ある双子兄弟の異常な日常 第一部
第2章 ある夏の日々
SCENE


 あんな女、大嫌いだと、レイフは思っていた。
 何の関係もない他人のくせに、当然のように彼らのもとにやってきて、我が物顔にクリスターの隣の場所を占拠し、レイフなどそこに存在しないかのように振る舞う。
 アリスは、レイフのことを余計な邪魔者だと考えているのだ。本当はクリスターと2人だけになりたいのに、レイフがいるからそれができない。
 全く、気のきかない子ね、どこかに行ってくれないかしら。そんな刺すような視線を向けられる度に、レイフは居たたまれなくなった。だが、そこは本来自分の占めるべき場所なのだという思いと、こんな女に負けてたまるかという意地で、逃げ出しはしなかった。
 大人達の前ではそれなりに礼儀正しくしているアリスだけれど、実のところ、性格はかなり悪い。少なくともレイフに対しては、そうだった。
 性格ブス。
 一体どうしてクリスターがアリスを気にいったのか、レイフには理解できなかった。実際、同じ年の友達と遊ぶ時よりもアリスと話している時の方がクリスターは楽しそうだ。
 子供じみたところのほとんどない、頭がよすぎる理屈家の彼には、年の離れたアリスの方が一緒の時間を過ごして満足できる相手なのかもしれない。
 それにしたって、アリスの正体を知れば、クリスターには優しくてもレイフには意地悪ばかりすることを知れば、たちまち嫌いになってもよさそうなものだ。
 もしかして、本当にクリスターは気がついていないのだろうか。いつもはレイフよりもずっと察しがいいクリスターなのに、騙されている? 信じたくないけれど、おそらく、そうなのだ。
 クリスターを騙すことができるなんて、恐るべし、アリス・ゴールドバーグ。
 レイフは、本当に、アリスのことが苦手だった。




「あら、クリスター、ボートをこぐの上手じゃない。とても初めてだとは思えないわよ!」
 アリスのはしゃいだ笑い声を聞きながら、レイフはボートの隅っこに膝を抱えてうずくまり、一人ぼっちで、惨めさを噛み締めていた。
 目を上げると、慎重にオールを使ってボートをこいでいる兄のすぐ傍に脚を触れあわすようにして坐っているアリスの姿が見えてしまうので、レイフは自分の膝か頭上から降り注ぐ7月の強い日差しを反射してキラキラと光る水面をひたすら睨みつけているしかなかった。
 この日、クリスターとレイフがボート遊びをするという話をどこで聞きつけてきたものか、アリスは湖畔の貸しボート屋にいた兄弟のもとにやってくると、いつも通りの強気な口調で言ったのだ。
「私も一緒に乗りたいわ。ねえ、いいでしょう、クリスター?」
 この言葉にレイフは激しく抵抗した。
「このボートに3人も乗ったら、窮屈だよ!」
 せっかくの兄弟2人きりのボート遊びをアリスに邪魔されてはたまらないとレイフは決死の思いで抗議したつもりだが、アリスには全くこたえていなかった。
「あら、そうなの? 嫌なら、あなたが残ったら?」
 アリスにつんとした調子で返されて、レイフは開いた口が塞がらなくなった。
 あなた、一体、何様のおつもり?
 そうとも、何故レイフが置き去りになどされなければならないのだ。後から割りこんできたこの女こそ、放置されてしかるべきではないか。納得できない、できるはずがない。
「こんな勝手な我が侭女の相手をすることなんてないよ、クリスター。行こう!」
 癇癪を起こす寸前になりながら、レイフはクリスターに向かってすがるような気持ちで叫んだ。
 頼むから、こんな奴の言うことなんか聞かないでくれ。楽しい計画でいっぱいだったはずのキャンプなのに、アリスが現れてからクリスターと2人で過ごす時間は滅茶苦茶にされっぱなしなのだ。だから、このボートだけは絶対に譲れない。クリスターと一緒にいる所にこんな余計な闖入者など欲しくない!
 クリスターにレイフの思いが伝わらないはずはない。分かってくれるはずだ。いつだって、そうなのだから!
 なのに、一体どうしたことだろう。この時のクリスターは、ちょっと困ったような顔でレイフを見、それからその後ろで腕を組んで挑戦的な表情をうかべているアリスを眺め、肩で軽く息をついた後、こう言ったのだ。
「レイフの言うとおり、ちょっと窮屈な思いをさせてしまうかもしれないよ。それに、僕らはボートを漕ぐのも初めだから、うまくできなくて、アリスをイライラさせるかもしれない。それでもいいのなら、一緒に行こう」 
 レイフは、一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
 兄の言葉が信じられず、とっさに聞きなおしそうになったくらいだ。しかし、彼がそうするよりも先にアリスがはしゃいだ声を上げ、レイフを突き飛ばすようにしてクリスターに駆けより抱きついたので、レイフは、そんな彼らを前に馬鹿みたいに口を開けてわなわなと震えることしかできなかった。
 魔女。
(クリスターの馬鹿、クリスターの馬鹿…どうしてアリスなんかの言いなりになるんだよっ。馬鹿、馬鹿…。い、いや、違う…クリスターは悪くない。悪いのはアリスだ。男を…ええっとなんて言うんだっけ、そう、『たぶらかす』…悪い女なんだ。あ…『あばずれ』って言うんだ、きっと、こういうのを…)
 ボートの上でも、レイフなどまるで視界に入らないかのようにクリスターばかりに話し掛け、必死にオールを操っている彼の腕の使い方を見ては、わざわざ触って、ああしろこうしろと教えているアリスに、レイフはもう怒る気にもならず、すっかり力のぬけてしまった体をボートの縁にもたれさせて、何度も深い溜め息をついていた。
 寂しい。
 その時だ。アリスがふいにレイフの方を振りかえり、声をかけてきたのは。
「レイフ、どうしたの? さっきからずっと黙りこくって、妙に元気がないじゃないの?」
 おまえのせいだ、おまえの。
「ね、喉が乾いたんじゃない? ジュース、飲もうか?」
 いきなりアリスがクリスターからレイフに注意を移し近づこうと立ちあがりかけるのに、彼の心臓はひっくり返りそうになった。
「い、いらないよ。オレ、別に喉なんて乾いてない」
 どうしてこんな上擦った声になるのか、レイフ自身にも分からなかった。
「レイフの方は、まだ声がわりしてないのね。可愛いボーイソプラノだわ」
 そう囁いて、アリスはくすっと笑った。
 レイフは真っ赤になって、両手で口許を押さえた。
「アリス、そんなふうに立ちあがったら、危ないよっ」
 クリスターの制止の声が上がった、次の瞬間、ボートが激しく揺れた。
「あ、危ないっ」と叫んで、とっさにレイフは起き上がり、アリスを支えるために腕を伸ばした。そう、彼は大嫌いなアリス・ゴールドバーグを助けようとしたのだ。
 その胸をアリスの手がどんと突いた。中腰の不安定な姿勢でいたレイフはバランスを崩し、揺れるボートの縁に脚をぶちあて、そのままアッシュフィールド湖の澄んだ水の中に見事に転落した。
 何故?
 数瞬の間、何が起こったのかレイフには分からなかった。湖に落ちてしまった、早くボートに上がらなければ。必死の思いで水面にうかび上がり、濡れて滑るボートの縁を掴むと、レイフは自力で体を半分引き上げた。
「おにいちゃん…た、助けて…」
 咳き込みながら助けを求める、その顔が引きつり、歪んだ。
 ボートの中では、転びかけたアリスをしっかり支えたクリスターが彼女の顔を覗き込みながら、「大丈夫?」というようなことを囁いていた。アリスはその体に馴れ馴れしくももたれかかって、ご満悦の様子だ。レイフには、そうとしか見えなかった。
(あ、あの女〜!)
 レイフの中で、何かが音をたてて千切れ飛んだ。
 低い唸り声を発し、鬼のような形相でボートに這いあがると、レイフはアリスに向かって怒鳴った。
「アリス、おまえ、わざとオレを突き飛ばしたな! おにいちゃんから離れろっ、この…悪女! そ、そんなふうにべたべた触るな、クリスターはオレのもんだぞ!」
 アリスは、そんなレイフを肩越しに振りかえり、白々と冷たい目をして言った。
「何、言ってるのよ。あなたが勝手に私にぶつかって、勝手に落ちただけじゃない」
「よっ…よくも、よくも、よくも…そ…んな……!」
 怒りも過ぎると適切な言葉さえ出てこなくなる。
湖に浮かぶ小さなボートの上だということも忘れ果てて、レイフは激昂のあまり身悶えし、激しく足を踏み鳴らした。
 ぐらりと、またボートが揺れる。
「レイフ、やめるんだ!」
 クリスターの鋭い叱責が飛んだ。
「こんな場所で暴れるんじゃない。ボートが転覆したら、どうするんだい? ともかく今は先に岸に戻ることにするよ。話し合うのは、それからにしよう」
 クリスターにたしなめられて、今にもアリスに飛びかかろうと身構えていたレイフは、青ざめた。
「ど、どうして、アリスなんかの肩を持つんだよ、クリスター」
 クリスターの厳しい顔をそれでも懸命に睨みつけていたのだが、やがて続けていられなくなったようにレイフは顔を背けた。
 レイフの胸は情けなさで一杯だった。そのまま力がぬけてしまったようにへなへなとボートの中に坐りこみ、岸にたどり着くまで彼は一言も発しなかった。





「さあ、このタオルで体を拭きなさい。それから、すぐにロッジに帰って乾いた服に着替えるのね。いくら夏だからって、そのままでいたら風邪をひくわ」
 ボートを返しに行っているクリスターが戻ってくるまで、レイフはアリスと2人きりで岸辺に取り残された。
 少し離れた場所にあるカフェのテラスにアイスクリームを買っている家族連れが見えるくらいで、他に人影はない。
 レイフは無言でアリスからタオルを受け取った。彼女と2人でいるのはやはり嫌だったので、少し歩いて、大きな樫の樹の根もとに坐りこんだ。
「悪かったわね、さっきは。でも、本当にわざとじゃなかったのよ」
 レイフを追いかけてきたアリスが、そう話しかけた。
 レイフは顔を上げて、悲しそうな目で彼女を見た。
 まるで傷ついた小さな子犬のようだ。さすがに良心が咎めたのか、アリスはもう1度、
「ごめんなさい」と囁いて、レイフの手からタオルを取り上げると濡れた頭や顔を優しく拭いてやった。
 レイフは逆らわなかった。何だか今初めて見るかのような目つきで、間近な所にあるアリスの顔を見、つんとした鼻の辺りにうっすらとあるそばかす、気の強そうな眉とその下の伏せられた瞼を縁どる長い金色の睫毛が木漏れ日を受けてキラキラと光っている様子に、綺麗だなぁと見惚れていた。
「どうしてなんだよ」と、ぼそりとレイフは呟いた。
「どうして…クリスターにはあんなに優しいのに、オレには意地悪するんだよ?」
 アリスはタオルでレイフの腕を拭いてやっている手を止め、目を上げた。何故か、レイフは心臓がどきどきと鳴り始めるのを意識した。
 クリスターは、アリスのことが気に入っている。
 今まで、クリスターが好きになったものは、レイフも同じように好きになった。クリスマスにもらった大きなテディ・ベア、水槽の中でキラキラ光る熱帯魚、一緒に頼み込んで飼うのを許してもらった子犬。
 けれど、アリスは嫌いだ。大嫌いだ。
「だって、あなたはクリスターとは違うもの」
 激しくなっていた心臓の鼓動が、一瞬、止まったかと思った。
「ち、違うって…どこが……?」
 激しくうろたえながら、レイフは聞き返した。
「そうね…」
 不安げに瞳を揺らせているレイフを見下ろしながら、アリスは軽く首を傾げて、考えこんだ。
「クリスターと同じ髪」
 そう囁いて、アリスはレイフの濡れた赤銅色の髪の一房をそっと引っ張った。
「同じ瞳、同じ鼻、同じ唇…」
 歌うように言いながら、レイフの頬を両手で挟むようにして、アリスは顔を近づけてきた。
 レイフは、緊張のあまり息ができなくなった。アリスの草色の瞳をこんなに近くで見たことなどなかったし、こんなふうにアリスがレイフの顔を長い時間じっと見つめてくれたこともなかった。クリスターに対しては優しく手をつないだり頭を撫でたりするアリスだけれど、レイフはあまり触られたこともなかった。クリスターとレイフの一体どこがそれほど違うというのだろう。
「何もかもがびっくりするくらいに同じね…でも、違うわ」
 アリスの指がレイフの頬をぎゅうっとつねって、引っ張った。
「痛いっ! な、何するんだよっ!」
 レイフは腕を振り上げて怒ったが、アリスは身軽に彼から飛びのいていた。
「あはははっ、面白い子ね。レイフ、クリスターなら易々と女の子に頬っぺたをつねられたり、そのことにびっくりしてそんな間の抜けた顔をしたりしないと思うわ」
 ひくっとレイフの喉が鳴った。大きく見開いた両目からは堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「レイフ、レイフ、ここにいたのかい。ごめんよ、遅くなって…」
 貸しボート屋から戻ってきたクリスターの声を聞いたが、涙でかすんだレイフの目にその姿はよく見えなかった。
「レイフ、どうしたんだ?」
 クリスターがはっと息を飲むのが分かった、その瞬間、レイフは木の根元から跳ね起き、転がるように逃げ出した。
「レイフッ!」
 クリスターはすぐにレイフを追って駆け出そうとした。しかし、その手首をアリスが掴んで引きとめた。
「待って、クリスター」
「アリス…レイフに、一体何をした?」
 クリスターの声に険悪なものがこもったが、アリスは気づいた素振りも見せなかった。
「別に大したことじゃないわ。レイフはあなたとは違う、そう言ってやっただけよ。本当のことでしょう?」
 クリスターはアリスの手を荒々しく振り払った。クリスターがこんな乱暴な態度を見せたことはそれまでなかったので、アリスはさすがにたじろいだ。
「違う」
 クリスターは氷のように冷たい目をして、言った。
「間違っているのは、アリスの方だよ」
 そう言い残して、そのまま立ち去ろうとするクリスターに、アリスははっと我に返ると、その前に回りこむようにして立ちふさがった。
 彼女も、かっとなっているようだ。
「待って、クリスター。レイフを追いかけてもいいけれど、その前に1つ約束して欲しいの。今夜、もう1度ここに来てちょうだい」 
 クリスターは、当惑したように瞬きをした。
「レイフにも、もちろんおじさんやおばさんにも内緒で、こっそりロッジを脱け出してきて…そうね、今夜12時くらい…」
 子供はもう寝ている時間だよと一瞬言いかけたが、アリスもクリスター自身も、彼のことをまだ11歳なのだとは全く思っていなかった。
「僕1人で?」
 クリスターは、考えに沈みながら、聞いた。
「そうよ。レイフは、駄目…あの子はまだ本当にねんねだもの。クリスター、私の言ってる意味は分かる…?」
 アリスはそっと声を低めて囁くと、手を伸ばし、クリスターの腕に指を滑らせた。
 クリスターは頬を少し赤くして、体をずらしアリスの手から逃げた。
 この年の女の子は皆、こんなふうに積極的で大胆なのだろうか。これで普通なのだろうか。こんな時男の子はどういう反応をしたらいいのだろうか。怯んでいるとは、思われたくない。
「…分かっていると思うよ、アリス」
 でも、レイフが…と言いかけた、その唇をアリスのキスが黙らせた。彼女の歯列矯正器具が唇にあたって、少し痛いキスだった。
「この続きは、今夜しましょうね。逃げたら、私、あなたのことを臆病者だと思うわ、クリスター。だから、きっと来てよ!」
 そうやって一方的に約束を取りつけると、アリスは大きく手を振って、笑いながら、風のように駆け去っていった。
 その姿を、クリスターは立ち尽くしたまま呆然と見送った。
 ひりひり痛む唇に触れた後ふと指先を見下ろすと、引っかかって唇が少し傷ついたのだろう、微かに血がついていた。今度彼女とキスする時は、用心しよう。
(今夜…たぶん、もう1度することになりそうだし)
 少し赤くなって、クリスターは胸のうちで呟いた。それから、そうしたいのかしたくないのか、自分の気持ちをはかりかねて首を傾げた。
 アリスとキスするのは嫌いではない。女の子とする色々なことに興味がないとも言わない。いや、正直言って、何も知らない子供でいることはつまらない、あらゆる意味で早く大人になりたいとクリスターは思っている。
「でも、レイフが……」
 今度は声に出して呟き、クリスターは、迷いに揺れ動く目で、アリスが消えていった方から弟が駆け去った方へと頭を巡らせた。

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