記憶の集積、イメージの再生

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 西部劇的空間

武満 ぼくは、これ、きのう初めて見たんですけど、いろんなタイプの映画があるなかで、この映画なんかは、大変好きなタイプの映画ですね。こういうものは、ほんとうは試写じゃなくて、映画館で見たいっていう感じがしました。いい映画ですね。たとえば、汽車の音が聞こえてきて、そして去っていく――汽車の映像それ自体もすばらしかったけれど――その、やってきて、去っていくという感じが実にすばらしいんですね。それから、丘の上から遠ざかっていく少女のうしろ姿を、幾つも幾つも、中を飛ばして写すシーンがありましたね。あのリズムなんかは、非常に詩的で、美しいし、深いし……。
蓮實 おっしゃるとおり、ビクトル・エリセは、遠景に遠ざかっていく人たちを撮るのが非常にうまい人ですね。母親が自転車で駅に手紙を出しに行くあの長いロング・ショットとか、子供たちが、遠くの一軒家を丘の上から見詰めている俯瞰ぎみのロング・ショットなど、時間と空間の徐々に奥まってゆく感じがすごい。久方ぶりですね、地平線まで何もないってあの感じ。その深い拡がりのある世界を、人物がゆっくり時間をかけて遠ざかってゆく……。ぼくは、ふと、この監督は西部劇が好きな人じゃないかなって思いました。決闘とか襲撃とかのアクションではなく、視線とともに空間が奥まってゆく世界としての西部劇……、いや、エリセが西部劇がほんとうに好きかどうかは知りませんし、また知る必要もありませんが、50年代までにあった西部劇の空間の使い方、それを知ってる人だなあと思いました。辺境性といったらいいのか、地平線の向うにも事件の起る世界があって、そこから気の遠くなるほど距てられた空間では、人びとの身振りが簡潔な神話性を獲得するといった西部劇的な風土に触れて、ああ自分と同世代の人が映画を撮っていると直観して、感動したというか、うれしかった。

 このところ、シネ・ヴィヴァンには、30年代の終わりから40年代の中ごろまでに生まれた作家たちの映画がたてつづけにかかっています。エットーレ・スコラ、ダニエル・シュミット、そしてこのビクトル・エリセ……彼らはみんなほぼ同じ時代に同じ映画を見て育ってきたわけで、その同じ映画の中から、たとえばシュミットだったら、無声映画やミュージカルや通俗的なメロドラマの神話性をキッチュにし、スコラは戦後イタリア映画の読み直しを、ヒッチコックまがいの技法を駆使して行ってみせる。エリセの場合は、あからさまに引用されているフランケンシュタイン神話などのほかに、映画の神話的な小道具として、汽車とか駅とか一軒家とか学校とか馬車とか、平原とか空とか、西部劇的道具立てを引き出してみせてくれて……。
武満 そういえば、あの時計のオルゴールも、よく西部劇に出てくる小道具ですよね。
蓮實 あるいは、スペインでは市民戦争のころまで19世紀的な風俗が生き延びていたのかもしれませんが、子供たちの着ている少しすその長い服一つをとっても、ぼくの想像の中ではどうしても、西部劇に出てくる子供たちの服につながっちゃうんです。それから、映画館になったり死体安置所になったりする公民館の前の広場なんか、完全に西部の街の教会前の広場の感じだし、汽車から飛び降りる男とか、みんな西部劇のパターンという気がします。ことに最初に駅が出て来たときの感じなんて、一日に一本しか汽車が通らないさびしさみたいなものが漂っていて、こういう光景は西部劇でしか見たことがないんで、ついそう思ってしまったんでしょう。汽車が蒸気機関車に引かれてプラット・フォームから遠ざかって行くショットは、急に俯瞰になりますよね。あれなんか、完全に、西部の鉄道の給水塔にキャメラを据えた構図ですよ。
武満 そういうふうに指摘されてみると、確かにそういう感じがしますね。レールのシーンなんかもそうですね。ほんとに西部劇的なタッチが随所にあるなあ。
蓮實 『ミツバチのささやき』は西部劇だなんていうと、不謹慎だっておこられそうだけど、そうした神話的な細部は、『エル・スール』(エリセ監督作品、1983年)にもすいぶんあるんですよ。


 映像の音楽、音響の空間

武満 ぼくには、映画全体の雰囲気が、映画の原型といってもいいような感じだったんですね。つまり、サイレント映画を見たような印象を持ったな。たとえば、おやじさんが、警察から返された時計のオルゴールを食卓で鳴らすシーンがありますね。あのときの画面のショットのとり方のすばらしさ……全部カットで、オルゴールが鳴ったときに娘がフッと見る顔のミディアム・ショットとか、その切り返しとか、時計のオルゴールのアップとかっていうのが、実に普通なんだけれども、余分がまったくない。大変感心しました。あれは完全に無声映画のつくり方だと思いました。音が聞こえてこなくてもいいというような感じで、実際にぎりぎりの使い方をしてましたし、映像自体が音楽的っていうか……。
蓮實 同時に、音響もすばらしいですね。時計の音、汽車の音……。
武満 ええ、すばらしいです。
蓮實 風の音……。
武満 ええ、それとミツバチの羽音とが非常にうまくつながっている。全体にダイアローグが非常に少なくて、足音とか物音が音響的な空間をつくっている。見事ですね。

 音楽をやってるのは、タイトルをよく見たら、ぼくの友だちなんですね、ルイス・デ・パブロっていう。彼は、いまスペインでは、ハルフターなどとともに最も先鋭的な仕事をしている人です。
蓮實 よく映画に音楽をつける人なんですか。
武満 いえ、ぼくは知りませんでした。この映画のころに、もう一本何かやっているらしいですけど、ほとんど映画音楽はやっていないと思います。ただ、この作曲家は、自分でフィルムもつくっているそうです。ぼくはまだ見たことがないんですけれど。
蓮實 じゃ、この作品では、音響面での監修もやってるんでしょうか。
武満 さあ、どうでしょう。でも、あの音響は監督のものですね。完全に映画の中に組み込まれていますから、最初から監督の頭の中にあった音だと思いますね。


 少女の眼を通した『フランケンシュタイン』

蓮實 ここ十年来の流行ですが、映画の中の映画、あるいは映画についての映画という題材が秀れた作家たちを惹きつけていますね。この映画も、映画についての映画という形式はとっているわけですが、その処理の仕方が、たとえばゴダールやヴィム・ヴェンダースにおける場合とは、ちょっと肌ざわりが違いますね。
武満 違います。
蓮實 『エル・スール』にもやはり映画が出てくるんです。イタリアにあるような、入口からすでに流れるような曲線の装飾がほどこされれている、すごい映画館の中で、父親がかつて愛した女性が役者として出ている1930年代のスペイン映画――これは黒白なんですが、オーロール・クレマンが出てたりするから当時の映画を真似てエリセが撮ったものなんでしょうが――を、家族に隠れて秘かに見るわけです。その姿を見とがめてしまう娘の中に「南」(エル・スール)への誘惑が生まれるという素晴らしいシーンです。

 『ミツバチのささやき』の場合は、『フランケンシュタイン』がそっくりそのまま引用されていて、それを下の娘が現実生活でそっくりなぞるわけですが、それは、現代アメリカの作家たち、たとえポール・マザースキーが、トリュフォーが大好きで、『突然炎のごとく』に惹きつけられた二人の男が、女一人はさんで同じシチュエーションを演じてしまう映画を撮るというのとは違うアプローチの仕方をしています。文化として消費される映画ではなく、映画はここではもっと野蛮に、直説的に娘を捕えてしまう。それでいて無垢な魂が虚構を信じてしまうといった純粋さの讃歌として映画が利用されているわけではない。ぼくは、その辺にも非常に感心しました。風俗的な処理でもないし、映画内映画という知的な処理でもない。恐らく初めて映画を見た、あるいは初めて映画からほんとうの興奮を感じたであろう少女、その少女の感受性そのものに沿って映画を見せちゃうという見せ方ですよね。この少女は、多分、われわれとはまったく違ったものを『フランケンシュタイン』の中に見ているだろうという……。
武満 ぼくが思ったのは、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』の序文ですね。フランケンシュタインのモンスターを夢見たメアリー・シェリーの想い、そこからこの映画は発想されているんだろうと思った。それから、映画『フランケンシュタイン』は、ぼくも子供のころ見て、最もショックを受けた映画だったんですよ。だから、個人的にもいろんな想いがあって、興味深かったですね。


 <稀れ>な映画

武満 ぼくの見た版の『フランケンシュタイン』では、確かあのイントロダクションはなかったように思うんだけれども、そのイントロダクションが終わって、これから『フランケンシュタイン』が始まるというときに切って、キャメラは外に出て、せりふだけ聞えている。それで、観衆のほうには、あるイメージをしっかりと残していっている。そういうふうに、この映画全体が、非常に簡潔なショットで組み立てられていて、そのショットの絵一枚一枚の感触は抒情的であって、そうした抒情的な簡潔な絵というのが、積み重なりのなかで、すばらしい叙情性を帯びはじめる……これは、かなり確信のある監督だと思いましたね。
蓮實 着想さえ面白ければ、あとは何かやってれば撮れちゃうだろうというのとは違う人ですね。すでに着想からして映画である。
武満 公民館のスクリーンの前に死体が置いてあって、死体はおやじさんだけに見せてキャメラにはうつさない、そのスクリーンとオーバーラップして、おやじさんのうしろの黄色い窓だったかな、それが同じサイズでつながっていく……そういうところには、詩的な韻律があって、実に見事でしたね。
蓮實 <稀れ>という言葉は、外国語だといい意味に使うわけですが、そういう意味では、久方ぶりに<稀れ>な映画を見たという感じがします。姉妹の少女がいて、いっしょに映画を見て、その妹の方が、姉の方とは恐らくまったく異なる接し方をして、画面の上の虚構の物語とは違った<しるし=記号>を読みはじめていく。……物語の筋においては、必ずしも独創的な映画じゃない。<稀れ>な映画じゃない。むしろ、ごく普通の映画でいっこうかまわないという姿勢だと思う。でも、妹がいったん<記号を受けとり、徐々にそれに慣れ親しみ、ついに自分がその<記号>になってしまうという変容の過程が、特撮を使ったホラー映画の変身とは比較にならない生なましさで語られてゆく。しかも、その表現はごく慎ましい。実際に、この作品は、ごく普通の映画としても見られるわけで、わからないショットは一つもないわけです。ゴダールやシュミットのような混乱させるショットは使わないで、むしろあらかじめ観客の混乱を取り除いてやったうえで、そこから自分だけの世界を語っていけるという自信は、かなりのものだと思いますね。
武満 ぼくは、好きな監督だなあ。
蓮實 日本でいきなり大スターになりそうな監督ですね。


 アナとイサベル

蓮實 『ミツバチのささやき』でひとつ気になるのは、ごく普通の映画としても見られるだけに、おとなしい、よくできた、文部省推薦的な映画として受け取られてしまいかねないところがあるでしょう。けれど『汚れなき悪戯』とは決定的に違うんですよね。
武満 『汚れなき悪戯』では、マルセリーノという坊やが大評判になりましたね。『ミツバチのささやき』では、女のきょうだい二人、両方ともぼくは好きだけれども、特にアナはすばらしかったなあ。
蓮實 だけど、アナ一人だと、やっぱりちょっと『汚れなき悪戯』的になっちゃうんですね。あの、お姉さんのイサベルの、大人の世界を本能的に垣間見ちゃったような、残酷さを漂わせた口もとなんて、ぼくはぞくぞくしましたね。
武満 そうですね。ときどき姉さんのやることが実に残酷なんですね。
蓮實 それでいて姉との対比で無垢な少女の無邪気を顕揚しようなんて初めからしていない。イサベルが死んだふりをするシーンでも、着想だけならなるほどと納得できちゃうんだけど、部屋の薄暗さとか、庭に向ってなかば開かれた窓とか、アナが入ってくる扉といった空間的な設定が、観客の安易な納得を置いてけぼりにして、ぐいぐい映画になってゆく。
武満 実にいいですね。
蓮實 死を装って妹を驚かす姉の子供独特の残酷な悪戯の中に、すでに性的な欲望が生なましく息づいているというだけの話だったら、いかにも底の割れそうな筋立てなんだけれども、宙に浮いたような時間を不意に映画に導入し、しかも映画的な空間でしっかり仕上げている。たいしたものですねえ。
武満 しかも、これが長編第一作っていうんですからね。驚きました。


 時代と感受性の均衡

蓮實 『エル・スール』にしても、『ミツバチのささやき』にしても、エリセには父親と娘という関係がいつも出てくる。『ミツバチのささやき』では、父親はミツバチの飼育をしていて、家の中にまでミツバチが置いてある。娘たちは、父親の顔よりも、そのミツバチの羽音で父親の存在をいつも感じているわけです。『エル・スール』の場合この父親はもう少し存在感のある人物として描かれてはいるんですが、かつて南のほうで愛した女が映画女優になっているというので、「南」(エル・スール)という音を介して、娘が父親の過去を想像していく。だから、ここでも父親は何かの媒介を介して娘に感知される存在なわけです。だからといって、ミツバチの羽音やエル・スールという音の響きが影の薄い父親の象徴だったりするわけではない。象徴だのメタファーだのと違う直接性と、不在に形式を与える間接性とのみごとな共存が彼の特徴だと思う。

 父親と娘という関係と並んで、この物語では市民戦争を時代背景として持っていて、その動乱の余波みたいなものが直接性と間接性の信じがたい調和として静かに影を落としている。その独特の表現法には、いろいろ解釈があり得ると思うんです。ひとつは、巧みに逃げているという解釈ですね。あるいは、非常に繊細な感性を通してみごとに時代を語っているとも言える。そのあたりは、いかがですか。
武満 ぼくは、かなりよく出ているんじゃないかと思いました。だれにあててなのか、手紙を書いている母親、汽車の窓に見える兵隊の表情、汽車から飛び降りた正体不明の無言の逃亡者……そうしたエピソードと、あの子供の揺れ動く感受性というものとが、バランス、比重がちょうどよくとられて織り合わせられていると思うんです。動乱の余波っていうようなものがこれ以上あんまり出てくると、映画がちょっとこわれちゃうんじゃないかという感じがしますしね。
蓮實 ええ、そこで、いかにも話が割れたという感じにならないところが見事ですね。直接性と間接性の調和と言ったのはそれなんです。
武満 役者の選び方もいいですね。
蓮實 お母さんは、どちらかというと悪役なんだけれども、あれはあれでいいですね。ばあやさんみたいな人が働いている、家の裏庭あたりがまたいいんですねえ。少女が帰宅して家の中をずっと突っ切って、テラスのあたりから見る裏庭に迫ってくる夕暮の感じも実にいいなあ。それから、あの学校……。
武満 ええ、いいですね。フランスの子供の歌とか使っていまして、一ヵ所突然モル=短調になるのは、どういう意味があるのかと思ったけど。


 つつましさと新しさ

武満 このエリセっていう監督は、もちろんきちっとしたコンティニュイティはあると思うけれど、でも、何か即興的な面もあるように思いましたけれども。
蓮實 ええ、キャメラで役者たちにじかに働きかけているといった感じ。映画を見ている少女の顔なんか、すごいですよね。何よりも、ぼくは、人を驚かせまいとするエリセのつつましさを買います。人を驚かさなくたって新しい映画はいくらでもできるわけです。
武満 ほんとにそうですね。ぼくもそう思います。たとえば、ある時期のボクダノヴィッチなんかは、ちょっとあざとい感じだけれど、この人の場合、そういうところがなくて、非常にノーブルですよね。実に典雅です。
蓮實 もうひとつ気に入ったのは、1時間40分できっちり終わるということですね。これだけいろんな話があって、しかも1時間40分でぴったり終わらせるっていうあたりは、日本の監督もまねしてもらいたい。
武満 なにしろ、簡潔ですね。母親が寝ていて、父親がベッドに入ってくる、せりふは一言もない、物音とシルエットだけのワンショットで、実に見事にあの夫婦の関係を語ってしまっています。
蓮實 お医者さんが往診にくる。その背に母親がふと手をかけるだけで、いろんなことがわかっちゃう。それから、初めにも話題になった、丘の上から姉妹二人が遠くを見ていて、遠くの一軒家のほうに走っていくところは、好きですねえ。
武満 ぼくも好きです。実に綺麗に謳っているという感じですねえ。
蓮實 最近のいろんな映画見ていると、あ、このショットだと次は何だ、なんてことをすぐ考えさせられちゃうんだけど、こういう画面を見ていると、そんな余裕はとてもないですね。それでいて、あの高みから見た光景は、ちゃんと後で活用されるんですよね。
武満 映画の『フランケンシュタイン』でも、有名な、花をつんで水に投げたあとに、フランケンシュタインが自分の顔を水に映して、そこで怒る――あそこをわざと見せないでおいて、最後のところでちゃんと見せるわけでしょう。ああいうところは、実によくできていますね。夢、記憶のイメージを非常にうまいぐあいに重ね合わせていって、ほんとうのハチの巣のようにつくっていったという感じがしますね。
蓮實 その意味じゃ、やはり新しい映画だと思うんです。伏線を置いて、それを一つひとつ拾っていくという、それはそれなりにすばらしかった50年代のハリウッド映画とは全然違う、モチーフの自己再生みたいなもので次々とつながっていく新しい映画だと思います。


 現代スペイン映画とエリセ

武満 ぼくは、ほんとうにスペイン映画はほとんど知らないんです。昔、『恐怖の逢びき』というのを見て……。
蓮實 バルデムですね。
武満 すごくシャープな映画で、印象に残っていますけれど……『エル・スール』もまだ見てないんです。
蓮實 ぼくは、去年ロカルノ映画祭で見たんです。83年のカンヌ映画祭に出品されたときは、最終日の上映で、十年前の『ミツバチのささやき』を覚えている人たちは見ただろうけれども、見損った人たちが多くて、ロカルノにこれをわざわざ見にきていた人たちが沢山いました。
武満 この監督はずいぶん寡作の人ですね。
蓮實 ええ。長編はこの二本だけですから、同じスペインでも、ひたすら撮り続けているカルロス・サウラとはちょうど対照的ですね。
武満 ぼくは、サウラより好きですし、いい作家だと思いますがね。
蓮實 ええ、圧倒的に。サウラとは全然、質が違いますね。
武満 スペインでは、今かなり映画はさかんなんですか。
蓮實 そうらしいですね。サウラなどの国際的活躍以外にも、国境は超えられないけれども、ミゲル・ピカソとか……。フランコ時代からの映画の伝統がありますし。60年代の初めには、アメリカのプロデューサーがスペインに撮影所をつくって橋頭堡を設けまして、アントニオ・イサシとか何人かがアメリカ映画に進出したり、国際的にも高度なものを保っていたと思いますね。先程の『エル・スール』の中に出てくる30年代ふうの白黒映画、ぼくは初め、これは当時の映画をそのまま使ったんだと思ったら、オーロール・クレマン<なんかが出ていて、見事にはぐらかされた。30年代スペインの大メロドラマみたいな映画の断片を自分で撮って映画の中で使っちゃうということをやっているわけですから。層はかなり厚いという感じがしましたね。
武満 なるほど。
蓮實 不思議に思うのは、たとえばドイツのニュー・ジャーマン・シネマのヘルツォークとヴェンダース、それからスペインのサウラとエリセ、日本で先に有名になったほうが、どうも歩が悪い(笑)。本質的でない部分が先に日本で話題になって、そのあとから真打ちが登場するっていう感じがあるんですね。


 メルクマールとしての1973年

武満 だけど、ぼくは『ミツバチのささやき』を見終って、それにしても映画っていうのは大したものだと思いました。衰えているといっても、次から次にいろいろおもしろいものが出てくる。文学なんかよりまだ健在なんじゃないですか(笑)。
蓮實 われわれ、つい映画は終わったなんて言いたくなるわけですが、こういうエリセみたいな人が十数年かかって二本しか撮らないで、その二本ともがこうじかにわれわれに触れてくる世界というのは、いまの文学ではなかなかできないんじゃないか。今なお20世紀は映画の世紀であるという確信みたいなものを持てますね。
武満 ぼくは、見終わるまで、これが十年以上前につくられた映画だとは全く知らないで、73年と聞いて、びっくりしました。
蓮實 73年というのが、20世紀後半の映画史の一つのメルクマールみたいなものになりだしているんじゃないかという気がする。エリセが73年、シュミットも大体73年くらいに出てきます。ヴィム・ヴェンダースの本格的な商業映画も73年から74年、コッポラその他が本格的にアメリカ映画を支え始めたのも73年ぐらい・・・・・・ちょうどヌーヴェル・ヴァーグが一息ついたあとで、それに続く世代の人たちが出てきた時期で、どうも映画刷新の世界的な同時性が、73年くらいに集中してあらわれたという感じがします。日本の場合どうかとなると、これがちょっと心もとない……。必ずしも連帯ではないんだけれでも、国境を越えた、思いがけない刺激の交流みたいなものが生まれてきた。テオ・アンゲロプロスにしても、やはりこの時代ですよね。シネ・ヴィヴァンもその事実に注目してぜひヴェンダースの『アメリカの友人』などを上映していただきたいと思います(笑)。まだ世界的に<73年以後の映画>という形ではとらえられていないものの日本への定着につとめてほしい。73年以前というのは、ヌーヴェル・ヴァーグが、まだフランス文化の問題として世界映画にインパクトを与えていたものでしたが、いまや世界文化の問題として、映画が浮上してきた年代だという気がするのです。


CINE VIVANT発行『ミツバチのささやき』パンフレットより

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