ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第8章 Paradise Lost
SCENE7
ヘレナと会った数日後、クリスターが、実家から持ってきたはずの本を探して、クローゼットの奥に放置していた段ボール箱を引っ張り出し、開けてみた時のことだ。
探し物とは別に、クリスターはそこにあるものを見つけた。
「何だ、実家に置いてきたものとばかり思っていたけれど…本や資料に紛れて一緒に持ってきていたんだな」
そう呟いて、クリスターは未開封の大きな茶封筒を箱の中から引っ張り出し、目の前に持ってきて、しばし眺める。
「アイヴァースの遺した原稿か…」
それは、今は亡きデイビッド・アイヴァースが、少年時代のクリスターを研究対象として書いたという遺稿だった。
かつてジェームズ・ブラックは、クリスターを攻略するため、末期ガンを患っていたアイヴァースに近づいて、これを盗み出した。そして、今はクリスターの手元にある。
(僕との最後の闘いの直前、ジェームズは僕にわざわざこれを手渡した…これは、アイヴァースが死ぬ前に僕に伝えたがっていた最後のメッセージだと言って、奴は僕に読むことを勧めたが、僕は拒んだ。ジェームズの罠にかけられることを恐れた訳だけれど、その後も僕は、この原稿には触れず、そのくせ処分しようともしなかった)
別に、忘れていたわけではない。この遺稿の存在は、ずっとクリスターの心の片隅に引っかかってはいたのだが、今になってこれを開封して読むことをクリスターはためらっていた。
この中に描かれているのは、クリスターにとって、長い間封印してきた過去の自分だ。パンドラの箱を開くような、奇妙な恐れを覚えていたのかもしれない。
クリスターはさてどうするかと迷いながら、封筒を手に立ち上がり、大学の講義の資料が積まれた机の前の椅子に座り込んだ。
(13才の僕の告白が、アイヴァースにこれを書かせた。彼にとって、僕はそれだけ意味のある、特別な患者だったのだろうか。精神科医としてはとても優秀な人だった…あのアイヴァースが僕をどんなふうに分析したのか、何だか恐いような気もするけど、興味を惹かれることは確かだよ。いや、別にこんなものを読まなくったって、自分が言ったことくらい、大体覚えているつもりだけれど…)
クリスターの脳裏に、ふいに、シルバー・フレームの眼鏡の越しにじっと自分を見据えていた、アイヴァースの鋭利な青灰色の瞳がうかびあがった。
(あの頃の僕は、弟に対する許されない想いに薄々気付きながら、まだ確信を持てずにいた。自分が今にも暴走しそうなことを感じ、僕の存在自体がいつかあいつを傷つけるのではないかと怖がっていた。アイヴァースは僕のそんな胸の内を的確に見抜いて、究極の問いを突きつけたんだ。もしもあいつが僕と一緒にいることを望まず、離れて行こうとした場合、僕はそれを許せるのか、認められるのか…? アイヴァーの問いにひどく動揺した僕は、激しく彼を憎んだ…騙し討ちにして、学校から追い出してしまうほどに…そうして、その後僕は、弟に自分の気持ちを直接ぶつけて確かめようとしたんだ。もしかしたら、あいつも同じように僕を欲しいと思ってくれるかもしれない、他の全てを捨てても僕と一緒にいたいと言ってくれるかもしれないと…)
クリスターは一瞬、慄いたよう机の上に封筒を投げ出し、さっと立ちあがって身を引いたが、やはり思い直して、再び封筒を手に取った。
(こんなものを読んだところで今更何かが変わるとは思えないけれど…あのアイヴァースが死の前に僕に何を伝えようとしたのか、やっぱり気になる…ああ、死者にさえに助言を求めてみたくなるくらい、僕は今よほど深い迷いに捕らわれているのかな)
クリスターは思い切って封筒を開封し、中から束になった原稿を取り出した。
すると、原稿に紛れていた一通の手紙が床に落ち、クリスターは訝しげに眉をしかめた。
「何だよ、これ…?」
クリスターは、取りあえず原稿を机の上に置いて、床からその小さな封筒を拾い上げると、怪しみながらも中を改めてみた。
瞬間、クリスターははっと息を飲んだ。
『クリスター、もしもこの原稿が運よく君の手に渡り、また君自身これを読む気持ちになって封を開けたとしても、その時、私はこの世にはいないだろう…』
それは、アイヴァースがクリスターに宛てて書いた手紙だった。
まさかこんなものまで入っているとは予想していなかったクリスターは、愕然とした。そうして、何とか動揺を抑えた後、アイヴァースの神経質なまでに綺麗な筆跡で書かれた、その手紙を食い入るようにして読んだ。
『私は、死ぬ前にどうしても君に伝えておきたい言葉と共に、この原稿を君に送るよ、クリスター…もっとも、強情な君が今更私の言うことに素直に耳を傾けてくれるとは思わないがね。それとも、これを君がこれを読む気になるのは、他人の助けを必要とせずにはられないほどに追いつめられた時だろうか…』
死者に心を見透かされたような気がして、クリスターはちょっとひやりとしたが、生前クリスターに会いたがっていたというアイヴァースの言葉は、不思議なほどすっと彼の胸に伝わり、深く染み透っていった。
生きているアイヴァースに面と向かって同じことを言われたとしたら、クリスターはきっと反発したことだろう。
「……」
読み終わった後も長いこと、クリスターは手紙から目を上げようとせず、呆然と立ち尽くしていた。
やがて、その唇が震えながら動き、こみ上げてくる圧倒的な感情に押しつぶされた、小さく掠れた声で、彼はかつての恋人の名前を囁いた。
「デイビッド…」
(それで…一体君は、弟を道連れに、どこまで行くつもりなんだい…?)
(分かりません。でも、たぶん…行ける所まで行ってみようと…僕達が一緒にいても許される場所が見つかるまで…世界の果てまでも―)
「あっ…」
夕食後、クリスターがぼんやりと考え事をしながら洗い物をしていると、つい手が滑って、サンドラの気に入っている皿を1枚割ってしまった。
(僕らしくない失態だな…考えることがありすぎるせいか、つい注意力散漫になりがちでいけない)
クリスターはきれいに半分に割れた皿を両手に持って見比べながら、溜息をつく。
「どうしたの?」
物音に気付いて、サンドラがキッチンに入ってきた。
「うん…ごめん、この皿、ジノリだったかな。見事に真っ二つだ。結構高いんだろ?」
クリスターらしくない粗相に、サンドラはちょっと眉をひそめたものの、あまり物にこだわらない性分らしく、あっさり答えた。
「別に、気にしなくていいわよ。生活の中で使っていれば、いつか割れたり欠けたりするものでしょう。だから、そんなにがっかりした顔をしないで、クリスター」
クリスターが何となく未練そうに割れた皿を眺めているのを、サンドラは軽やかに笑い飛ばした。
「捨ててしまいなさい、クリスター、どんなに高価な食器だって、完璧な形を保っているから価値があるのよ。壊れて二度ともとには戻らないものを惜しんだところで、仕方ないわ」
サンドラは別に深い意味があって言ったわけではなかったろうが、クリスターはなぜか、その言葉に無性に逆らいたくなった。
「いいから、向こうでコーヒーを飲みましょうよ」
「うん…」
サンドラはうかない顔のクリスターの頬を指先で軽くくすぐって、コーヒーのカップを手に先にリビングに戻っていった。
その姿を黙然と見送った後、クリスターはぽつりと呟く。
「壊れたものは二度ともとには戻らない、か」
胸の奥にともった小さな火にじりじりと焼き焦がさせるような気分に戸惑いながら、クリスターはひっそりと反駁した。
「いや、そうとは限らないよ…以前と全く同じ形を取り戻すことは無理でも、やりようによっては、またひとつになることは可能なんだ」
クリスターは、二つに割れた皿をつなぎあわせようとするかのごとく、ぴたりとあわせてみせた。
「人と人の関係だって、きっと同じようなものだろう…?」
クリスターの手の内で、壊れた皿は一瞬元通りの形を取り戻すが、もとが真っ二つに割れているので、当たり前のことだが力を抜けばすぐにずれてしまう。
(何をむきになっているんだ、僕は…)
自らの行為に苦笑しつつ頭を振ると、クリスターは、その皿を捨てるのではなく、綺麗にふきあげて、戸棚の奥に隠しておいた。
(僕達は抱き合って、サービスエリアの駐車場でわんわん泣いて再会を喜びました。あの時の感動はちょっと言葉にできないくらいで…割れてしまった皿の半分がぴたりと継ぎ目なくあわさった、そんな感じで…父さんや母さんが何をしようが、僕達はもう離れないって誓い合ったんです)
まるで我とも知らぬ衝動に突き動かされ、どうしてもとめることができないかのように迸る言葉、行間からあふれ出してくる感情―。
アイヴァースがクリスターのために遺した原稿には、知っているつもりで知らなかった、それとも、記憶の底に押し込んで忘れかけていた、危ういほどに純粋で激しい13才のクリスターの姿が鮮やかに描かれていた。
アイヴァースという卓越した観察者の記述を通して、クリスターは過去の自分と再会したのだ。
その原稿を読むという行為は、常に感情を抑制し、自分をだますことに慣れっこになっていたクリスターにとって、パンドラの箱を開くに等しい、胸の奥に埋もれていた何かを呼び覚ますほどの衝撃だった。
いや、アイヴァースの言葉に触れようが触れまいが、おそらく、クリスターの気持ちは既に固まってはいたのではなかったか。ヘレナからレイフの入隊の知らせを受け取り、弟の行動の意味を理解した瞬間から、彼には、自分がこれからどうするか、分かっていたはずだ。
強力な磁石の両極のように、いくら離れようとしてみたところで、クリスターは半身のもとに引き寄せられていく。
アイヴァースの言葉は、彼が頭の中で漠然と思い描いていた計画をいざ実行に移す、きっかけの1つに過ぎなかった。あるいは、それを読むことで、己の心を再確認したのか。
丁度、弟への恋情に薄々気づいていながら、認めることを恐れていた13才のクリスターが、アイヴァースとのカウンセリングを通じて、自らのものとして受け入れていったのと同じように…。
(許されないことだとは分かっている。あの時と同じように今も…嫌というほどに分かっている。父さんを犠牲にし、母さんを悲しませ…恋人も友人達も、知ればきっと顔を背けて僕から離れていくだろう。それでも、僕は自分を抑えることができないんだ)
クリスターは、その後のおよそ3ヶ月、表面上は何一つ変ったことなどないかのように暮らし続けた。
それどころか、少し前までまるで魂が燃え尽きたかのような無気力に取り付かれていたのが嘘のように、毎日熱心に講義にも出ては、周囲の目を見張らせる才気を遺憾なく発揮するようになっていた。
憂鬱そうだった瞳には再び強い輝きが戻り、話す声にも張りと力がこもって、自然な笑みも浮かべるようになったクリスターを見て、彼を心配し気遣ってきた人々はさぞかし安堵したことだろう。
クリスターの情緒不安定さがなくなった分、サンドラとの暮らしも穏やかで安らいだものとなり、実際、はたから見ても2人はうまくいっているようだった。
波風1つ立たない、安寧な日々の繰り返しの中で起こった奇妙な出来事をあえて挙げるならば、悪い夢を見たクリスターが夜中に飛び起きたことが何回かあったり、大学の講義を受けている最中に急に体の不調を訴えて医務室に連れて行かれたり、それから、割れてしまったジノリの皿にやけに執着した挙句、知恵を振り絞って自力で修復してしまったことくらいだった。
「…友達の父親が歯科医でね。前に、気に入っていた高価な中国の陶器を壊してしまった時、治療用のパテで直したって聞いたんだ…後は、町の骨董品屋とかにも尋ねて、自分で工夫してやってみたんだよ。もともと僕は、手先が器用だからね…ほら、薄っすらと傷が残るのは仕方ないけど、継ぎ目自体は綺麗に埋まって、ほとんど元通りだろう?」
得意げに言って、直した皿を自分専用に使いだすクリスターに、サンドラは、何をそんなにむきになっているのだろうと呆れたように目を丸くしていた。
実際誰も、すっかり今の生活に満足し順応しているようにしか見えないクリスターが、密かに、着実に、その日のための準備を進めていることには気付いていなかった。
ただ1人、おそらく母親のヘレナだけは、クリスターがどうするかを予想していたかもしれないが、ある意味覚悟を決めていたのか、離れて暮らす息子に干渉はせず、時折かかっている電話でも、互いの近況の報告やレイフについて話す程度にとどめていた。
レイフの基礎訓練期間が終わるのを、クリスターはそうやって、ひたすら待ち続けていた。
(そうとも、訓練期間が終わって、あいつの正式な所属先が分かれば、僕も、ずっと温めてきた計画を実行に移せる。3ヶ月も待つのかと思うと最初は途方に暮れたものだけれど、ここまで我慢できたのだから、後少しくらいどうということはないさ。具体的な目標ができた分、気持ちは随分楽になったし…もっとも、その目標自体、レイフならばいざ知らず、今の僕にとっては、なかなか超えることの難しいハードルなんだけれど…)
一端固めた心にふっと迷いが差すのは、今の自分が以前と同じではないということを、クリスターが思い出す時だった。
かつて、押しも押されもせぬエースとしてフットボール・チームを率い、優勝まで駆け上がった頃の覇気は、最近のクリスターにはほとんどない。鏡の中に見出すのは、青白く痩せた、内省的な眼をした若者だ。レイフとはどんどん似なくなり、むしろ伯父のビョルンの憂いを帯びた面差しをそこに見出す。
1年前に傷めた肩は順調に回復し、日常生活を送る分には全く支障はない。しかし、フットボールやボクシングのようなハードなスポーツはずっと控えてきたのだから、この体がどこまでの負荷に耐えられるのか、ジムに通って鍛えなおしたり、病院の検査を受けてみたりもしたが、クリスターにも確信は持てなかった。
(僕はもう完璧ではない…心がどんなに望んでも、この体が裏切るかもしれない。いや、駄目だった時のことなど考えるな。以前の僕ならば、どんなに無理だと思ったことでも、欠点をカバーする方法を考え出し、自分の得意な部分を伸ばして補うことで、あいつと互角に張り合えるほどに自分を高めていったんだ。何もしないうちから弱気になどなるな、そう、僕ならできる…!)
そんなふうに揺れ動く気持ちと戦い、ともすれば萎れそうになる心を鼓舞しながらの忍耐の日々がようやく終わったのは、冬休みに入ろうという時期、クリスマスも間近のことだった。
(クリスター、レイフから連絡があったわ。無事、訓練を終了したそうよ)
ヘレナからの電話を受け取った時、クリスターは、はっと息を吸い込んで、一瞬黙り込んだ。
結局、レイフから直接クリスターに連絡が入ることはなかった。どうしてこんな馬鹿な真似をしたのだと、クリスターに問い詰められたり罵倒されたりすることを恐れてか、レイフは最後まで兄を避け通すつもりのようだ。
(あの意気地なしの卑怯者め…こんな大胆なまねを独断でやってのけたくせに、今更僕の反応が怖いなんて、意味が分からないよ)
一瞬軽い腹立ちを覚えたものの、クリスターは声に出しては冷静に、母に向かって尋ねた。
「それで…あいつはどこの部隊に配属されることに決まったんだい…?」
「…ノースカロナイナ州、フォート・ブラッグ陸軍基地にある、第82空挺師団だそうよ」
受話器越しに聞こえてくるヘレナの声は、いつもと変わらず平静だったが、周囲の戸惑いや反対を押し切って軍隊に入ったレイフに対する、やはり複雑な感慨を秘めているようだった。
「第82空挺師団…」
クリスターは、この3ヶ月間頭の中に集積した陸軍に関する情報をリサーチしながら、しばし、考え込んだ。
「まさか…ねえ、母さんの聞き違いではなく、本当に82空挺なのかい? 戦闘職種から選ぶつもりらしいとは知っていたけれど、また随分と高望みをして…そもそも、あいつがそんなに戦う気満々だったなんて、僕は知らなかったよ…?」
信じられないような気分で言い返した後、クリスターは軽いめまいを覚えて、黙り込んだ。
第82空挺師団といえば、米国にとって重要な戦争・紛争には必ず投入される、最精鋭部隊だ。
(本人の希望が優先されるというからには、あいつ自身が望んだことだろうけれど、そんな精鋭部隊にともかく入ることができたくらいに、あいつの能力が高かったということか…? まあ、確かに身体能力はずばぬけているし、格闘技だって長年やってきた訳だけど…)
本当は、あの甘ったれで泣き虫のレイフが、規律だらけで厳しいことこの上ない軍隊に順応できるものか、密かに疑っていたクリスターだったが、どうやら、そのあては外れたようだ。
クリスターはほうっと溜息をつくと、気を取り直して、話を続けた。
「それで、あいつはすぐに、赴任先のフォート・ブラック基地に向けて出発するのかい…? じきにクリスマスなんだし、軍隊だって、休暇くらいもらえるだろう。移動の前に、一度実家に帰ってきたりは…?」
南部のノースカロナイナは、こことは随分気候も違うだろうなと想像しながら、クリスターは何だかこの3ヶ月で弟に随分差を開けられたような、取り残された感を噛みしめていた。
(もしかしたら、とっさの思いつきの行動のようでいて、案外ヒョウタンからコマ、これがあいつの天職だったということなのかもしれないな…でも、この僕は、そうはいかない。軍隊っていうだけで僕としてはもうありえないのに、空挺部隊だって…? ああ、人の気も知らず、よくもまたハードルを高くしてくれたな、あの馬鹿…)
ただでさえ身体面で不安を抱えたクリスターは、レイフを本気で恨みたくなった。
(私も一度顔くらい見せなさいとは言ったんだけれど、あの子、クリスマスにも帰れないそうよ…新しい生活に早く慣れたいし、色々と忙しいらしいわ)
「言い訳が下手だね、相変わらず…」
クリスターが思わず苦笑すると、受話器の向こうのヘレナも、同じように苦笑して、ええ、本当にと答えた。
(年が明けたら、今度は、空挺学校で訓練を受けるんですって。平時の軍隊って、やることと言えば、来る日も来る日も訓練ばかりなのね)
「それは仕方ないよ…日頃厳しく鍛えて、いざ戦争ってことになったら、即座に対応できるようにしておくのが軍隊だからね。ましてや、即戦力の空挺部隊となると…」
ヘレナがじっと押し黙ったのに、クリスターは、やはり彼女も子供を戦地にやりたくなどない点では、普通の母親と変わりないのだと感じた。
(だとすれば、僕がこれからしようとしていることは、この人に一層心労をかけてしまうんだろうな)
そう思うと良心が痛んだが、いつまでも黙っておくわけにはいかない、母に対して不誠実な態度は取れないとの思いから、クリスターは重い口を開いた。
「母さん…あの…」
それでも、一瞬口ごもってしまう。気持はとうに決まっていても、いざ、大切に思っている人に、こんな残酷なことを伝えるのは勇気がいった。
(僕は、ここを出ていきます。大学をやめ、僕を愛してくれている恋人や友人達、母さんさえも捨てて…)
クリスターはそっと目を閉じた。レイフを失い、独りでこの先生きていくのだと一端諦めたものの、彼に代わる夢も情熱の対象も見つけられず、立ちつくし続けた日々の末たどりついた結論を胸の内で反芻していた。
(僕は、やっぱりあいつなしじゃ駄目なんです。独りで生きてみようと努力もしたけれど、あいつのいない日々、僕はまるで死人のようでした。あいつが軍隊に入ったという知らせを受け取り、これが僕とあいつの運命をもう一度結び付ける最後のチャンスなのだと気付いた時から、僕はやっと息を吹き返したんです。結局、このまま魂の抜け殻として残りの人生を過ごそうと諦めとしまえるほどには、僕はまだ年老いてはいない。許されないことだとは分かっています。こんな僕達を受け入れられる場所が、この世界にはないことも痛いほどに分かっています。何より、父さんのように、僕達のせいで大切な人が傷つくのはもう嫌なんです…だから、僕は慣れ親しんだこの場所から飛び出し、他のものは全部振り捨てて、あいつを追っていくことにしたんです)
クリスターの脳裏に、同じ結論に先に行き着き、慣れ親しんだ日常から飛び出して全く未知の世界に向かった、レイフの面影が浮かんだ。
(何ぐずぐずしてるんだよっ。兄貴ってば、やること遅ぇな。オレぁ、もう待ちくたびれちまうぜ)
クリスターの片割れは、ちょっと焦れたような笑顔を向けて、誘いかけるかのごとく、こちらに手を差し伸ばしている。
その手を取るために、クリスターは、安寧な生活も約束された将来も、全て投げ打つ決意をした。
(おまえは、僕がこうすることくらい見越してやったんだろ。だったら、もう少しくらい待てよ…僕は、もう二度と逃げたり迷ったりしないから…)
クリスターの長い沈黙に、ヘレナは問い返しもせず、辛抱強く付き合っている。彼が何を言い出すつもりか、彼女には、想像が付いていたのだろうか。
クリスターは深く息を吸い込んだ。
「…突然だけれど、僕は母さんに打ち明けなければならないことがあるんだ。驚かないで、聞いてくれ…」
再び語りだした時、クリスターの声は、強固な意志に支えられた揺るぎないものとなっていた。
かつて、弟と共にいられるためならばどんな努力も犠牲も払うと自らに過酷な要求を強い、それを見事に乗り越えて、高みに駆け上ったクリスター。
今の彼は、確かにかつてと同じとは言えなかった。肉体には疵が残り、自らの心のもろさも自覚している。しかし―。
(おまえが行くところに僕は行く。そのためならば、僕はきっと、いくらで強くなれる。おまえが、僕にそう望むなら…)
レイフの長い不在によって、クリスターは、かつて彼をこの上もなく強烈に輝かせ、他から抜きん出た存在としていた、凄まじいまでの気迫を失っていた。
一度きりの人生を悔いなく生きるにはどうすればいいか、自分にとって最も大切なものは何かを思いだした今、クリスターは、ほとんど不可能だと思われたことでも意志の力で可能にしてきた、かつての自分をも取り戻したのだった。
(僕は、レイフさえいれば他には何もいらない、あの子と一緒にいられれば、それで幸せだと思う…もしレイフが…レイフも同じように僕のことを想ってくれていたら…そう、レイフだって…同じように僕のことを欲しいと思ってくれるかもしれない…父さんや母さん、友達もみんないらないから、僕だけが欲しいと…確かめることも恐くてできなかったけれど、もしかしたら―)
ほとんどの私物は処分し、必要なものは整理して梱包した、がらんとした部屋の中で、クリスターはアイヴァースの原稿をゆっくりとめくっていた。
(今の僕が、13才の頃のように、後先のことも考えず想いだけで行動できるほど純粋で無謀であるはずもなく、かつて、あいつと共に頂点を目差した時のように、多少の無理には耐えられる完璧な体を持っている訳でもない。ああ、僕は自分を天才肌の弟とは違う、むしろ努力家なんだと思っていたけれど、何のかんのと言って、生まれつき恵まれた資質に頼っていたんだな。だから、純粋な心も、頼める力も失った今の僕が、同じか、それ以上に過酷な世界に身を投じて、あいつに追いつけるか…むしろ足手まといになるのではないかと考え出すと、とても不安でならなかった)
それでも、クリスターは、もう一度挑戦する気になった。
レイフという片翼を取り戻して高く飛び立ち、一度きりの人生を悔いなく生き抜くために―。
(あなたの残した言葉が僕に、その勇気を持たせてくれた。そう、僕は別に、あなたの言うことを頭からはね付けるほど強情っぱりではないよ、先生…それどころか、ありがとうと直接言えなかったことが惜しまれるくらい、今は感謝している)
クリスターは最後に、アイヴァースの手紙の文面にさっと目を通した後、それも原稿と一緒に封筒の中に収め、段ボール箱の中に滑り込ませた。
じきに来ることになっている業者に荷物を引き渡したら、クリスターは当座必要な身の回りのものだけを詰めた大きなバッグを手に、この部屋を出る。
1週間前に破局したサンドラは、今仕事に出ていて、見送りには来ない。
突然クリスターから一方的に別れを告げられた彼女は、大人らしく平静を保とうと努力していたが、ひどく傷ついたことはクリスターにも分かった。冷静沈着な大人の女性だから、ペットのような年下の恋人が離れていったところで平気だろうなどと都合のいいことを考えていた、自分をよほど恥じたくらいだ。
いくらヘレナによく似たさばさばした気性だからといって、サンドラはクリスターの母親ではなく、恋人との別れ話に取り乱したところで不思議はないのだ。
(いっそ本当のことを言った方がよかったろうか。僕の本当の恋人は弟なんだと…いや、そんな話をしたって、余計に混乱させ、嫌な気分にさせるだけだ。単純に気持ちが変わった…大学にも、ここでの暮らしにも飽きてしまったから、新しい生きがいを求めて軍隊に入ってみることにしたと…真実よりは、まだこの作り話の方が誰にとっても受け入れやすいだろう)
冬休みに入る前に、クリスターは休学の手続きもきちんと済ませておいた。いきなり辞めるのは世話になった教授に必死にとめられたので、そういう体裁を取ったのだが、二度と戻ってくるつもりはなかった。
友人達も皆唖然とし理由を尋ねたが、クリスターの決意が固いのを見て取ると、それ以上追及しようとはしなかった。
将来を約束されたエリート達には、彼らの内の誰よりも優秀でありながら、あえて道から外れていくクリスターが理解できなかったのだろう。理解できないものは頭から締め出して忘れてしまった方が、心安らかでいられるものだ。
そう言えば、この数ヶ月間度々足を運んだ陸軍新兵募集事務所の担当官でさえ、今まで何度も話はしていたにもかかわらず、いざクリスターがサインをした入隊手続きの書類を持ってくると、本当に本気だったのかといささか唖然としていた。
(筆記試験はともかく、身体検査がパスできてほっとした…もっとも、これでやっとスタート地点に立てたばかりで、まずは基礎訓練を終了し、更により難易度の高い様々な訓練をクリアーして初めて、僕は軍隊でもやっていけると確信を持てるんだろう…考え出すと、何とも果てしなく遠い道程だな…)
クリスターはまだちょっと心もとなげに右肩にそっと触れ、それからふっと思いついたように、壁に掛けられた鏡に己の姿を映してみた。
(本当に、できるのか…? 迷いや不安は、もうないか?)
鏡の中からこちらを睨みつけてくる、異様に底光りする目をした、厳しい顔をした若者に向かって、クリスターは問いかけてみた。
(もう一度あいつと同じ場所に立つために、おまえはどんな努力も犠牲も払う覚悟はあるか、どんな厳しく過酷な試練を受けても耐え抜ける、研ぎ澄まされた心を保てるか…?)
また少し、鏡に映るクリスターの印象は変わっていた。心の持ちよう一つで、よくここまでころころと顔つきが変わるものだと我ながら感心してしまうほど、弱々しさや自信のなさは払拭され、精悍さを取り戻している。
ああ、僕なら、必ずできるとも―クリスターは己の心がもう揺らがないのを確認すると、挑みかけるかのような不敵な笑みを浮かべた
「待つのはもう終わりだ。さあ、行こう…あいつが僕を待っている、あの場所へ…」
クリスター…。
君と別れた後も、君がこれからどんなふうに生きていくのか、私はとても気がかりだった。
君は結局弟に自分の想いを伝えたのか、伝えられなかったのか。それは叶ったのか、叶わなかったのか。
いずれにせよ、君の苦悩は、成長し大人に近付くにつれ一層深くなり、それはやがて君と弟だけの問題にはとどまらず、周囲をも巻き込んでいくだろう。
私は、最後に君と言葉を交わした時、誰にも、君自身にも、弟を求める君の心を変えられないだろうと既に確信していたよ。
分かっていながら、私は君に、それは許されない行為なのだと諭すことしかできなかった。
なぜなら、その想いを貫いた所で、君が愛する相手と共に幸せになれる可能性は、残念ながら、この世界ではほとんどないからだ。
もしも君が弟への恋情をいつしか肉親への情愛に変容させることに成功していたのなら、それは君にとっても、君の愛する人達にとっても幸いなことだ。私も、そうなってくれていることを心から祈っている。
だが、もしも君が、苦しみ悩んだ末にやはり諦められないのだという結論に至り、そして、一方でレイフも君と同じほどに悩んだ末にそれでも君と一緒に歩む人生を望んだなら―それ以上は、もう無駄に思い患うことはやめなさい。
弟を道連れにどこまで行くつもりだと途方に暮れて聞いた私に対し、あの時、君は答えたね。
君達が一緒にいても許される場所が見つかるまで、行ける所まで、世界の果てまで行ってみると…そういう選択も、ありうるだろう。
君達が探し求める楽園がどこにあるか、私は知らない。だが、クリスター、どうか幸せに、愛する人と共に、一度きりの人生を悔いなく送って欲しい。
強く生きなさい、クリスター、どんな道を進むのであれ、君らしく、自信と誇りを持って…!
年が明けてすぐ、クリスターは歩兵基礎訓練を受けるべく、ジョージア州フォート・ベニング陸軍基地に向かった。
レイフに遅れること3カ月、クリスターもまた弟と同じ世界を目指して、旅立ったのだ。