ホセ=ルイス・グアルネルによるビクトル・エリセへのインタビュー

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「マルメロの陽光」はフィクションとして構築されているから、ドキュメンタリーではありません。かといって、純粋のフィクションというわけでもない。映画中の諸要素は、現実そのままなのですから。このような現実とフィクションの統合に、どのようにして到達したのですか。
 そのことを説明するのに一番いいのは、おそらく、「マルメロの陽光」の着想がどのようにして生まれたのかを話すことでしょう。1990年の夏に、私はアントニオ・ロペスに同行して、マドリード各地の4つの風景を描くところを見せてもらいました。毎日というわけではなくて、時々ですけれど。彼の仕事ぶりを間近に見て、ときにはそれをビデオにおさめました。一日の仕事が終わると、私たちはしばらく雑談したものです。最初の頃の雑談の折りに、自分の見る夢のことを語り合ったのを覚えています。アントニオが聞かせてくれたそうした夢のなかに、映画に出てくる夢はあったのです。

 9月の末にアントニオが、庭にある一本の木を描くつもりだ、それはマルメロの木だ、と告げたとき、私はただちに3か月前に聞いた夢のことを思い出しました。そのとき私はなにかを直観したのです。インスピレーションと呼ばれるものに当たるのでしょうか。私は強く心を動かされたけれど、それがなぜかは分からなかった。アントニオも多分、同じような感じを持ったのでしょう、数日後に、アトリエの庭に来るようにと私にいいました。撮影カメラを携えて行ったのは、私が勝手にしたことです。私が何をしようと、彼はマルメロの木の傍らで、仕事を続けるだろうと思ったのです。アントニオが木を描くのを見るのは初めてで、そこでどんな事態が展開するのかは見当もつきませんでした。ただ、マルメロが秋の果実であることは知っていた。で、夢の内容と結びついたこの季節の陽光を捉えるという発想が、そのすばらしいイメージとあいまって私を駆り立て、一行の台本すらないまま撮影に取りかからせたのです。

エリセ監督がグアルネルに・・・
 正確さへの意志を特徴とするスタイルに基づいて、一本の木を描き出す、それがこの映画で画家が 目指していることですが、困難は、太陽の位置ばかりか、別の本質的なことからも起こってきます。 つまり"モデル"が不動の静物ではなく、生きた一本の木で、葉も果実も絶えず揺れ動き、微妙に 変化していくのです。画家が木と旅を始めた瞬間から、実はひと月で成熟に達し、熟し切ると、葉むら ともども衰退の過程に入り、やがて自らの重みで地面に落ち、腐敗していく。


それが例の夢のテーマではありませんか?
 部分的には、もちろんそうです。あの夢は悪夢というにふさわしい特徴をもっていて、映画のラスト・シークエンスに特別な激しさを与えています。それまで、アントニオの仕事には顕著な緊張があります。相手が静物ではなくて生き物だから、果実が最高に輝いている瞬間を画布に定着させようとすると、避けられない葛藤がある。樹木は画家の意図にお構いなしに、自然の摂理のまま、充溢にむかい、退廃にむかう。そこで、時間というものが、この体験の決定的にして中心的な要素となったのです。

 その状況で、アントニオは、ある時点で木の成長を凍結して描くということをしません。反対に、可能なかぎり、樹木の生命のサイクルに同行していくのです。既に描いた絵を描きなおしながら進むのですが、それまでの線をまるごと消し去るのではなく、それを成果に中にとりこんでいくのですね。ついには、内的なふるえとでも言えばいいのか、時の経過につれて変貌していくマルメロの動きが表現されていきます。

 アントニオの試みにはユートピア的な一面があります。アントニオは印象派とは違う。印象派は、光と色の執拗な追求のために、フィルムを特徴づける一連の要素は犠牲にしたのです。単純に言えば、風景画を描いても、印象派の画家なら、数回出かけるだけで絵を仕上げられた。アントニオの場合は、とてもそうはいきません。彼の以前の絵に見られる花や果樹は、単一で均質的な光や陰、あるいは夜の効果を生かして描かれています。そうしたスタイルからすると、木を描くのに陽光をとりこむことは、ただならぬ企てなのです。達成するには、奇跡に近いことを行なわなくてはならない。熟しつつあるマルメロの木の場合にはなおさらです。秋は天候がめまぐるしく変わる季節で、数時間の、最低不可欠の日照さえ得られる保証が全くないのですから。アントニオは私に、ユーモアをこめて、こう吐露したものです。"私が来る度に、釣り竿を持って、木のそばに座る。いくら手を尽くしても、魚はかからない。それでいい、要は、そこにいることなんだよ。"
 アントニオは油絵に取り組み、それが望みのようには描けないとついにわかると、今度は素描(デッサン)に取り組みます。野心的でユートピア的な目標は放棄しても、今度は自分のあかしのために描きつづける。素描は油絵よりもつつましいが、油絵にはない独特の感興にみちています。油絵は、さまざまな色の絵具、画具箱、パレット、絵筆があり、素描は、鉛筆一本だけ。

 私自身、こんなにすばらしいことがあるのかと、目のあたりにしつつ思ったのが、アントニオがこの間に示した姿です。いかなる勇壮さとも、劇的なものとも無縁で、この上なく自然で。だからでしょう、彼は、結果はどうでもいいと言える。望みは、なにより、あの木と一緒にいて描くことなのです。

Chanter Cine2『マルメロの陽光』パンフレットより

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