ミツバチの巣箱を出て ビクトル・エリセ自作を語る

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女性の眼から世界を見る

四方田
 エリセさんのフィルムを二本見たのですが、なんだか見たことを誰にもいわずに、秘密にしておきたいような奇妙な衝動を受けました。

エリセ
 そう言って下さると、うれしいですね。

四方田
 『ミツバチのささやき』(以下『ミツバチ』)と『エル・スール−南−』はともに少女の通過儀礼を主題としているわけですが、その動機などについて教えて下さい。

エリセ
 実をいうと、自分でもよくわからないのですけど、撮る前まではそういう主題だとはわかっていなかったのです。主題は、 自分の無意識の内側に長い間眠っていたのだと思います。外側から形を与えるというより、内にあるものを見つめてみようと、最初に考えたのです。
 映画とは現実を知るための媒体ではないでしょうか。子供の頃、わたしは映画を見て育ち、映画を通していろいろな物事を学んできました。大人になってからは、子供のときの体験を元にして、ふたたび今度は別の形で現実を知ろうとしてきました。
 わたしにとってもっとも興味深いのは、二つの時期の間にある移行、事物が別の物になろうとするさいに見せる変化です。 『ミツバチ』にも『エル・スール』にも描かれているのは、幼年期の終わりと次の段階への移行です。

四方田
 エリセさんは御覧のように男性であるのに、男の子の通過儀礼ではなく、女の子を物語の中心に捉えたのは、どうしてでしょうか。

エリセ
 それは二通りに答えることができます。直後には、まず、『ミツバチ』はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の小説を読んだということが、契機としてありました。最初はフランケンシュタインの登場する、普通の怪奇映画を撮ろうと目論んでいました。原作の小説にあるスチール写真を切り抜いて、仕事場の壁に貼っておいたのです。川のほとりで怪物と少女が花を摘んでいる光景の写真です。それを見ているうちに、自分の経験というものがそこに凝縮されて存在していることに、ある日気が付きました。 自分もまた幼い頃に『フランケンシュタイン』のフィルムに魅せられたことを思い出したのです。それで、スチール写真に登場している少女のイメージを大切にしたかった。少女が『フランケンシュタイン』を見たときの感情体験というものを、なんとか再現してみたかったのです。実際に『ミツバチ』で用いたのも、この場面のフィルム断片でした。『エル・スール』は少し違います。これは原作が女性の手によって書かれた自伝的要素の強いものです。
 第二の理由は、女性の眼を通して世界を見ることに、監督としてのわたしが強く感心をもっていることです。女性は社会のシステムの周縁に、男性よりもはるかに昔から存在してきました。中心の主役ではなく、つねに周辺にね。わたしには そうした女性の存在のあり方が、男性よりもはるかに興味があるのです。うまくはいえませんが、自分が子供の頃に感じていた思考は、女性によってこそ表現できると思います。

父性の隠喩的力

四方田
 どちらの作品でも、父親が自然について豊富な知識を所有していたり、オカルト的な雰囲気を持っていたりして、生身の人間というより異教の錬金術師に似た印象を与えるのですが。

エリセ
 そうですね。たとえば『ミツバチ』の父親はミツバチの巣の観察を通して、そこに彼らの生活を発見するのですが、それは 人間の世界の隠喩でもあるわけです。こうした力は父性のすぐれて寄与するところです。
 『エル・スール』では野原で水を発見する能力をもった父親が登場します。重要なことは、いずれの父親も職業的にこの 能力を用いているわけではないということ。前者は教師だし、後者は医者である。したがって、こうした魔術的な力は、父性に直接関わっている隠喩的な力であって、彼らはこの力を通して現実に潜在している神秘を発見するわけです。

四方田
 あなたの描く父親の背後には、どこかしら非キリスト教的なところがあります。『エル・スール』の父親は娘の初聖体拝受のときでさえ、教会に足を踏みこまない。これは単に彼が無政府主義者であったという以上に、より大きな力が作用しているように思えますが・・・・・・。

エリセ
 まさにその通り、非常に興味のある質問です。
 わたしのいう神秘とは、社会の周辺にある異端的なもので、父性のもっている創造性の隠喩でもあるのです。父親は事物 を造りだすことで、ある種の神になる。『ミツバチ』のなかに登場する『フランケンシュタイン』では、一人の博士が怪物を蘇生させることで、神を真似るわけです。だからこそ、父親の試みというものは最終的にはどれも挫折し、失敗してしまう。神たらんとする傲慢な野心ゆえにね。それは、フランケンシュタイン博士が創った怪物が不完全なものであることと、同じ理由です。
 『ミツバチの精霊』という言葉はメーテルリンクから採りました。ミツバチを常人には理解できぬ仕方で支配し統御する人間 というのが、その原義でした。父親は家のなかにミツバチの巣箱をもちこみ、実験的な飼育を始めます。それは本来の、自然のなかでのミツバチの生活じゃありません。
 撮影のためガラス張りの巣箱を特別に作ったのですが、それに光を当てると、ちょうど朝になったと勘違いしてミツバチが動き出す。人間が、つまり具体的には養蜂家の父親がいろいろな試みをすると、ミツバチはそれに応じて活動する。少なくとも、そう感じている。たとえ外が夜であっても、死んでしまう。だから、父親の考えている計画は結局は不可能な夢に終わり、それが全体の隠喩になっています。父親が真の意味で自然というものを、生というものを知るのは、彼が死ぬときなのです。

窓を開けるパフォーマンス

四方田
 このフィルムの最後で、アナが夜更けに一人でバルコニーの窓を開き、自分の名を称えるわけですが、これは実に開かれた終わりという感じがしました。あの窓はいつもミツバチの巣箱よろしくオレンジの光のもとにあるのに、ここでは森に充満している青白い月光が投じられていましたよね。

エリセ
 あの家では、アナだけが外へ出ようとしている存在、閉ざされたものを見つめようとする存在なのです。アナが歩んでゆく過程とは、知を獲得する過程になっています。最初、彼女はいつでも姉のイサベルに頼っている。『フランケンシュタイン』のフィルムを見たときから、今度は姉にいろいろなことを尋ねるようになる。つまり学習が始まるわけです。アナの質問とは基本的な問いで、すべてのものに共通する普遍的なものです。たとえば、なぜ怪物は女の子を殺しちゃったのか、とかね。大人がこうした問いに答えるかどうかは別として、少なくともイサベルのした答は偽りです。それに父親の解答は合理的なものでしかない。どちらの解答も、アナには何の役にもたたない。アナだけが幻を本当に信じています。だから、彼女は少しずつ、少しずつ家族から離れてゆく。離れてゆくにつれて、だんだん自分のアイデンティティーが確立されてゆく。脱走兵が登場したあたりが、彼女の成長過程の第一段階かもしれません。最終段階は、フランケンシュタインの怪物と深夜の森の池のほとりで巡りあう場面です。怪物の方が、アナにとっては家族よりも近い存在といえるでしょう。フィルムの最後にアナが家の窓を開けるのは、超自然の、闇の世界をみずからの内に呼びこむというパフォーマンスを意味しています。

四方田
 その場面で面白いのは、画面の背後に汽車の音が聞こえてくることです。汽車の音は『エル・スール』にも幾度か登場して、希望や期待を暗示させてもいますが、『ミツバチ』では同時に、アナが路線で遊んでいた日の記憶に結びつき、かすかながらも死の危険をただよわせています。どちらの作品でも、父親と娘との交感が言葉によってではなく、床や杖や靴で叩く音によってなされていたことが気になりました。個人的な感想ですが、ふとジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』の母親と少年の交信を連想してしまいました。

エリセ
 フォードというのは思いつかなかったですね。わたしの場合、映像と音はほとんど同じ意義を担っています。今の映画は音を十分に使い切っていない。これはTVの悪影響ではないでしょうか。ある種の純粋な音を用いることによって、観念を伝えることができると信じます。たとえば、ロベール・ブレッソンの場合を考えてみて下さい。

映画体験の中から

四方田
 話は変わりますが、あなたの作品はどれも、一本のフィルムをたまたま見てしまった人間の不可逆的な体験とでもいうべきものを核にしているといえます。『ミツバチ』における『フランケンシュタイン』、それに『エル・スール』の父親がこっそりと見る『日陰の花』というスペイン製暗黒映画。そこでは、彼のかっての恋人が「ブルー・ムーン」を唄い、ハリウッドへの郷愁が溢れているかのようですが。

エリセ
 わたしが子供の頃に配給されていたのは、ほとんどがアメリカの、古典的ハリウッド映画ばかりで、それにひどく魅惑されました。『エル・スール』ではヒッチコックの『疑惑の影』のポスターを劇場(これは舞台となった田舎町のものではなく、実はマドリッドですが)の壁に貼ってみたのですが、大いにそのフィルムを尊敬はするものの、ヒッチコックから影響を受けたというわけではない。『疑惑の影』のポスターの絵柄が気にいっていたのと、ヒロインの女の子がこの題名から、父親の見た『日陰の女』を想起することを狙ったわけです。後から偶然だと気が付いたのは、『疑惑の影』は少女と謎めいた叔父の物語だったことです。『日陰の花』のポスターは、1940年代に実際に映画のポスターを描いていた人にお願いしました。
 実際に影響を受けたといえば、溝口、ジャン・ルノワール、それからカール・ドライヤー。ロッセリーニもとても好きです。わたしを決定的に映画に関わらせた作品があるとすれば、それはトリュフォーの『大人は判ってくれない』だと思います。見たあとただちに家に帰って批評を書いたのが、18か19ぐらいの時でしょうか、出発点とでもいうべき体験です。

スペイン社会とカトリシズム

四方田
 十年間に二本しかお撮りにならなかったわけですが、寡作であることは、あなたの作品にとって本質的なことなのでしょうか。それとも何らかの外的な事情で、映画は撮れないでいるのでしょうか。

エリセ
 実をいえば、寡作であることは遺憾なことです。第一作を撮ってから九年にわたって撮れないでいることに、ずいぶんと苦しんできました。映画を撮るのは確かにわたしの仕事なのですが、日常的にいつも撮っているわけではありません。それは特別の、例外的な行為なのです。どの作品も何年間もの経験の凝縮であり、蓄積なわけで、できることならどんどん撮りたい(そりゃ、ドライヤーは別格ですよ)、と監督としては思うわけですが、自分の撮る映画はスペインではきわめて作りにくいという状況があります。

四方田
 スペイン映画といえば、日本ではルイス・ブニュエルがつとに有名ですが、どうお考えですか。エリセさんのカトリック 観もお聞かせ下さい。

エリセ
 ブニュエルは、これまでスペインに登場したなかでもっとも偉大なシネアストです。ブニュエル同様、わたしもつねに宗教的な環境のなかで育ってきました。わたしは現在ではカトリックではありません。ブニュエルは教会に代表される制度化されたカトリックの側面を攻撃しました。わたしが関心をもっているのは、もっと別のカトリシズムの側面です。制度化された宗教とは宗教の死に他なりません。宗教感情とはあらゆる意味で個人的なもので、内的で、神秘の感情をともなった何かです。
 『ミツバチ』に登場する小間使いと『エル・スール』の年老いた乳母とは、ともにミラグロスという名前をもっています。「奇跡」という意味で、わたしの好きな言葉です。乳母は子供に、生活にきわめて近いところにいて、庶民として宗教に無垢な感情を抱いています。わたしがもっとも共感を感じる類の人物で、個人的体験にもとづく独自の知を抱いています。繰り返すことになりますが、わたしが強い関心を抱いているのは、女性の眼を通して世界を理解することなのです。

四方田
 どうもありがとうございました。

CINE VIVANT発行『ミツバチのささやき』パンフレットより

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