■その上澄みをすくうという作業はどのようにして行なわれたんですか? |
それを説明しだすと非常に長い苦労の過程をまるごと再検討することになってしまいますからね。ただ、この材料を最終的に見直して決定するという作業が終わったのは、撮影に入る直前だった、と言えばあるていどはおわかりになるでしょう。このような見直しが必要になったのは、映画の長さを机上で概算してみたところ、2時間15分近くになってしまうことがわかったからです。その長さだと当然、製作・配給のところでめんどうが起っちゃいますからね、大きな手直しが必要だったわけです。
その時点では、シナリオはまだ最初と同じ構造のままだったんです。つまり、アクションは現在の時点で、少女たちのひとり、アナが大人になって父親の葬儀に列席するため村に戻ってくるところから始まるはずだった。そこから、幻想的な形で過去へのジャンプがあって、幼児期に戻るという具合にね。映画の始まる四週間前になってから、この部分はそっくりそのまま切ってしまって、別の始まり方を考え出したのです。こうして、良かったのか悪かったのかわかりませんけど、新しい形になったわけです。おそらく、撮影の途中で生じてくる新しい要素をとりこめるよう充分に開いた構造の中で仕事を進めたいという直観的な必要性−これには葛藤がないわけじゃありませんが、今でもいつも感じているものです−に、自分でもことさら意識することなく、道を開いてやったということなのでしょうね。この開いた構造の必要性ということに関しては、子供の演じる映画の場合、特に留意しなければなりません。そういう映画では、子供たちの直観を大切にして、前もって形を決めすぎないでおくことが重要だからです。 |
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■その部分を開始の数週間前に切り捨てたことによって、何か映画の形や映像に変化は生じましたか? |
ありうるでしょうね。確信をもって言えることとしては、物語をひとつの時間平面のうちに限ったことによって、映画的形態がより透明になったことがあります。これはさっき言ったように、若干外的な状況によるやむをえない措置であったわけですが、批判的な考慮の結果でもあったんです。つまり、大人になった主人公が見る神話は、子供の時に見た神話とは違った次元をもたざるをえまい、と気づいたんですね。そうしなければ、筋があまりにも閉じられたものになってしまう可能性があったわけです。この状況を克服するのは大問題でした。そのうえ、一定の時間枠を守らねばならなかったわけですからなおさらです。登場人物のレベルに視点をもってくるという古典的な方法は、いくつもある選択肢のひとつなわけですが、今度の場合、作品のスタイルや性質とぶつかってしまう。隠喩的な秩序を使うという一種の省略法ですが、これも同じようにいろんな危険をはらんでいました−例えば、繰り返しが多くてくどくなる可能性とか、あまりに詩的になりすぎてしまうとか。隠喩の原初的な存在理由は幼児期にあったわけですから。
引き出されてきたいろんな結末の大半は似たような批判の対象となったんです。その中でひとつ、おそらくぼくが個人的に一番気に入ったものということなんでしょうが、その結末が、シェイクスピアの『テンペスト』の有名な詩文−父親の死についてのもので、その一部はシェリーが埋葬されているローマの墓地の墓碑に刻まれています−と関係づけたものだったんです。これはもとのテーマと地下でつながっているわけです(ある種の共犯関係があるわけで、これの弱味もやはりそこから発してくるのです)が、このような決着のつけ方がいいのかどうか、詩的にいって有効なものなのかどうか、自信はありませんでした。こういう具合に一連の問題に促されて、現代で展開する部分は全部結局落としてしまったわけです。 |
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■この映画の地味なスタイルは、今おっしゃった決断の影響によるんですか、それとも最初から計画されていたんですか? |
もちろん影響を受けていますよ。幼児期を物語の中心にすえたことで、スタイルはずっと明確になっています。ただ確かに、ある種の簡潔さを求めるという方針は、最初から計画に入っていました。 |