二つの方角、二つの世界 ビクトル・エリセ『エル・スール』を語る

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北と南

スペイン北部のビスカヤ生れのあなたが『エル・スール』の物語を映画化しようと思いたたれたのには、何か個人的な背景があるのでしょうか。この十数年、主にアンダルシアで生活されてきたわけですが、南(エル・スール)を知ったことがどう影響したか、そのあたりを・・・・・・。
 一時期、三つの異なる映画の企画を暖めていて、そのうち二つは、少なくとも部分的には、ストーリーがアンダルシアを舞台に展開するものでした。その二つのうちの一つは「エル・スール」という仮のタイトルをもち、プロットはアデライタ・ガルシア=モラレスの小説にもとづいていました。

キャラクターは小説と映画でまったく同じなのですか?
 基本的には同じです。この小説には、出だしから大いに興味をそそられた。北と南、二つの異なる、対立しさえする風景、二つの異なる生の感じ方を向かい合わせる可能性を示していたからです。ぼくは特別な興味を引かれたけど、多分それは、北の人間の多くが伝統的に南に魅入られてきたことと関係があるのでしょう。

 南、具体的にいうとアンダルシアについてのぼくの第一印象は、子供のころの記憶と結びついている。聞かされたいくつもの物語、写真、歌、さまざまな品々、というのも両親が、ぼくが生れる直前に、しばらくセビーリャで暮らしたからなのです。でもぼくは、ずっと後になるまでアンダルシアを知らなかった。だから初めて知ったときの印象は強烈でした。そのとき以来、毎年欠かさずアンダルシアを旅するようになった。おそらく、イグナシオ・アルデコア(スペインの現代作家)が言ったように、バスク人の放浪癖に駆り立てられるのだと思います・・・・・・。話がそれましたが、実をいうと、こういう話はしにくい、だって映画にはまさしく南が現われないのだから・・・・・・。

南が現われていればどんな続きだったか話していただけると興味深いと思うのですが。
 細部は省きますが、続きでは主役のエストレリャの南での旅が語られるのです。その旅は、小さいときからの願いの実現を意味するだけでなく、父親が秘めていた意志の遂行を暗示している。この父親の意志は、映画のファースト・シーンに含まれています・・・・・・。死の前夜、彼は別れを告げるかのように、あることをする。眠っている娘の枕の下に、ある意味で、かつて二人をもっとも深く結びつけていたものの象徴である品を置くのです。それは、最後の愛情表現で、はっきりとは分からぬ形で一種の命令を秘めている。エストレリャは彼が生前できなかったことを果たさなければならない・・・・・・。散らばってしまった彼の歴史の断片を集めなければならない・・・・・・。南へ旅することで、エストレリャはその命令を果たすわけです。そして父の過去の基本的事実や人物を知るに従って、彼の人物像を再構成していくのです。つまりそれは根源的な体験であり、それによってエストレリャは初めて自らのアイデンティティーを確立し、幼年期を決定的に後にすることができるようになる。こうしてエストレリャは、自らの生に関わる北から南への旅路をたどるだけでなく、自己を知るプロセスをもたどるのです。

啓示としての映画

ところで、あなたの2本の映画には映画が出てきますよね。『ミツバチのささやき』では『フランケンシュタイン』でした。『エル・スール』では再現されたシーンですが、ブラインド越しに入ってくる光のために、スタンバーグの映画の雰囲気を思い出させます。
 確かに雰囲気についてはスタンバーグ、具体的には『モロッコ』を意識しました・・・・・・。ぼくが思うに、映画が我われに対して果たしてきた役割の一つは啓示です。映画館の中で我われは多くの物事を発見してきた。『ミツバチ』ではこの種の体験が、すべてのできごとの中心となっています。『エル・スール』では父親が、一本の映画を通じて、長い年月の後に初恋の相手と再会するのです。

映画館にヒッチコックの『疑惑の影』のポスターが貼ってありますが、あれはチャーリー(テレサ・ライト)と叔父のチャーリー(ジョセフ・コットン)の間の関係を暗示しているようですね・・・・・・。
 そうです。といっても、前もって考えられたわけじゃない。アプリオリに得られた暗示ではありません。後でそれを意識して・・・・・・、ぴったりだと思ったのです。結局のところ、叔父のチャーリーも、エストレリャの父親同様、二重生活を送っている・・・・・・。『疑惑の影』は、ヒッチコックの作品の中でもっとも好きなもののひとつです。だからあのポスターを選んだのですが、何よりも映画館のシーンにうってつけだと思ったし・・・・・・、ある種の雰囲気を出せる。それに父親が観ている映画と同じく、タイトルに「かげ」という言葉が含まれています。

父と娘

『エル・スール』は出産劇と見ることもできるのではないでしょうか。最初のイメージは誕生です。そのファースト・シーンは母親の子宮の出口を意味している。フロイトの理論を信じているわけではありませんが、しかし父親がバーを出た後、写真館のショー・ウインドウで娘の写真を見るシーンから変化が生じます。そこから映画が広がるのです。以前ほど狭くなくなり、苦しさが減る、子宮ではなくなる。世界は以前よりも重要性を帯びてくるのです。
 おっしゃる通りです。けれどそう考えるのは、時の経過があってからのことだと思う。成長したエストレリャが現われるそのときからです。我われは、彼女が父親の世界から離れたことにただちに気づきます。<グランド・ホテル>のシーンで、その距離は明らかな意味を帯びる。そこではアグスティンが最後の、そしてもはや手遅れの呼びかけを行ないます。彼はさらにいくつかの誘いをかけるのですが、自分が生きながらえていくことに関わる問題なので娘は応じることができない。そこで立ち去る。彼女の決心は、成長する必要を強く感じている人間のそれなのです。けれど時として、血が呼ぶ声は実に強く、神秘的でもある・・・・・・。ぼくには父親も娘も理解できますが、娘の方の肩を持ちます。父性というものに対するアグスティンの理解の仕方、またその生き方は、結局挫折せざるをえない。シナリオに登場する大人たちのほとんどは敗北者です。和解不可能な二つの世界、心と知性、情熱と日常生活、その間で引き裂かれてしまった人物なのです。

室内の演出

総合することにかけてのあなたの手腕、そして危険な試みには、ときに驚嘆させられます。たとえば家を出ることを決心したアグスティンが、駅の宿に泊って眠り、汽車の出発を知らされても起きなかったときのことですが、あなたは音の世界を巧みに操っています・・・・・・。すべてワン・カットの中で処理し、観客はあなたに与えられたものを総合して考えるわけです・・・・・・。
 あそこでは駅のホームの夜景と<オスタル・テルミヌス>という宿のネオンサインを撮る予定だったのですが、できませんでした。

でもあの方がずっといいと思います。あのカットにすべてが含まれている。
 アグスティンが同じ宿にいることがはっきり分かりますか?

ええ、もちろん。あそこではトリックが使われていますね。
 あの部屋はセットではなく、撮影の間ぼくが泊っていたホテルの部屋です。それから外を走る汽車ですけれど、種明かしをすると、あれはホセ=ルイス・アルカイネとぼくとで演出した効果によるものです。照明の効果に、後でぼくが音の効果を加えました。

 『エル・スール』では、室内は可能な限りセットではなく本物を使おうとしました。でもそれができたのは三ヵ所だけで、そのひとつが<グランド・ホテル>です。気に入った部屋がなかなかなくて、ようやく見つけたのが映画に出てくるあの部屋です。隣り合った二つの食堂が引き戸で仕切られている。その条件によって、シナリオにあるように、ほとんど常に音楽が聞えているカットの中で、人工的ではなく自然な形で結婚パーティーを背景にしておくことができ、最終的には現在のシーンができあがったわけです。

 初聖体拝受式の後で、ソンソレスがオメロと踊るシーンがありますね。シナリオではあれは外で撮ることになっていました。理由はいくつかありますが、ひとつは、普通、初聖体拝受式が行なわれるのは五月で、天気がいいから食事は外でできるということです。そこでクリスマスの直前だったにもかかわらず、ぼくは最初のアイデアをそのまま生かして、食事のシーンをエストレリャの家の庭に設定したわけです。ぼくにははっきりとした絵がありました。まず上の桟敷席のように見えるテラスには、家族や親しい人間がいて、庭を見下ろしている。テラスと庭の中間の高さにある階段にはアコーデオン弾きがいる。そして下の庭では、父と娘が芝の上で踊っている。できれば日の照る、明るい日であることが必要でした。ところが撮影の当日はひどい天気だった。だからそのシーンを急遽食堂に移さなければなりませんでした。すると家の中、それもロケですから空間は狭まり、演技に関してシナリオをすっかり書き換えなければならなくなりました。屋外だったら人物たちの間に距離が置けたし、高さにも三つのレベルがあったわけだから、約十のカットが撮れるはずでした。それに対し屋内の場合には、空間が狭くなり高さのレベルがなくなるので、ひとつのフレームの中にシーンをもっと総合的に、それも背景が見える形で納めることができました・・・・・・。そんなわけで、あのシーンをワンシーン・ワンカットで撮ることになったのです。

俳優のリズム

出演者についてはどう考えていらっしゃいますか。
 出演者たちと一緒に仕事をすることは、ぼくは基本的なことだと思う。そのためにもっと時間を当てられるといいのだけれど。『エル・スール』の大部分のシーンは、ライトの準備をしている間にリハーサルをしました。<グランド・ホテル>のシーンは、イシアルとオメロとともに一時間半に渡ってリハーサルができました。その意味で事はとてもうまく運んだ。満足しています。ただ、場合によっては、細部をあまり練り上げるすぎると、そのシーンの意味が飽和状態になり、演技者から自発性が失われてしまうことも確かです。だからバランスが必要だ。しかし繰り返しますが、出演者たちと仕事をするのは基本的なことです。彼らを選ぶのもそうです。ある俳優を選ぶとき、その映画のスタイルはすでに形をとり始めるのですから。主に喜劇を演じてきた役者と古典を専門とする役者を選ぶのでは大きな違いがある。このような特徴は誰にでもあると思う。けれど当然ながら、映画は映画で演劇とはまた違ったことを要求するのです。というのも俳優にはそれぞれ固有のリズム(歩き方、話し方、見方の)があり、それが他の出演者ばかりでなくカメラのリズムとも共存可能でなければならないからです。例を挙げると、天才的俳優、ジェームス・キャグニーですけれど、彼は、ぼくがスクリーンで観た中でも、まれにみる独特なリズムの持ち主(まるで稲妻のように見えたこともあります)で、シーンから姿が消えた後でさえ、そのリズムは残り、そのシーンを支配し続けるのです。そんなことが起きるのは、映画だけですよ・・・・・・。

 誰でもそうだと思いますが、ぼくは出演者の選考をきわめて重要視しています。選ぶ対象がプロでない俳優の場合はなおさらです。つまりカメラの前に一度も立ったことがない人たちで、彼らには基本的な一面が存在する。それは演技臭がないこと、少なくとも前面には出てこないことです。人物を演じるというより、人物になってしまう。ぼくが常に考えているのは、出演者が役になりきれる方法を見つけることなのです。といっても、もちろんジャンル映画の場合とは意味が違います。ジャンル映画の場合は虚構性も俳優の演技も見え透いているわけですから。たとえば西部劇だと、ジョン・ウェインが突然戸口に現われる。すると我われはもうこう言うほかない、何もかも分かってた、と。

少女の第一印象

少女役に対しては、あなたが説明したのですか、それとも彼女たちに表現させたのですか。
 『ミツバチ』の少女役の場合も『エル・スール』のソンソレス・アラングーレンとイシアル・ボリャンの場合も、エピソード(もちろん彼女たちに同じような体験はありませんし、生活もまるっきり違っている)以外の部分、世界の見方、大人たちとの関係のもち方、それらのすべてにおいて、映画の登場人物そのものなのです。だから、しなければならないことはただ一つ、先にそれを見つけることです。

そのためにはどうされるのですか。
 ぼくは教育施設に行くのです。前もって責任者と交渉した上でですが。少女たちに、映画のために来ていることを知られないようにして、授業に立ち合ったり、遊んでいるところを見る。すると全員の中に、何らかの理由で注意を惹く少女が何人か見つかります。で、彼女たちと話をして、メモをとるのです。

 常にポラロイド・カメラを持っていき、少女それぞれの写真を何枚か撮る。そして二度目の選択の後にテストをするわけです。

『エル・スール』では、年上と年下と、どちらの少女役を先に選んだのでしょうか。同一人物ですから、一方が他方を決定すると思うのですが。
 イシアル(15歳のエストレリャ)が先でしたが、ほとんど同時に選びました。ぼくにとって決定的なのはテストの結果です。テストでは普通シナリオのワン・シーンを(『エル・スール』の場合はビデオ、『ミツバチ』は16ミリで)撮ります。

 最初の撮影では、自由に演じさせ、こちらからはまったく口出しはしません。ソンソレス・アラングーレンについては、テストの形でワン・シーンをビデオに撮りましたが、そのシーンは映画では省きました。

子供との仕事の楽しさ

二人にはシナリオを全部渡しましたか?
 ソンソレスには出番がなくなったときに渡しました。後で何がどうなるのかを前もって知らせたくなかったからです。イシアルにはもちろん渡しました。

撮影の順序は時間の流れどおりでしたか?
 そうです。

イシアルは、ソンソレスが演じた前半を予め観たのでしょうか?
 いいえ、撮影風景を何回か見学しただけです。でもシナリオは前もって読んでいます。彼女が、フィクションの中でソンソレスしか体験していない状況のある時点を回想するような場合には、その時点あるいはその状況の雰囲気をぼくから彼女に伝えるようにしました。

 映画館<アルカディア>の外でのシーンをソンソレスを使って撮ったときですけれど、ものすごく寒かったんです。そこでイシアルがそのときのことを想い出すところで、台詞に「とても寒かった・・・・・・」という言葉をつけ加えました。その状況を観客はすでに知っているわけですから、今言ったことばを聞くことで、イシアルとの共犯関係をより強く意識するようになるからです・・・・・・。

 いずれにせよ、ぼくは子供と仕事をするのがとても好きです。実に楽しい経験が味わえるからです。いささか我慢が必要なこともあるけれど、その価値はありますよ。

CINE VIVANT発行『エル・スール』パンフレットより

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