ビクトル・エリセ インタビュー 『ミツバチのささやき』の神話構造

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収容所のフランケンシュタイン

フランケンシュタイン神話をとりあげたのはどういうわけだったのですか?
 実際のところ、ぼく自信にもはっきりわからないんですよ。その選択は多分に直観的なものでした。まあ、様々な要因があわさってそういう選択をさせたということは言えるでしょうね。まず一方では、ちょうど当時、テレビでフランケンシュタインものの映画が連続放映されて、それを見たということ、それと同時に、メアリー・シェリーの原作を読み直したということがあります。それと他方、フランケンシュタインをとりあげると、配給契約を前もってとりつけやすいという事情がありました。実際、このプロジェクトはほとんど即座にOKされたんです。

 多少とも偶然の状況の産物であるこの選択が、プラクティカルなレベルで少なからず難題を生むだろうことは、初めから予感していました。基本的に、自分の作りたいのはジャンル・ピクチャーではないという思いがあったんです。だから、最初に具体化させたプロット・ラインにはそういう感じがはっきり出ていて、ある種の確執がおこるのはすでに明らかでした。その筋というのは、ゲームの規則を受け入れようとしつつ、深いところではそれとなじみきれずにいたわけです。もちろん、これは、構想段階のものに関する仮定的な判断でしかありません。もとよりそういう段階ですから判断しがたいところですよね。ただ確かだと思われるのは、この最初の焦点の絞り方には、映画狂としてのぼくの経験、それに読書経験が決定的な影響を及ぼしていたことです。

途中のその段階では、フランケンシュタインというのは何を表わしていたんですか?
 この映画は、文学的・映画的神話−今日では低級になって、扱われ方によってはフェティッシュになってしまい、消滅の瀬戸際にあるもの−のいくつかに関して、その神話の現代的な運命を考えてみるというところから出発しています。フランケンシュタインが、メアリー・シェリーの置き去りにしていったその同じ場所、つまり北極から、ある神秘的な呼び声に応えてぼくらのもとへと戻ってきたという設定です。彼は北極で何年も何年も冬眠していたわけです。プロットの中心には、あの本の主要人物たちが、ある種警察機構的な性格ももった組織に働く現代の文化・科学テクノクラートとぶつかりあう、という場面がおかれていました。アクションの大半は収容所的な空間の中で展開するはずでした。それはもちろん、抑圧的な施設で、精神病院や刑務所そのものではなくとも、その両方に似たところがある場所です。

 この話しの中では、その施設に監禁されている登場人物の何人かが、しょっ中、身元の知れないある女について話し合うのです。この女というのはその同じ建物の中の一番奥まった部分に住んでいて、決してその外には出てこない、けれども時折その女の歌声が聞こえてくるんです。それもいつも真夜中に。収容されている人物の中にはフランケンシュタイン博士と彼の手になる怪物も含まれているんですが、このふたりだけが例の女の声に、他の人たちとは違った何かを感じとっている様子なのです。ある時、ぼくらはこの場面をどういうふうにしようかと考えたものです。けれども、これだけじゃなくて、この女の歌の歌詞やリズムは、女の知らないうちに、囚人たちの即興の暗号として、壁ごしに房から房へと情報を伝えるのに利用されている、という話もからんでいました。映画の最後になって、一回だけ、この女が閉じこめられている場所にカメラが入っていきます。女は年齢不詳で、その容姿や服装は非時間的なものである。それに、人から見られていることにも気づかずにいる。少なくとも気づいているようなそぶりは見せないわけです。彼女は自分のうちに閉じこもって一心に絵を描いている。その絵には、嵐にもまれる帆船の姿が描かれてています。そして、ちょうどその時、女は全神経を集中させてゆっくりと、帆船の竜骨にある名前を書きこんでいる−「エアリアル」とそれは読める。まさにこれが、あの詩人のシェリーが溺れ死んだ時に乗っていた船の名なんですね。つまり、例の女はメアリー・シェリーだと考えられるわけです。この映画のために頭の中にあったスタイルは、明らかに無声映画の特徴から影響を受けていました。特にドイツ表現主義、中でもフリッツ・ラングの作品とムルナウの『ノスフェラトゥ』ですけれども。

ヌミノーゼとしてのフランケンシュタイン体験

どうしてその計画はあきらめてしまったんです?
 製作の側から見て、この着想には問題が多すぎたんですよ、つまり、予算を超えちゃうだろうと思わせる要素がたくさんあったんですね。まあいずれにせよ、ぼくがこれをあきらめることにした最大の理由は、こういう捉え方をすると、当時ぼくが不可欠だと感じていた何かが落ちてしまうと気づいたからです。それが何なのかは、しばらくたってから突然、非常にはっきりとわかったわけですけれども。

 このテーマを選んだ時から、ジェームズ・ホエイルの映画『フランケンシュタイン』(1931)のスティル写真を切り抜いてきて、仕事机の上に置いといたんですよ。この写真は、よく知られているものですけど、川べりで怪物が少女と出会う場面を撮ったやつです。ある朝、あらためてこの写真をながめていたら、急に、この中にすべてが含まれているって気がつきましてね。このイメージが、ぼく自身とフランケンシュタイン神話との最初の関係を深いところで要約しているんだなって。つまり、フランケンシュタインが文学的な虚構の存在だと知る前には、ぼくはフランケンシュタインとどういう関係をもったものだったか?そう考えてみると、それは、惹きつけられるけれども拒絶したいという両方の色に染まったもので、幼児期のある瞬間にどこかの暗い広間(映画館)の中で体験したものだったわけです。つまり、他の多くの人たちがもったであろう関係と同種のものです。その後、人は成長してゆくにつれて本を読み、もっと映画を見て、次第に多かれ少なかれ意識的な観客になってゆき、そうしてこの最初の体験は、文化的体験によって超えられ、補完されてゆくわけです。けれども、あらゆる神秘的体験のうちで最も重要なのは、幻影の姿が露になる瞬間、通過儀礼の瞬間なのであり、ぼくはそれに身を任せることにしたわけです。そこで、ニ、三日で物語をひとつ書き、『ミツバチのささやき』の下じきになったんです。

意識的に文化の体験を拒絶しようという意図があったわけですか?
 いや、全く違います。どうもうまく説明しきれなかったみたいですけれども、そいういう意図というのは、ぼくにはばかげたものに思えますね。少なくとも、文化というものを非常に狭義に捉えて、文化の体験を知的なものだけに限ってしまうのでない限りね。

原点としてのゴダール映画

さっき話してた時、シナリオにとりかかる少し前にパリで、ゴダールの全作品をまとまって見る機会があったとおっしゃいましたよね。それはあなたにとって何か重要な意味をもったのでしょうか?
 そうですね、実際そうでした。でも、周知の理由によって、スペインではゴダールの映画が部分的にしか見られないのですが、それを完全に見られたという程度の意味でですけれどもね。実際、ゴダール体験というのは現代の映画の発展にとって不可欠であり、いやがうえにもひとつの原点になっていると思います。彼の作品では、映画的言語の意味に関して、亀裂だらけながら、完膚なき審問がなされているわけです。ちょうど彼は、重要な岐路をなす時期を代表してますね、それは60年代初頭の風土に対応しているわけですが、今ではある種古びてしまった時代です。重要な時期というのには、色々理由がありますが、何よりも、当時の最も面白い映画のかなりの部分が、多国籍企業の活動によって首を絞められ、結局、出口のない行き止まりの路地に迷いこんでいってしまった時期だからです。最低限の独立を保って最低限の仕事を続けてゆくために、テレビの経済的援助に頼らざるをえなくなった映画監督もいたわけですね。例はいくつもありますけど、シュトローブの場合がそうです。こういう状況を克服しなければならないのは、言うまでもありません。他ならぬゴダールも仕事をミリタントな政治映画の領域内で行なうことによってそれを試みてきたわけです。無声映画の時代に映画体験を始めた大映画作家たちが姿を消し、あるいは(ヒッチコックとかブニュエルなど少数の例外を除いて)映画を撮らなくなってしまった時期に、まさにこのような現象が起こったという事実、これは少しばかり考えてみるべき問題だとぼくは思うのです。

人物像の不在、神話の存在

『ミツバチのささやき』の話に戻りますが、このシナリオは、どのようにしてふたりで書いたんですか?
 はじめから、特に大人の登場人物について考えはじめた時から、アンヘル・フェルナンデス=サントスとぼくはふたりとも、物語を語って聞かせるという具合には行かないだろう、と漠然とながらわかっていたんです。ふつうのいわば伝統的なカット・シナリオでは、登場人物を作る時に、その人物がその話の中でどういう役割を占めるのか、どんな経歴の持主なのか、とか、どんな性格なのかとかを最初から考えてしまうのが一般的なんですが、ぼくらは違った方式で仕事を進めたのです。最初の段階では、両親の役は、影のようなものでしかありませんでした。両親については、はじめのうちはあまりはっきりせずにおこうとしたわけです。知らずしらず無意識的に抱いた基本的なイメージだけで充分だとしたのです−夕暮をながめている男、手紙を書いている女という具合に。この映画がいわば断片からなっているのはおそらくこのせいなのでしょう。神話の領域にぼくらも最初から入りこんでしまい、人物像を自然主義的な角度から厳密に考えてゆくことができなかったのも、同じ理由からだと思います。ほとんど気づかぬうちから、ぼくらも抒情的な構造のまわりを回っていたわけです。

 だから、人物は人物像の拒否(もしくは、人物像の不在)として存在していたんですね。その理由のひとつとしてぼくが考えてみたのは、神話の存在ということです。もっと言えば、少女の目を通して神話が描かれている物語だから、ということです。もっと他の理由に気づく人もいるでしょうけど。

 時々思うんですけど、スペイン戦争のような内戦の直後に生まれた人間は様々な重要な面で、あの空虚感、真空状態を遺産として受け継いでいるわけで、それを子供の頃から経験しつくしてくると、大人というのはしばしばそういう空虚=穴ぼこ、不在であってしまうわけですね。大人たちはそこにいた−生き残ってきた人たちは−わけですが、でも、どうもいないみたいなものなんです。どうしていないのかっていうと、それは、死んでしまったか、あるいは国を去っていってしまったか、そうでなければ、自分の一番本質的な表現方法を根本的に奪われて自分の中に閉じこもってしまっていたからです。もちろん今言っているのは負けた人間のことです。けれども、単に公式的な意味で負けた人間だけではなく、あらゆる種類の敗者がそうなのです。その中には、どちらの側で戦ったかということとは無関係に、自分の行為の根拠を本当には信ずることができないまま単に生き残るためにあの戦いを生き、その結果をすべて経験した人たちも含まれているのです。自分の中へと亡命してしまった人たち、彼らの経験というのもやはり、哀切な思いにみちた敗者の経験だったと思うんです。彼らにとって悪夢だったものが終わると、多くは家に戻って子供を育てました。けれども、彼らの中には永久に失われてしまった部分があったわけで、それが彼らの不在の意味するところなのでしょう。これがあるいは、養蜂家夫妻の人物像の扱い方の説明になるかもしれませんね。文字表現でのシナリオの段階で、あのふたりの扱い方の基礎には、様々な材料の上澄みだけをすくいとるという作業があったわけなのです。

開かれた構造と簡潔さ

その上澄みをすくうという作業はどのようにして行なわれたんですか?
 それを説明しだすと非常に長い苦労の過程をまるごと再検討することになってしまいますからね。ただ、この材料を最終的に見直して決定するという作業が終わったのは、撮影に入る直前だった、と言えばあるていどはおわかりになるでしょう。このような見直しが必要になったのは、映画の長さを机上で概算してみたところ、2時間15分近くになってしまうことがわかったからです。その長さだと当然、製作・配給のところでめんどうが起っちゃいますからね、大きな手直しが必要だったわけです。

 その時点では、シナリオはまだ最初と同じ構造のままだったんです。つまり、アクションは現在の時点で、少女たちのひとり、アナが大人になって父親の葬儀に列席するため村に戻ってくるところから始まるはずだった。そこから、幻想的な形で過去へのジャンプがあって、幼児期に戻るという具合にね。映画の始まる四週間前になってから、この部分はそっくりそのまま切ってしまって、別の始まり方を考え出したのです。こうして、良かったのか悪かったのかわかりませんけど、新しい形になったわけです。おそらく、撮影の途中で生じてくる新しい要素をとりこめるよう充分に開いた構造の中で仕事を進めたいという直観的な必要性−これには葛藤がないわけじゃありませんが、今でもいつも感じているものです−に、自分でもことさら意識することなく、道を開いてやったということなのでしょうね。この開いた構造の必要性ということに関しては、子供の演じる映画の場合、特に留意しなければなりません。そういう映画では、子供たちの直観を大切にして、前もって形を決めすぎないでおくことが重要だからです。

その部分を開始の数週間前に切り捨てたことによって、何か映画の形や映像に変化は生じましたか?
 ありうるでしょうね。確信をもって言えることとしては、物語をひとつの時間平面のうちに限ったことによって、映画的形態がより透明になったことがあります。これはさっき言ったように、若干外的な状況によるやむをえない措置であったわけですが、批判的な考慮の結果でもあったんです。つまり、大人になった主人公が見る神話は、子供の時に見た神話とは違った次元をもたざるをえまい、と気づいたんですね。そうしなければ、筋があまりにも閉じられたものになってしまう可能性があったわけです。この状況を克服するのは大問題でした。そのうえ、一定の時間枠を守らねばならなかったわけですからなおさらです。登場人物のレベルに視点をもってくるという古典的な方法は、いくつもある選択肢のひとつなわけですが、今度の場合、作品のスタイルや性質とぶつかってしまう。隠喩的な秩序を使うという一種の省略法ですが、これも同じようにいろんな危険をはらんでいました−例えば、繰り返しが多くてくどくなる可能性とか、あまりに詩的になりすぎてしまうとか。隠喩の原初的な存在理由は幼児期にあったわけですから。

 引き出されてきたいろんな結末の大半は似たような批判の対象となったんです。その中でひとつ、おそらくぼくが個人的に一番気に入ったものということなんでしょうが、その結末が、シェイクスピアの『テンペスト』の有名な詩文−父親の死についてのもので、その一部はシェリーが埋葬されているローマの墓地の墓碑に刻まれています−と関係づけたものだったんです。これはもとのテーマと地下でつながっているわけです(ある種の共犯関係があるわけで、これの弱味もやはりそこから発してくるのです)が、このような決着のつけ方がいいのかどうか、詩的にいって有効なものなのかどうか、自信はありませんでした。こういう具合に一連の問題に促されて、現代で展開する部分は全部結局落としてしまったわけです。

この映画の地味なスタイルは、今おっしゃった決断の影響によるんですか、それとも最初から計画されていたんですか?
 もちろん影響を受けていますよ。幼児期を物語の中心にすえたことで、スタイルはずっと明確になっています。ただ確かに、ある種の簡潔さを求めるという方針は、最初から計画に入っていました。

歴史的状況の内面化

この映画は、具体的な対象物を避けているにもかかわらず、40年代のカスティーリャの風土を非常によく反映させていますね。
 そういう印象を与えるのだとすると、奇妙なものですね。ぼく自身は何と答えたらいいのかわかりません。ぼくはあの時代のカスティーリャにはいたことがないんですよ。アンヘル(共同執筆者)はトレドの出身ですからあるわけですけど。でも、いずれにしても、映画の中では歴史的な領域は内面化されており、現実的なものが幻想的に展開されてゆくという方法の上に成立した一定のパースペクティブの水面下に隠れているというべきなのだとぼくは思います。もちろん、だからといって、このパースペクティブを通じて、あるいは観客の無意識を通じて、ある特定の時期の感じ、その息吹が感じられてはいけないというわけじゃありませんけれど。

 この問題に関しては、他のいろんな問題に関してと同様、作品の本当の映画的性格をまず考えてみることから始めるべきだと思います。

 現実をより直接的に直截に見る傾向のある人が、この種の議論をあまりに主観主義的で曖昧だと感じて、同意しないであろうことはわかっています。そのような批判的考察はたいがい社会学的判断規準にのっとっているわけですが、これは、現代において社会的に確立してしまっている歴史と詩(詩情)の対立図式の避けがたい結果、ほとんど宿命的な結果なのだとぼくは思います。

 ついさっき、映画の中の両親の人物像の扱われ方を説明した時、ある歴史的状況の特定の側面を内面化する方式と深くつながりあった幼児期の一連の印象について話しましたよね。それとつなげて言えば、状況に押されながらぼくがやろうとしたのは、詩的な要請として現れてきたものを歴史に転じてしまうことだったんですよ。それは一見して、いまとここという究極の条件において、必らず失敗する試みです。それゆえ、暗に示すということでしかありえないわけですね。というのも、さっき述べた印象とか、特に詩的な要請とかは、映像になったりエクリチュールになったりした瞬間、神話の棲息する光と影の領域に踏みこんでしまい、そこでは、神話が歴史的な時間を停止させてしまうまでは至らずとも、その時間と対立したり、あるいはそれを変形させたりしているからです。そこから、ロラン・バルトが言うように、現代的エクリチュールの亀裂、悲劇性が生じてくるわけですね。つまり、現代的エクチュールというのは、現代的であると同時に、歴史と歴史の夢との疎外をもたらすものであるということです。前に述べたような批判的考察というやつは、たいがい、言語に関する実証主義的、もしくは功利主義的な"おめでたい"考え方に安住していて、この悲劇性に目をつぶるか、あるいは、それをそっくりカッコに入れるかしてしまうのです。

沈黙の言語、視線の言語

幼児期というのは、あなたの映画の中では一種の出生、発見のように描かれているわけですが・・・・・・
 確かにそうですね。ことにアナの人物像に関する部分がそうですね。彼女は完全な従属から、ある種の個人的冒険を自分で引き受けるまで、旅路をたどるのだと言えるでしょう。確かにこの冒険を通過儀礼として、あるいは、知の体験、更には生まれ変わりの体験として語ることは可能だと思います。ただ、最終的に何があの冒険の特徴だったかといえば、それは一種の神秘性なのだろうと思いますよ。それは、結局のところ観客でしかないわれわれには、どうあがいても捉えられないものなのかもしれませんけどね。

 それはともあれ、このアナはイサベルなしでは存在しえなかったでしょうね。だから、イサベルのはたす役割は極めて重要なのです。イサベルの哀れな点は、自分でほとんど気づかぬままとなえている呪文のアルファベットを信じていないところです。彼女にとっては、遊びでしかないわけなんですね。だから彼女はあるレベルでは、驚くふりをする。そう装う、そう演じることしかできない。霊=幻影を呼び出すことはできないわけです。登場する最後のシーンで夜の闇を前にしたイサベルが味わう恐怖感は、アナが味わう恐怖とは別種のものです。なぜなら、アナはイサベルに欠けているものをもってるからです−つまり、怪物の存在を信じて、どんな結果になろうとも一途にそれを追い求めるわけですね、アナは。

 初歩的な形でではありますけれども、この姉妹の歩く道筋は、物事を知ってゆく過程の一時期において重要な意味をもつ"嘘と本当の弁証法"(<ほんと遊びする?それとも嘘遊びする>−子供たちがある遊びへの参加のしかたを決めるためによく使うこの古典的な表現がそれにあたります)を形作ることになるんです。アナの中には、何か、美しいと同時におそらく自己破壊的でもあるものが潜んでいます。つまり、あくまで知ることを求める態度です。それゆえ、ある時点で彼女は、あの逃亡者を呼び出すわけですが、あの人物は彼女自身の内面の一種の反映であると考えられるでしょうね。彼女はその人物を映画の表面に投げ出してくるわけです。この少女との接触を通じて、一度もことばを発することのないあの男は殺されてしまう。で、ここから、映画のあの部分におけるアナの行動に関する謎が生じてくる、それと同時に、彼女の唯一の言語もそこから生まれてくるのです。それはあの怪物の場合と同じで、沈黙の言語、あるいは、視線の言語とでも呼ぶべきものでしょうけれども。

死と生の不断の交流

その意味で、死がほとんど常にそこにあることが映画の基準を決定しているようですね。
 そうですね、ぼくもそう思います。思い返してみると確かにこの映画には、死の記号、破壊の記号がたくさんあると思います。死と生の間の不断の交流のようなもの、見た目には死んでいるけれども生の可能性をはらんでいるものと、生きてはいるけれども麻痺していて、それゆえ死にかけているものとの間の交流のようなものですね。例はたくさんあるでしょう。テレサは手紙を書く相手がまだ生きているのかどうか知りたがっている。養蜂家が映画館の前を通りかかる時、フランケンシュタインの怪物が生をうける瞬間の音楽が聞こえている。フェルナンドが夜中に書いている文章は、蜂の命のことを通して<死の休息>に言及する。姉妹が最初に交わす会話は、死について、ほんとと嘘について、ふたりが見た映画に出てくる怪物と少女についてである。イサベルは死人のふりをして遊ぶ・・・・・・。要するにほとんど絶え間なく死に関わるものが出てくるわけですね。それから他方では、フランケンシュタインの怪物というのは、博士が人間の死体に命を吹きこむことで生まれた生物であるということ、これも忘れるわけにはいかないでしょう。

最後のところで、医者がテレサに、重要なのは生きているっていうことだ、と言いますね・・・・・・
 その通りです。あの医者はおそらく、何よりも母親をなだめるためにああ言ったわけでしょうけれども、確かに、確信にみちた彼のことばは、あの瞬間に挿しはさまれたことで、ちょっと特別な響きをおびてしまうんですね。

CINE VIVANT発行『ミツバチのささやき』パンフレットより

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