ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE3


「ああ、遅れちゃう、遅れちゃう」
 その日、放課後の楽しいクラブ活動のために、レイフは、体育館に急ぎ向かっていた。フットボールのシーズンの終った今は、スピードと筋力をつけるためにと、陸上と重量挙げのクラブに、レイフは、クリスターと一緒に入っていた。
 午後からの選択授業では、レイフとは別のクラスを取っているクリスターは、先に体育館に行っている筈だ。
 数学の宿題を忘れた罰として居残りで問題を解かされていたレイフは、それでクラブの時間が削られるのはもったいないとばかりに、ロッカールームまでの近道にと、校舎から外に飛び出し、グラウンドを突っ走っていった。
 体育館が見えてきたところで、しかし、レイフは突然足を止めた。
 校舎からは隠れて見えない体育館脇で、数人の少年達が何やら争っている様子だったからだ。いや、よく見れば、それは喧嘩ではなかった。体格のいい少年達が、四人がかりで、一人のひ弱そうな少年を苛めていたのだ。
(あいつら…!)
 レイフは、不愉快そうに鼻にしわをよせて、舌打ちをした。『クールでタフな男』を目指すレイフにとって、この世で何が嫌いかといって、自分より弱い奴をいたぶる卑怯者だ。
 レイフは肩を怒らせ、一人の小柄な少年を取り囲み小突いたり蹴ったりしている少年達に、まっすぐに向かっていった。
「おいっ!
 レイフが大声で呼びかけるのに、少年達はぎょっとなって振り返った。そのうちの一人にレイフは見覚えがあった。確か、ジョン何とかって奴だ。レイフより一つ上の八年生で、少し前までボクシング部に入っていた。結構強かったらしいが、喧嘩沙汰を起こして退部になったはずだ。後は、ジョンの子分どもだろう。真ん中でうずくまっているヒスパニック系の少年は知らない。学校の統合後、セタウケット・アカデミー中学にかわってきた子だろう。小柄で、痩せていて、いかにも苛められっ子タイプだ。転校してきた先でこんな乱暴者達に目を付けられるなんて、可哀想に。
「何だよ、おまえ、俺たちに何か用があるのかよ?」
 一瞬ひるんだ少年達だが、レイフが1人と見るや、たちまち態度を変えた。
「おまえらに用などあるもんか。ロッカールームに行く途中なんだよ。邪魔だから、そこ、どけ!」
 レイフは、目を吊り上げて、少年らをじろりと見回した。すると、彼らは迷うような素振りを見せた。レイフは、彼らがよってたかって苛めていた少年とは、あまりにも違う。背は一つ年上の彼らよりも高く、強靭で、いかにも攻撃的な雰囲気だ。
「ふん、あの赤毛の双子の片割れだな」
 挑戦的な口調でレイフに答えたのは、ジョン何たらだった。さすがに、もとボクシング部は、レイフ相手に臆するつもりはないらしい。確かに、身長はレイフに及ばないものの、とても中学生とは思えないたくましい体をしている。
「兄貴か弟か、どっちだ?」
「弟のレイフだよ」
「まあ、どっちでも一緒だけれどな、おまえらの場合。いつも兄貴にくっついているおまえが一人でいるなんて、珍しいな…本当に一人か?」
 ジョンは頭をぐるりと巡らせ、レイフが本当に1人きりなのか、どこかにクリスターがいるのではないか確認した。
「間違いない、な」
 ジョンは、何やら仲間に耳打ちをした。
「何だよ」
 レイフは、不審そうに眉根を寄せた。そんなレイフを、ジョンは値踏みでもするかのようにつま先から頭の天辺まで眺め回すと、不適に笑った。ふいに、ジョンは足元に這いつくばっているヒスパニック系の少年の脇腹を蹴った。
「ひいぃっ」
 少年はたまらず泣き叫び、脇腹を押さえて地面を転がった。
「何をしやがるっ!」 
 あまりな仕打ちに、レイフはかっとなった。肩に引っ掛けていたリュックサックを地面に落とすと、怒りのあまり震える拳を握り締め、じりっと少年達に詰め寄った。
「だってさ、こいつ、俺らがそばに来るといつもおどおどしやがってさ。見ているとイラつくんだよ。こんなに弱かったら、大人になっても世間を渡っていけないだろうから、今のうちに俺らが鍛えてやっているのさ」
「な、何が鍛える、だ。おまえらのやってるのは、ただの苛めだろっ。しかも、1人を相手に4人がかりで。恥を知れ、この卑怯者、男の風上にも置けない奴め!」
「何だ、俺らに喧嘩を吹っかけようというのかよ、レイフ・オルソン」
 ジョンは、ニヤニヤ笑いながら、レイフの激昂ぶりを眺めた。他の三人の少年達は互いに頷きあうと、レイフを取り囲むようにした。
「前から、おまえらのことは気に食わないと思ってたんだ。父親がもとフットボールの選手で、その才能を受け継いでるって、皆からちやほやされて。もとプロ選手なんて言ったって、ほとんど成績を残せなかったんだろ、おまえの親父。そんなの、意味ないじゃん」
 レイフの顔色が、さっと変わった。父親のラースは、若い頃NFLの選手だった。期待の新人だったが、不幸にもシーズン中に車の事故にあい、選手生命を絶たれたのだ。父親を愛しているレイフには、これは許せない侮辱だった。
「てめえ…よくも…!」
 その時、ジョンの仲間の一人がレイフの腰に飛びついた。よろめいたレイフの顔に、素早く動いたジョンのパンチが炸裂した。
「馬鹿か、おまえ。ヒーロー気取りで現れて、四人も相手にどうするつもりだったのさ」
 更にもう一発、ジョンはレイフの腹にパンチを見舞った。レイフは、ううっと呻いて、うずくまった。
「おまえも、こいつと一緒に袋叩きにしてやるよ、レイフ」
 痛みに顔をしかめてレイフが横を見ると、ジョンに足蹴にされていた少年の血と涙に汚れた怯えきった顔があった。
 レイフは、ギリッと歯を食いしばった。許さない。
「うわっ」 
 さっきレイフを羽交い絞めにしていた少年が脚を払われ、転倒した。素早く起き上がったレイフは、身を起こそうともがく少年の喉に見事なエルボードロップを食らわせてやった。声もなく、少年はその場で失神した。
「てめえらぁぁっ…!」
 ゆらりと向き直ったレイフは、鬼の形相をしていた。怒り心頭、鼻血を吹きながら、あっけに取られるジョンとその仲間達をねめつけた。
「ブチ殺す!!」
 体育館脇に、悲鳴があがった。
 レイフは、柔道教室で習いたての背負い投げでジョンを一発勝負、打ち負かした。更には、蜘蛛の子を散らすようにグラウンドの方向に逃げ出す残りの苛めっ子達を、自慢の俊足であっという間に追いつき追い詰め、得意のタックルと飛び膝蹴りで叩きのめした。
「正義は勝つ!ざまあみろ、わはははっ!」
 すっかり頭に血が上ったレイフは、この騒ぎに校舎から出てきた野次馬連中やグラウンドでクラブの練習中だった生徒達が遠巻きにしているのにも気がつかなかった。粉砕した敵の体に足をかけたまま、グラウンドの真ん中で鼻血まみれになりながら、勝利の雄叫びを上げていた。
 グラウンドのあちらこちらでのびていたり泣きながら呻いたりしている子供達と、今のレイフを見比べて、どちらが正義で悪なのかと問われても、見ている者達にとっては答えに窮するところだったろう。
 レイフが我に返って自分の置かれた状況を理解するのに、数分を要した。



「ク、クリスター?」
 事態が大ごとになってしまったことにさすがに恐れをなしたレイフは、体育館脇にあるロッカールームに逃げ込んだ。
 すると、とっくに重量上げクラブの練習に出ていると思っていた双子の兄が、彼を待ち受けていたのだ。
「ど、どうして?」
顔だけでなく体のあちこちに傷を作って、鼻血の跡も生々しいレイフの姿に、クリスターは眉をひそめた。
「何となく、嫌な感じがしたんだよ」
 何となく、分かった。それは、彼ら双子兄弟の間では、しばしば起こることだった。
「それで、一体どこの誰と、どうして喧嘩なんかしたんだい?」
 クリスターはロッカールームの隅っこの戸棚から救急箱を持ってくると、レイフを長椅子に座らせ、傷の手当てをしてやった。
「喧嘩じゃない。苛めっ子の奴らをぎゃふんと言わせてやったんだ。ほら、8年生のもとボクシング部のジョン何とかって奴だよ」
 レイフは、ことの顛末をクリスターに話して聞かせた。レイフはあまり筋道を立てて事情を説明することが苦手な上、話すうちに気持ちが昂ぶってくるものだから、他人が彼の主張を理解するのは難しかった。しかし、その点、クリスターはさすがによく分かることができた。
「成る程、その子が苛められているのを見て可哀想になったのと、弱いもの苛めをするそいつらに腹が立ったんだね。それで止めるつもりで声をかけたら、そいつらが殴りかかってきた。だから、やり返した、と」
 クリスターは、レイフの主張をうまくまとめて、ゆっくりと確認するように繰り返した。
「それで、そいつらはどうなったんだい?」
「もちろん、ギッタンギッタンに叩きのめしてやったさ!」
 ガッツポーズをして叫んだとたんにまた鼻血が吹くレイフに、クリスターは素早くティシュペーパーの箱を差し出した。
「全く、そのすぐにカッとなる癖は何とかならないものかな」
 溜め息をつくクリスターに、レイフはむっとした。
「オレは、何も悪いことはしていないぞ。悪いのはあいつらなんだ」
「ああ、確かにね。おまえは苛めをやめさせようとしただけなんだ。それを、あいつらはおまえが一人なのをいいことに、集団でリンチにしようとした。全く、最低のクズみたいな奴らだよ。けれど、それでも僕は、おまえは手を上げるべきではなかったと思うよ」
「ど、どうして?」
「まず、第一に相手は大勢だった。今回は運良く勝ったからいいものの、本当なら取り囲まれ押さえ込まれて袋叩きにあっていたかもしれないんだよ。レイフ、おまえは考えが足りなすぎる」
「う…でも、オレはあんな奴らに負けない…」
 言い返そうとするレイフを、クリスターは手で制した。
「二点目。おまえはちょっと勝ちすぎた。苛めっ子どもはおまえに返り討ちにあって、怪我をしたんだろう? 怪我をしたのはおまえも一緒だけれど、最初にあいつらがおまえに喧嘩を吹っかけてきたところは誰も見ていない。他の生徒達が見たのは、おまえが、泣き喚きながら逃げる彼らを追い回して叩きのめした場面だけだ。傍から見ていれば、おまえの方こそ乱暴な問題児のようだったかもしれないよ」
「あいつらに苛められていた、あのヒスパニック系の子がいるよ。名前は知らないけど、あの子なら、オレが助けようとしたんだってことを証言してくれる」
「そう願いたいけれど、もしかしたら期待できないかもしれないよ。その子が、苛めっ子のグループに目をつけられてどのくらいになるのかにもよるけれど、苛められっ子が、自分にそんな酷い仕打ちをした奴らを先生や親に訴えるのはとても勇気がいることなんだ。仕返しを恐がって、黙ってしまうかもしれない」
「そんな…」
 クリスターと話しているうちにレイフの頭も次第に冷えてきた。これからどうなるのかを考え始めて、レイフは不安になってきた。
「どうしよう…喧嘩って、確か、理由を問わず停学になるんだよな。どうしよう…父さんや母さんに怒られる…」
「自分の主張を先生達にしっかり伝えることだよ、レイフ。おまえは、基本的に間違っていないんだからね。そのことをカッとならずに説明して分かってもらえれば、何も停学なんてことにはならないと思うよ」
「別に喧嘩をしたかったわけじゃないんだ、オレ。父さんのことまで悪く言われて、殴られて、カッとなってしまったけれど…あそこまでするつもりはなかったんだ。それに…ジョンの奴につい背負い投げをかけてしまったけれど…あれはまずかったと後悔もしてるよ。スズキ先生がいつも言ってるよね、柔道の技を喧嘩なんかに使うのは武道者失格だって…」
 先程までの勢いはどこへやら、しゅんとうなだれるレイフに、クリスターは慰めるように囁いた。
「それだけ分かっているのなら、おまえには何も後ろめたく思う必要はないよ、レイフ。けれど、おまえに叩きのめされた奴らの主張もあわせて聞いて考えるだろう大人たちを説き伏せて、おまえが正しいと納得させるには、それなりに理論武装をしておかないと」
「りろん…ぶそう…何それ?」
 頼りない反応をするレイフに、クリスターは溜め息をつくと、腕組みをして、1人何やら考え込んだ。
「よし。今日だけは僕が何とかしてあげるよ。おまえが問題児のレッテルを張られてこれから先学校で何かと不利な立場に立たされるのは、僕も我慢ならないからね。レイフ、服を脱ぐんだ」
「えっ、ふ、服?」
 戸惑うレイフを見下ろして、クリスターは頼もしげに頷いた。
「僕がおまえの身代わりになって、おまえの言い分を先生達にちゃんと伝えるよ。こういうことは初めが肝心だからね。癇癪を起こしたり、おどおどしたり、動揺したりして、相手に悪い印象を与えたら駄目なんだ。僕がおまえになって、ことの真相を伝え、先生達を納得させてみせるよ」
「だ、駄目だよ、クリスターがオレの身代わりに怒られるなんて…これは、オレがしでかした失敗なのに…」
「別におまえをかばって嘘をついたりするわけじゃないよ。正しい事実を誤解のないように伝えるだけだから、何も悪いことじゃない。それに、言っておくけれど、身代わりは一度だけだからね。後はおまえがちゃんと自分で引き受けるんだよ」
「う…うん…」
 レイフはまだ納得しきれていなかったが、有無を言わさぬクリスターの口調に圧倒されて、結局従った。クリスターが言うと、何となくそれが一番正しいことのように、レイフは思ってしまうのだ。
「おまえは、僕になりすまして、このまま家に帰るんだ。クラブのコーチには、後で僕が家から電話して、適当に言い訳をするよ」
 血と土で汚れたレイフのティーシャツとジーンズを身に着けたクリスターを、レイフは心配そうに見つめた。
「やっぱり、やめたほうがいいんじゃないか、クリスター。もしばれたら、おまえまで叱られる」
「ばれやしないよ」
 自信たっぷり、クリスターは言いはって、救急箱の中から絆創膏を取り出し、レイフと同じ右頬に張った。髪も手でくしゃくしゃにして、いかにも大暴れをしてきましたという格好にしあげた。
「僕は大丈夫だから安心して、レイフ」 
「兄ちゃん」
 レイフはクリスターをとめたかった。しかし、クリスターがレイフを引き寄せ、なだめるように抱きしめるのに、何も言えなくなった。
「そんなに深刻に考えるなよ、レイフ。双子は何かと便利だって、それだけのことなんだから」
 がやがやと人々の話し声と足音がこのロッカールームに近づいてくるのが、分かった。レイフは一瞬身を固くし、クリスターの体をぎゅっと抱きしめた。
 クリスターはレイフの体を離し、軽く押しやった。
「行くんだ、レイフ」
 レイフは唇を噛み締めた。意を決し、傍らの荷物を引っつかむと、大人たちが近づいてくるのとは逆の出口目指して駆け出した。
「レイフ・オルソン、そこにいるのか?」
 後ろの方で、扉が開け放たれ、先生が大きく呼ばわる声がする。
 ごめん、クリスター。レイフは兄に対してすまない気持ちで一杯になりながらも、振り返ることはなく、ロッカールームから飛び出していった。



「それじゃあ、君は苛めを止めようとしただけで、喧嘩をするつもりじゃなかったというんだね、レイフ」
 校長室。レイフになりすましたクリスターは、いかにも緊張していますといった風情でソファにおとなしく座っていた。
「だが、ジョン達は、先に手を出したのは君だと言い張っている」
 校長のプリルは、クリスターに探るような眼差しをあてたまま、考え込むように黙り込んだ。
「それは…ジョン達が嘘をついているんだ…!」
 クリスターは、レイフそっくりに感情を昂ぶらせた様子で叫んだ。
「こら、そんな大きな声を出すんじゃない、レイフ」
 担任のロスが軽くたしなめるのに、クリスターはさっと顔を紅くして、うつむいた。
「ごめんなさい」
 クリスターが素直に謝るのに、彼の前のソファに腰を下ろしている大人達はほっと和んだようだ。体は大きくても、やはり子供なのだと安心したのだろう。
 クリスターは殊勝げに顔をうつむけたまま、そんな大人たちを冷静に観察していた。校長のプリルは教育熱心で人がいいが少々単純なところがあるし、担任のロスは体育教師で、スポーツ万能のレイフを可愛がっている。この相手なら、ことをレイフにとって有利な方向に運ぶのは、それ程難しくない。ただ問題は―。
 クリスターはそっと視線を動かすと、斜め横の席で静かに話を聞いているカウンセラー、デイビット・アイヴァースを盗み見た。アイヴァースは、まだこの場で一言も発言していないし、その凪いだ湖面のような無表情からは彼の考えも読み取れない。クリスターの芝居を、まさか見抜かれているということはないだろうが。
「君が、苛めを受けているのを目撃したというアルビンなんだがね、そんな事実はないと言ってるんだよ。顔には殴られた跡があるし、誰かに暴行を受けたのは間違いないんだがね」と校長。
「オ、オレがやったって? 違う、オレは自分より弱い奴に、あんなひどいことはしない。オレは、そんな卑怯なマネは大嫌いなんだからっ」
「決め付けてはいないよ。だが、君も含めて六人の生徒達がそれぞれ怪我をしている。喧嘩なり苛めなりがあったの確かだ。その事実を、先生達は確認したいんだよ」
 クリスターは、少しの間考え込むふりをした。膝の上でぎゅっと手を握り締め、やがて思い切ったように口を開いた。
「あの子…アルビンっていうんだね、すごく怯えきっていた…あんな大柄な奴らに4人がかりでぼこぼこにされたんだから、そりゃ恐かったろうって思う。たぶんもうずっとジョン達に苛められてたんじゃないかな。だから、たぶん本当のことを言うのが怖いんだと思うよ…仕返しされたらどうしようって…アルビンが思って黙り込んでしまうのも仕方ないのかもしれない」
 校長達は小さく息を吸い込んだ。
「まあ、確かに…そういうこともありうるだろうね…アルビンの担任は誰だったかな」
「確かシェリルですよ。でも、彼が苛めにあっているという報告がなくても、不思議じゃないでしょう。レイフの言うとおり…苛めにあっている子達が仕返しを恐れて黙り込んでしまうためにことの発覚が遅れるというのは、よくあることです。実際、とても難しい問題なんですよ」
 その時、長い間沈黙を守っていたアイヴァースがふいに口を差し挟んだ。
「アルビンは、今、保健室にいるんでしたね。私が行って、少し話を聞いてきましょう」
 淡々と告げてソファから立ち上がるアイヴァースを、クリスターは思わずまじまじと見た。
「おお、そうしてもらえると助かりますよ、先生」
 アイヴァースをカウンセラーにと自ら推した校長は、期待に満ちた顔で彼を見上げている。彼の著作を、校長も読んだことがあるのだろうか。
 アイヴァースは、『失礼』とだけ言って、校長室を出て行った。そのすらりと背の高い痩身を見送りながら、クリスターは己の心臓の鼓動が早くなっているのを意識した。
「レイフ」
 校長に呼ばれて、クリスターは慌ててそちらに意識を戻した。
「君は正義感から苛めっ子どもを成敗したのだと主張するが…仮にそれが本当だったとしても…彼らに怪我をさせたのはよくないことだよ。先生を呼びに行くとか、他にやりようはあったはずだ」
「それは…今から考えたらそうした方がよかったって分かるけれど…あの時は、とっさに、そんなこと思いつかなかったし…ましてや集団でかかってくる奴ら相手に手加減なんて、とてもじゃないけれど、できないよ…何だか、これはやばいって死に物狂いで抵抗しているうちに頭がカッとなっちゃって…後はもう何が何だか…気がついたら、あいつら全員叩きのめしてて…」
「本当に孤立無援だったんだな、レイフ、それは…おまえが動転するのも無理はない…」
 担任のロスが同情的に呟いた。
「だが、暴力で問題を解決しようとすることは認められんぞ」
 渋い顔で言い聞かせる校長の前で、クリスターはしおらしげに肩を落とした。
「はい…オレも今は反省してます。オレ、今柔道教室に通ってるんです。そこで、いつも先生に、技を喧嘩に使うな、人に対して暴力を振るうことは武道家の恥だって教えられてて…それなのに、とっさにジョンを柔道技で投げ飛ばしてしまった。あれは、やってはいけないことだったと、すごく後悔しています…」
「ふむ…そこまで後悔しているのなら、レイフ、今回の暴力沙汰については私も大目に見てやりたいが」
 喧嘩と聞いて初めは恐い顔をしていた校長も、段々気持ちを和らげてきたようだ。『レイフ』が嘘をついているようには、彼には見えなかったのだろう。確かに短気なところはあるけれど、気性のまっすぐな、素直ないい子ではないか。そんな想いが、彼の目のうちには読み取れる。
 穏やかな空気が流れ始めた時、校長室の扉がノックされ、アイヴァースが入ってきた。
「おお、アイヴァース先生、アルビンは何と言ってましたかな?」
 アイヴァースは、クリスターの傍らに腰を下ろし、相変わらず落ち着いた、本心の見えない顔で言った。
「ジョン達から苛めを受けていることは、アルビンは否定しました。やはり、彼らのことを考えると、パニックを起こすようです。けれど、彼はこうも言いました。レイフは何も悪いことはしていない、と」
 ロスが、ぽんと手を叩いた。
「やっぱり。校長、レイフはアルビンを助けようとしたんですよ」
「うむ…そのようだな」
 校長は、顎を手でさすりながら何やら考えると、クリスターに向き直った。
「レイフ、どうやら君の主張は正しいようだ。君は苛めをやめさせようとした。そこを相手に殴りかかられため、正当防衛をした。だが、それでも君が生徒達に怪我をさせたのは事実だ。ご両親にはその旨を連絡し、厳重注意をさせてもらうが、いいね」
「うう…どうしよう、父さんに怒られる…」
 顔を引きつらせてみせるクリスターの肩に、ロスが励ますように手を置いた。
「事情は先生からも説明してやるよ、レイフ。おまえのやったことは手放しで褒められないが、理由のあったことだと、正義漢の君のお父さんなら分かってくれるだろう」
 今にも泣きそうな顔をするクリスターに、校長とロスは笑いを押し隠し、目配せしあった。可愛いものじゃないか。やっぱり子供だ。
「さて、では今日はもう帰りなさい、レイフ・オルソン。明日からもしばらく、君を呼び出して事情を確認することはあるだろうがね。アルビンに対する苛めの問題も解決しなければならないし、そうなると君に協力を求めるかもしれない」
「それは、もちろん構わないよ。オレにできることがあれば、何でもするよ」
 クリスターは、にっこり笑った。心の中で、彼はレイフのようにガッツポーズで快哉を叫んでいた。大人って、案外ちょろい。
「レイフ」
 黙ってことの成り行きを見守っていたアイヴァースが、いきなりクリスターに向かって呼びかけた。クリスターは、幾分ぎょっとして、彼を振り返った。
「帰る前に、私の部屋に少し立ち寄ってくれないかな。アルビンが苛めを受けていた状況について、もう少し詳しく聞きたいんだが」
「そ、それは…もちろん構わないけれど…」
 レイフそっくりに戸惑ってみせるクリスターの内心にも、実際不安のさざなみが立っていた。
 校長室を出、アイヴァースと二人きり、彼のカウンセリングルームに向かう間、クリスターは、自分の目の前を歩く男の、どこかよそよそしいものを感じさせる背中を凝視していた。
 アイヴァースは長身で、クリスターよりまだ少し背が高い。弱々しい感じはしないが、痩せぎすなくらいで、ジャケットの袖口から除く手は骨ばっていて冷たそうだ。
「入りなさい」
 アイヴァースは、カウンセリングルームの扉を開いて、クリスターを招じ入れた。
 部屋の内部は、基本的に前任のカウンセラーの時と変わっていない。落ち着いた色のカーテンにソファセット。その後ろには書きものをするためのデスク。壁に大きな鏡があるのは、前任のカウンセラーがまだ若い女性だったからだろう。奥には流しとコンロのある小部屋がある。変わった所は、本棚に並んだ分厚い専門書の多さだろうか。
 本好きのクリスターの注意は、ついその本棚に注がれていた。だから、アイヴァースの鋭い眼差しが自分を観察していることには、気がつかなかった。
「クリスター」
 アイヴァースがそう呼びかけるのに、クリスターは小さく身を震わせた。振り向こうとした瞬間、伸びてきたアイヴァースの手が、彼の右頬から絆創膏をむしりとった。もちろん、そこには傷などない。
 アイヴァースは、すっと目を細めた。
「やはりね」
 特に何の感慨もなさげに、アイヴァースは言った。 
「あ…」 
 身代わりを演じていたことを見破られたクリスターは、よろめくようにアイヴァースから後退りした。
「どうして…どうして分かったんです…?」
 必死になって自制心を取り戻そうとしながら、クリスターは、アイヴァースが興味なさげに肩をすくめるのを用心深く見つめた。
「校長もロス先生も気づかなかったのに、僕達のことなどほとんど知らないあなたがどうして…?」
「先入観というのは、案外くせものなんだ」
 アイヴァースはクリスターに背を向けると、自分のデスクの方に歩いていき、どさりと椅子に腰を下ろした。
「レイフは、君がついさっき演じていたような、気は荒いけれど、素直でまっすぐな、子供らしい少年なのだろうね。私はそんなレイフのことも、その双子の兄のクリスターについても何も知らない。だからだろうね、校長室での君を何の思い込みもなく見られたのは。さっきの君と校長達のやり取りを第三者の目で眺めていて、私は何やら違和感を覚えた。校長もロス先生も、君にうまく誘導され操られているような気がしたんだ。それにね、君はひどく動揺して不安そうな子供のふりをしていたけれど、目だけは初めから最後まですごく冷静だったよ。まるで全てが計算づくであるかのようにね」
 ひたすら絶句しているクリスターに、アイヴァースは薄い笑みを漏らした。
「いや、実際はそこまで考えたわけではないよ。だが、よく入れ替わって人を騙す双子に関わったことは、以前にもあったのでね。ピンときたんだ」
 クリスターの頬が紅潮した。今度は、芝居ではなかった。
「このことを校長先生達に報告するんですか?」
 固い声でクリスターは尋ねた。
「いや、そんなつもりはないよ」
 アイヴァースは、別にクリスターを安心させるためでもなく、ただ淡々と告げた。
「君の弟が起こした騒動はうまく解決に向かっているというのに、それをわざわざ波立てるような面倒なまねはしないよ。君の正体を確かめたのは、ただ私の推測が正しいかどうか確かめたかったからだ。私には君が弟の身代わりを演じたことになど何の関心もないから、安心したまえ」
 クリスターは眉間にしわを寄せた。
「僕がしたことについては目をつぶると? いいんですか、カウンセラーの先生がそんなことをして? 本当なら、問題行動として担任と校長に伝える義務が、あなたにはあるはずですが」
「報告して欲しいわけじゃないだろう、クリスター?」
 クリスターは黙り込んだ。
「…あなたのことは知っていましたよ、ドクター・デイビット・アイヴァース。あなたの本を僕は読んだことがあります」
「それは光栄だね」
 あまり嬉しくもなさそうに、アイヴァースは唇をゆがめて笑った。
「一流の児童精神科医のあなたとこんな所で出会えるなんて、思ってもみませんでしたよ」
「今はただのスクールカウンセラーだよ」
 クリスターはアイヴァースにもっと質問を投げかけたかった。しかし、アイヴァースは、クリスターとの会話を打ち切るようにデスクから立ち上がり、窓の外を眺める素振りで背中を向けた。
「君はそろそろ帰った方がいい、クリスター。これ以上私に用があるわけではないだろう。君が私に話したいことがあるのなら、後日改めて聞いてあげるから、そこの予約表に名前を書いていくといい」
 クリスターは、デスクの上に置かれているカウンセリングの予約ノートに視線を落とした。唇を噛み締めた。
「あなたのその態度、がっかりですよ、アイヴァース先生。もっと違うふうな人なのかと思っていたのに」
「君がどんな期待を抱いていたのか知らないが、今の私はこんな人間だよ」
 アイヴァースはクリスターを振り返りもしない。その素っ気無い背中を見つめているうちに、クリスターは段々本気で腹が立ってきた。
 クリスターが興味を抱いたドクター・アイヴァースは、決して、こんなやる気のない、情緒欠陥の薄情者ではなかったのだ。
 クリスターは、挨拶もせずにくるりと踵を返して部屋を出て行こうとした。しかし、ふいに立ち止まり、デスクの上の予約表を睨みつけた。
 アイヴァースはやはり動かない。
 クリスターの琥珀色の瞳が、次第に何かしら挑戦的な光を放ち始めた。
 彼は、無言のままデスクに歩み寄ると、予定表を開き、明日の放課後の一枠に自分の名前を書きこんだ。
 クリスターが黙って部屋を出て行っても、アイヴァースはついに最後まで何の反応も返してこなかった。


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