木霊を喚起する力

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 耳をすますべき映画

武満 ぼくは、このところ、やや映画禁断症状だったもんですから、こんな密度の濃い映画をみて、正直こたえたっていうのが実感です。だが、こたえたって言っても、重くもたれるようなもんではなくて、実に気持ち良いんですね。何度も涙が出て困ったもんです。こんなこと、久しぶりですね。

 すばらしかったのは、『ミツバチのささやき』の場合もそうでしたけど、大事な事を言う時にも、決して叫ばないし、大論陣をはらないんですよね。静かで、それでいて実に濃密で……。このところ5年ぶりで何本か映画づくりをやってみて、日本映画が、どうも何か、内的ファンタズムやイメージと関係なく、お話をつくるってことばかりに力を注いでいるような感じを持ったんです。エリセの場合、そういうところが全くない。すばらしいですね。
蓮實 くやしいほどすばらしい(笑)。エリセは、みたところ華奢な人なんだけれど、強さ――と言っても、大袈裟にどなりたてたり、他人を無視して自分だけの世界に閉じこもるといったような強さではなく、ごくつつましいコミュニケーションを信ずる者の強さ、そういう強さを改めて想い起させてくれる人だと思います。物語を考えている時に、それがもう映画として発想されているんですね。映画作家にとってあたりまえのことかもしれないんだけれども、映画がイメージであり、音であり、その交錯であるっていうこと、それをどんな条件の下でも忘れない。それ以外の要素で見る者を納得させちゃうということを決してしない。例えば、映画館から出てきた父親がカフェに入って手紙を書きますね。あそこでも、どこに座らせるかなと思っていると、窓際に座らせて、そのことが後で生きてくる、こういう配置、演出。手紙を書くということを抽象的に発想していないな、ということがまざまざとわかる。それから、ガラス窓を隔てて、父親と娘がフッと笑いあう気づまりな笑い、あれで状況というものを一瞬にして見せちゃうわけです。
武満 あのシーン、まさに映画だなぁっていう感じがするんですね。二人のサイズが実にいいし、またちょっとした移動が見事だし……。それに物音の使い方、特に外からの音の使い方が見事だと思いましたね。例えば、駅近くの宿屋のシーン。カメラは全く動かないんだけれど、外からの物音によって空間が実によく動いている。それは冒頭のタイトル・バックの朝の光線の入ってくるシーンからすでにそうで、映画でしかとらえられないなめらかな時間の動きを見事に表現していると思うんです。言わば、ささやきかけてくる映画、ぼくたちはそれに耳をすまさなくてはならないような映画ですね。


 したたかな語り手

蓮實 冒頭の朝のシーン、あそこで、外の物音、犬のなき声、女の人の声などから、ぼくたちは、家族構成とか物語とか、わからないままに想像させられてしまう。そのぼくたちの想像の誤りがやがて少しずつ訂正されていく。こういうところは、物語作者としてもしたたかだなあ、という気がしましたね。
武満 エリセの人柄をみてるとふさわしくない形容なのかとも思いますが、いかにもしたたか、という感じがしますね。
蓮實 『ミツバチのささやき』の場合もそうだったんですが、エリセは、特に人を椅子に座らせる時、それからベッドに横たわらせる時が非常にうまいな、と感心したんです。テーブルで二人が向かいあうと、だいたい構図=逆構図で単調になるものなんですが、カフェにしてもホテルにしても片隅に座らせて、こんなところでいい絵ができるのかなと思っていると、ホテルの場合は、その片隅にちょうど対角線のあたりにボーイを一人置いて、その間の空間を、何もないのに最も劇的な空間になるように配置する。すばらしいと思うんですね。それから、冒頭、少女がベッドに寝ているシーンから始まって、母親が寝る、父親が寝る。その寝方、横たわり方が、映画では人間はなかなかうまく横たわってくれないものなのに、これしかないっていう形に、小さな画面の中に横たわらせていく。これにも感心しましたね。
武満 初聖体拝受の祝宴の時に、父親と娘がアコーディオンで初めてパソ・ドブレを踊って、今度は最後の別れになることになったホテルのシーンで、同じ「エン・エル・ムンド」の曲が今度はオーケストラで流れて、あそこでキャメラがぐっと上がる。あれは、まさに「映画」で、昔ながらの映画なんだけど、しかしいつまでも新鮮で……にくいですねえ。
蓮實 澤井信一郎さんが言うには、あそこのクレーン撮影がまずすごい、それから、逆に見た時に低い位置に少女の顔を出す、あれが……。
武満 そう、あの逆に切り返した時の少女の顔が実にいいんですね。やはり、かなりしたたかな人ですよ(笑)。
蓮實 これだけしたたかなんで10年に2本しか撮らないのかなあ(笑)……ゴダールやファスビンダーの場合は、やたらに撮りまくる。最近ではヴェンダースもそうですが、ひたすら動きながら自分を映画に向かって組織していく。それに対して、エリセの場合は、じっと動かないで、自分の世界を見つめていて、それを時がくると現実化していく。その現実化されていく過程で、多分、彼の頭の中にあったものと寸分違わないものが出来ていくのではないか。そういう形での寡作ぶりというのは、昔の秀れた演出家が、自分の思う通りに装置を作って映画を撮っていったのと同じような効果を生んでいるんじゃないかと思うんですね。今ではそういうことができないので、みんな、かなり安易にやってしまうところを、寡作ぶりによってカヴァーして、かつての大家と同じような映画的充実感にまで高めてしまうのではないという気がしまう。


 ジョン・フォード的要素

蓮實 ぼくが最初にこの映画をみたのは、数年前のロカルノなんですが、その時は、ああ綺麗な映画だなあ、スペインにはこんな監督がいたのかと思ってみていたんですが、正直に言って、途中まではのめりこむまではいかなかったんですね。ところが、父親がふりこで水脈を探すシーンがありますね。あそこで、少女が後ろにまわって、父親の手の中の銅貨を一つひとつ渡していく。まわりには何もない光景の中に二人だけの前後の並び……。
武満 あそこの撮影は難しいですよ、ほんとに。
蓮實 それだけでも、ぼくは非常に素晴らしいと思ったんですけれども、その後で、水脈を探しあてた父親が、銅貨を少女に向かってボッと投げると、少女がスカートを広げてパッと取るんですね。アッと思った。あれはジョン・フォードしかやったことのないことなんですね。
武満 モーリン・オハラですね(笑)。
蓮實 『わが谷は緑なりき』なんですよね。おそらく意識はしていないと思います。『わが谷』の場合は、一日働いてきた人たちがお母さんのエプロンの中にお金を投げこむわけで、父親と幼い娘というのは文脈も違うわけです。ですけど、意識はしないままに、そういうものが映画の行間にフッと出てくる。あそこでぼくはドッと泣きましてね(笑)。それから後はもう(笑)……。他にも無意識的にジョン・フォード的なことをやっていますよね。あの足音なんていうのもそうだし……。
武満 よく日本の映画監督が、「ホンがないんですよね」って言うんですがね、ぼくはホンなんていくらでもあると思うんですよね(笑)。この映画だって、ホンがどうだっていうもんじゃないでしょう。だけど、すばらしいシナリオですよね。それに、これは完全な娯楽映画ですよ。
蓮實 そう、誰がみてもわかる映画です。それでいて平均値的なわかりやすさにも安住していない。最近、映画の中に映画が出てくると、だいたい意識的な引用行為で、かなりのシネフィルにしかわからないものであったりするんですが、エリセの場合はそうじゃない。映画をよく知っていながら、シネフィルにしかわからないようなことはしない。第一、実に通俗的なお話ですよね。父と娘の関係、お父さんが誰か他の女の人が好きで、お母さんが離れていくとか、実に通俗的で、語り方によっては凡庸なメロドラマになりかねない。そこを発想の映画性が見事に救ってる。


 スペクタクル的感性

蓮實 この間、ジュネーブのオペラ座で『ルル』の演出をやっているダニエル・シュミットに会ったんですが、彼が言うには、20世紀の後半にいるぼくたちは、ある時期から、スペクタクル的なものへの感受性を失ったんじゃないか、というんですね。常に音楽を流している都会の環境とか、いつでも視覚的なものを提供しつづけるテレビとか、そういうものによってですね。僕もそうだと思うんですね。そこで、この『エル・スール』をみると、そこに感性豊かなスペクタクルの再現を感じるんです。
武満 あ、それは、全く同感ですね。『ランボー』だとか、『スペースバンパイア』だとか、一種のスペクタクルのはずなのに、全くスペクタクルになっていないんですね。映画があれだけ大がかりになってきているのに、スペクタクル感覚が失われているというのは、実に困ったことで、それに対して、逆にこの『エル・スール』こそスペクタクルを感じさせたんです。
蓮實 題材は時間的にも空間的にも限定されていながら、その限定を越えて広がりだしていく力をもった、繊細なスペクタクルですよね。ぼくも、ほんとうにつまらない映画をロカルノ映画祭でたくさんみせられて、特にシュレイダーの『MISHIMA』なんて、全くスペクタクル的感性ゼロの三島でね……。
武満 彼の『ヤクザ』なんかみても、フラットなもんですよね。
蓮實 スペクタクル的なものへの意志はあっても、みる者の感性はいささかも揺れ動かない……。
武満 『エル・スール』の場合は、例えば、父親が二階で杖をつくところなんかにしてもすごいし、映画の中にミステリアスな部分がたくさんあるし、実にスペクタクル的です。


 抽象的閉鎖空間の中で

武満 それから、この映画は、大変に限られた空間の中で、その限られた空間の中にサンチマンが盛りこまれていって、それがこちらに滲みこんできて溢れてくるという感じで、ぼくは、何と言うか、アガーペの映画とでも言いましょうか、そんな感じを持ったんですがね。
蓮實 そうですね。『ミツバチ』の時もそうだったわけですが、見渡すかぎり何もないような広大な土地にありながら、物語が展開されるのは一種の閉鎖空間ですよね。外界から切り離されてしまった抽象的な閉鎖空間――。その抽象的な閉鎖空間の向うに途方もない広がりがあって、そっちで何か事が起こっている。そこから人がトラックや汽車でやってくるし、そこに向って手紙を出す。この感じというのは、またジョン・フォードにひっかけますと、ぼくは、騎兵隊の砦だと思うんですね。西部の砦の近くに汽車が通っていて、そこまで馬に乗って人を迎えにいく……これまた抽象的な閉鎖空間だと思うんです。そこに女の子を出して、それをまた違った二人の役者にやらせる。これもすごい映画的冒険だと思うんですね。
武満 それを不自然でなくやってのけていますよね。
蓮實 NHKの連続ドラマなんかで、よく違った女優が一つの役をやったりしますが、あれは、みる方が仕方がないから受け容れてるわけですよね(笑)。この映画では、初めに年長の少女が出てきて、それからいったん年少の子が演じる場面が続いて、その子が道の向うにフーッと消えていって、また年長の子に切りかわる。あの時に、あの子を初めてみたような気がするんですよね。
武満 そうなんですね。あそこもすばらしかったですね。だけど、ほんとに限定された空間で、ほとんど動かないで、それでいて、これだけ動いているっていう感じが出せるっていうのは、不思議な感じがするなあ。だけど、それが演出の力なんでしょうね。フェイド・アウトのタイミングにしても、オーヴァラップのタイミングにしても、実に見事ですね。画面はフェイド・アウトしながら音はフェイド・アウトしないとか、ああいう呼吸っていうのは、ぼくら、現場でやってて、なかなかうまくいかないものなんですよ。
蓮實 澤井さんに聞いたら、最近は進歩したんだけれども、あの種のオーヴァラップというのも、非常に技術的に難しいものらしいですね。
武満 澤井さんなんか、たぶんこの映画、好きでしょうね。
蓮實 ええ、喜んでました。彼は、あまりクローズ・アップを使いませんが、この映画はクローズ・アップが多いですよね。それで、どうですかって聞いたら、こういう心理の説明ではなくって、表情のよさを出せるようなクローズ・アップなら、今度は使いたくなりましたって言っていました。
武満 それから、この映画では、ダイアローグの録音の仕方が、全部一つのポイントでとっていますね。
蓮實 あ、なるほど。
武満 中に出てくる映画の台詞ですら、そうです。他の物音はみんな空間をもってとっていますが、ダイアローグはみんな一つのポイントなんですね。これはとてもおもしろいと思いました。それだけに時間的・空間的な密度が増すわけですね。『ミツバチ』もそうでしたが、これも音の演出も技術も非常にいいですね。
蓮實 撮影についても、ぼくは、『ミツバチ』もよかったけれども、夜景の撮影なんかはちょっと失敗かな、とも思ったんですが、今度はすべてが全くすばらしいと思いました。


 親娘のイメージ

蓮實 ところで、この映画は、父親と娘の物語でもあるわけですが、その点についてはいかがですか。
武満 父親として、かなり反省させられましたね(笑)。それから、娘にみてもらいたいと思いましたね。
蓮實 『ミツバチ』の場合もそうでしたけど、父親のイメージというものが絶えず娘の少女によって反芻されていくわけですね。そして、その父親のイメージが家父長的なものではない、というところも共通していますよね。娘にとってはどうしてだかわからないんだけれども、ある挫折があって、仮に今のこの状況にいるんだ、その仮にいる状況を何か他のことでまぎらわさないとやっていけない、という、こういう父親像というのは、エリセが両作ともに娘を設定しているということと、何か関係があると思うんです。この父と娘の関係は、いわゆるエディプス的関係というのではないわけですよね。むしろ、何もわからない娘の方が父親の苦悩を察してやるという……。
武満 ええ、ええ、そうですね。
蓮實 父親の方は、庇護者としての役割を十分に演じきれないで、逆に娘の方がそういう父親をかばってやる。そのかばい方が、何をしてあげるというわけではなくて、ただ窓の向うからフッと笑いかけてやったり、バラの花を間にはさんで父親としばらく一緒の時を過ごしてやったり……。
武満 「サボれないか?」「え……やっぱりサボれない」と言っていて、だが娘もなかなか行ききれないで、というあたり……にくいですね(笑)。父親は若い時に政治運動して挫折したんじゃないか、その頃恋人がいて、今もその女を想っているんじゃないか、そんなことは、ほとんどかすかな風のようにしかわからないようになっているんですよね。ありきたりの映画では、そんな過去のエピソードがセピアで出てきたりして、ガックリくるんですがね(笑)。映画というのは、時間のコンティニュイティについて、様々な独自の表現ができるのにもかかわらず、それを生かしていないどころか、むしろよってたかってそれをだめにしている(笑)。そういう映画が多いなかで、こういう映画をみると、ホッと救われた想いがします。
蓮實 それから、母親が、ぼくたちの想像以上に、きつい硬ばった顔をしているんですね。包容力のある母親というんじゃなくて、何かを閉ざしているような顔。それに対して、娘の方も、あの、母親がベッドに寝ていて、娘が近づいていくというシーンがありましたが、あそこでも、娘の表情に、母親に対する甘えが全くないんですね。ところが、よくみていると、着ているものが、毛糸のセーターとか、手づくりで作ったに違いないものばかりなわけですよ。
武満 母親が毛糸を巻いているシーンがありましたね。
蓮實 ええ、そういうところだけで母親が娘を包みこむ関係を出して、あとは、内戦の時代の心の傷を持っている母親を、娘が、それと知らないのに理解してやっているという関係を出している。手編みのセーターと、それを着ている娘の甘えることのない視線とのかかわり、こういうところにもぼくは感心しましたね。
武満 あの母親役の役者も、ぼくは、なかなかいいと思ったな。
蓮實 あの顔がもう少しやさしかったらぶちこわしになるという、ぎりぎりの厳しさを持っていますね。


 国境を越えた交感

蓮實 ぼくがもう一つ、作品の質とは別におもしろいと思ったのは、エリセと同世代の監督たちの間で、同じ役者を回しているんですね。例えば、この映画の場合……。
武満 ああ、父親役のオメロ・アントヌッティがそうですね。
蓮實 それから、女優役のオーロール・クレマンが、ヴェンダースの『パリ、テキサス』に出てますね。その他にも、最近、同世代の秀れた監督が、意外に同じ役者を、何かフッと感ずるところがあってではないでしょうか、使っている。『エル・スール』のオーロール・クレマンも、『パリ、テキサス』のオーロール・クレマンも、何か非常に影が薄いんですね。『エル・スール』での影の薄さを、ヴェンダースがみてかどうかは知りませんが、『パリ、テキサス』の中で非常にうまく使っていると思うんです。
武満 あそこで、オーロール・クレマンに、スペインなまりふうの「ブルー・ムーン」の歌を歌わせた、あの歌わせ方なんていうのは、凝ってますよ(笑)。
蓮實 エリセが演出しようとしたら、彼女は「ブルー・ムーン」ていう歌を知らなかったそうなんですね。そこでエリセが自分で歌ってみせて教えたらしい。だから、あそこの、ああいう感じが出て……ああいうのを異化効果っていうんじゃないでしょうか(笑)。
武満 そうですね。まさに異化効果ですね(笑)。ぼくは、あの歌きいて、びっくりしちゃった。
蓮實 役者が歌を知らないということで、映画がそこで壊れるんじゃなくて、巧まずして、そういう妙な効果を出しちゃったということですね。
武満 だけど、最近ひどい映画ばかりみてきたもんだから、こういう映画をみると、ああ、まだ大丈夫だと、うれしいですね。残念ながら日本じゃなくて、スペイン映画だけど……。
蓮實 だけど、ぼくは、スペイン人っていう感じよりも、同世代人という感じがするんですね。
武満 ああ、なるほどね。
蓮實 もうこのままでは映画は死ぬしかないっていうことを知っていながら、その意識の上での映画的パフォーマンスですよね。その意識がないと、おそらく、これだけのものは出てこないと思うんです。その意識を共有している人たちを、ぼくはどうも他国人とは思えない。同世代人というふうに思うんです。彼らにしても、例えばエリセにすれば、同国人の監督よりヴェンダースのことが気になるだろうし、ヴェンダースにしても、そうだと思うんですよ。おそらく、そういう世界的連帯ができたのは、かなり新しいことだと思うんです。
武満 そうですね。最近のことですね。
蓮實 遠くの方からフッとあいさつを送ると、それに思いがけない親しみをこめて、あいさつが返ってくる。自分ひとりでやっていると思っていたら、同じようなことをやってる奴が、国境の向うの山の向うにいたという感じ。最近の世界の映画が持ちはじめた、大変にうれしい共感の現象だと思いますね。映画祭やレトロスペクティヴが盛んになる時代にのみ可能な現象だと思いますし、大会社による配給系統が崩れて、小会社による配給が行われていったことが、こういう現象を引き出したのだし、さらにそれを促進していくべきだと思うんです。つい最近、ロカルノ映画祭でみた『フーヘンフォイエル』という作品を撮ったフレディ・ミューラーという人にしても、実に孤独なんですね。孤立無援のところで映画づくりをしている。
武満 ドイツ人ですか。
蓮實 スイス人です。彼などは、おそらく、『エル・スール』のエリセなんかと連帯できる人ではないか、と感じました。エリセ以上に孤独で、自分だけやっているという感じなんですが、それが必ず連帯を呼ぶことになると思うんですね。


 つつましさとあたたかさ

蓮實 日本でもアメリカでも、だいたい映画はだめになってきていますが、ぼくは、やはり何を言わずにおくべきかということを知っていない人が映画を撮ったらだめだ、と思うんですね。エリセは、それをちゃんと知っている。ですから、そこから、何を言わなければならないかということも当然きちんと出てくる。家の前の道をどう撮るか、道から家に入ってくる人たちをどう撮るか、こういう点については彼は徹底して追求するわけですね。ですけど、そのかわり、道の向うに何があるかは、絶対に見せない。ほとんど家の前の道しか撮らないで、後は遠ざかっていくだけだ、という、それはしっかり守っていく。
武満 そこから、観客は、道の向うにある何かに思いをめぐらすわけだし、それと同時に、ぼくらがみせられている道自体の様々な表情に気づかされるわけです。あの落葉の道とか、あるいはブランコの音が聞こえて、それからしばらくして撮されると、ブランコのひもが切れているのがチラッとみえるとか、この辺も実にうまいですね。
蓮實 ブランコなんていうのは、あたりまえの発想なんですがね。ところが、みんな忘れているわけですよね。
武満 そう、ブランコなんて、だいたい陳腐なんですが、それを全体のコンティニュティの中でうまく使っている。
蓮實 それから、風見の出し方もね、実につつましやかに、適確に出すし……。
武満 そう、つつましいですね。
蓮實 つつましさがいかに雄弁になりうるかっていう、最近の映画作家が忘れてしまってることを、エリセは見事に示してくれていますね。逆に、南から来たあの乳母なんか、ひたすらしゃべるわけですが、そのしゃべりがちっとも饒舌に感じられないんですよね。いや、感心しました。それから、例えば、『ミツバチ』のあの汽車がいいでしょう。
武満 あ、いいですねえ。
蓮實 しかも、あそこで出てくる兵士の顔を、ぼくたち、憶えちゃうんですね。それから、『エル・スール』のホテルのボーイの顔を、ぼくたち、憶えちゃうんですね。あの鋭さっていうのは、ちょっとやそっとのものじゃない。ほんの小さな細部を、決して肥大化するのではなくて、鋭く記憶の中に紛れこませてしまう……。
武満 ディテールが常にトータルなものへ広がるつながりを持っているんですね。ですから、その記憶っていうのも、目だとか、顔つきだとかの部分的な印象じゃなくて、全体的なもので、まさに「みた」っていう感じ、非常に映画的な記憶なんですね。
蓮實 だから、ある意味では、とてもなつかしい。今までやられていなかった新しいことをやっていながら、その暖かさ故に、それが何かなつかしさにつながり、しかも、それが、ぼくたちを自堕落な形で過去に向わせないなつかしさであるっていうのがすごいと思うんです。
武満 全くおっしゃる通りです。
蓮實 こういう映画を撮れるというのは、エリセが、女性をよく知っている――と言っても溝口が女性の苦しみをよく知っているとかいうのとは違って、またいわゆるフェミニズムなどとも違って、男と女しかいない世の中で、男はどこまで女性に接近しうるか、男がどこまで繊細さに達しうるか、そういうことを追求しているような気がする。それが、フッと手をあげると、向うから木霊のようなものが応えてくることを触発するすごい力になっているように思うんです。


CINE VIVANT発行『エル・スール』パンフレットより

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