ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE2
大人というものは、時として非合理かつ不条理極まりない存在だ。
「早く、早く、バスに遅れるよ、レイフ」
慌しく家を飛び出し、近くのスクールバスの停留所まで全力疾走した双子兄弟は、今まさに出発せんとしていたバスに、間一髪飛び乗った。
「ああー、よかった、間に合って」
空いていた座席に着くなりぜいぜいと息を切らせながら呟く弟を、クリスターはちょっと恐い顔で睨みつけた。
「おまえがもう三十分早く起きていたら、こんな目にはあわなかったんだよ」
「だってさあ」
不満げに頬を膨らませるレイフに、クリスターは溜め息をついた。
「いいよ、もう。そんなに眠ければ、学校に着くまで寝たらいいんだよ、レイフ。どうせ四十分もかかるんだから」
以前は、同じ学校に着くのに、その半分の時間しかかからなかった。これも、去年行われた小中学校の統合と再編成のおかげだ。
クリスターとレイフが通う、セタウケット・アカデミー中学校では、もともと、その生徒の大半が中流クラス以上の白人家庭の子供達で占められていた。それが、肌の色や階層が異なる子供達を幼い時から一緒に教育することが望ましいとする州の方針によって、今学期から、黒人やヒスパニック系が多い別の中学校と統合、再編成されることになったのだ。
この決定には反対する親達も多かった。人種差別的な感覚からくる抵抗もあっただろう。また、低所得者層の家庭の子供達が同じ学校に来ることで、校内の風紀が乱れるのではないかという不安の声もあった。
一方、子供達にとっても、それは仲のよかった友達や慣れ親しんだ教師と場合によっては別れることを意味したため、歓迎する者はほとんど皆無だった。
そして、このスクールバスだ。もともと社会階層ごとに住み分けが進んだ地域で、新たな学校の振り分けなどを無理に行ったものだから、以前に比べて一つの学校がカバーする学区はずっと広くなった。それを、限られた数のバスが生徒の送り迎えのために回らなくてはならない。そのために、登下校にかかる時間もかなり長くなったのだ。
「全く、教育庁のやり方にはうんざりするよ。民主主義には大賛成だし、自由平等も大いに結構。けれど、大人達の強引な決定の皺寄せを一番くうのは誰かというと、当事者である僕ら子供なんだからさ!」
始まってもう七ヶ月にもなる新システムに、いまだにクリスターは時々腹を立てる。朝の三十分は、彼ら中学生にとっても貴重なものなのだ。
「ううーん、そんな難しいこと言わないで、もっと寝たかったって素直に言えばいいのにさ、兄ちゃん」
レイフは、本当にうつらうつらし始めた。
クリスターは反論しようとするが、バスが揺れた拍子に彼の肩に頭を預け、本格的に居眠りを始めるレイフに、何も言えなくなってしまった。
(全く、いつまでたっても子供なんだからさ)
中学生になって、成長の早い彼らの体はぐんと大きくなった。横幅はそれ程ないものの、同じ学年の子供達の中でとびぬけて背は高く、高校生によく間違えられた。体格だけを見れば、子供だとはもう言えなくなっていた。
その辺りの自覚はレイフにもあるのか、この頃、やたらと大人ぶった言動が目立ってきた。しかし、それも、クリスターの目から見れば、一生懸命自分をよく見せようと背伸びをしていることが丸分かりで、微笑みを誘うものだった。
この頃になっても、二人の子供部屋は以前のままだった。しかし、さすがにベッドも狭くなり、大人に近づいてきた彼らが一緒に生活するのは限界に近かった。今年も双子達の誕生日が近くなれば、また父親のラースが言い出すだろう。いい加減、別々の部屋を持ったらどうだ、と。
クリスターにしてもレイフにしても、早く大人になりたいとは思っている。反面、子供時代を脱することにまだ抵抗がある。彼らがずっと共有してきた、安心できる二人だけの小世界である、あの部屋を失いたくはなかったのだ。
クリスターは、自分に寄りかかってすやすやと寝息を立てている弟を困ったように見下ろした。小さな囁き声が聞こえたのでそちらを見ると、斜め前の座席に座った女の子達がこちらを盗み見していた。見分けがつかないほどそっくりな双子達が仲良く寄り添いあっている様子を、彼女らはどんなふうに捕らえたのだろうか。
クリスターは何だか恥ずかしくなって一瞬レイフを揺り起こしかけたが、気持ちよさそうな彼の寝顔を見て、気を変えた。
(別にいいや。見たい奴には、勝手に見させてやればいいんだ)
クリスターは目をつむり、自分も眠ったふりをして、弟に軽く頭をもたせかけた。
いつの間にか、クリスターの機嫌は直っていた。実際、レイフの体の温かさと慣れ親しんだ彼の匂いに浸りながら過ごす、学校に着くまでの一時は、こうしてみれば、決して悪くはなかったのだ。
やがて、スクールバスは、学校に到着した。
短い春休みが終わり、昨日から新学期が始まったところだった。先生の入れ替わりやクラスの変更が若干ありはしたが、それ以外は、特に変わったことはない。
バスから降りた生徒達に混じって、クリスターとレイフも校舎に向かう。クラスメートや同じクラブの友達の顔が見つかれば、互いに挨拶を交わす。
いつもと同じ朝の光景だ。
だが、この日は一つだけいつもと違う出来事が起こった。
「やあ、君達、ちょっとすまないね」
学校の玄関ホールに入ったところで、クリスターとレイフは後ろから誰かに呼び止められた。
「はい?」
二人は同時に足を止め、振り返った。彼らを初めて見る人間は、これをやられると大抵衝撃を受ける。同じ顔に同じ体。声までもが、別にしめし合わせたわけでもないのにぴたりと重なった。
だが、この相手は、特にひるんだ様子は見せなかった。
「校長室はどこにあるのか、教えてもらえないか」
クリスターは、目をすっと細めて、この見知らぬ男を眺めた。全く驚いていないわけではない。双子を見て、ほんの一瞬、男の瞳は揺らいだ。しかし、あっという間に自分をコントロールして、驚愕を抑えこんだのだ。
年は三十代後半だろうか。スーツを着てきちんとした身なりをしているが、茶色の髪はおざなりに櫛を通しただけのようにおさまりが悪い。銀縁の眼鏡の下にあるブルーグレーの瞳は思慮深げだが、気のせいか、何かにひどく倦み疲れているような、冷めきった印象を与えた。生徒の父兄というわけではなさそうだ。新任の教師か事務職員だろうか。
「校長室なら、この廊下をまっすぐに行って右に曲がってすぐのところにありますよ。事務所と保健室の先です」
愛想よく笑って、男に校長室への行き方を説明しながら、クリスターは、その顔にどこかで見覚えがあることにふと気がついた。
「ありがとう」
男はクリスターの注視に気がついたのだろうか。微笑みながら頷き返して、自己紹介をした。
「私は、デイビット・アイヴァース。新任のカウンセラーなんだ。今月から産休に入った前の先生の代わりにね」
「ああ、そう言えば、春休みの前にもらった学校からの手紙に、そんなことが書かれていましたね」
クリスターは、男がスクールカウンセラーであるということにも興味を引かれた。それに、やはり、この顔はどこかで見たことがある。
「デイビット・アイヴァース先生…」
クリスターは、男の名前を繰り返した。
「以前どこかでお会いしたことは…ありませんか?」
傍らのレイフがこのやり取りに焦れたように、クリスターの腕を軽くつついた。
「いや、そうは思わないな」
デイビット・アイヴァースは一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、すぐにもとの物静かで穏やかな顔に戻った。
「子供相手の仕事をして長いが、君達のような目立つ子のことは、一度会ったら忘れないと思うよ」
そう言い残すと、新任のカウンセラーは、クリスターが示した方向に歩き去っていった。
行きかう生徒達の向こうに、アイヴァースの痩せた背の高い姿が遠ざかっていくのを、クリスターは、しばし立ち尽くしたまま、じっと見送った。
「クリスター、どうしたんだよ、あの先生がどうかしたのかよ?」
「どうもしないよ」
クリスターは、上の空で答えた。
「クリスター!」
「あ、ああ…」
レイフが首に腕を回しぎゅっと締め付けるのに、クリスターは、やっと我に返った。
「本当になんでもないって。ただ、前のジーン先生の代わりに入ってきたカウンセラーっていうから、どんな人だろうって考えてたんだよ」
「ジーン先生は優しい、いい先生だったけれど、今度の先生は何だかインテリ風でとっつきにくそうだな」
「そう?」
「オレはちょっと苦手なタイプだよ。でも、クリスターは好きそうだな、おんなじインテリ気取りの理屈屋だもんな」
「そんなに理屈っぽいかな、僕は」
クリスターはむっとして、レイフの体を肘で軽く小突いた。
その時、始業を告げるベルが鳴った。
双子達は、慌てて教室へと走っていった。
「やっぱり…」
その日、学校から帰ってすぐに、クリスターは自分専用の本棚を探しまくって、一冊の分厚い本を引っ張り出した。
その裏表紙には、著者の簡単な経歴と共に小さな写真が印刷されていた。
デイビッド・アイヴァース。ボストン市から数々の表彰をもらった、著名な児童専門の精神科医だ。
そして、その写真の顔は、紛れもなく、今朝学校で出会った、あの新任のカウンセラーのものだった。
クリスターは、しばし食い入るようにアイヴァースの写真を見つめ、それから、気持ちの昂ぶりを静めようとするかのごとく、肩で大きく息をついた。
この本は、最近クリスターが愛読する心理学関係の本の中でも、特に強い印象を彼に与えたものだった。この本に出会ったことをきっかけに、クリスターは、ドクター・アイヴァースの他の本も、図書館や本屋に通って読み漁った。
まさか、自分の愛読する本の著者と、こんな身近な所で出会うことになるなんて。
それから、ふと不思議に思って、クリスターは首をかしげた。
ドクター・アイヴァースは、名だたる児童心理学者で一流のセラピストだ。傷ついた魂の癒し手であり、実際多くの患者達を救ってきた。そんな優れた専門家が、多少の悩みはあっても健康な、ごく平凡な子供達が通う中学校のスクールカウンセラーなどを引き受けるとは、一体どうして?
クリスターは、アイヴァースの著書を裏返して表紙に目を落とした。
黒いカバーに赤く印刷された、そのタイトルに、クリスターの眼差しは一瞬暗く翳った。
『THE DEAD RINGERS』
心に問題を抱えた、ある双生児を研究対象にしたノンフィクションだ。
内容は非常に興味深かったが、『瓜二つの存在』を意味する、このタイトルは、クリスターはあまり好きではなかった。
『死(デッド)』の不吉なイメージを内包するような気がした。双生児にまつわる、昔からの不気味な迷信じみた言い伝えとも、無関係ではないのかもしれない。双子は凶兆であるとか、しばしば敵対関係に陥り、一方が他方を殺すとか。アベルとカイン。ロムルスとレムス…。
実は、この頃クリスターが悩まされている、説明しがたい不安の源がそこにあった。ふとした折に喚起される『双児』のイメージ。人間の本性の二面性。光と闇、善と悪、生と死。連想は更なる連想を招き、歯止めが利かず、しかし、どこに行き着くのかを考えるといつも恐ろしくなり、クリスターは、無理やり思考を中断した。
そんな考えに一端捕らわれると、クリスターは、心臓を冷たい手でつかまれるような恐怖心を覚えた。馬鹿げているとは思いながらも、ともすれば心の中に蛇のように忍び込んでくる不安を完全に消し去ることはできなった。
(嫌だな、またこんな訳もない不安感に僕は捕らわれてる。ちょっと強迫症じみてないか? 論理的に考えれば、全く根も葉もない嘘っぱちだと分かるのに…どうして…?)
クリスターは、胸の奥底から噴出しそうな得体の知れない恐れの気持ちをねじ伏せるように、本のタイトルを手で隠し、そのまま本棚に突っ込んだ。
「馬鹿げているよ」
クリスターは、自分で自分を笑い飛ばしてみたが、もやもやとした気持ちの悪さは残っていた。心細く、心許ない気分だった。
誰も、クリスターのこんな危うい心を知らなかった。教師達や友人連中には無論、両親にも、誰よりも近しいレイフにさえも、クリスターは打ち明けていなかった。むしろ、レイフにだけは話したくないと思っていた。
年の割に大人びたクリスターには、自分の問題くらい自分で解決できるという自負があった。それに、周りの大人の理解力や問題解決能力を、彼はそれ程信用してはいなかった。当惑するばかりで、的外れでありがちな答えしか返せそうにない大人を相手にするくらいなら、自分なりに解決法を探した方がまだいい。そうして、クリスターは、心理学や哲学等、答えの見つかりそうな本を読み漁って、自己分析などを試みてみたのだが、無駄な知識が増えるばかりで、あまり役に立っているとは思えなかった。
正直、自分の中に溜め込んでおくのは辛くなってきていた。
そんな折だったからか、思いも寄らない今日の出会いに、クリスターは、彼らしくもなく胸をときめかせている。
(ドクター・アイヴァースは、少しは話の分かる大人だろうか。相手が子供だと見れば初めから舐めてかかる、底の浅い『先生』達やしたり顔のカウンセラーよりは、少しはましな相手だろうか…? そうであればいいんだけれど…)
大人のことをかなり舐めてかかっているクリスターではあったが、自分の心を誰かに打ち明けてみたいと、本当は、少しだけ思っていたのかもしれない。