淀川長治氏、エリセ作品を語る
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昭和の初めごろに『童話』という児童雑誌があって、この雑誌に川上四郎というさし絵画家がひとつの絵の中に学校や寺や井戸や小川や畑や牛の絵を描いていたのを『ミツバチのささやき』を見ながら思い出した。
スペインのカスティーリャ高原の村。両親と二人の娘。姉イサベルは九才。そして妹のアナは何才なのであろうか、姉と同じ学校の同じ教室で勉強しているというのだから六才か七才なのか。父は養蜂業。『ミツバチのささやき』はこの家族のうちの幼女アナの"好奇心"がそのまま美しい映画となっている。映画・・・・・・ではあるが、これは子供の歌であり、それをひそかに聞いている大人の心にやさしくひびく詩であった。
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私は、幸いにもこのスペイン映画の監督のビクトル・エリセの新旧二本の作品をたてつづけに見た。新旧二本といっても、この監督は旧と新のこのふたつのあいだが十年、そのあいだには一本もとっていない。
『ミツバチのささやき』(1973)ともう一本は『エル・スール−南−』(1983)。どちらもが幼女少女の好奇心が波紋の輪をひろげてゆく。『エル・スール−南−』の少女は八才になっているので、なんとなく両親のことがすこしはわかってきているのだが、『ミツバチのささやき』のアナ、この六才くらいの幼女はきょとんとして何もかもがまだ好奇心だらけだ。
『エル・スール−南−』には原作があって、父親のことが、かなりわかってくるのだが、『ミツバチのささやき』は監督のビクトル・エリセ自身の原案ということから、ビクトル・エリセの映画への思いがもっと純粋に出ているように見えた。それはアナの好奇心、アナが目をきょとんとさせて、ちょっと口を開いて、"何だろう"といぶかる、恐れる、楽しむ、その幼女の心を幼女の心のままに大人の心をさしはさまないで映画にしてみようとしたビクトル・エリセの詩人肌がいかにも身にしみて、私はこの映画の作り方に酔い、アナを演じた天才子役のアナ・トレントにびっくりした。
この映画を見たあと私は友人三名とガス・ホール一階のコーヒー店に行った。映画を見たあと友人とコーヒーを呑みにゆくという最も楽しい習慣がちかごろはすっかりなくなっている。それはいかにも互いに多忙のことと、しみじみとした心打つ映画が少なくなっているからでもある。ところが『ミツバチのささやき』を見たあと、おおげさにいえば、ポカァンとしてしまって、誰かとしゃべりあわねばこの映画があたえてくれた幸せと美しさを逃してしまうように思えたのである。
それでコーヒー店にいくと、なんとそこにはすでに池波正太郎先生と私の親友の深沢哲也君もいて、やっぱりこの二人もアナ・トレントのことを"よくもこんな可愛い女の子がいたもんだねェ"と私の顔を見るなりそういわれたのだった。
アナ・トレントは、映画の中でも"アナ"という名の女の子の役を演じているのだが、これはひょっとするとビクトル・エリセ監督がこの子と同名の名を役の名にしようと思いつき、撮影中も"アナ" "アナはそこでこうする"と呼びかけてアナの役をやらせ、そうしているうちにアナ・トレントが本当に映画の中のアナを自分と思いこんでしまったのか、とさえ思えるほど本物の表情をしているのであった。
いままでの映画のように大人がこの映画の"アナ"を見つめているのではなく、アナ自身の心のままが映画になっている。大人がいっさい這入りこんでいない。ここがうまい。
移動巡回の映画がこのカスティーリャの田舎にもやって来た。そしてジェームス・ホエール監督のアメリカのユニヴァーサル映画『フランケンシュタイン』を映写した。これはこの村の1940年のことで、そしてこの映画は、ボリス・カーロフがこれで一躍有名となった1931年の作品である。だから十年おくれのこの古いフィルムを映写しているところにもこの田舎のひなびた地方色がよく出ているわけです。アナがこのフランケンシュタインの怪物のことが胸にこびりつき、姉にきくと"それは怪物ではなく精霊よ"と教え、それは村はずれの一軒家にかくれているという。アナは本気にする。そしてその井戸のある村はずれの一軒家で何を見たか。アナが父の上着を盗んでその一軒家に。その父の上着にはオルゴールの鳴る懐中時計が。ビクトル・エリセの原案と脚色は、この泉のような静かなアナの映画の中に、フランケンシュタインの怪物をきっかけにストーリーを盛り上げる。そして、母が駅に馳けつけて過ぎ去る列車に手紙をことづけたり、大人の世界のストーリーが実は、射殺される兵士の事件をもふくめて、あふれるばかりに用意されている。にもかかわらず、この映画の印象は森の中の泉のひとつ、またひとつとその輪をひろげる波紋の静けさを思わせる。アナひとりの世界の、これこそは幼女感覚あふらせ詩情香らせた名作だ。
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ところで、この映画のアナ・トレントがあまりにも素晴らしいので、このパンフレットの編集のK女史が"外国映画の子役について、たとえばテンプルちゃんのような"という子役論を注文されたが、『ミツバチのささやき』のアナ・トレントの本気か演技か見分けのつかぬこの幼女の表情を見たあとは、子役というその呼び名さえもがうとまれて、心がすすまない。
けれども思い出せば、スペイン映画『汚れなき悪戯』のパプリート・カルポ、イタリア映画『鉄道員』のエドワルド・ネヴォラ、フランス映画の『禁じられた遊び』のブリジット・フォッセなどの子供たちが目に浮かび、フランス映画のアルベール・ラモリスの「赤い風船』やトリュフォーの『思春期』と、これらを見ながら西洋人はなんとまあ子供の心をこれほど掴みとれるのかと見とれ見惚れたものであった。童心のそのこころを掴める人を私は詩人と思う。童心を失ったり自分から童心を捨てた大人を私は貧しい人だと思う。
アメリカ映画のシャーリー・テンプルは銀行の頭取の娘で四才から映画に出て役47本に出演した映画史上の名子役だった。『可愛いマーカーちゃん』その他のテンプル映画は、世界中の大人たちの心に笑いを誘い涙をあふらせた。日本では芝居も映画もむかしは子役で泣かせたものである。哀話の中の子役が泣かせの呼びものでさえあった。しかし外国映画ではむしろ子役の無邪気さ聡明さで笑わせ、おませな大人ぶった様子をして見せることで、笑わせた。ようするに子役は笑いのタネとなり一家で見物の客の花形でもあったのだ。
それゆえサイレントのアメリカ映画の初期から早くも、ゾー・レー、ベン・アレキサンダー、ベビィ・ペッギーというような天才子役スタアが登場した。いま75才以上のオールド・ファンはこれらの子役の名をさぞ懐かしく思われることだろう。チャップリンの名作『キッド』でもジャッキー・クーガンの涙と笑いでこの映画を飾り、このあとジャッキー・クーパー、ミッチー・グリーン、ミッキー・マクガイア(のちにミッキー・ルーニーと改名)、その他思い出せばきりがない。彼らは文字どおりの名子役、両親のドル箱、映画会社のドル箱スタア。そして世界中に愛された。
ところが『ミツバチのささやき』のアナ・トレントを子役と呼ぶには、彼女はあまりにも自然児でありすぎた。これから大人になってゆくのがこわいくらい、可愛い女の子であった。彼女はビクトル・エリセがうたう詩の中の可愛い妖女であったのだ。
CINE VIVANT発行『
ミツバチのささやき
』パンフレットより
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