ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第8章 Paradise Lost
SCENE6
『ねえ、レイフ、寒くないかい?』
『ううん、寒くなんかないし、何があっても、へっちゃらだよ。だって、おにいちゃんが一緒にいてくれるもん』
甘酸っぱい幸福感に薄っすらと微笑みながら、クリスターがまどろんでいると、ふいに優しい手が肩にかかって、彼をそっと眠りから揺り起こした。
「クリスター、クリスター…そろそろ起きないと、講義に遅れるわよ…?」
ハスキーな声が耳たぶを柔らかくくすぐるのに、クリスターは逃げるように寝返りを打って、ぼんやりと言い返した。
「う…ん…駄目、もうちょっと寝かせて…母さん…あっ…」
言ってしまった後、クリスターはぱたりと目を開いて、慌てて、広いベッドから飛び起きた。
紗のカーテンの引かれた寝室の窓からは明るい朝の光が差し込み、近くの公園を住処にしているのだろう、小鳥達のさえずりが聞こえてくる。
一瞬、夢の中とはあまりに違う光景に馴染めず、クリスターは心もとなげに、己の裸の胸に手を置いた。
「おはよう、クリスター…やっと目が覚めた…?」
声のした方に、クリスターはややぎこちない笑顔を向ける。
「サンドラ…お…おはよう」
案の定、ベッドの傍には、既にきちんと出勤の身支度を整えた、サンドラ・オブライエンが佇んでいて、美しい顔に苦笑とも取れる表情を浮かべて、動揺するクリスターを見下ろしていた。
「今は8時15分。今すぐ起きて支度をしたら、フリードマン教授のクラスには間に合うわよ?」
ベッドサイドの時計を指差して、サンドラはきびきびとした口調で告げる。
「ああ、そうだね…起こしてくれて、ありがとう」
「私は先に出るけど、テーブルにあなたの分の朝食を準備してあるから、適当に食べていって」
こういう態度や口調が母親じみているから、うっかり間違えたのだ。自分は悪くないと、クリスターはちょっとふてくされながら、乱れた髪をくしゃくしゃとかき回した。
「髪、伸びたわね」
「ああ、何だか面倒で、しばらく切りに行ってないから…」
もうすぐ肩にかかりそうな長さにまで伸びた紅い髪の一筋を、サンドラは軽く引っ張る。
その手をとっさに捕まえて、クリスターは自分の方に引き寄せた。
サンドラは逆らわず、クリスターの腕に捕まえられると、軽く小首を傾げながら、問い返すよう、彼を見下ろした。
「何?」
仕事柄かもしれないが、きつい香水はつけないサンドラの体は、クリスターの好きな柑橘系の爽やかで清潔な香りがする。
「…キスして」
サンドラはクリスターの唇と額に蝶のような軽いキスをすると、笑いを含んだ、甘やかな声で囁いた。
「無精髭が生えかけてる…」
滑らかな指先でクリスターの顎の辺りをくすぐって、サンドラはするりと彼の腕から抜け出し、立ち上がった。
「行ってくるわ。また、今夜ね」
「ああ」
サンドラがバッグを肩にかけ颯爽と出て行くのをひらひらと手を振って見送った後、クリスターは彼女の忠告を守って素直に起きるのかと思いきや、またしてもベッドに倒れ込み、枕もとの時計を遠くに押しやった。
「今ならまだ間に合う時間か…いいよ、別に間に合わなくったって…」
気の抜けた口調で独りごち、小さくあくびをして、目を瞑る。
(フリードマン教授のクラスを欠席するのは、これで二度目か…あまり続くと呼び出しを食らうかもしれないけれど、まだ大丈夫だろう。そうだな、次こそはちゃんと出席しよう…別に体調が悪いわけでもないのに、なぜかな、この頃何をするのも億劫で、動きたくない…)
大学が始まって、既に一月近く。
サンドラや高校時代からクリスターに目をかけてくれているフリードマン教授の助けもあって、せっかく支障なく始めることができた新生活なのに、本来なら、彼らの期待に応えるためにもきちんと勉学に打ち込むべきところを、ともすれば手を抜いたりさぼったりしがちだ。
(ああ、こんなだらだらとやる気のない生活、この僕が自分に許すなんて信じられない。もしかしたら、今までがんばりすぎた反動が来ているのかもしれないな。こんなことなら、適当に力を抜いておけばよかった…19才になったばかりの若さで燃え尽き症候群なんて、がっかりだよ。こんなことじゃいけない、サンドラに愛想を着かされる前に、何とか浮上しなくちゃ…いっそ、カウンセラーにでもかかった方がいいだろうか。いや、通り一遍の診察しかできない、下手なカウンセラーを相手にするくらいなら、自分で解決する方がましかな…眠れますか、食欲はありますか、人間関係はうまくいってますか…それこそ、余計にイライラして、議論を吹っかけて言い負かしてしまいそうだ。ああ、僕みたいな頭でっかちが頭の病気になると余計に性質が悪い…)
そんな仕様のないことを考えているうちに、クリスターは再びうとうとし始めた。
(さっきまで、とてもいい夢を見ていたんだ…懐かしくて、幸せな気分だった。今から、あの続きを見ることはできないかな…?)
記憶を紐解かなくても、いつのことだったか、すぐに思い出せる。あれは、クリスターとレイフが生まれて初めて別々に暮らすことを強いられていた、11才の冬の話だ。
この年になると、口に出して、あの頃の思い出を語るのも恥ずかしくて、ずっと黙っていたけれど、クリスターは今でもよく覚えている。
(僕達はまだたったの11才だったんだ…子供だったからこそ、あんなに真剣になって、絶対に2人の願いを叶えてみせると、何の力もあてもないのに信じられたのかな。もう二度と離れ離れになるのは嫌だから、一緒に生きられる場所を探そうと…僕とあいつと2人きり…)
あの頃を振り返れば、今の自分は何と変わってしまったのだろうとクリスターはつくづく思う。
愛する弟を失って、ここまで長い期間自分が暮らせるのが不思議でならないが、昔に比べて、少しは成長したということか。それとも、諦めというものを少しは学んだということか。
まだ19才、決して生き過ぎたと言えるほど長く生きてはいないはずだが…。
「レイ…っ…」
ふっと、その名前を唇に上らせると、たちまち、鋭いナイフを胸に突きたてられたような痛みが走り、体が震える。
(いや、あいつの不在に耐えられるほどには、やっぱり、僕は強くはなれない…僕が呼んでも、あいつはここに来ないのに、どうしてあいつの名前なんか呼べる…?)
震える瞼の合間に薄っすらと溜まった涙を乱暴に手でぬぐい、クリスターは枕に顔を押し付けた。
(今頃、あいつはどうしているのかな…? やっぱり、このままニューヘイブンに住み着くんだろうか…今頃は近くの大学に入って、心機一転新しい生活を始めている頃かもしれないな。叔父さんが傍にいて助けてくれればきっと、何があっても大丈夫だろう。うん、その方がいい、今更変なマスコミ連中に追い回されることはなくても、ここに戻れば、あいつはまた父さんの死に様を思い出して、辛くなるだけだろうから…)
クリスターでさえ、まだ完全にラースの死の衝撃から立ち直れていないのだから、情の厚いレイフは尚更だろう。
(時間が経って、あいつが立ち直ることを、僕は遠くから祈るしかないのか…僕が会っても、あいつの傷をまた開くことしかならない。だって、僕とあいつのせいで父さんが死んだのは紛れもない事実なのだから…)
クリスターの脳裏に、あの葬儀の日、埋葬場所に収められた父親の棺を挟んで向かい合って立っていた、レイフの姿が浮かび上がった。
傷つき途方に暮れて、その逞しい体も小さく萎んでしまったような、あんなレイフを、クリスターは初めて見た。
(ごめん…ごめんよ、僕はおまえにそんな悲しい顔をさせるために、生まれてきたわけじゃないのに…結局僕がいたために、おまえを傷つけ不幸にしてしまった)
もしかしたら一緒に幸せになれるかもしれない。抱き合いながら垣間見た夢は、呆気なくも打ち砕かれて、今は胸に突き刺さったままの夢の欠片が、じくじくと心を痛ませる。
(おまえが僕と一緒にいられないというなら、僕は身を引いて、おまえの前には二度と姿を見せず、ひっそりと暮らすしかない。僕がおまえをどうしても取り戻そうとしなければ、おまえはいつか僕のことを忘れて幸せになってくれるだろうか。そして、この僕も、これが与えられた運命だと割り切って、淡々と日々を送っていけば…いつかは胸を疼かせる、この痛みも過ぎ去るだろうか)
クリスターは何とも心もとない気分で、己の胸にそっと手を置いた。
しっとりと熱を帯びた肌の手触り。その下で、規則正しく動いている心臓の鼓動。
とくとく、とくとく…遠い所にいる、レイフの胸の鼓動もきっとクリスターと同じリズムを刻んでいるはずだ。
だが、それだけでは、クリスターにのしかかっている圧倒的な孤独感を払拭することはできない。
(少しは慣れたと思ったのに…おまえのいない生活は、想像以上に味気なくて、何もかもが空しい…名門大学に通って、裕福で優しい恋人もいる、誰もがうらやむ生活をしているのに、僕はまるで魂の抜け殻になったような気分なんだ。こんなことを考えたら、罰が当たりそうだけれど、年上の女性によしよしと甘やかされ、ペットのように飼い馴らされている、すっかり毒気の抜けた僕なんて、男としてはもう終わっているんじゃないかと…いや、それもどうでもいいことか…)
そんな自己嫌悪と自己憐憫に浸りながら、うつらうつらしていたクリスターを再び目覚めさせたのは、部屋の隅に置かれた電話の音だった。
(うるさいな…でも、電話に出るなんて面倒くさい…そのうち諦めて鳴り止むだろうから、放っておこう)
クリスターは眉をしかめて、枕で頭を隠すようにし、しばらく無視する構えだったが、しつこく鳴り続ける電話に、ついに観念して、ベッドから起き出した。
(人が寝ているのに、全く迷惑な電話だな…ただの勧誘とかだったら、猛抗議してやるから、覚悟しろ)
これほど寝起きの悪いクリスターはめったにないだろう、裸のまま、あくびを噛み殺して、電話のところまで行き、不機嫌そのものの低い声で応対に出る。
「はい?」
しかし、受話器越しに耳に入ってきた声は、クリスターの眠気を吹き飛ばすものだった。
「おはよう、クリスター…まだ寝ていたの? あなたにしては珍しく、今朝は随分ゆっくりなのね」
「か、母さん…?!」
反射的に背筋をびしっと伸ばして、うろたえながら、壁の時計を眺めやる。いつの間にか、時間は9時半を回っていて、出席するべきクラスにはどうあっても間に合わないと、瞬間的にクリスターは諦めた。
「おはよう、母さん。そう、今日は…午後からのクラスなんだ。久しぶりだね」
クリスターは動揺が声に滲まないようよほど気をつけながら、口から出まかせではあったが、やっとの思いで返事らしい返事をした。
「ええ、ラースの葬儀が終わって以来だから、本当に、あなたの声を聞くのは久しぶりだわね」
クリスターは何と答えればいいのか分からなくて、押し黙った。
ラースの葬儀が終わり、その他諸々の手続きが片付いた後すぐ、クリスターはサンドラのアパートメントに戻った。
最初は母の傍についていようかとも考えたクリスターだったが、父の死の原因を作ったのは自分だという罪悪感のため、実家に留まり続けることは、どうしても気詰まりで、できなかったのだ。
それどころか、今まで、自分からヘレナに会いに行ったり連絡を取ったりすることもなかった。
(薄情な息子だとは思うよ…でも、父さんを亡くして悲しみに暮れる母さんを、この僕が慰めるなんて…きっと母さんだって、僕達のせいだと分かってる。心の中では、僕の顔なんか見たくないと思っているかもしれない…そう考えたら、母さんとちゃんと向き合って話をすることが怖くて…)
クリスターは目を閉じ、すうっと息を吸い込むと、勇気を奮い起こして、言った。
「ごめん、母さん…時々電話くらいするべきだったね」
「そうね。でも、私も、もっと早くにあなたに連絡をするべきだったのに、ためらっていたのだから、お互い様だわ」
クリスターは母の口調に何かしら引っかかるものを覚えたが、問い返す前に、彼女は続けた。
「今、あなたのアパートメントの近くに来ているのよ、クリスター。今から、ちょっと出て来れないかしら?」
「今から? う、うん…分かったよ。それじゃ、チャールズ・ストリート沿いに、ヴィクトリアって大きなカフェがあるから、そこで待ってて。すぐに行くから…」
言いかけて、クリスターは、今朝、サンドラに指摘されたことを思い出した。
(無精ひげが生えかけてる…)
嫌な予感を覚えながら、サンドラのドレッサーに素早く近づき、ひょいと鏡を覗き込んだ。
(うわ…駄目だ、見せられない)
クリスターは慌てて受話器を掴みなおし、いささか上ずった声で、母に向かって懇願した。
「ごめん、母さん、30分…いや、20分だけ待ってくれっ」
無気力な生活が外見にまで出掛かっていたことに危うい所で気付いたクリスターは、急いでシャワーを浴び、顔を綺麗にあたって、クローゼットの中から引っ張り出した新しいシャツとジーンズを身につけた。
(さすがに、この伸びかけの髪を切る時間はないな…ああ、よかった、丁度後ろでまとめられるくらいの長さだ)
サンドラのドレッサーを探して出てきた、シンプルなヘアゴムを無断拝借し、どうにか、さっぱりと清潔感のある姿を取り戻して、クリスターはアパートメントを飛び出した。
(サンドラ、僕を甘やかすのもいいけど、気付いているなら、もっと早く注意してくれよぉ。この若さで危うくクマ系になりかけていたなんて、ショックだ。それほど体毛は濃くない方だとは思うけれど、やっぱりヴァイキングの子孫だからなぁ…全く、思い出してもぞっとする。あんな姿を母さんに見られるくらいなら、舌を噛んで死んだ方がましだよ)
ヘレナの待つカフェに向かって全力疾走しながら、クリスターは、そんな仕様もないことを考えていた。久しぶりの母との再会を前に、緊張を紛らしたかったのかもしれない。
(母さんは、あれ以来、あの家で独り、どんなふうに、何を思って暮らしていたんだろう…電話で話した感じでは、元通りの母さんのようだったけれど…片割れをなくした僕と同じように、あの人も父さんという心の支えを失って、一人ぼっちになってしまったんだ)
そう思うと、急にヘレナと会うのが怖くなってくる。
(もしも、あの美しく毅然とした母さんが、悲しみのあまりやつれ、一気に老け込んだ姿で現われたら…僕は一体どうしたらいいんだろう)
サンドラが気に入って、よくコーヒー豆を買ってくる、しゃれた感じのカフェに入る時、クリスターは、尻込みして立ち尽くしそうになる自分をよほど叱咤しなければならなかった。
(母さん…?)
挽き立てのコーヒーのいい匂いがふわりと漂う店内に入ると、すぐに、クリスターは、奥のテーブルに座って、コーヒー・カップを手に物思いにふけっているヘレナを見つけた。
艶やかな紅い髪をタイトにまとめ、シンプルなスーツに身を包んだ彼女は、夫を亡くしたばかりの女性とは思えぬほど、凛として美しかった。
一時は会社を人に譲るという話も出ていたようだが、どうやら、仕事に復帰したらしい。
「母さん…待たせて、ごめん」
以前とほとんど変わらぬ母の姿に少しほっとしながら、クリスターが近づいて声をかけると、ヘレナは顔を上げて、まっすぐに彼を見た。
「クリスター…あら、何だか感じが変わったわね。髪、伸ばしているの?」
琥珀色の瞳を不思議そうに瞬かせ、真っ先に指摘するヘレナに、クリスターは軽く動揺しながら、言い訳をした。
「うん、気分転換になるかなって…へ、変かな?」
「いいえ、見慣れていないから少し驚いたけれど、なかなか似合っているわよ」
「そう…よかった…」
ヘアゴムで結わえただけの髪にぎこちなく触りながら、クリスターはちょっと照れた。
「どうしているのかなって気になっていたけど…仕事、再開したみたいだね、母さん」
「ええ、いつまでも人任せにしていられないし、半月ほど前からまた会社に出るようになったの。私にとっては、家にいるよりも気が紛れていいみたいよ。それに、ラースと一緒にここまで大きくした会社ですもの…やっぱり愛着があるし、社員達に対する責任もある。ラースがいなくなったからといって、簡単に投げ出すわけにはいかないわ」
クリスターが席に着くと、注文を取りに来た顔なじみのウエイトレスが声をかけてきた。
度々一緒に店を訪れるクリスターとサンドラを姉弟としばらく誤解していた彼女に、ヘレナを母だと紹介すると、今度こそ本当のお姉さんかと思ったと、ヘレナの若々しさに目を丸くしていた。
(あの娘、絶対僕のことをマザコンだと思ったろうな…すごく年の離れた恋人がいて、おまけに、こんな若くて美人の母親と朝からカフェで待ち合わせか…まあ、別にもう否定しないから、いいけれどさ)
結局家で朝食は食べなかったので、コーヒーと一緒に注文したベーグル・サンドを頬張りながらむっつりと考え込んでいると、ヘレナがさり気なく話しかけてきた。
「思ったより、あなたが元気そうでよかったわ、クリスター…サンドラともうまくいっているようだし…?」
「うん…彼女にはとてもよくしてもらっているよ。居心地がよすぎて、この僕が、ついだらけてしまいそうになるくらいにね」
「実を言うとね、サンドラとは、この間一度会って話をしたのよ」
「そうなのかい?」
そんな話、サンドラから聞いていないよと言いかけて、むきになるのも子供じみているかと思い直したクリスターは、平然を装って、口の中のベーグルをコーヒーで流し込んだ。
「私達は結構気があうの。去年あなたが大怪我をして入院している頃、何度か電話で話をしたり、一緒にお茶を飲んだりしたことがあったわ。あの頃は、まさかあなたと彼女が付き合うことになるなんて、夢にも思ってはいなかったけれど…」
「でも、今は、僕のことが気がかりだという理由で、彼女と連絡を取っていたんだね?」
「ええ、その通りよ。気に触ったのなら、ごめんなさい…確かに、独立して恋人と暮らし始めた子供にいつまでも干渉するのはどうかと思うけれど、あなたの場合は事情が事情だったから…ラースの葬儀の後、また実家との連絡を絶ってしまったあなたが、今頃どうしているのか、私はずっと気にかかっていたわ。そうは言うものの、こんなふうに会って話すだけの気力を回復するには、私も時間が必要だった」
「母さん…ごめん、母さんは自分のことだけで精一杯だったろうに、僕のことで、そんな余計な気を使わせて…」
クリスターが恐縮して言うのに、ヘレナは首を横に振った。
「いいえ、ラースの葬儀の後の喪失感から立ち直るのに時間がかかったことは仕方ないにしろ、本当は、もう少し早く、私はここに来るべきだったの。それなのに、なぜか、迷ってしまって…サンドラに先に連絡を取って、あなたの様子を尋ねたりした。私らしくもない、優柔不断さだったわ」
「一体どうしたんだい、母さん…? 僕に会いに来るのを躊躇ったって…どういう意味…?」
母に対して色々と後ろめたさのあるクリスターは、ヘレナの含みのある言い方に、つい過敏になってしまう。
(どうしよう、母さんはまさか僕とあいつの間にあったことで…それが父さんを死に追い込んだことについて、今更僕達を責めたり恨んだりはしなくても、やっぱり色々思うことがあって、それで、迷った末にここまで来たんだろうか…?)
腫れ物に触れるように、というか、ほとんど深く追求されたことのなかった、2人がラースに勘当を言い渡された経緯について、今ここでヘレナに言及されるのでないかとクリスターは凍りついたが、続いてヘレナの口から出たのは、彼の予想を裏切るものだった。
「クリスター、実は、あなたに話さなければならないことがあるの…レイフのことよ」
どくんと、クリスターの全身の血がざわついた。
「えっ…あいつが、一体どうかしたのかい…? ビョルン伯父さんのもとに身を寄せているはずだったろう?」
久しぶりに聞く弟の名前に、自分がおかしいほどに反応していることを自覚しながら、クリスターは必死で平静を保とうと努力していた。
「ええ、ラースの葬儀の後も、レイフはずっとニューヘイブンにいたのだけれど、先月の終わり頃、ビョルンから連絡が入ったのよ。あの子が急に軍隊に入るなんて言い出したって」
「え…えぇっ?!」
母が何を言い出したのか、とっさに理解できなくて、クリスターは怪しむような目をヘレナの複雑そうな顔に当てたまま、固まってしまった。
「ビョルンの話では、レイフはラースの死後ふさぎ込んでいたものの、少しずつ、気持ちを前向きにしようとしていたそうよ…進路についても、真剣に考えていたみたいね。ただ、心の中に何か深い悩みを抱えていて、そのために決断できずにいた…それが、ある日急に、まるで憑き物が落ちたような晴れ晴れとした顔をして、陸軍に入隊するとビョルンに告げたの」
「ちょ…ちょっと待って、母さん、何なんだよ、その話…本当のことじゃないよね? 軍隊に入るだって…まさか、あいつが…? 一体、何でまた、突然そんなことを言い出したんだ?」
「それは、私にもビョルンにも分からないわ…どこか遠い場所に行きたいと時折こぼしていたことはあったみたいだけれど、何故軍隊なんて選んだのか…」
「冗談じゃない…いや、全く冗談じゃないよ、そんな馬鹿なことがあるものか…僕はてっきり、あいつは、落ち着いたら、向こうの大学に入るものかと…今更スポーツ推薦は無理でも、別にあいつだって、成績は悪くなかったんだし、その気になって努力すれば、いくらでもやり直しはきいたはずだ。なのに、軍隊だなんて、一体何を血迷って…ありえないよ! ビョルン伯父さんや母さんは、そんな馬鹿を言い出すあいつをとめなかったのか?」
クリスターが思わず声を高くすると、驚いた他の客達が談笑をぱたりとやめて、こちらを振り返った。
「ごめん、つい、驚いて…」
クリスターは何とか感情を抑えようと、テーブルの上で震える手をぐっと握り締めた。
「ビョルンは当然あの子を説得して、とめようとしたわ…あの人の主義身上からして、それは当然でしょう? でもね、レイフの決意はとても固くて、既に入隊のサインまでしていたのよ…ビョルンの話では、サインをしても、訓練基地に送り込まれるまでは契約の破棄は可能だということだったけれど、本人の意思が変わらなければ、阻止しようもないわ。私も、ビョルンからの知らせを受けて、すぐレイフに会いに行ったのだけれど、どうしてもあの子の気持ちを変えることはできなかった」
「レイフはそのまま、母さん達を振りきるようにして、訓練基地に行ってしまったということなのかい…?」
クリスターは呻くように呟いた。
「信じられない…軍隊だって…? そう言えば、昔、ランボーとかのポスターを部屋に貼っていたような記憶はあるけど、別に本物の兵士になりたいなんて言ったことはないはずだよ。あいつは何を考えて、そんな突拍子もないことを…」
こういう展開は、レイフの行動パターンならば大体把握しているつもりのクリスターにとっても、想定の範囲外であったので、事実として飲み込むにも苦労を要した。
「それって、一体いつの話なんだい…あいつが入隊したのは…?」
クリスターははたとなって、ヘレナに問い返した。
「ビョルンの家を飛び出すようにして、訓練基地に向かったのが、今月の頭だったから、もう3週間前の話よ」
クリスターは眉をひそめ、鋭く刺すような目でヘレナを見つめた。
「すると、あいつが入隊なんて馬鹿げたことを言い出して、更にそれを実行に移してしまっても、母さんは今に至るまで、この僕に何の連絡もくれなかったということかい?」
「そうよ、クリスター…レイフが入隊する前にあなたにも知らせるべきだったんでしょうけれど、実際、あの子の行動はとても早くて、ビョルンからの電話を受け取った私が、慌てて、ニューヘイブンまで行って、ちゃんとした話ができたのも一晩だけのことだった。いつの間にか、荷物もまとめていたのね…これ以上私達に引き止められないよう、翌日には忽然と、ビョルンの家から姿を消してしまったわ。それから、訓練基地に移動するまでどこでどうしていたのか…1週間後、私のもとに今から行ってくるって短い電話があったの」
「そ、それなら…あいつが飛び出した後すぐにでも、僕に知らせてくれたらよかったじゃないか! どうして3週間も、僕を蚊帳の外に置いておいたんだよ。こんな大事なことを僕にだけ黙っておくなんて、ひどいじゃないかっ」
「もっと早くに知らせていたら、あなたはどうしたの、クリスター?」
「それは…もちろん、あいつを止めようとしたよ…母さんの話すような状況では、僕が後から駆けつけても間に合わなかったかもしれないけど…どうして、こんな馬鹿をしたのか、せめて直接会ってちゃんと話を聞けたら、納得できたかもしれない…」
言いながら、クリスターはレイフの取った行動の異常さに改めて気付いて、唖然となった。
(あいつは、僕と直接会って話すことを避けようとしたんだ…それだけ、軍に入るというあいつの決意は固かったということか。あいつが、僕に何の相談もなく、自分の意思だけで、こんな重大な決定をしたことなんて、これまでなかったのに…一体どうしてだ、何のために軍隊なんて…)
レイフと別れて暮らし始めて、四ヶ月、その間彼の心情にどんな変化があったのか、どうして軍隊に入るという決断に行きついたのか、クリスターは必死になって考えた。
(父さんを死に追い込んだことで、あいつは僕以上の罪悪感に駆られていたのだろうか…ボストンを離れても尚、忘れられなかったのか? どこか遠い場所に行きたいと漏らしていたというし、罪の記憶から逃れるため、全く未知の世界でやり直したかったということなのか…? 軍隊なんて過酷な道を選択したのは、贖罪のつもりかも…?)
クリスターはそこまで考えて、どうにも腑に落ちないものを覚えて、頭を振った。
(違う、そうじゃない…罪の償いという心情は少しくらいあったかもしれないけど、ただ現状から逃げ出すためだけに、母さん達を更に悩ませるような、こんな強引なやり方をあいつはしない…それに、僕に事前に全く何も知らせなかったのも、やっぱり変だ。逆に、僕にとめて欲しくてさり気なく知らせるというのなら、まだ分かるけど…いや、あいつは僕がとめようがとめまいが、とにかく軍隊には入るつもりだったんだ。後から知らされた僕が、あいつの行動をどう受け止めるか、考えた上でのことだったのだろうか…それとも…?)
その時、何の脈絡もなく、ふいに、クリスターの脳裏に今朝見た夢の残像がちらついた。
どこまでも続く荒野の只中に、レイフと2人きり、しっかりと手を取り合って立っていた、11才のあの夜…。
(まさか…まさか、あいつ―)
何かしらはっとなりながら、クリスターは顔を上げ、じっと押し黙って彼が物思いから覚めるのを待っていたヘレナに問い返した。
「母さん…このことを僕にすぐ伝えるべきかどうか迷ったというのは、まさか、あいつを追いかけて、この僕まで軍隊に入ってしまうんじゃないかと疑ったからかい…?」
ヘレナの美しい瞳が不安そうに揺れ動いたのに、クリスターは思わず息を飲んだ後、ほとんどむきになって、否定した。
「どうかしているよ…母さん、この僕が兵士になるだって? そんなことはあり得ない。あいつと違って、僕は別に進路に迷っているわけじゃない…今はれっきとしたハーバード大の学生で、それなりに将来の計画も考えている。別に伯父さんみたいな平和主義者ではないけれど、戦争なんて無意味なことに自分の人生を費やしたいとは少しも思わないよ」
平静さを装ってはいても、自分を案じているだろう母の手前言わざるを得なかった、その台詞は、まるで他人が語っているように白々しく響いた。
(しっかりしろ、僕は一体何を考えているんだ…冗談じゃない、いくら何でも軍隊は、僕の将来の選択肢の中には入ってないぞ)
一瞬頭を過ぎった非現実的な考えをクリスターは笑い飛ばしてみたが、この所高揚することなど絶えてなかった胸の中で、彼の心臓の鼓動はいきなり激しくなっている。
(ああ、そうか、あいつめ…僕に相談することもなく自分だけ先に行動して…後は僕に任せるから好きにしろと丸投げしたな…! こんなあり得ない選択を、よくもこの僕に迫れたな、馬鹿野郎…!)
ようやくレイフの考えが読めたクリスターは、何だか罠にかけられたような気分で、頭の中で激しく弟をののしっていた。
その時、ヘレナのひっそりと落ち着いた声が聞こえた。
「ここはとてもいい店ね。サンドラとはよく来るの?」
「あ…それほど頻繁にって訳じゃないけど、彼女が気に入っているみたいだから…」
夢から覚めたような気分でクリスターが顔を上げると、ヘレナは窓の方に顔を向けて、通りを行きかう人々を眺めている。その視線を追うように、クリスターもしばし、窓の外の見慣れた街の風景を見つめた。
逃げるように実家を飛び出し、ラースが突然死んで、これまで当たり前のように暮らしていた日々は二度と返らなくても、気がつけば、また別の暮らしが始まり、クリスターもその日々の繰り返しに次第に慣れてきていた。
(朝起きて、大学に通い、家に帰れば優しい恋人と過ごす…サンドラとこのままずっと一緒にいるかは分からないけど、この先生きていく何年、何十年、僕が見るだろう世界は、これとそう大差ないだろう…あいつは一体その頃、僕の知らない、どんな世界を見ているのか…)
ふいに、クリスターの胸に激しい焦燥感が沸き起こり、彼をいても立ってもいられぬ気分にさせた。
「ねえ、クリスター…」
「うん?」
「私は、19才であなた達を妊娠した時、MITに在籍中の学生で、研究者だった。ラースと付き合って1年くらい経っていたけれど、結婚なんて、まだとても考えられなかった。だからね、正直に言うと、今子供を産んで育てることなんて無理だから、可哀想だけど諦めようと思ったの…」
クリスターはヘレナがいきなりこんな話を始めたのに少し戸惑ったが、途中で口を挟むことはせず、大人しく耳を傾けることにした。
「私はほとんど決意して、ラースに打ち明けたわ。そうしたら、あの人、血相を変えて、頼むから子供を殺すのはやめてくれ、もし、どうしても私が育てられないのなら、自分が1人でも育てるから産んで欲しいと泣きながら訴えたのよ…私の都合なんかお構いなしに、本当に1人で育てられる見込みもないくせに、何て純粋で身勝手、何て優しくて、馬鹿な男なんだろうと呆れたわ。好きで打ち込んでいた研究を途中で投げ出して、こんな子供のような人の妻になるなんて、私の人生設計にはありえない。よほど別れてやろうかと思ったくらいよ」
「そ、そうなんだ…」
「でもね、結局、私はそれまで積み上げてきたものを全て放棄して、あの人のために子供を産んで、育てることにしたわ。ラースは、私の知らない所で勝手にお腹の子供に名前をつけて、『小さなクリス』なんて呼んでいたのよ…それを聞いた途端、ああ、もう仕方がない、こうなったら覚悟を決めて、この人の子供の母親になってやろうと思ったの」
「小さな…クリス…?」
「そう、あなたの名前ね…初めは、2人いるなんて分からなかったから…そのうち検査で双子の男の子だと分かってから、クリスターとレイフという、ちゃんとした名前を決めたのよ」
クリスターは初めて聞く、自分達の誕生にまつわる、この話にちょっとした衝撃を受けて、黙り込んだ。
ラースは、生まれる前から、彼をクリスと呼んで、愛してくれていた。その誕生を誰よりも待ち望んでいた。
永遠に終わってしまった、父親との関係をふいに思い出して、クリスターは何とも切なく物悲しく、同時に胸の中が温かくなるような複雑な気分になった。
「ラースとあなた達のおかげで、私の人生は、予定とは全く異なったものになったわ。時々、ラースと結婚しなかったら私はどうしていたのかと想像することはあっても、別な人生を送ったはずの自分を羨ましいとは思わないくらい、あなた達と過ごした日々は豊かで、幸せだった…あの人がいなくなって独りになった今も、そのことにはとても感謝している。だから、あの時の選択を、私は今でも後悔などしていない」
力強く言い切ったヘレナは、一瞬過ぎ去ったものを懐かしむような遠い目になった後、改めて、目の前で息を詰めて彼女の言葉を聞いているクリスターを見つめた。
「ラースは、あなた達にとって完璧な父親ではなかったかもしれない。でも、あの人があんなにも熱望したから、あなた達は生まれてこられたのだし、そして、ラースがあなた達を子供として心から愛していたことは確かよ。でも、あなた達は私やラースの子供ではあっても、今では、それぞれ独立した大人…あなた達の選ぶ幸せが、私達が望んだそれとは違っていたとしても、仕方がないことなのでしょうね」
「母さん…母さん、僕は…」
クリスターはつい感極まって口を開いたが、胸が詰まって、うまく言葉にならなかった。
(僕は、あなたや父さんに対して、償いきれない罪を犯したのに…父さんがあんなことになって、あなたは1人ぼっちになってしまったのに、それでも…僕を許してくれるんですか…?)
感情を静めようと肩で息をついているクリスターを、ヘレナは愛しげに目を細めて見守り、それから、ふいに思い出したように腕時計を確かめた。
「クリスター、私はそろそろ行くわ…」
「あ…そうだね、母さんは仕事だったね」
クリスターは夢から覚めたように瞬きし、独り身になっても、自分の予想以上に現実的で逞しい母を羨ましげに見つめた。
「レイフのことは、あなたに伝えるのがこんなに遅くなってしまって、ごめんなさいね…」
「ん…それは、もう、いいよ…でも、もし、あいつから連絡が入ったら、今度はすぐに知らせて欲しい。ああ、あの馬鹿は今頃、新兵の訓練を受けている最中か…いつくらいに、それは終わりそうなんだい?」
「歩兵の基礎訓練期間は14週間だそうよ…今のところ、あの子から連絡はないけれど、そのうち電話くらいあるでしょう。正式入隊後の配属先については、本人の希望が優先されるらしいけれど、それもあの子に聞いてみなければ、分からないから…」
「待つしかない、か…」
クリスターは 頭の中でざっと計算しながら、一瞬考えこんだ後、溜息をついた。またしても、ちりちりと胸の奥を小さな火であぶられるような焦燥感を覚えた。
(あいつが訓練を終えて、どこの基地に配属が決まるのか、分かるのは早くても12週間後…一体陸軍の基地がどこにあるのかも、僕はよく知らないし、組織がどんなことになっているのかなんて、全く見当もつかない。そう言えば、大学にも、軍の将校を養成するコースならあったかもしれないけど…いや、それはそもそも将官を目指す場合で、あいつの選んだ道とは違う)
クリスターは苛立たしげに頭を振って、吐き捨てた。
「何が訓練だよ…名門高校を出て、大学にだって行こうと思えば行けるのに、わざわざ一兵卒になるために、汗と泥にまみれながら辛い訓練を受けるなんて、あいつの気が知れないよ」
半ば自分に言い聞かせるよう、そう呟いて、クリスターはぎゅっと膝の上で手を握り締めた。
「本当に、気が知れない…」
ヘレナはそんなクリスターに一瞬何か言いたげな素振りをしたが、結局何も言わずに、テーブルから立ち上がった。
クリスターも慌てて、席を立つ。
「それじゃ、また何か分かったら、連絡するわ」
「うん…母さん、仕事に打ち込むのもいいけど、あまり無理はしないでね」
「ええ。あなたも…元気でね、クリスター、愛しているわ。どこにいて、何をしていても、あなたとレイフは私の大切な子供達よ」
最後にヘレナと軽く抱擁を交わす際にそう囁かれた時は、また少しクリスターは涙ぐみそうになったが、人前で大の男が母親と別れを惜しみながら泣くのはちょっと痛いと思ったので、ぐっと堪えていた。
まだ少し名残惜しい気もしたが、クリスターにはレイフの突然の入隊についてじっくり考えてみたい気持ちもあり、きっとまた近いうちにヘレナとは会って話す機会くらいあるだろうと思って、そのままあっさりと彼女を見送った。
(ありがとう、母さん…僕もあなたを愛しているよ。これから先、どこで、何をして生きていようとも…僕の見る世界が、あなたの見ている世界とどれほどかけ離れてしまったものになっていたとしても…)
その時、ふいに、自分の頭を占めていた考えがどんなものであるのか気付いたクリスターは、愕然となった。
(寒くなんかないし、何があっても平気だよ…もしも、おまえがオレの傍にいてくれるなら…)
見知らぬ空の下、茫漠と広がる見知らぬ世界―今朝見た夢ともどこか似通った遠い場所から、クリスターの半身は彼に向かって、そう呼びかけてくる。クリスターが何もかも振り捨てて、追いかけてくるのを、1人でじっと待っている。
(ああ、もしかしたら、僕はこのまま…二度と母さんには会えないのかもしれない…)
そんな予感を覚えたクリスターは、ヘレナを引きとめようとするかのごとく手を上げかけた。しかし、その時には既に、一度開いた店の扉は閉じられ、彼女はクリスターの前から立ち去っていた。
そうして、実際、この朝の束の間の再会が、クリスターが母ヘレナと会って言葉をかわした、最後となったのだ。