そう言うとエリセは、注文していた炭酸なしのミネラル・ウォーターにようやく口をつけて、ぐいと飲み干しながら静かに笑った。 「日本には三度も行ったことがあるのに、夏には行ったことがありません。いろいろな日本映画で、日本人が汗をぬぐいながら『暑い、暑い』と言うシーンを何度か見ました。今度のシンポジウムは夏なので、美しい日本の夏を見ることができるのではないかと、楽しみにしています。
滞在中に東京でしたいことはないのか。見たい映画があればフィルムセンターで上映できるが、五泊で十分か、パリ経由の飛行機で大丈夫か、ホテルは銀座でよいか、など現実的な質問をいくつかするが、彼はそれには答えず、にこりと笑って、「それは後ほどメールでお答えします」という。そして「日本で最も尊敬する友人である蓮實重彦氏と柴田駿氏によろしくお伝えください」と言うと、「それではもう行かなければなりません」と席を立ち始めた。私は慌てて数枚の写真を撮らせてもらって、インタビューとしてまとめる許可を取り、立ち上がって握手をしたが、気がついた時には彼はもう去っていた。時計を見るとちょうど三十分間が過ぎていただけだった。これまで一周間続けてきた旅の疲れが、出張の終わりということもあり、急に全身に回ってきて、しばらくぼーっとして立てなかった。
(2006年6月11日、ホテル・グランヴィア・セナトールのバーにて)