ビクトル・エリセ対話― ビクトル・エリセ+蓮實重彦

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『ベラスケスの鏡』から『マルメロの陽光』へ夕暮れの散歩者にまぎれてマドリッドの街頭で映画を語る

 ぼくが初めてマドリッドに来てプラド美術館を訪れたとき、ベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』はもっと小さな部屋に展示されていたんだと、首都での大学生活を始めたばかりの頃のことをふと思い出すかのようにビクトル・エリセはいう。いまのようにほかの作品に囲まれ、その中央に大きく人目を惹くかたちで置かれているのではなく、人工的な照明などまるで必要としないごく小さな空間に、この絵がひっそりと飾られていたのだ。それに、美術館を訪れるひともいまよりずっと少なかったので、時間の推移につれて微妙に変化する自然の光の中で、一日中、たったひとりでいつまでもこの絵を眺めていることさえ可能だった。

 そう語りつぐエリセのもの静かな口調からは、フランコ政権下に故郷のカレーラスを離れてマドリッドにやってきたひとりの寡黙な青年の相貌が、おぼろげながら浮かびあがってくるような気がする。経済学を学ぶために大学に登録したはずのその青年が、やがて映画学校へと進み、批評文を発表し始め、ついには寡作で知られる世界的な監督となってゆくことになった背景には、首都の名高い美術館の小さな空間の中で『ラス・メニーナス』とともに彼が過ごした時間が、いまも脈うっているのかもしれない。

 『ラス・メニーナス』に描かれている視線を自分ひとりで受け止め、自分ひとりの視線をそのあらゆる部分に注ぎ続けていられるということがどれほど貴重で、どれほど素晴らしい体験であるかは、あなたにも容易に想像できるだろうとエリセは続ける。作者とは何か、観客とは何か、描くとはなにか、見るとはなにかといった、「表象」という問題を考えるのに避けては通れないありとあらゆる要素がここにはすでに出揃っており、その意味で、これは驚くべき「近代」的な作品なのだと思う。それは、この絵に初めて接したときいらい、映画を撮り始めてからかなりの時間がたった今日にいたるまで、いっときもぼくの頭から離れることのない問題だった。だから、ミシェル・フーコーの『言葉と物』が出たときは、『ラス・メニーナス』をめぐる彼の言葉をむさぼるように読み、感動し、賛嘆し、深い共感を覚えたものだ。去年、きみたちがフーコーのシンポジウムを開催すると聞いたとき、ぼくがひとかたならぬ興味をいだいたのも当然だとわかってくれるだろう。だが、そのときはちょうど『マルメロの陽光』の仕上げにかかっていて、マドリッドを離れるわけにはいかなかった。それに、この映画は、ある日、プロデューサーもなしに、何の準備もせぬまま撮り始められてしまったものなので、それが完成したいまになって、厄介な配給の問題まで自分ひとりで処理せねばならず、このところスペイン各地を毎日せわしなくかけずりまわっているところなのだ。当地での公開は十月で、マドリッドでは「アルファヴィル」という劇場での封切りが予定されている。

 そう口にして雑踏のさ中に立ち止まるビクトル・エリセは、眼鏡の奥の彫り深い瞳をしばたたかせるようにして、こちらの目を静かにのぞきこむ。それにつれてあたりの騒音は遠ざかり、彼と並んで繁華街の人混みを歩いていたはずの自分が、「エリセの時間」ともいうべきゆるやかさの中にふっと引き込まれてゆくような錯覚におちいる。かつて東京での別れぎわに、こんどは何年もしないうちに次回作を撮るつもりだからと口にしていたはずなのに、『エル・スール』の監督が『マルメロの陽光』の監督としてわれわれの前にふたたび姿を見せるまでに、やはり十年近い歳月が流れてしまっているのだ。やはり、十年に一本というのが、この監督にふさわしい生理的なリズムなのだろうか。それでいて、カール・ドライヤーのような例外的な「巨匠」だけに許されていたはずの堂々たる寡作ぶりをことさら神話化するかのようなそぶりなど、彼は間違っても人前で演じてみせたりはしない。再会の瞬間、たしかに彼は「時間がたつのは早い」といったはずなのに、それを「時間がたつのが遅い」と聞き違えたように思えてならないのは、マドリッド空港に着いたとき、すでに「エリセの時間」ともいうべきものを生き始めていたからだろうか。

 だが、プラド美術館からさして離れてもいない広場の雑踏のさ中にわれわれを立ち止まらせたのは、そんな「エリセの時間」のゆるやかさに引き込まれたためばかりではない。資金の調達や映画観との交渉といった面倒な問題は製作者にまかせ、自分はひたすら「芸術」に専念すればよいといった傲慢な作家像からは思い切り遠いひとりの監督と並んで歩いていることが、いまでは想像もつかないほど貴重な体験に思われたからである。処女作『ミツバチのささやき』を撮りあげてからすでに二十年が経過し、誰もがその新作を熱い思いで待ち続けていたというのに、このひとはいささかも急ごうとしないばかりか、面倒なものに違いあるまい配給の打ち合わせまで自分ひとりの手でやってのけるのだ。まるで映画がたったいま目の前で発明されつつあるかのように、彼は自分のフィルムと素手で接しあったまま、これを容易に手放そうとはせず、過ぎてゆく時間にいささかも苛立ってはいない。そんなエリセの姿を間近にすると、いまなお「映画を畏れる」敬虔さに恵まれた映画監督がここにいるという思いが、鈍い感動となって足もとの舗道から腰のあたりにせりあがってくるのである。

 時刻は、午後の八時をかなりまわっていただろうか。夏の気配が色濃く残っているスペインの首都ではまだ夕日も沈みきってはおらず、プエルタ・デル・ソルの広場は、遅い夕食までの時間をゆっくり過ごそうとする男女の群れであふれかえっている。いま、ひとりの日本人と立ち話をしている痩せた髭面の男が、カンヌで世界を驚かせたあのビクトル・エリセだと認める者など、もちろん誰ひとりとしていない。ちょうど三十分ほど前に、とびきり美しいプレス・シートをはじめ、新作の資料をいっぱい抱えてホテルに訪ねてくれたエリセは、スペイン語、フランス語、英語からなる三冊の印刷物をロビーのテーブルに並べて拡げ、「作者の言葉」でアンドレ・バザンに触れた部分が、印刷上の手違いからフランス語版だけ抜け落ちてしまったことを、苦笑しながら残念がる。それから、『マルメロの陽光』の原題にあたる<El Sol del Membrillo>という言葉に含まれているスペイン語独特のニュアンスが、どうしても外国語に訳しえないもどかしさを、ひたすら語り始めたのである。

 『マルメロの陽光』とは、たんにマルメロの木に落ちかかる太陽の光線を意味しているのではない。スペイン人が聞けば誰でもが咄嗟に思い浮かべることのできるやや不吉な響きを、その言葉は帯びているのだと彼はいう。それは、マルメロの実が熟し始める九月下旬の陽光を指し示し、子供たちなどはあまりこの時間の太陽に身をさらさないほうがよいという言い伝えさえ、スペイン各地には残っている。だから、たとえばカンヌで上映されたときのフランス語の題名『光の夢想』には、そうした不吉な側面が失われて妙に平板になってしまうと彼はいうのである。

 スペイン語はほとんど分からない者にも<El Sol del Membrillo>という題名には、何か魔術的な美しさが秘められているように思えるのだがという言葉に、エリセはゆっくりとうなずく。マルメロの果実が熟してゆくことのうちには、その果てに待ち受けている爛熟、腐敗、死といったイメージが含まれていると考えていいのだろうかと確かめると、そう、「マルメロの陽光」には、死はいうまでもなく、ひとを狂気へと導きかねない何かさえあるのだと彼はいう。その意味で『マルメロの陽光』は「秋」の映画なのだ。

 もっとも「秋」の映画を撮りたいと前から考えていたわけではない。ちょうど「マルメロの陽光」と呼ばれる九月下旬に、友人の画家アントニオ・ロペスから、これまで一度も描いたことのないマルメロの木を描き始めると聞き、不意に思いたってキャメラをまわすことにしたのだ。もちろん、プロデューサーなどいるはずもなかったし、シナリオさえ一行も書かれてはいなかった。アントニオの試みがどんな結果をもたらすかは彼自身にもわからなかったように、ぼくにも、それをフィルムにおさめていった結果がどんな映画となるかはわからかった。そのようにして撮り始められたのが『マルメロの陽光』なのだ。

 そう説明しながら、自分にとっては満足すべきもっとも詳細なインタビューだといって、あるスペインの批評家との対話のコピーを渡してくれる。彼の指先をたどってスペイン語を読んでみると、結果もわからずに撮り始められたこの映画の精神を、釣り糸を垂れる釣り人のそれに譬えているらしいことが漠然とながら理解できる。問題は結果を示すことではなく、危機的な状態にある人物にキャメラを向け、その反響をフィルムにおさめるという『ストロンボリ』を撮ったときのロッセリーニの言葉が引かれているらしいことも、ほぼ見当がつく。こちらがいくぶんかスペイン語の文章をたどれたことに、ビクトル・エリセはおだやかに微笑む。

 そんな話をしてからホテルをあとにしたわれわれは、共通の友人との待ち合わせの場所であるフィルモテカ・エスパニョーラ(スペイン・シネマテーク)の上映会場「シネ・ドレ」までの道のりを、散歩者の群れをかきわけるようにしてゆっくりとたどり始めたのである。そこで待っているのは、チェマという愛称で知られるフィルモテカの館長プラドであり、ヨーロッパ最高の上映施設を誇る「シネ・ドレ」を、夕食まえに案内してくれることになっている。マドリッドにいるはずなのに行方不明同然に姿を消してしまったエリセの居所をさがしあててくれたのも彼で、館長という名が予想させがちな官僚的な姿勢など微塵も感じさせない映画の徒として、世界的な信頼を得ている。ダニエル・シュミットの新作『季節のはざまで』で伝説の大女優サラ・ベルナールを演じ、アルモドバールの作品にも出ているメリサ・パレデスを妻に持ち、ビクトル・エリセの熱烈な擁護者であることはいうまでもない。

 マドリッドに着いた晩、ホテルの電話番号をエリセにファックスで連絡してから街にくりだし、最初に足を向けたのはもちろん「シネ・ドレ」である。マドリッドで最も古い映画館を徹底的に改装したのだというフィルモテカ・エスパニョーラはホテルから10分ほどのところに位置しており、大小二つのホールのほかに、夏向けの野外の上映施設さえそなわった瀟洒な建物である。プログラムに目を通してみると、夜の10時からダグラス・サークの『必ず明日は来る』の野外上映が予定されている。何たる符合であろうかと、思わず胸がおどる。この1956年のメロドラマに主題として流れていたのが、中年の男女のかつての愛の記憶につながる「ブルー・ムーン」の旋律であることは誰もが知っている。そして、ビクトル・エリセの『エル・スール』に挿入されるモノクロームの30年代メロドラマで、父親オメロ・アントヌッティがひそかに愛した女優が口ずさむメロディもまた「ブルー・ムーン」だったからである。オーロール・クレマンがこの旋律をまったく知らなかったので、自分が口移しに歌って教えねばならなかったとエリセが苦笑していたことが、きのうのことのように思い出される。ゆうべは「シネ・ドレ」で『必ず明日は来る』を見ながら「ブルー・ムーン」を口ずさんだという言葉に、エリセの顔がほころぶ。

 ところで、雑踏でごったがえす夕暮れの戸外に歩みだしたわれわれがベラスケスの『ラス・メニーナス』を話題にしたのは、わたくし自身が午前中に、ひとけのないプラヅ美術館で初めてこの傑作に接しえたことの感動を口にしたという事情もさることながら、4、5年ほど前に、エリセが『ベラスケスの鏡』という魅力的な題名の作品に着手するという噂が流れ、その脚本さえ書き上がっているはずだと教えられたことがあったからだ。題名からして『ラス・メニーナス』が主題となることは明らかであり、そんな話があったので、フーコー・シンポジウムへの参加を呼びかけたりしたのである。ところが、その着想とプロットの一部を盗んだとしか思えないハイメ・カミーノのスペイン映画『ベラスケスの女官たち』が撮られてしまい、エリセの企画は実現せずに終わったという悔やんでも悔やみきれない事情があったのだ。その企画はいったいどんなもので、その後はどうなったのか。

 まるでその問いを待ち受けていたかのように不意に能弁になるエリセは、自分のアイディアを盗んだ監督への怒りだの蔑みだのはまったく感じさせない語調で、決して放棄したわけではないというその企画のことを憑かれたように語り始める。時間の余裕も充分にあったので、どこかのカフェのテラスに腰を落ち着けようといってホテルの出たはずなのに、『ベラスケスの鏡』が話題になった瞬間から、エリセの足取りからは座る場所へ向けての歩行という性格が希薄になってしまう。

 あれは、ある人物にシノプシスを送ったところ、その内容が漏れてあんなことになってしまったのだ。しかし、その監督にはたいして方法意識もなかったので、『ラス・メニーナス』の画面に現代の人物がまぎれこむというぼくのアイディアのほんの一部を盗んだものにすぎない。そう口にするエリセは、次第に能弁になって、ぼくの最初の発想では全編は三部からなるものだったと語りつぎながら、あらぬ方向に足を向け、赤信号の車道へふらふらと進みだしてしまう。思わず袖を引っ張ると素直に踏み止まるのだが、彼の進もうとする方向が目的地の「シネ・ドレ」とは正反対のような気がする。

 第一部はドキュメンタリー的な部分だ。『ラス・メニーナス』を前にして、あらゆるひとがこの絵画について話をする。専門家もいれば普通のひともいて、いわばこの作品について語りうるすべての言葉が記録されてゆくことになるであろう。教科書ふうのごくありきたりなガイドの話もあれば、毎日これを見ていながらじつはまるで見ていないことがわかるガードマンの話もある。展示室を箒で掃除してまわる老女にもしゃべってもらう。つまり、この絵画の前で演じられる現代のマドリッドのある一日を、そっくりそのまま再現するのだ。そう語りながら歩き続けるエリセに歩調を合わせていると、次第に方向感覚が狂ってきて、自分の居場所が定かではなくなってくる。

 その箒を持った掃除女が、『ラス・メニーナス』に描かれている奥の扉に縁どられた広い空間から、絵画の中に静かに登場する瞬間に、第二部が始まる。それをきっかけにして、こんどはベラスケスのアトリエでの一日が描かれることになるだろうといいながら、エリセは街角をまがる。その言葉を耳にしたとき、あっと声にならない声を喉もとでおし殺し、やや足をもつれさせる自分が、すでに「エリセの空間」へと引きずり込まれていたのはいうまでもない。

 この画面で唯一外部の光がさしこんでくるあの白い長方形の空間から、ひとりの人物が暗い室内に入ってくる。それは、現在と十七世紀のスペイン宮廷とをつなぐ何とも映画的な発想であると同時に、まさにジョン・フォード的な空間の設定そのものではないか。エリセによれば、ベラスケスのアトリエでの一日を記録するキャメラは、必ず同じ軸のうえにすえられることになるだろう。つまり、人物たちの背後には、『ラス・メニーナス』に描かれた部屋の細部の装飾がいつでも同じ方向に見えていなければならないというのだ。結果的に、構図=逆構図による切り返しショットは徹底して排除されることになるだろう。

 そうした技術的な制約は、もちろん、この絵を成立せしめている視線の交錯ぶりを映画でも維持し続けるための配慮でもあるだろう。だが、同時に、グリフィス的といってもよかろうキャメラの軸の一致にこだわるという点で、それはきわめてジョン・フォード的な空間を現出せしめるものともいえるのだ。ことによると、ベラスケスの『ラス・メニーナス』は、グリフィスの原理にのっとって描かれた絵画だったのかもしれない。そして、もし『ベラスケスの鏡』が完成していたとしたら、十年に一度しか映画を撮らないこのスペインの監督によって、デイヴィッド・ウオーク・グリフィスとベラスケスという二つの名前の驚くべき類縁性が証明されていたかもしれないのだ。エリセ自身は、はたしてそのことに意識的なのだろうか。

 それをあえて口に出すことはしなかったので、相手にこちらの動揺が伝わった気配はもちろんない。あいかわらず歩みをとめず(そもそも、われわれはどこに向っていたのか・・・・・・)語り続けるエリセが素描してくれた第三部は、それ以前の部分とかなり様子が違っている。こんどは、すべてがスタジオのステージの中で起こるのだという。そこにはこの映画の撮影に参加した人びとが集まっており、彼らの映画人としての一日が語られることになるだろう。だが、不意に、ベラスケスを愛するあまり『ラス・メニーナス』を破壊するというかたちでそれを所有せねば気がすまないという男が登場し、それを契機として、すべては狂気をはらんだ幻想映画風のものとなる。

 その男の幻想が画面に現れるのだと聞いたような気がするが、これは確かではない。また、この第三部でも背後には問題の絵画が見えているのか否かも聞きそびれてしまった。ただ、きわめて現実感のある光景の記録して始まっていたはずの『ベラスケスの鏡』が、どこかで幻想的な終わり方をせずには気のすまなぬ映画になっていることだけはわかり、それが、いま、一篇の映画として見ることのできない不当さが改めて募ってくる。

 いや、この企画を放棄したわけではない。いつか映画にとることだって不可能ではない。しかし、なにしろベラスケスの作品を登場させるのだから、これまでの映画よりはやはりいくぶんか予算がかかるだろうけれどね、と微笑むエリセの表情は、知らぬまにいつもの平穏さとりもどしている。気がつくと、われわれは「シネ・ドレ」のもうすぐのところまで来ていたのである。

 映画関係の書物がぎっしりと並んだ売店が奥に見える「シネ・ドレ」のサロンに腰をおろし、冷たいものを飲みながら(いわゆるアイス・コーヒーがスペインに存在することをここで発見する)、こんどフィルモテカ・エスパニョーラから素晴らしい本が出たんだとエリセがいう。チェマが来たらきっとあなたにも進呈すると思うけれど、ムルナウ研究の二冊本なんだ。ドイツ時代とアメリカ時代でそれぞれ一冊ずつ、ちょっと片手では持ちあがらないほど重く、資料的にもとても貴重なものが多く含まれているので、近くドイツ語にも翻訳されることになっているのだそうだ。特集番組と関係する豪華な書物の刊行で名高いこの出版物の中でもとりわけ評判の高いこの本のことはいたるところで聞かされていたので、いずれ手にしてみたいと思っていたものだ。ちなみに、同じフィルモテカの双書で、エリセ自身もすでにニコラス・レイ研究を監修している。

 誰もが知っているように、ビクトル・エリセはまず映画評論家として出発したひとである。彼はいまでもよく映画をめぐる文章を発表しているのだろうか。その問いに、つい最近、『街の灯』のラストシーンのことを雑誌に書いたばかりだと答えるのだが、チャップリンとエリセという取り合わせには、いくぶんか意表をつかれ、思わず『街の灯』と口ごもってしまう。いや、あそこには、チャップリンとその母親との関係が出ていると思うんだ。彼の母親というひとは、病気がちで、彼がそばにきても誰だか分からなくなることがよくあったそうだ。で、近くに来て体にさわってみて、初めて息子だとわかってくれたらしい。だから、『街の灯』のラストで相手の女性の目が見えるようになったとき、手に触れてみて初めて彼だと分かるという場面には、そうした関係が反映しているように思うというのが、その短い文章の趣旨なのだ。もっとも、父親のほうもいつも酔っ払っていて、まわりの人間が誰だかなかなか分からなかったらしいのだがと、エリセは笑う。

 しかし、いまいちばん書いてみたいのは、映画と絵画との関係についてだという。『ベラスケスの鏡』の企画が挫折したあと彼が撮りあげた『マルメロの陽光』も、この二つの視覚的な表象形式の問題を正面から見据えたものなのだから。それも当然だろうと素直に合点がゆく。事実、彼が十年ぶりに発表した『マルメロの陽光』は、光線の中での色彩と形態の推移に視線を向けながら、そこに時間をいかにして表象しうるかをめぐって絵画と映画とのそれぞれの可能性と限界をみきわめようとするきわめて「実験的」な試みである。それでいながら、語の悪しき意味での「前衛性」からはもっとも遠い穏やかな表情のフィルムがそこから生まれ落ちたのは、エリセが、ともすれば時間を超えた空間に作品を結実させようとするあの「芸術的」な野心をかたくななまでにおのれに禁じ、あくまでも時間に寄り添おうとしているからだ。彼の映画の真の「前衛性」が見るものに触知可能なものになるのは、その「エリセ的」な時間を通してなのである。

 「マルメロの陽光」があたりの秋の到来をつげようという頃、ひとりの画家が、アトリエの庭の小さなマルメロの木に向けてキャンバスを据え、その黄色の実が熟すまで、毎日絵筆を走らせようと決意する。その知らせを聞いてアリフレックスをかついでやってきた映画作家が、マルメロの木を前にした画家の振舞いとキャンバスの上の絵筆の動きとを、一日も休まず克明にフィルムにおさめ続けようとする。時間とともに光の推移を見据えようとすること。それが、ここでの画家と映画作家とに共通の姿であることはいうまでもない。それに従って、マルメロの木は微妙に表情を変えてゆくだろう。その際、この画家が、印象派的なタッチの色彩でキャンバスを埋めてゆく画家でないことに注目してほしいとエリセはいう。アントニオ・ロペスは、ベラスケスを師とあおぐリアリズムの画家であり、あくまで形態にこだわる。

 実際、映画を見てみると、画家が、イーゼルの位置、キャンバスの角度、モデルとなった木との距離などを厳密に計測し、地面に印をつけ、水平に張り渡した糸の中央に円錐を垂らして構図を決定すると、毎日同じ姿勢を守り続けているのがわかる。直射日光を避ける目的で、マルメロの木はテントで覆われさえするだろう。エリセのキャメラは、そうした日々の実践のまわりで起こるものごとを、撮影の日付を画面に記しながら、視覚的かつ聴覚的に記述してゆく。

 最初にあらわれる日付は1990年9月26日、文字通り「マルメロの陽光」とよばれる秋の一日である。画家が絵筆をおくまで撮影が続けられるだろうが、それがいつのことかは誰にも予想がつかないし、それが完成の瞬間だという保証さえないのである。

 画家はいつもトランジスター・ラジオを持って庭にあらわれ、ほとんどの場合クラシック音楽を聞きながら絵を描いてゆくのだという。録音の関係で同時録音しておいたものをそのまま使うわけにもいかなかったが、この映画で聞こえてくるもの音はすべて撮影時に現実に聞こえたもので、ラジオやテレビの放送なども、録音していなかったものは、あとで同じアナウンサーに頼んでスタジオで録音したものだという。アントニオが庭の木に向いあって絵筆を走らせ始めたのとほぼ同時に、アトリエの壁を修復するためにポーランド移民の労働者が出入りすることになるのだが、祖国には存在しないこの果実を試食する彼らの表情も克明に記録されてゆくことになるだろう。ラジオからは、湾岸戦争のニュースや音楽が流れ、ときおり、アトリエの近くを走る鉄道の路線や、首都の濁った空にかかる満月などの画面が短く挿入される。

 マドリッドの夜空に丸い月が出ている。ただそれだけのことが妙に新鮮に感じられるのは、これまでのエリセの映画の舞台装置が決って首都を遥かに離れた土地に設定されていたからだろう。そう、『エル・スール』の劇中劇をスタジオで撮った以外は、いつでもマドリッドからは遠い場所で映画を撮っていたとエリセはうなずく。今回は、なにしろシナリオなしに撮影を開始したので、この年の秋、マドリッドの画家のアトリエの周辺に起こったことは、すべて周到に記録しておきたかったのだ。キャメラは移動させない、ズームの使用も避けるというのが、撮影にあたっての原則であるという言葉からは、画家の絵筆がキャンバスをはみ出ることがないように、映画作家もフレーミングをしっかりと固定させているという事実がうかがえる。

 ただ、マルメロと向いあって絵筆を走らせる画家の側にも、またそのさまをフィルムにおさめる映画作家の側にも認められるそうした厳密が配慮が、はたして季節の深まりとともに次第に熟れてゆくマルメロの実の生命をとらえることができるのか。かりに、キャンバスの上に日々修正が加えられていったにしても、たとえば、熟しきった果実が枝から離れて落下する瞬間を、画家は、どのようにとらえられるというのか。あるいは、その不可能性に行き当たる画家の内面を映画はどのようにとらえることができるのか。

 すでに、映画が始まった瞬間から、見るものは異様なサスペンスのさなかに身をおくことになる。そのサスペンスは、しかし、いささかも劇的なサスペンスではない。表象形式そのものの限界が露呈されかねない状況を耐えねばならぬものにとって不可欠な、リアルなサスペンスがフィルムの表層に異常な緊張を走らせるのである。それがどのような結末を迎えるのかはいわずにおこう。ただ、『ベラスケスの鏡』がそうであったように、画家をめぐるドキュメンタリーとさえとらえかねない映画が、ゆるやかに幻想映画へと移行してゆくということだけは触れておいてもよかろう。その幻想的ななにかが、「マルメロの陽光」によって加速される季節そのものの死滅、すなわち成熟したもののたどる爛熟、頽廃、腐食といったものを画面に漂わずにおかぬことはいうまでもない。

 エリセは、あるときアントニオ・ロペスが口にしたのだという言葉を、きわめて意義深いものとして披露する。これは、インタヴューでも触れられていることだが、映画というものは、人類があまりに歳をとりすぎてから発明されたものだと画家がいったというのである。若々しい芸術と思われていた映画は、じつは老境に達した人類にこそふさわしい表現手段なのかもしれない。そういわれてみると、映画はわれわれの文明の黄昏の表現であるのかもしれず、『マルメロの陽光』という題名は、そうした「秋=黄昏」を意味しているものといえなくもない。

 エリセがそうつぶやくように口にしたとき、思い二冊のムルナウ研究をかかえたチェマ・プラドが姿を見せる。さあ、食事に行こうというその声に促されて立ち上がり戸外に出ると、「シネ・ドレ」の前の通りの家並みに切り取られた細い夜空に、満月に近い月がかかっている。

 あ、マドリッドの月だ。その声に、月光を浴びたふたつの黒い人影がゆっくりと振り返る。

蓮實重彦 映画巡礼』より

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