ある双子兄弟の異常な日常 第一部
第2章 ある夏の日々
SCENE 3


 12時5分前。
「あら、あなたの方が早かったのね、クリスター」
 柔らかく草を踏む足音が近づいてくることにクリスターはとっくに気がついていたのだが、今初めて分かったというような素振りで後ろを振りかえった。
「うん…」
 どことなくはにかんで、クリスターはうなずいた。
 今夜は、明るい満月がよく晴れた夜空にうかんでいる。
 月明かりの下で、アリスの長い髪は白っぽく、その顔も青ざめて、昼間見る溌剌とした彼女とは少し違って見えた。いつもはジーンズ姿の方が多い彼女が、淡い色の膝丈くらいのワンピースを着てきたせいかも知れない。
「おばさん達には見つからないで出てこれたの? レイフは?」
「大丈夫、皆、ぐっすり眠りこんでいるよ。レイフは、恐い夢を見たとか、よほどのことがないと朝まで起きないし」
 アリスは、笑った。その笑顔も、いつもとは違う、おぼろげなもので、クリスターはもしかしてアリスも不安なんじゃないだろうかという気がしてきた。
「本当によかったの、アリス?」
「何が?」と問い返されて、クリスターは顔を赤らめて、うつむいた。
 夜でよかった。アリスの目では、クリスターが今真っ赤になっていることまで分からないはずだから。
「そんな所につったってないで、こちらにいらっしゃいよ」と言いながら、アリスは小脇に抱えて持って来た厚手のブランケットを草地の上に広げた。
「用意がいいんだね…」
 半ば感心し半ば鼻白みながら、クリスターはおずおずとアリスの隣に腰をおろした。
「こういうこと…今までもたくさんした…?」
 レイフみたいな言い方になっているなと、今の自分の緊張ぶりがクリスターはおかしくなった。
「女の子にする質問じゃないわよ、クリスター」
「ごめん」
 素直に謝るクリスターに、アリスは軽い笑い声をあげたが、すぐに真顔になった。彼女はクリスターの肩に手を置き、自分の方に振り向かせた。
「あ、待って。アリス、僕にさせて」
 アリスは眉を跳ね上げ、面白そうに目を輝かせた。
 案外クリスターが積極的なことは彼女を喜ばせたようだが、クリスターは、ただアリスの歯列矯正具が唇に引っかかってまた痛い思いをするのが嫌だったのだ。
 そうして、クリスターはためらいがちにアリスの肩を抱き寄せて、彼女の歯に引っかからないように慎重にキスをした。しかし、彼の頭の片隅では、別のことが引っかかっていた。
 レイフを残して来てしまった。
 クリスターが唇を離すと、アリスは小さな溜め息を漏らし、それから、彼の肩を促すように引っ張った。
 クリスターは再びアリスの唇に触れ、彼女の手が自分の手を取って導くままにその柔らかい胸を探り始めた。
 しかし、唐突にクリスターは彼女から身を離した。
「何よ」
 不機嫌そうなアリスの声に、クリスターは顔を背けて立ちあがり、すぐ傍の大きな樫の木の下まで歩いて行った。アリスから離れると、しばし、そのまま考えこんだ。
「するの? しないの?」
 溜め息をつきながら、アリスは幾分投げやりに問いかけてくる。
 もっと大人びた子だと思っていたけれど、やっぱりまだ子供なのだと、がっかりしているのだろう。
 それは別に構わない。アリスにどう思われるかなど、クリスターには結局それほど重要な問題ではなかったのだ。
 クリスターは、樫の樹の下の暗がりの中、顔を上げ、不機嫌そうなアリスを遠くに眺めた。
「アリス、僕のことが好き?」
 クリスターの問いかけに、アリスは一瞬ひるんだようだ。
 アリスには影の中に隠れているクリスターの顔は分からないだろうが、クリスターには彼女の当惑がはっきりと分かる。
 アリスは不安げな手で胸を押さえた。
「え、ええ…好きよ」
 らしくもなく緊張して、アリスは応えた。その声は、微かな震えを帯びていた。
 どことなく居心地悪げに、アリスはクリスターの次の言葉にじっと耳を傾けている。
「僕が好きなら」
 唇からごく自然に滑り出た言葉を、クリスターはぼんやりと聞いていた。
「レイフのことも好きになってくれないと」
 アリスは、はっと息を飲んだ。
「それができないのなら、僕はこのまま帰るよ」
 アリスがクリスターの言っていることを理解するまで、少しの時間を要した。
「何…何を言ってるのよ、あなた…本気じゃないでしょうね? レイフを、どうして私が好きにならなきゃならないの?」
 クリスターはすっと目を細め、畳み掛けるように言い募った。
「アリスがもしいいと言ってくれたら、僕はレイフをここに連れてくるよ、今すぐに」
 アリスは呆然となって、急に何か得体の知れないものに変わってしまった、彼女のお気に入りの少年を凝視した。さすがのアリスもこんな展開は予想していなかったのだろう、しばし、返す言葉も見つからなかった。
 クリスターが好きなら、レイフのことも好きになれ? 全く、ありえない話だった。
「あなたって、いかれてるわっ」 
 腹立たしげに吐き捨てて、アリスは身を起こしかけたが、ふと気を変えたように坐り直した。
「でも、どうしてそんなことをしたいと思うの、クリスター?」
 クリスターは微かにたじろいだ。
「ねえ、どうして?」
 アリスから自分の姿が見えない所に隠れたまま、クリスター自身もどうしてと口の中で呟いていた。
 どうして? どうして?
「だって…」
 震える手で、クリスターは口許をそっと押さえた。
「好きなものは何でも…僕達はずっと共有してきたから……」
 その目は愕然と見開かれていた。自らの言葉にぞっとしたように激しく頭を振りかぶり、クリスターは両腕で己の体を抱きしめた。
「いいわよっ」
 アリスの叩きつけるような言葉がクリスターを鞭打った。彼は文字通り震えあがった。
「レイフを呼んで来るといいわっ。ただし、あの坊やがこんなことをしたがるとは思わない。あなたと一緒に私に触りたがるなんて思えないけれど!」
 その言葉に慄き、クリスターは逃げるようにその場から駆け出した。




(レイフ)
 クリスターは、すやすやと眠っている弟のベッドの脇に立って、その顔を神妙な面持ちで見下ろしていた。
(レイフ、レイフ…起きてよ)
 ベッドの中で、手足を投げ出すようにしてぐっすりと眠りこんでいる弟の邪気のない顔を、クリスターは祈るような眼差しで見つめながら、床に跪いた。
(レイフ、起きて、僕と一緒に行こうよ…)
 規則正しい寝息をたてている弟の顔を覗き込みながら、クリスターは揺すり起こそうとして手を伸ばしかけるが、何故か躊躇い、下ろした。
(何もかもを僕達は一緒にしてきた。一緒に生まれて、同じベッドで眠って、同じ服に玩具、同じスポーツに夢中になって…ずっと同じでいた…。だから、ねえ…)
 クリスターは顔を近づけ、甘えるようにじゃれつくように、弟のつやつやした頬を唇で軽くつついた。すると、レイフが寝返りを打って顔を傾け、その口がクリスターの口にあたった。
 慌てて、クリスターはレイフから身を引き離した。とっさに口許を押さえた。レイフの唇の湿っぽくて柔らかな感触が残っている。頬がかあっと熱くなった。
 後ろめたいことをしたような気分になって、当惑したまま立ち尽すクリスターの視線の下で、レイフはふいに顔を歪めると、右手を顔の上に持ち上げて庇うような仕草をし、唇を震わせた。
「馬鹿…アリスなんか、大嫌いだ…嫌い……どっかにいっちゃえ…」
 昼間彼女に苛められたことがよほどこたえたのか、夢の中でまで悔し泣きをして、2、3度、ひくひくと喉を鳴らすと、レイフはまた静かになった。
 レイフの規則正しい寝息だけが、静まりかえった部屋の中、聞こえる。
 クリスターの方はレイフの眠りを妨げることが恐いかのようにじっと息を潜めているというのに、レイフは全く気づかず、実に無邪気で幸せそうだ。
 クリスターはそんな弟の様子をしばし見守った後、再び身を屈めて、半ばはねのけられた掛布をかけなおしてやると、その頭を優しく撫でた。
 レイフは夢もない深い眠りに再び沈んでいったようで、その寝顔は安らかなものになっている。温かくて、健康そのものの幼い子供の顔だった。
 クリスターとそっくり同じものだけれど、違っていた。

 12分の差。

 クリスターは密かに溜め息をついた。いくらクリスターが望んでも、今までずっとそうしてきたのだと言っても、今レイフを連れていくことはできないのだと彼は悟ったのだ。
(ゆっくりお休み、レイフ)
 彼は、寂しそうな目をして、囁いた。
「好きだよ」 




 アリスは、何度目かの溜め息をつきながら、1人、湖の岸辺に腰を下ろして、眼下に広がる月明かりに光る水面を眺めていた。
 クリスターは戻ってこないかもしれない。
「ふん、馬鹿馬鹿しいわ。あんな子供なんて、待っててやる必要もない。さっさと帰ってしまえばいいのに…」
 同じことをずっと彼女はひとりごちていたのだが、実際帰ろうとしなかったのは、それ程、あの大人びた綺麗な少年が気にいっていたからだ。
 しかし、さすがに年下の子供に振りまわされているこの状況に我ながら腹立たしさを覚え、やはり帰ろうとアリスが起き上がりかけた時、
「アリス」と、彼女を呼ぶ声が、すぐ後ろでした。
 思わず「ひっ」と息を飲んで、アリスはうろたえつつ振りかえった。
 すると、彼女の待ち人である赤毛の少年が、妙に悄然とした様子で佇んでいた。
「あ…ああ、びっくりした。クリスター、あなたって、まるで猫みたいに何の気配もさせずに近づいてくるのね…」
 アリスは我知らず胸の上を押さえた。早くなった心臓の鼓動が感じられる。それから、クリスターが1人でいることに気づき、眉を寄せた。
「レイフは…駄目だったのね?」
 クリスターはこくりと頷いた。
「だから…無理だって、言ったのに…」
 クリスターは黙りこくったままやってくると、アリスの隣に腰を下ろした。
「レイフは、何て言ったの?」
 月明かりにうかびあがるクリスターの横顔、決して彼女を見ようとはせず、己の想念に捕らわれている、誰も寄せつけない頑な表情に、アリスは少し不安になった。
 すると、クリスターはゆっくりと首を横に振った。
「何も。僕は、レイフを起こさなかった」
 アリスは首を傾げた。
「どうして? あなたは、レイフに一緒に来てもらいたかったんでしょう?」
 クリスターはうつむいた。
「駄目なんだ。だって、レイフは…まだあんなに子供で…早く僕に追いついて欲しいのに…追いついてくれないんだ…」
「クリスター!」 
 アリスははっと息を飲み、思わず動転して叫んだ。クリスターの、じっと湖を睨みつけているその目から唐突に涙が零れ落ちたからだ。
「僕はレイフに一緒に来てもらいたかった…ずっと同じでいたかったのに…」
 そう震える声で呟いて、クリスターは抱え込んだ膝の上に顔を伏せた。
 アリスは何と声をかけるべきか分からなくて、しばらく、クリスターの細い肩が微かに震える様に魅せられたかのように見入っていた。
 やがて、アリスは優しい声音で慰めるように囁きかけた。
「馬鹿ね、クリスター。泣くことなんてないわ。ずっと一緒になんていられるはずがないじゃないの。あなたとレイフは違う人間なんだから」
「違う!」
 思いの他激しい声がそう否定するのに、アリスは黙りこむしかなかった。
「違う…違うよ…」 
 今度は、ふいに自信がなくなったかのように、弱々しい頼りなげな声が呟いた。
「クリスター…」
 アリスは、ふいに、この風変わりな少年が心底愛しくなった。
 本当は、もっときつい調子でたしなめてもよかった。こんな重度のブラザー・コンプレックスには、その馬鹿さ加減をうんと思い知らせて、間違いを正してやるべきなのだ。
 例えどんなに姿形がそっくりでも、ずっと一緒にいて、何もかも同じにしてきたのだといっても、クリスターとレイフは、将来、同じ1人の女の恋人や伴侶になることはできないし、同じ子供の父親になることもできないのだという、当たり前のことに早く気づいた方がいい。そうする方が、本人達のためだろう。
 しかし、アリスは実際にはそうはせず、手を伸ばして、微かに震えているクリスターの頭をいたわるように撫でてやりながら、語りかけたのだ。
「それでも、あなたはここに1人で戻ってきたのね、クリスター。レイフの為に待ってあげるんじゃなくて、1人でも先に行こうと…あなたがそう決めたんでしょう?」
 クリスターの体が怯えたように大きく震えるのがアリスの手に伝わった。
 2人一緒でないと恐いのだ。今まで1人で何かをしたことなどなかったから。クリスターが何を恐れているのか、アリスには分かったような気がした。
「大丈夫よ、クリスター。レイフは少し出遅れただけで、すぐにあなたに追いつくわ。それにね、こんなこと、別に大したことじゃないのよ…」
 母親めいた優しい口調で言って、アリスはクリスターの肩に手を置き、ゆっくりと体重をかけて、その体を柔らかな草むらの上に敷いたブランケットに押し倒した。
 クリスターは身を固くして、だからといってアリスをはね除けて起き上がるわけでもなく、唇を引き結び、不安げに揺れる瞳で彼女を見上げていた。
 その両頬をアリスが手で挟むと、クリスターはびっくりしたように首をすくめた。
「綺麗ね」
 まだ少し涙の残った、クリスターの琥珀色の瞳を覗き込んで囁くと、アリスは彼の額にキスをした。
 クリスターは思わず目を閉じた。すると、その震える瞼の上に濡れた頬に、唇にと、アリスは順番にキスを与えていった。
 クリスターはアリスの優しい愛撫にただ身を任せ、己の意思などどこかに置き忘れてしまったかのように、じっと横たわっていた。
(レイフ…)
 その頭の中は、しかし、残してきた弟のことで一杯だった。
 柔らかで清潔なベッドの中で無心に眠りをむさぼっていたレイフの幼い顔、その熱のこもった肌のすべすべした感触や甘い匂い。
 アリスがしてくれる気遣いに満ちたキスさえ、つい触れてしまったレイフの唇の感触を思い出させるものでしかなかった。
 レイフは、クリスターを映し出す鏡のようなもの、もしかしたら、あんなふうになっていたかもしれない彼自身。この期に及んで、やはりレイフがいるあの温かい暗がりにやはり戻りたいのかもしれない―。
 アリスと2人きりでここにいることにクリスターは鈍い後悔の念に苛まれていた。しかし、そんな微かな迷いも、やがてアリスの指先に肌の敏感な部分を触れられ、ふっと漏らした熱い溜め息と共に消えていった。
「アリス…」
 クリスターはふいに目を開けると、己の体を緩やかに撫で下ろしていた手を捕まえ、そのままアリスの体を抱きしめるようにして己の下に組み敷いた。
 アリスは逆らわず、むしろ次にクリスターがどう出るのか興味津々の様子で、彼の下でされるがままになっている。
 これでいいのだろうかと、おぼつかなげな手つきでクリスターがアリスのすらりとした脚を撫で押し開くと、彼女はくすぐったそうな笑い声をたてて、彼が下着を脱がすのを手伝ってくれた。
 さてはこういうことがしやすいようにわざわざスカートをはいてきたのか。全く、大したものだと感心しながら、クリスターはたぶんこんな時にふさわしいだろうと思う台詞を囁いた。
「好きだよ」
 そう口にした瞬間、クリスターはかあっと体が燃え上がったような気がした。
(好きだよ、レイフ)
 一瞬、ここに来る前に弟に対して呟いた自分の言葉とだぶって、彼は慄いた。それから、突然衝動的な強い昂ぶりを覚え、仰向けになって横たわったまま誘うように微笑んでいるアリスに挑みかかっていた。生まれて初めて覚える激しい興奮だった。
「アリス…アリス…」
 うわごとのように、もうあまり意味のなさなくなった名前を、クリスターは呼びつづけた。
そうして、初めはうまくいかなかったが、アリスが協力してくれたおかげで何とかうまく己を彼女の中におさめた。それだけの刺激でもう弾け飛んでしまいそうだったが、クリスターは低い呻き声をあげて体を前後に揺すり、そして、やはり呆気ないくらいに簡単に果ててしまった。
(レイフ…)
 アリスの柔らかい胸に顔を埋め、とても穏かな気分で、クリスターは肌の下で激しく打っている心臓の鼓動を聞いていた。アリスの温かさがとても慕わしく、愛しくて、このままずっと抱きしめていたいと思った。
 しかし、日頃が馴染んでいるものとは違う温もりと匂いに包まれていることに、やがて違和感を覚え、顔をしかめると、クリスターはそっと彼女から体を離した。
「クリスター?」
 アリスの不思議そうな問い掛けには答えず、クリスターは彼女のすぐ隣に寝転がった。火照った体の上を吹きぬけていく夜風が気持ちいい。
 1人でこういう特別な体験をした時、どういう反応をすればいいのだろうか。2人ならもっと、ああだこうだと言い合ったりできて、よかったのだろうか。それは、もう分からないけれど。
 いずれにせよ、終わった。やり遂げた。成功した。
 クリスターはひんやりとした空気を思いきり吸いこんで、吐き出した。 
 何しろ気が狂わんばかりに興奮していたので、少し乱暴だったかもしれないし、自分のしたいようにしすぎてしまったかもしれない。おまけに早く終ってしまったのでアリスには色々不満が残ったことだろうが、初めての性交なんて、きっとこんなものだ。
 アリスから離れ、荒い息を吐きながら地面の上に横たわって、クリスターは頭上に相変わらず冴え冴えと輝く月を眺めていた。
(前と同じだ)
 それで別に世界の何が変わるわけでもないし、確かに、こんなこと、別に大したことじゃないんだ。
 隣にいるアリスが気だるげな声で何事か呟き体に腕を回してきたが、何となく応える気になれなくて、クリスターは黙っていた。それどころか、彼女には悪いけれど、少しわずらわしくさえ感じていた。
 レイフの所に早く帰りたい。それに、いつもならばとっくに夢の中にいるはずの時間なのだ。
「ね、クリスター、今、何考えてる?」
 緊張と興奮が冷めた後、急速に疲れと眠気がこみ上げてくるのを覚えながら、クリスターはあくびをうまく押さえこんで、アリスの耳にはとても優しく響くだろう声でこともなげに答えてみせた。
「アリスのことだよ」
 そんなことは嘘に決まっているということは、誰よりも彼自身がよく知っていた。 
 


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