルはもしかしたらと思って、巨勢の「アトリエ」に入って見たところ、彼はこの三日ほどで容貌が変わり、ひどく痩せた様子で、「ローレライ」の絵の下にひざまづいていた。
 国王の横死の噂に覆われて、レオニに近い漁師ハンスルの娘一人が、同じ時に溺れたということは、尋ねる人もなく終わった。(2008,7,18訳了)
2010,1,25決定稿





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