父親っ子だった。兄と妹がいたが、父親のひざの上は私の席と決まっていた。べたべたと甘え合う父娘だった。
それなのに、家の外でばったり会ったりすると、ひどく照れ合う父娘でもあった。自然にふるまえず、妙に不愛想
になってしまう。駅からのバスで偶然乗り合わせたことがあったが、気づかないフリをした。気づかないほうが不自然
なのに、二人とも頑固に家の玄関をあけるまで気づかないフリをし続けた。ヘンな父娘だった。
記憶の中の父親の姿はどれも遠景だ。遊園地のぐるぐる回る飛行機から手を振る私を、まぶしそうに見上げていた
父親の姿。夕暮の銀座で、待ち合わせ場所にいる母や私に向かってわざとソッポを見ながら歩いてきた父親の姿。
それは何の意味もない情景なのに、私には説明しがたい、ある執着を感じさせるものだった。
なぜ記憶の中の父親はどれも遠景なのか?なぜ遠景の父親に執着するのか?−ずっと不思議に思っていた。
『エル・スール』を見てやっとわかった。単純なことだ。私が、5m以上の距離をおいて父親を見ることは珍しいことだったからだ。
父親のひざの上にいた私は、父親を感じていただけで、見てはいなかった。ザラザラしたヒゲの感触、セーターにしみこんだピースの匂い、皮肉ぽい口調・・・・・・それらの総和として感じていただけだった。父親とは絶対的な力を持った一つの混沌であって、人間ではなかった。だからこそ、家の外で、遠景で父親を見ると驚き狼狽してしまったのだ。
5m以上の距離には、現実の距離以上に決定的な力が働いた。父親と私との間に異変を生じさせるような力が働いた。
私は快い混沌の中から一方的に放り出されたように感じたに違いない。理不尽な、と思ったに違いない。遠景の父親
の姿ばかりが記憶に残っているのは、そういうおさまりの悪い感情があったからだろう。
『エル・スール』の少女は、いつも父親を遠くに眺めている。屋根裏部屋の父親を庭先のブランコからみあげるシーン。
あるいは、映画館から出て来た父親のあとをつけ盗み見するシーン。そして、カフェのガラス窓ごしにみつめ合うシーン−。
二人の間にはすでに決定的な距離がある。ブランコから父親を見上げる少女の顔には、この距離への驚き、いぶかしみ、
弱々しい抗議の色がある。
少女はしだいにこの距離を受け入れてゆく。霊力の振り子で水脈を探る父親の助手を務める少女の姿は、まるで王様
につき従う忠実なお小姓だったが、聖体拝受のあと父親とパソ・ドブレを踊ったのを最後に、少女は快い混沌に別れを
告げる。15歳になった少女の目は、もうはっきりと父親を「外の人」として見ている。庭のブランコもとっくに切られている。単純なことだ。少女は大人になった、つまり自分の孤独を受け入れたのだ。
南の情景を描いたカードが美しい。ヤシの木、回教風の柱廊、フラメンコ、咲き乱れる花、噴水、豊かな陽光・・・・・・。
それはすぐ後の北の情景(静寂な雪景色)と鋭い対比を見せる。南への思いは、活力にみちた乳母の登場でより
鮮明になってゆく。南とは、ついに解けなかった父親の謎と、生の歓びを秘めた土地だ。少女の夢想に彩られて、
南を描いたカードはいっそう美しい。『ミツバチのささやき』における映画『フランケンシュタイン』のように。
南へ旅立つ日、トランクに形見の振り子をおさめる少女の手つきは儀式的だ。少女は父親と南の地でもう一度出会い、
そして正しく埋葬するだろう。その淋しげな顔には、8歳のころの生気がよみがえるかもしれない。
『エル・スール』を見て一週間たった。父親をいまだに埋葬しきれていない私は、今、無意味と思っていた記憶の断片を
たぐり寄せて、自分の『エル・スール』を浮かびあがらせようとしている。もちろん、父親のためにではなく私自身を確かめるためにだ。CINE VIVANT発行『エル・スール』パンフレットより |