はじめてビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」を見たときの静かな感動は忘れられない。それはまさに「ささやき」のような繊細で渋い映像世界で、ふつう「スペイン」という言葉で想像される情熱的でカラフルなイメージとはまったく対照的なものだった。地中海の光あふれる世界より、むしろ北方のイングマル・ベルイマンに近い、白夜のような冷たさを持っていた。内省的で瞑想的な静寂にひたされていた。 "こんな静かなスペイン映画があったのか!"となによりもまずその「ささやき」の世界に心ひかれた。「ミツバチのささやき」(73年)と二作目の「エル・スール」(83年)が日本で相次いで劇場公開されたのは1985年のこと。SFXを駆使したハリウッドの大作が全盛のなかで、この二本は寡黙な職人が時間をかけて丁寧に作り上げた家具のような落着きを持っていた。人工の光のきらびやかさよりも、暖炉の火やろうそくの光の陰翳に包まれていた。エリセの映画を見ることは、まったく新しい映画体験だった。
エリセの映画は一篇の物語というより、詩といったほうがいいかもしれない。あるいは詩的イメージのつらなり、映像の詩華集。エリセは多くを語らない。明快にストーリーを述べたり、メッセージを直接に語ろうとしない。断定や結論を避ける。エリセが大事にするのは、物語を語ることより、むしろ、雰囲気、気配を描くことである。風は、風そのものでは私たちの目に映らない。木の葉が揺れたときにはじめて風が吹いていることがわかる。エリセは、風そのものより木の葉の揺れのほうを描こうとする。
「ミツバチのささやき」は、1940年ころのスペイン北部カスティーリャ地方の小さな村に住む小学生の少女のある神秘的な体験を描いている。それから十年後に作られた「エル・スール」もまた、時代は1950年ころと違っているが、舞台は、スペイン北部バスク地方の小さな村で、そこに住む少女と父親(オメロ・アントヌッティ)の精神的な交流を描いている。
どちらの映画もスペイン北部の、人の姿のほとんど見えない荒涼とした風景が大きな特色となっている。季節は晩秋から冬にかけてが多い。日の光は少ない。空はどんよりと曇っていて、寒々とした風景が広がっている。村の一本道、遠くまで続く並木道とそのはずれにぽつんと建つ一軒家、鉄道のレール、小さな駅、村はずれの廃屋と井戸、村のまわりに広がる林。――この、どちらの作品にも共通する冬ざれのような寂しい風景は、孤独な人間たちの心の風景のようでもあるし、同時に、人間の姿の見えないという清潔感のために、そこにはまだ霊的なものが残っている聖なる土地のようにも見える。
「ミツバチのささやき」の原題は「ミツバチの巣箱の精霊」だが、ビクトル・エリセの作品には、精霊に象徴される、謎めいた、霊的な気配があちこちに漂っている。といってもそれは決してホラー映画のようなおどろおどろしい突出の仕方はしない。精霊は、あくまでも静かな気配として、月の冷たい光のなかに、風に揺れる木々のざわめきのなかに、かすかに顕現する。人間たちはその精霊の訪れを感受するためには、息をひそめ、耳をすまさなければならない。エリセの映画が「ささやき」のような繊細さを持っているのはそのためだ。
実際、エリセの映画には、耳を澄まさないと聞きとれないようなかすかな物音や、注意深く見ていないと見逃してしまいそうなかすかな影が多い。遠くに聞える汽車の音、犬の鳴き声、娘を呼ぶ母親の声、二階から聞えてくる父親の足音、あるいは壁に映った木の影、地平線の向うへ去って行く人間のうしろ姿。エリセは、精霊の訪れを感受するかのように、そうしたかすかなものに敏感になる。「ミツバチのささやき」のなかに少女が、寒々とした草原を走る鉄道のレールに耳をつけて、遠くの列車の音を聞きとろうとする印象的な場面があるが、ビクトル・エリセ自身がいつも、ああやって、遠くの音(精霊の訪れ)に耳をすませている少年のように見える。
エリセの描く人間たちは、孤独で内向的な寡黙な人間たちばかりである。「ミツバチのささやき」の両親は、世捨人のようにひっそりと村はずれの屋敷に暮らしている。くわしくは説明されていないが、スペインの内戦によって政治的な挫折をした知識人らしい。ふたりとも過去にとらわれて、現実社会とは深く関わるまいとしている。母親の心は、どこかもう遠くにいっていて、国外に亡命した誰かにひそかに手紙を書いている。ふたりの少女たちも、両親の孤独に見合うように寂しそうにしている。
「エル・スール」でも事情は同じで、父親は、過去に思想的な問題と恋愛問題とで、深い喪失感を味わったらしく、故郷の"エル・スール"(スペイン南部)のことを思いながら、村はずれの一軒家に隠棲している。両親の関係は冷え切っていて、会話らしいものはない。少女のエストレリャは、その父親の、諦念、喪失感、孤独を凝視し続ける。父親は、不思議な重りの力を借りて、荒野の地下に地下水が流れているのを探知するが、その父親の心の奥深いところ、冷たい水のような孤独が潜んでいる。娘のエストレリャは、父の孤独を感受し、共有しようとする。
ただ、ここでも、ビクトル・エリセは、人間たちの冷えきった心を仰々しくは描かない。あくまでも気配によって描こうとする。その意味では、エリセは、身近かな小さなもの、懐かしいものを大事にしようとするアンチミストだ。ミツバチの巣箱、手紙、古い写真、オルゴール、ブランコ、古い家具、書斎に置かれた書物、絵画、セピア色の絵葉書、鏡、映画館で上映されるまで幻燈を思わせるような古い黒白の映像、自転車。
目に見えない精霊を見ようとするエリセは、目に見えないものをことごとしく描くのではなく、逆に、目に見える小さなものを丁寧に描き続ける。神のような絶対的な超越者ではなく精霊のようなかすかなものは、むしろ、日常のなかの細部のなかにこそ潜んでいるというかのように。
エリセの新作「マルメロの陽光」は、アントニオ・ロペス=ガルシアという画家が、秋から冬にかけて、一本のマルメロの木を丹念に描き続ける姿勢をカメラによって凝視し続けた、ドキュメンタリーとも映像詩ともいえるような不思議な作品だが、来る日も来る日も庭に立って、一本のマルメロの木と実を凝視し続ける画家の姿は、そのまま、ビクトル・エリセ自身に重なってみえる。緑豊かな自然ではなく、庭に植えられた、決して立派とはいえないマルメロを画家は、驚くべき忍耐、持続力によって、息をひそめるように、精密に、丹念に描き続ける。その姿をカメラを通して見つめ続けるビクトル・エリセには、マルメロのある庭、というなんでもない場所こそが、精霊の降りたつ庭に見えたに違いない。
「ミツバチのささやき」が公開されたときに来日したビクトル・エリセにインタビューする機会があった。そのときエリセが、芭蕉の「奥の細道」を愛読しているというのは印象に残った。自然の風景、風物をわずかな言葉のうちに凝縮して表現する俳句の世界は、小さなもの、かすかなもののなかに、聖なる精霊を感じとろうとするビクトル・エリセと通じ合うものがあるのだろう。
エリセは、いつもここではない場所、いまではない時間、目には見えない霊的なものを感受しようとする。遠くを、彼方を見ようとする。ただ、その方法は、あくまで静かで、淡い。ちょうど、「ミツバチのささやき」の少女が、遠くの音を聞きとろうとレールに耳をつけたように。