カイエ・ドゥ・シネマによる92年カンヌ映画祭期間中のインタビュー

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アントニオ・ロペスに。あなたは「マルメロの陽光」に携わる以前に映画に興味がおありでしたか?ビクトル・エリセとはどのようにして出会われたのでしょうか?
ロペス
 我々の世代にはテレビというものがなかったので、映画館に行くのはひとつのお祭りでした。でもあの時代は、男優や女優は気にしていても監督には気をつけていませんでした。ビクトルと私は、1990年に出会いました。「マルメロの陽光」を作り始める3か月か4か月前です。それまで彼の映画は知っていましたが、面識はありません。ある日突然ドアをノックする者がいて、目の前に、私が好きな映画を作った当の人がいたのです。私たちは大いに談笑し、午後ずっと、話をして過ごしました。私たちは散歩に出て、私が仕事をしている高台を見に行き、そこの風景とか私が好んで描く色々な場所を眺めたりしたんです。

絵画と映画の関係は、光や、しぐさ(ジェスト)の点で、当然つながっているものなのか、あるいは自然と反する関係なのか、どう考えますか?
エリセ
 明かにつながった関係なんですが、しかし全く異なる二つの言語ですね。絵画を映画と関係づけようとすると、映画の方が現実をとらえる手段としてですが、緊張が生じますからね。それでいて、両者の関係は自然です。映画のショットとは、よく言われているように、意識なのですからね。ショットによって、絵との関係が生まれていくのですし、映画のカードル(フレーム、枠)という定義そのものも1923年に生まれ、それ以前には存在しませんでしたが、このカードルという言葉、あるいは、プルミエ・プラン(前景)、プラン・セカンス(ワンシーン・ワンショット)といった、絵画との関係を示す言葉で映画の歴史が説明できます。でもやはり、両者は二つの異なった言語なのです。映画は時のひろがりをとらえることができますから。ところが、アントニオはそれを試みるのです。時、それが彼の好きなテーマで、彼が師と仰ぐベラスケスと同じです。

ロペス
 フェルメールも、そうです。全く澄明にね。他にもいますが、ベラスケスとフェルメールの場合は、全く明らかです。 どんな芸術でも、極められた芸術、偉大な芸術のすべては、時ととりくんでいる。時と言うのでなければ、 人生と言ってもいいでしょうが。

ロペス夫人マリア・モレノが製作に加わることになったのは?映画では、眠りこんだアントニオを描く絵で、彼女は死のテーマと結びついていますが。
ロペス
 あの絵のアイデアは、イタリアのカラーラの近くのピエトラサンタに妻と二人で旅行した時に生まれたものです。そこにブロンズの土台があったのです。部屋の中で、私はコートを着たままでいて、仕方がないので本でも読もうとベッドに横になっていました。マリアがちょっとしたデッサン、クロッキーを描いたんです。あの絵では、彼女がその時の状態を再構成していますが、実際の私は休息している最中だったわけです。事実、後になって、彼女は、私たちに会いにやってくる人々が、この絵になにか不吉なものがあると感じとるのをとても気にしていました。単に人物が横になって死んだようにまぶたを閉ざしているだけで、眠っているか、あるいは死んでいるかの印象を与えるんですね。でも私は、この通りちゃんと生きていますよ。

この映画の企画はおそらく「美しき諍い女」以前からのものでしょうが、リヴェットの作品は見ましたか?
エリセ
 見ました。カンヌ映画祭の選考のために4月にプリントを自分で持っていき、その時に、モーリス・ピアラの「ゴッホ」も見ました。「美しき諍い女」はとても好きですが、私の映画とは全く違います。あの作品の場合、リヴェットは絵画をひとつの愛の物語のために使っているのですから。

「エル・スール」(1983)から「マルメロの陽光」に至る間になさった仕事は?
エリセ
 まず、ベラスケスの<ラス・ニーナス(宮廷の侍女たち)>に関する映画にかかっていました。2年間資料に没頭し、シノプシスを書きあげたところで、別のスペイン人監督が、似たテーマで製作にかかり、そっちが先に撮影に入ってしまったので、私の方の企画は実現しませんでした。その後は、ホルヘ=ルイス・ボルヘスの原作を2本脚色しました。ひとつはカルロス・サウラが完成し、もうひとつは映画化に至らないままです。

Chanter Cine2『マルメロの陽光』パンフレットより

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