はじめての溝口健二/ビクトル・エリセ、溝口映画を語る

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 ビクトル・エリセと言えば、寡作な映画作家として知られている。その作品のほとんどは日本で公開されているが、『ミツバチのささやき』(1973年)、『エル・スール』(1983年)、そして『マルメロの陽光』(1992年)の次は、オムニバス映画『テン・ミニッツ・オールダー』(2003年)の十分間の映像だから、十年に一本の調子である。2003年の「小津百年」の時、このオムニバス映画の公開と時期が重なったこともあって招待したが、二週間前に「母が重病になったので来日できない」というメールが来た。

 今度、溝口健二の没後五十年に当たり、蓮實重彦、山根貞男の両氏と話し合い、再びエリセに声をかけようということになった。彼の場合、作る映画も少ないが、メールも一ヶ月に一度くらいしか書いてくれない。ノーチラス・フィルムという新しく変わったアドレスに三月初めにフランス語でメールを出すと、ようやく四月二十五日になって、来てもいいというスペイン語の返事が来た。そのメールが少し感動的なので一部引用する。

 「1964年に、私は溝口健二の映画について長文の論考を執筆しました。これはスペインで出版された溝口に関する最初の文章のひとつです。つまり、私はこの映画の世界的に偉大な師に対して、積年の恩があるのです。今回は出席するために出来る限りのことをしたいと考えています」。

 それからまた返事が途絶えた。六月初めにヨーロッパに出張する機会があることを蓮實氏に告げると、「それは会ってくるしかありません。行けば最終的に会ってくれるでしょう。私の時もそうでした。電話がかかってきますから」と言う。予想通りアポを取れないまま出発し、ミュンヘンに滞在していると「残念だがその日郊外に行くので会えない。ホテルに電話はしてみます」とメールが来た。すかさず「渡したい物もあるので、もし短時間でも会えたらありがたい」と返事をした。そしてマドリッドに着き、翌朝10時30分ちょうどに電話があった。あと30分ほどで、別の用事のために部屋を出ろところだった。ゆっくりした声の電話で、今日まで仕事をするので会えることになった、という。15時30分、約束の時間ちょうどに彼はホテルに現れた。挨拶もそこそこに、とりあえずホテルのバーに行く。もともとインタビューをする予定ではなかったが、彼の話がおもしろかったのでメモを取っているうちにいつの間にかインタビューのようになった。以下はその記録である。

古賀太
最初に溝口の映画をご覧になったのはいつごろですか。
エリセ
 1963年です。『近松物語』『雨月物語』など、代表作6本がフィルモテーカで上映されました。溝口の映画を最初に見た時、私は兵役中で、フィルモテーカに水兵の服を着て行きました。

その時の印象はいかがでしたか。
エリセ
 驚愕でした。強烈な印象を受けて、立ち上がれなかったのです。これまでにないものを見てしまった、という感じでした。

日本映画をご覧になるのは初めてでしたか。
エリセ
 その前に黒澤の『羅生門』と衣笠の『地獄門』は見ていました。それらもいい作品ですが、私にはエキゾチズムの要素が強かったのです。溝口の映画はそのリズムというか、音楽的な展開にするすると巻き込まれて、映画を見終えた後も、そのままその世界から出られなくなってしまったのです。

その後のスペインでは溝口を見る機会はありましたか。
エリセ
 実は映画館で劇場公開されたことは一度もありません。まったく恥ずかしい話です。フィルモテーカではその後二回、回顧上映があり、そのたびに見に行きました。その間、三、四本はテレビで放映されることもありましたし、最近ではフランスで出たジャン・ドーシェが解説しているDVDが、スペインでも発売されました。でもそれだけです。

劇場公開されない理由は何だと思われますか。
エリセ
 小津は数本が公開されていますが、彼の場合は現代の日常がテーマなのでわかりやすいのです。黒澤は時代劇でもアクションや視覚的な効果がわかりやすいですから。溝口は中世や歴史物が多いし、現代でも人間の感情の奥底をのぞくような映画が多いので、安易な心構えで見ることはできないのです。じっくりと見れば、彼の映画が日本を越えてユニバーサルな領域に到達していることはすぐにわかるはずですが、普通の人々はなかなかそこまで構えて映画を見てくれません。

ご自分の映画作りに溝口の映画は影響を与えましたか。
エリセ
 影響というのは、よくわかりません。全く文脈の異なる映画を作っているわけですから。また真似をしようとしたことはありません。そんな大それたことができるわけはないじゃないですか。

一番お好きな映画はどれですか。
エリセ
 あの子供の兄弟が出ている映画・・・・・・そう『山椒太夫』です。もちろん『雨月物語』も忘れられません。『西鶴一代女』『楊貴妃』も大好きです。こうやってあげているとニ十本くらいになりそうです。

あなたが40年前にお書きになった溝口論を読みたいのですが。
エリセ
 雑誌に書いたので、どこかにあります。探してみましょう。でも20代の文章なので、今見ると、たぶんかなり勘違いばかりではないでしょうか。

 そう言うとエリセは、注文していた炭酸なしのミネラル・ウォーターにようやく口をつけて、ぐいと飲み干しながら静かに笑った。

 「日本には三度も行ったことがあるのに、夏には行ったことがありません。いろいろな日本映画で、日本人が汗をぬぐいながら『暑い、暑い』と言うシーンを何度か見ました。今度のシンポジウムは夏なので、美しい日本の夏を見ることができるのではないかと、楽しみにしています。

 滞在中に東京でしたいことはないのか。見たい映画があればフィルムセンターで上映できるが、五泊で十分か、パリ経由の飛行機で大丈夫か、ホテルは銀座でよいか、など現実的な質問をいくつかするが、彼はそれには答えず、にこりと笑って、「それは後ほどメールでお答えします」という。そして「日本で最も尊敬する友人である蓮實重彦氏と柴田駿氏によろしくお伝えください」と言うと、「それではもう行かなければなりません」と席を立ち始めた。私は慌てて数枚の写真を撮らせてもらって、インタビューとしてまとめる許可を取り、立ち上がって握手をしたが、気がついた時には彼はもう去っていた。時計を見るとちょうど三十分間が過ぎていただけだった。これまで一周間続けてきた旅の疲れが、出張の終わりということもあり、急に全身に回ってきて、しばらくぼーっとして立てなかった。

(2006年6月11日、ホテル・グランヴィア・セナトールのバーにて)

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