「レイフ!」
 クリスターが血相を変えてバスの中から駆け降りると、駐車場に並んで止まっていた別の長距離バスのドアから、顔を真っ赤にしたレイフが飛び出してきた。
「おにいちゃんっ」
 レイフは両目から涙を迸らせながら、クリスターの広げた腕の中にまっすぐ飛び込んでくる。
「クリスター、本当にクリスターだ…! 会いたかったよぉっ! うわぁぁんっ!!」
「おまえ、僕に会うために家を逃げ出してきたのかい? 1人でバスに乗って? それにしても、よく…こんな所で、僕を見つけられたね…」
 わんわんと泣きだす弟の高ぶりが伝染したのか、クリスターもまた声を詰まらせ、やっとの思いでそう囁いた。
 バスの窓からは、他の乗客達が何事かと怪しみながら、抱き合って泣いている双子の少年達を見下ろしている。
 けれど、別にクリスターは、彼らの好奇の視線など平気だった。それどころか、もう何も怖くない、これまで感じていた無力感は嘘のように消え、まるで自分が倍に大きく強くでもなったかのような自信を覚えていた。
 双子兄弟が11才の冬。
 両親の大喧嘩の巻き添えにあって、離れ離れで暮らすことを余儀なくされた2人が、奇跡のような再会を果たした夜のことだ。
 


「これから、どうしようか…?」
「そうだね…家に戻ったら、また引き離されるかもしれないし…」
「それじゃあ、2人で一緒にどこかに逃げようよ。オレ、クリスターと二度と別れるのは嫌だ」
「それなら、朝までここで粘ろうか。明るくなってからの方が、どこを目指すにしろ、安全だからね」
 二度とはぐれまいとするかのように手を握り合う、2人の気持ちは固まっていた。しかし、11才の子供達に自由にさせてもらえるほど、世間の目は甘くはない。
 レストエリアのカフェテリアで、今後についての相談をしばらくしていた2人だったが、結局、夜も遅い時間、子供達だけでいることを店員に不審に思われ、声をかけられた途端、慌てて、その場から逃げだした。
 家出少年だとばれて親に連絡されたら元の木阿弥だ。大人達の手の届かない所に逃げるしかなかった。
 レイフと2人、追いかけてくる店員や警備員を振り切って、ドライブインのカフェテリアを飛び出したクリスターは、人のいる場所は避けて、駐車場を突っ切り、その向こうに広がる草地に飛び降りた。
(どこへ行こう…)
 明るいドライブインやハイウェイを外れると、そこはもう人の気配もない漠々たる平原が広がっている。
 どこまで続いているのか、その先に何があるのかもしれない荒野を前に、クリスターが途方に暮れて立ちつくしていると、すぐ後ろに、駐車場の柵を軽々と飛び越えたレイフが着地した。
「何してんだよ、クリスター、行こうよ」
 何が潜んでいるとも知れない夜闇を前に躊躇しているクリスターの背中を、レイフがどんと押した。
「う、うん」
 行くってどこにとは、クリスターは問い返さなかった。代わりにレイフの手を取り、まるで自分にはちゃんと行き先が分かっているのだというかのように、しっかりとした足取りで歩きだした。
 舗装もされていない、冬枯れた草が足元でまつわりつく地面を歩くのは、クリスターとレイフが年の割にしっかりした体をしているとは言っても、なかなか難儀なことだった。
 幸い彼らは、とても夜目が利いて、ハイウェイからどんどん遠ざかっても、よく晴れた冬の空に輝いている真っ白な月の光があれば、視界に困ることなかった。
 一番困ったのは、寒さだ。
 はぁはぁと、クリスターの口から漏れる息は白い。北東部の冬は寒く、夜ともなれば、その冷え込みは骨身にこたえるほど厳しい。
 ふと、去年だったか、とても気温が下がった夜、自宅のカギをなくしてしまった老婦人が家の前で凍死したというニュースを思い出した。
 クリスターは思わず、冷たくかじかんだ指先を唇に持ってきて、はあっと息を吐きかけた。
「ねえ、レイフ、寒くないかい?」
 傍らを歩く弟を、クリスターは心配顔で振り返る。すると、何の迷いもためらいもない、まっすぐな答えが返ってきた。
「ううん、寒くなんかないし、何があってもへっちゃらだよ。だって、おにいちゃんが一緒にいてくれるもん」
 クリスターは、胸の中が火のついたように熱くなり、そこから凍えた体全体に温かさが伝わっていくように感じた。
(おまえが一緒だから、僕も大丈夫、きっと強くなってみせるよ)
 そうは言うものの、レイフに風邪などひかせたくない。
 クリスターは家を飛び出す際にリュックサックに詰めてきた、よくピクニックに出かける時に使うブランケットを引っ張り出した。
「クリスターは用意がいいねぇ」
 心底感心したように、レイフは目を丸くし、それから、クリスターと2人でブランケットの端と端を掴んで広げ、一緒に頭からかぶった。
「おにいちゃん、おなかすいた…」
 レイフは、さっきのカフェテリアで買った軽食では食べ足りなかったらしい。
 クリスターは再びリュックの中を探して、見つけた一枚のチョコレートをレイフに手渡した。
 レイフは嬉々として包装を破り、そのままかじりつこうとしたが、ふと気がついたかのように、にこにこ笑って見守っているクリスターに問いかけた。
「おまえは?」
「僕は別にいいんだよ」
 すると、レイフは顔をしかめて、チョコレートを半分に割り、その片方を無言でクリスターの手に押し付けてきた。
「オレ達は、何でも半分こだろっ」
「う、うん」
 レイフと分け合ったチョコレートの効用か、先程よりも歩くのが楽になった気がした。レイフも疲れたと愚痴をこぼすことなく、クリスターにしっかりついてくる。
(たぶん、こいつは今の状況が分かってないんだろうな…だから、こんなにあっけらかんとしていられるんだ。それとも、僕が何とかしてくれると信じてきっているのか。でも、レイフ、僕だって、お前と同じ年の子供なんだよ)
 クリスターは頼もしい兄の顔を崩さず、弟の手を励ますように握り締めていた。しかし、その頭の中は、再び垂れこめてきた不安と迷いで一杯だった。
(これから、どこに行けばいいんだろう。どうすれば、この子を守ってあげられるだろう。大事なこの手を離さずに、ずっと一緒にいられるだろう…)
 クリスターが傍にいるだけで安心し、この冒険行をむしろ楽しんでいる感さえあるレイフのような無邪気な子供には、クリスターはなりきれない。
 しかし、どれほど大人びていようとも、クリスターはまだ11才の子供でしかなく、家に戻れば大人達の意向に否応なく従わされてしまう無力さを自覚していた。
(行くあてなんか、僕達にはない…お金だって、そんなには持ってないし、子供達だけでどこかに逃げるなんて、現実的に考えて無理だよ。でも、この子と離れて暮らすなんて、絶対に嫌、嫌だ…!)
 思わず歯を食いしばり、顔を俯けてこみ上げてくる涙を必死でこらえていると、レイフがいきなり、あっと歓声にも似た声をあげた。
「何?」
「流れ星だよ、クリスターは見なかったのかよっ」
 興奮したレイフはクリスターの手からするりと抜け出し、もっと見晴らしのいい場所を求めて、緩やかな丘の上を目指して、駈け出した。
 クリスターも慌てて、その後を追った。こんな所でレイフを見失うなど、想像するだけでぞっとする。
「流れ星なんて、そうそう何度も見られないよ…流星群とかなら、話は別だけどさ―」
 さすがにちょっと歩き疲れていたところを走らされて、思わずクリスターは文句を言うが、レイフは流れ星の発見がよほど嬉しかったのか、クリスターを振り返り、嬉々として叫んだ。
「さっきさ、オレ、ずっとクリスターと一緒にいられますようにって念じたんだ。だから、オレ達、もう二度と離れ離れになんかなるものか、そうだろ?」
 その明るい表情を見ていると、クリスターは何だか、一瞬前まで胸を占めていた、もやもやとした悲観的な考えがすっと消えていくような気がした。
 何を無駄に思い悩む必要があるのだろう。レイフが今、ここにいる。2人の心は、つながっている。これ以上の幸福は、ないというのに―。
「クリスターもこっちに上ってこいよ。すごくいい気分になれるからっ」
 クリスターは自然な笑みが口元に浮かぶのを覚えながら、丘を登り切り、レイフの隣に立った。レイフが目を輝かせながら眺めているものを、クリスターもまた見た。
(ああ…!)
 クリスターとレイフの眼下に広がっていたのは、人も車も、動く小さな生き物とて一つも見当たらない、この先どこまでも無限に続くかのような、果てしなく広い世界だった。
 黒々とした裸の木々ががぽつんぽつんと影を落とす、凍てついた平原。星々の散らばる濃紺の夜空が遠く地平と接する境は、そこから仄かな白光がさしているかのように薄明るい。
 それはとても神秘的でよそよそしく、彼らがいつも暮らしている街の日常風景とはあまりにも異なっていて、まるで2人だけでいきなり別世界に迷い込んだような気さえした。
 実際には、クリスターとレイフは、今まで知らなかった世界の一端を垣間見たにすぎない。想像を超えた世界の広大さを前に、しかし、クリスターはもう呑まれることはなかった。
 今この瞬間も、寄り添いあうようにして立っている、レイフとつなぎ合った手―そこかから伝わる温もりがクリスターを支え、たとえ未知の世界に飛び込んで行ったとしても恐れることはないという、勇気と自信を与えてくれる。
 それどころか―。
(不思議だな、どうしてだろう…今、僕はとても幸せな気分だ。ここには誰もいない、父さんも母さんも、友達も遠くに置いてきてしまった…そう、本当に僕とレイフの2人きりなんだ)
 レイフがぶるっと身震いしたが、それは寒いからではなく、気持ちの高揚がそうさせたのだとクリスターには分かった。
「どこまで行けるかなぁ」
 どこかうっとりとレイフが呟くのに、クリスターは、今は確信を込めて、答えた。
「どこまででもだよ、レイフ…僕達が一緒にいられる場所が見つかるまで、あの地平の向こうのそのまた先へ…」
「うん、そうだね」
 微塵も疑わない声が、クリスターの心が木霊したかのように、すぐに返ってくる。
 たとえ世界がどんなに厳しくても、共にいられれば満たされる自分達が、それに負けることはない。そんな圧倒的な幸福感を、異様なまでに研ぎ澄まされた心で、2人は実感していた。
 半分に分けあった体と魂が、この時、ひとつにつながっていた。
 慣れ親しんだ日常から遠く離れた、隔絶された世界の中心に立ち尽くしながら―。


エピローグ
世界の果てまでも



「降下1分前、スタンバイ!」
 降下地点への最終アプローチに入ったC130輸送機内は、胸の中でどくどくと鳴り響いている心臓の鼓動など打ち消すような物凄い轟音に満たされている。
 少し前までは、緊張を紛らわせるため、近くにいた訓練生同士、時折大声を張り上げて言葉を交わしあっていたが、降下の最終段階に入った今はもうその余裕もなく、皆、顔を引き締め立ちつくしている。
 空挺学校での2週間に及ぶ過酷な地上訓練を耐え抜いて、ここまで残った猛者達でも、初めての実地の降下を前にやはり不安や恐怖を覚えるものらしい。
 だが、ここまで来て、今更後戻りはできない。空挺学校を落第したなどと、軍歴に一生消えない汚点を残すのは、誰しも絶対避けたいところだ。
 それは、じっと押し黙って、心の中で自分に気合を入れ続けているレイフにとっても、同じだった。
(そうさ、高校出たてのガキが訳も分からず、最精鋭の82空挺なんか希望してさ…オレみたいな身の程知らずはすぐに脱落するだろうって教官軍曹に散々罵られ、しごきぬかれて、それでも血反吐吐くような思いでがんばって、ここまで来たんだ。ここで失敗したら、悔しくて、オレ、きっと死んじまう。おお、飛んでやる…何がなんでも、飛んでやるからな…!)
 上げられたドアから吹き込んでくる風の圧力を顔に感じながら、レイフが歯を食い縛って尻込みしそうになるのを堪え、ひたすらその瞬間を待っていると、視界の片隅で赤いライトが緑に変わったのが分かった。
 瞬間、鬼と恐れられるジャンプ・マスターの雷のような声が轟く。
「グリーン・ライト、GO!」
 頭の中で、何かのスイッチが入ったような気がした。
 ジャンプ・マスターが、ドアの傍で待機していたレイフの尻を荒っぽく叩く。
 すると、地上訓練の中で散々叩き込まれたように体は素早く反応し、気がつけば、レイフは高度400メートルで飛行する輸送機の機外に飛び出していた。
 たちまち襲ってくる想像を超えた気流に揉みくちゃにされながらも、レイフは体勢を整え、マニュアル通り、跳躍後の4秒を呟いた。
「ワンサウザンド、トゥーサウザンド、スリーサウザンド、フォーサウザンド」
 すると、背中のパラシュートが開き、がくんという衝撃と共にレイフの頭上で大きく開いた。
(ああ…!)
 それまで耳を聾するほど強烈だった気流が嘘のようにやみ、白いパラシュートだけがパタパタと軽い音をたてている。
 そうして周囲を確かめるレイフの目に映ったものは、雲ひとつなく晴れ渡った空の青、遥か彼方にまで広がる地平線、300メートルの上空から見るとそこにある何もかもがちっぽけに見える地面だった。
 それは生まれて初めてレイフが見る光景。彼は、未知の世界をまたひとつ自分のものにしたのだ。
(本当に、オレ、こんな遠い場所まで来ちまったんだなぁ…オレにとってずっと当たり前だった日常は、なんてこれとは違うんだろう)
 1分間の滑空を鳥になったような自由な気分で楽しんだ後、レイフは訓練でやった通りにうまく着地した。
 柔道で投げられた時のような着地の衝撃すら心地よく、レイフはしばし地面に仰向きに横たわったまま、真っ青な空とそこに次々と花のように開いていく他の訓練生達の白いパラシュートに見とれていた。
 その晴れ晴れとした顔に、ふっと微かな翳りが差した。
「オレは、こうやって着実に先に進んでいるよ…おまえは一体今どこにいるんだ? ぐずくずしないで、早く追いかけてこいよ」
 辛い訓練を耐え、がむしゃらに突き進んで、1つずつ目標を達成してきた四ヶ月は、レイフにとって余計なことを考える暇もないほど、ある意味充実したものだったが、時折ふっと我に返る、こんな瞬間には、後に残してきた我が身の半分に思いを馳せずにはいられない。
(なあ、まさか、このままはオレをずっと独りにさせておく気じゃないよな? 本当に、オレ、待ちくたびれてきたよ)
 恋しさが募って、レイフはつい、ずっと胸の奥に封じ込んでいた、その名前を呼ぼうとした。
「……」
 唇は開いたが、喉の奥で引っかかったように、その名前はどうしても出てこない。
 クリスター。
 呼びかけても求める人は傍にいない現実に、レイフはいつまで経っても慣れないようだ。口に出してしまえば、かろうじて内に押さえつけている衝動が弾けてしまいそうで、恐かった。
(いつか、オレ、本当に爆発しちまうかもなぁ)
 レイフは苦笑して、地面から起き上がると、パラシュートを畳んでバッグに詰め、集結地点目指して歩きだした。
 数日後、空挺学校を卒業したレイフは、晴れて82空挺部隊への正式な入隊を決めた。82空挺への配属は既に決まってはいたものの、条件として、この空挺学校卒業が定められており、もしも落第したなら、自動的にその資格を失うことになっていたのだ。
 こうして、レイフは意気揚々と赴任地であるフォート・ブラッグ陸軍基地へ向かった。



 フォート・ブラッグは、米国陸軍にとって、最も重要な基地の1つだ。
 陸軍の精鋭部隊や特殊部隊が、ここに駐屯している。
 陸軍の主戦力である第18空挺軍団傘下、第82空挺師団の兵員は約15000。有事の際には真っ先に投入される緊急展開部隊として、常に待機状態にある。
 直感と勢いだけで陸軍に飛び込んだレイフは、それらの細かい実情を後から徐々に学んでいった訳で、知らないってことは恐いことだなぁと自分の無謀な決断を苦笑混じりに振り返ることも今ではある。
 それでも、レイフは別に後悔はしていない。
 歩兵の基礎訓練に入ったばかりの頃は、一般常識とはかけ離れた軍隊流のやり方にショックを受け、身も心もボロ雑巾になったようなどん底気分で、夜は1人枕を悔し涙に濡らしていたものだが、他に行く場所はないという思いからか、高校時代の彼を知っている人間が見たら目を丸くするような努力と粘り強さを発揮して、難関の空挺学校も卒業し、本当に希望通り82空挺に入隊してしまった。
(基本的に、オレ、戦闘向きなのかもなぁ。確かに訓練は、初めの内はもうダメ死ぬって思うくらいに辛いけど、そのうち慣れて平気になるし…それに、まだまだオレはやれるって思うと今度は自分の限界を試したいとか変な欲が出てきたり…さすがに楽しいとまでは言えないけど、そんなに嫌いじゃないよ、この生活…まあ、まだ実戦はしてないわけだから、何とも言えないけどさぁ)
 取りあえず3年は兵士としてやり抜こうと思っているが、その間にどこかの紛争地帯に派遣されることも一回くらいあるかもしれない。軍に入るまではあまり意識していなかったが、よくよく考えてみれば、この国が、どこか他所の国との間に、実力行使に発展するようなもめ事を抱えていない時期などほとんどないのだ。
(まあ、いつか…そうだな、違う国に行きたいっていうのはオレの希望でもあったし、それが戦争になるのは、こういう仕事なんだから、仕方ないさ)
 実際、レイフがアメリカの外に出るのは想像していたよりも早く、フォート・ブラッグに来て四ヵ月後、それも戦争のためではなく、時々友好国の空挺部隊と行う合同訓練のためドイツに飛んだのが最初となった。
 その頃には、レイフもすっかり軍隊生活に溶け込んでいた。
 初めの頃暮らしていた兵舎を出、基地外の街に引っ越して1人暮らしを始めたのも、ドイツから帰った直後だ。薄給の新兵にとって、経済的には兵舎で暮らす方が助かるのだが、レイフは軍隊での人間関係をプライベートにまで持ち込むのは何となく避けたかった。
 レイフの所属する中隊にも近い年の同僚はいるし、兵舎のルーム・メイトとも、彼はうまくやっていた。それでも、高校時代の親友のトムのような、休みの日でも一緒に出かけて何でも相談しあえる程の深い友情を誰にも求めはしなかった。人恋しい性質のはずのレイフが、ここでは、独りでいることが多い。
(だってさ、他人との間に絆ができるってことは、しがらみもできちまうってことなんだ…今のオレは、そのことが恐いよ。オレ、心を許した相手には、うっかり言っちゃいけないことでも洗いざらいぶちまけてしまいそうだし…父さんを死に追い込んだような過ちは、もう繰り返したくないから…)
 そうは言うものの、やっぱりずっと独りは寂しいので、若いレイフを何かと気にかけてくれる年上の同僚と仕事帰りに食事をしに行ったり、基地の映画館へ一緒に出かけたりするくらいは、時々ある。
 実は、基地に務める女性達にもハンサムなレイフは密かに注目されていた。一部の女性兵士の間では「ミスター・フォート・ブラッグ」だの「可愛いお尻大賞」だのを知らぬ間に授与されていたくらいだが、こと異性に対しては、彼は致命的に鈍感であったため、特定の誰かとの個人的な付き合いに発展する余地はなかった。
 そんな訳で、任務を離れるとたちまち独りぼっちになってしまうレイフは、いつの頃からか、兵舎や詰め所の入っているビルの屋上に上がって、遠くまで広がる基地の占有地をぼんやりと眺めながら物思いにふけることが多くなっていた。
(ああ、あいつ、今頃何をしてんのかな…?)
 今まで直接クリスターに連絡することは避けていたレイフだったが、さすがにこの頃では、孤独に耐えられず、何度か電話をかけてみようとしたことがある。
 クリスターが恋人と暮らしているアパートメントの電話番号は、ヘレナから教えてもらっていた。しかし、もしもクリスターと話して、一緒にやり直そうという自分の誘いをすげなく拒まれたらと思うと恐くて、とても電話などかけられなかった。
(そもそも軍に入ったのは、あいつの都合なんかはなから無視した、オレの独断だもんな…オレの意図を理解したら、あいつはきっと怒り狂ったはずだし、今の生活や約束された将来を全部投げ打って、オレの馬鹿げた思いつきに付き合うはずがない…まあ、普通は、そうなるよなぁ…)
 自分の人生を賭けた最後の賭けに、もしかしたら負けたのかもしれない。楽観的なレイフでも、そろそろ本気で疑念と不安を覚え始めていた。
 そんな、矢先のことだった。
 ある朝、仕事の前に軽く汗を流そうと、レイフが、この頃通い始めた基地内のジムに立ち寄ると、今まで言葉を交わしたことのないはずの女性スタッフに親しげに声をかけられた。
「ハイ、今朝は随分早いのね。今週は夜勤続きだって聞いたような気がするけれど?」
 別に今週のローテーションに夜勤はなく、大体知らない女性に話しかけられて面喰っていたレイフは、訳が分からず目をぱちくりさせた。
「ね、昨日の話、考えてくれた?」
「え…昨日って…??」
 レイフはかなり真剣に、昨日の出来事を振り返ってみたが、やはり何の話だか分からない。
「週末、一緒にどうかって、話したでしょう? 私、地元の人間だし、よかったら街を案内してあげるわよ?」 
 向こうはそう言うものの、昨日レイフは寝坊をしてジムには行けなかったし、もちろん、この女性とどこかで会って話をした覚えもないのだ。
 レイフが当惑した顔でいつまでも黙り込んでいると、彼女は彼の沈黙をNOの合図を受け取ったようだ。ちょっとむっとしたような、残念そうな顔になって、他の利用者がジムに入ってきたのを潮時とレイフから離れていった。
(何だったんだろ…あ、もしかして、あれって、オレをデートに誘うための作戦とかだったのかな…? オレは気がつかなくても、向こうはずっとオレを見てたのかも…?)
 その時は、そんなふうに勝手な解釈して納得し、別にそれ以上深く追求することはなく、忘れてしまった。
 しかし、同じの日の夜、レイフはまたしてもおかしな話を耳にした。しかも、今回は聞き流すわけにはいかなかった。
「なあ、レイフ…おまえんとこのA中隊が、ドイツでの合同訓練から帰ってきたのは、確か先週の頭だったよな?」
 帰宅する前レイフが大隊の食堂で夕食を取っていると、近くのテーブルにいた知り合いが話しかけてきた。
「ああ、正確には先々週の末だったけどな…それが、どうしたんだよ?」
「いや、A中隊が留守してるはずの頃、お前の姿を第三射撃場で目撃したんだよ…俺も訓練中だったし、傍まで行って声をかけることはできなかったんだけど、なんでこんな所におまえがいるんだろうって不思議に思ってさ…」
「?…おまえの見間違えじゃあないのかよ? いくらなんでもドイツとアメリカに同時に出現することなんか、オレにゃあ、できないぜ。この体が二つあるわけじゃなし…あっ…」
 自分の漏らした言葉に、レイフは胸がざわつくのを覚え、とっさに黙り込んだ。
(オレとよく似た男が、この基地にいた…?)
 その考えは、レイフの頭にかっと血を上らせた。
「な、なあ、おい、お前が見た、その男は、そんなにオレによく似てたのかよ? 見間違うほど?」
「さ、さあ…俺も輸送車で射撃場の前を通り過ぎた際に見ただけだから、そこまで確信はないよ。ただ、背格好や遠目で見た横顔の感じはそっくりだった」
「そいつは、どこの隊にいる奴だ?」
「あの時、第三射撃場にいたのは…B中隊の連中じゃなかったかな…? ううん、ちゃんとしたことが知りたけりゃ、自分で本部に行って、確認してこいよ」
「そ、そうだな…すまねぇ…」
 つい興奮したレイフは、我を忘れて、席から半分腰を浮かせ同僚に激しく詰め寄っていた。ちょっと迷惑そうな顔をされたので、レイフは慌てて、彼の肩を掴んでいた手を離した。
(まさか…ああ、まさか…)
 逸る気持ちを抑えかね、レイフは食堂を早々に後にすると、その足でまっすぐに大隊本部に出かけた。
 この時はまだ半信半疑だった。あまり期待しすぎると、裏切られた時の落ち込みが激しい。
 先程の同僚が見かけた男の正体を探るため、取りあえず、問題の日に第三射撃場を使用していた部隊を確認するつもりだったのだが、そこで、また更なる衝撃がレイフを待ち受けていた。
 本部に詰めていた夜勤の衛兵は、レイフの顔をちらっと見るなり、何やら意外そうに眉を寄せて、こう問いかけてきたのだ。
「おや、どうした、またここに戻ってくるなんて…探し相手は見つからなかったのか? それとも、兵舎の場所が分からなかったか?」
 レイフははっと息を呑んだ。不思議そうな相手の顔をまじまじと凝視し、言われたことの意味を考え込んだ。
「つまり、今日、オレは既に一度ここに来てたって言うのか…まさか…?」
 当番兵は、レイフがふざけているとでも思ったのか、あいまいな笑いを浮かべ、言った。
「何を言ってるんだ、ほんの3、40分前のことじゃないか…君のためにあれだけ丁寧に調べてやった俺の顔を忘れたとは言わさんぞ?」
 レイフは、落雷に打たれたように激しく身を戦慄かせ、その場に立ち尽くした。
(ここに来たんだ…オレが来る、わずか30分前に…オレにそっくりな男が…)
 中に心臓があるのではないかと思うくらい、どくどくと脈打つように頭が痛んで、レイフは苦しげに息をついた。
「それで…兵舎で、君の弟レイフは見つかったのか、見つからなかったのか、結局どっちなんだ?」
 たちまち膝から力が抜けそうになったレイフは、とっさに傍にあった壁に手をついて、体を支えた。
「お、おい、大丈夫か…?」
 当番兵はデスクを回って、ロビーに出てくると、心配そうにレイフに近付いてきた。
「違う…」
 レイフはゆっくりと顔を上げて、戸惑う当番兵を見やった。
「うん?」
 目を向けてはいても、レイフは当番兵の顔など見ていない。呆然自失のまま、うわ言のように呟いた。
「オレが、その弟の方だ…レイフ・オルソン…ここに来たのはオレの兄貴なんだ。そう、あいつの名前は―」
 レイフの目からぼたぼたと涙が溢れ出した。慌てて両手で目元をぬぐうと、レイフは涙をごまかすため、わざと怒ったような口調で、いささか唖然となっている相手を問い詰めた。
「あいつに、オレの居場所を教えたって…?」
「あ、ああ、そうだ…82空挺のレイフ・オルソンというだけで、詳しい所属も何も彼は知らなかったが、あんまり熱心に頼むので、どこの兵舎にいるかまで調べてやったんだぞ」
「ちょっと待ってくれよ、オレ、ついこないだ、その兵舎を出ちまって、基地外に引っ越したばかりなんだ」
「ああ、そこまでは把握できなかったな…それじゃあ、今頃、君が兵舎にはいないことを知って、彼はがっかりして帰っているかも…」
 皆まで聞かず、レイフは本部を飛び出していた。
 一瞬、ここで先にクリスターの配属先や連絡が取れる電話番号を聞いておいた方がいいかという思いも頭をかすめたが、すぐそこに彼がいるという事実に気が急いて、とにかく彼を捕まえてたくて、走り出さずにはいられなかったのだ。
 レイフはまっすぐ、ついこの間まで暮らしていた兵舎に飛んで行った。
「あれ、レイフ…?」
 かつてのルーム・メイトは、ただならぬ様子でいきなり部屋を訪ねてきたレイフに、一瞬怯んだようだ。
「すまねぇ、ケント、驚かせて…実は、オレ、人を探してるんだ。もしかしたら、オレを探してここに来たんじゃないかって…」
 レイフがたどたどしく説明しようとすると、ケントは分かっているというような意味ありげな顔をして、頷いた。
「ああ…それって、おまえの兄貴のことだろ」
 またしても、がつんと頭を殴られたような衝撃だった。レイフは思わず言葉を失って、ケントをまじまじと凝視した。
「びっくりしたぜ…あんな兄貴がいるなんて、一緒に生活してた頃、おまえは俺に一言も話してくれなかったじゃないか。双子だって言われても、初めは俺、おまえがふざけてるんじゃないかって思ってさ。いや、よく見れば、雰囲気とか全然違ってたんだけど…とにかく、俺、もう焦りまくって、かなりまぬけなことを兄貴に話しちまった気がするよ」
「あいつ…それじゃ、あいつはやっぱりここに来たんだな…オレを探して…?」 
「ああ、そうみたいだな…て、おまえ、兄弟なのに、ちゃんと連絡してなかったのかよ…? 気の毒に、相当捜しまわっていたみたいだぜ…この基地、広いからなぁ…配属されたばかりの新兵の頃は、俺も、地理に慣れるまで、よく迷子になった…」
 我慢できなくなったレイフは、ケントの話を半ば途中で遮るよう、その肩を掴んで、詰め寄った。
「それで、あいつは今どこにいるんだっ?」
 レイフの剣幕に、ケントはちょっと鼻白んだようだ。
「それが、おまえはもうここにはいないって話したら、がっかりした顔で帰っちまったよ。せっかくだからコーヒーでも飲んで行かないかって、誘ったんだけどな」
「そんな…」
「ファイヤッテビル市のおまえの新しい住所と電話番号は教えてやったから、今夜中にでも連絡があるんじゃないかな。いや、随分急いでいた感じだから、あのまま基地外に出て、今頃おまえの自宅ってことも…」
 レイフは掴んでいたケントの肩を離して、そのまま素早く踵を返した。
「おい、おまえの兄貴の所属先と今どこに住んでるかも一応聞いておいたけど、このメモ、いらないのか?」
 レイフは回れ右をして引き返すと、ケントがひらひらさせていたメモをほとんどひったくるようにしてもらった。
「第505空挺歩兵連隊第一大隊…あれ…?」
「おんなじ大隊らしいな、おまえの兄貴…二週間前に空挺学校を卒業して、ここに赴任したんだと…俺達がドイツに合同訓練に行ってた頃だよな」
「そ、そうか…」
「最初から兄貴とそういう約束をしてたんじゃないのかよ、一緒に空挺隊員を目指そうとか? それにしても、兄弟そろって難関を突破し82空挺に入れたなんて、大したものさ…おい、何涙ぐんでんだよ、レイフ…」
「ごめん…情けないとこ見せちまって。でも、オレ…本当に、あいつがここに来てくれたなんて、信じられなくって…いや、信じちゃいたけど、でも―」
 一瞬込み上げてくる圧倒的な感情を抑えきれなくなったレイフだが、ケントが不思議そうな目を自分に向けているのに、慌てて手で口を塞ぎ、顔を背けた。
「と、とにかく、教えてくれてありがとうよ、ケント」
「ああ、また今度兄貴を連れてこいよ。一緒に飯でも食いに行こうぜ」 
 レイフは、他の誰かに声をかけられたり捕まったりしないよう、涙の跡の残る顔を俯けて、一目散に引き返し、兵舎の外の暗い通りに飛び出した。
(どうする…あいつは、ケントから聞き出したオレの住所を頼りに、今頃まっすぐファイヤッテビルに向かっているかも―)
 レイフは込み上げてくる焦燥感に突き動かされ、車を止めてある駐車場に向って一端歩きかけた。そうすると、しかし、また別の可能性が頭をかすめ、立ち止ってしまう。
(いや、それとも、今夜はオレを追いかけるのをあきらめて、明日改めて出直すつもりだろうか)
 クリスターの痕跡がこんなに近くにあるのに、後少しというところまで迫っているのに、どうしても追いつけないもどかしさに、レイフは口惜しげに唇を噛みしめる。
(あいつはオレを捜し回ってる。オレは、そんなあいつを捕まえようと後から追いかけてる…ああ、オレ達はこのままずっと探し求める相手の背中を追いかけて、ぐるぐる、ぐるぐる…相手の姿が見えそうで見えない、本当にそこにいるかも分からないままさ迷い続け、永遠に出会うことができないんじゃないだろうか…?)
 そんな想像をつい思い巡らせて、レイフはぶるっと身を震わせた。
(考えてみりゃ、オレ達は今までずっと、こんなふうにお互いを求めて追いかけて、それなのに、肝心なところで相手の心に踏み込めずにすれ違ったり、誤解したまま諦めようとか身を引こうとか、無駄に回り道を重ねてきたよなぁ。オレ達の気持ちは、本当はいつだって一つだったのにさ)
 レイフは、後ろの兵舎から洩れてくる明かりによって地面に描かれた、黒く長い己の影を凝視した。
 相棒にはぐれたままの、その影も、心なしか寂しげだ。
(どこにいる…どこにいるんだよ、いつまでオレを独りにさせる気だ。オレ、もう待ちくたびれて、心細くて、死にそうだよ…ああ、どうすれば、おまえを捕まえられる?)
 その時だ。
 レイフは、後ろから何やら体がくいっと引っ張られるような奇妙な感じを覚え、訝しげに振り返った。
 そこには、レイフが今しがた出てきた兵舎がある。惜しくも、彼が着く少し前にクリスターは帰ってしまったのだと、ケントは言っていた。
 レイフは訳もなく胸の鼓動が早まるのを意識しながら頭を巡らせ、先程何かに引っ張られたように感じた方向を眺めやった。
 すると、兵舎のまた別の入口が視界に入ってきた。詰め所からの明かりが、ぼんやりと外に漏れている。
(あの奥に、屋上まで続く非常階段があるんだよな…兵舎暮らしの頃、1人になってぼんやりしたい時に、オレがよく上って行った)
 レイフは地上3階建ての建物の上部を、目を眇めるようにして、見上げた。
(あっ…)
 瞬間、目の奥であるイメージが弾け、軽いめまいを覚えたレイフは、思わず頭を押さえた。
(何だ、今の景色…見覚えがあるぞ。そうだ、この基地の風景だ…オレがよくあの兵舎の屋上から眺めていた…)
 レイフは再び兵舎の屋上辺りを、しばし呆然となって眺めた。
(まさか…)
 レイフは引き寄せられるようにふらふらと、兵舎の方に近づいて行った。その歩みは次第に速くなり、最後には、入口目指して、彼は全力で駈け出していた。
 体ごとぶつかるよう、レイフが扉を開くと、詰め所で当直にあたっていた兵士がぎょっとしたようにデスクから立ち上がり、こちらに近づいてきた。
「おい、何事だ…うっ…?」
 部屋の奥から出てきて、レイフの顔を明かりで確認した途端、その兵士の顔に軽い衝撃がうかんだ。
「えっ…おまえ、確か、ついさっき…」
 どうしてレイフが外から入ってきたのか、訳が分からないと言いたげな、キツネにつままれたような顔つきで、ちらっと兵舎の奥に続く階段の方を眺めやったかと思うと、再び恐ろしげな目つきでこちらを振り返る―兵士の態度に、レイフは自分の直感が正しいことを確信した。
「おい、あんた、見たんだな…?」
 凄みのある声で囁く、レイフの目はおそらく鬼のように吊り上っていたに違いない。
「えっ…?」
 顔を強張らせて言い淀む当番兵の方にぐいっと身を乗り出し、己の顔を指で示しながら、レイフは苛立たしげに問いただした。
「これと同じ顔をした男を見たんだろっ?! そいつは、どこに行ったんだ?」
 兵士はジーザスとでも口の中で呟いて、震える指で奥の階段を示し、上の方に差し上げた。
「やっぱ、屋上か!」
 レイフは歓声にも似た声をあげ、手を打ち鳴らすと、猛然と階段目指して突進した。
(そこにいる…あいつが、すぐそこにいる…ああ、今度こそオレは、あいつを捕まえてやる)
 もう長い間胸の奥に封じ込んでいた、その名前が、熱い感情のマグマと一緒に喉元にせり上がってくる。
 レイフは、ちらちらと点滅する蛍光灯に照らされた薄暗い階段を一気に駆け上がり、やがて突き当たりに見えてきた鉄の扉を叩きつけるように開け放つと、募り募った思いの全てを爆発させて絶叫した。
「クリスター!!」
 唇が、震えた。
「あ…っ…」
 しっとりとした湿気を含んだ風が屋上を吹き抜け、熱く火照ったレイフの頬を優しくなぶっていく。
 そして、レイフの視線の先―広大な基地とその周囲に広がる風景を眺める様子で佇んでいた、その美しい影が、ゆっくりとこちらを振り返った。 
 レイフはつまずいたように立ち止り、ぱちぱちと何度も瞬きをした。
(クリスター…?)
 まるで、今のレイフをそっくり写し取ったかのような姿の若い兵士がそこにいる。お馴染みの森林迷彩戦闘服にブーツ、短く刈られた紅い髪、過酷な訓練によって鍛え上げられ、日に焼けて、その顔つきも以前よりずっと精悍だ。
 レイフはしばしぽかんと口を開いたまま、言葉を失ったかのように、立ちつくしていた。
 もう一度会えたら言いたいこと聞きたいこと、あれこれたくさんあったはずなのに、全部忘れて、頭の中が空っぽになってしまった。
 呆然自失なのは、向こうも同じようだ。食い入るようにレイフを見つめたまま、微動だにしない。
(ケントや他の連中が、オレと見間違うのも無理ないや。何もかもがおかしいくらいにそっくりで、おまけに今じゃ、着ている軍服までお揃いときてやがる)
 一時は、このまま離れて暮らし続けたら、顔も体もお互いどんどん変わっていって、そのうち誰も自分達のことを双子とは思わなくなるほど似ても似つかなくなってしまうのではないか。そんな想像を、何とも言えない寂しい気分でしていたことが馬鹿馬鹿しくなるくらい、同じ試練を乗り越え四か月遅れでレイフに追いついたクリスターは逞しく強靭で、まさに彼の隣に並び立つ相棒と呼ぶにふさわしい。
(あの冷たくて取っつきにくそうなインテリのエリートの面影は、どこかにいっちまったなぁ…怪我してたことなんて、全然分からないくらいじゃないか。やっぱり、おまえはすげぇよ…その気になれば、どんな無理でも不可能でも、ちゃんと実現しちまう)
 レイフは、クリスターと無言で向き合っているうちに、自然と肩から力が抜け落ち、唇がほころんでくるのを感じた。
「随分遅かったじゃないか、兄さん…」
 ほとんど何も意識しないまま、レイフは、単純にそう口走っていた。
「ああ…すまない…」
 クリスターの応えもまた、まるで約束していた待ち合わせに少しばかり遅れたことを謝るかのように単純で、短い。
 しかし、交わしあう眼差しが、言葉で伝えられるより遥かに多くの想いを伝えあっていた。
 2人は、どちらからともなく歩み寄り、正面から向き合った。確かめるように上げた手をそっと合わせ、指を絡めあう。
 たちまち、まるで、これまで自分の中から抜け落ちていたものがぴたりとあるべき場所に収まったかのような、充足感と満足感が体中に漲っていった。
(ああ、この瞬間をずっと待ち焦がれていたよ。やっと取り戻せた、オレの半分…)
 いきなり、レイフはクリスターを引き寄せ、かき抱いた。その肩に顔を押し付けて懐かしい匂いをかぎ、彼がここにいるという実感を求めて、服がぐしゃぐしゃになってしまうのも構わずに、体中を荒っぽくまさぐった。
 いつの間にかクリスターの腕もレイフの背中に回り、二度と離しはしないというかのごとく、強い力で抱きしめてくる。
(これからはずっと一緒さ…愛してる…)
 求めあうがまま、2人は唇を重ねた。思う存分むさぼりあい、唇の合間から洩れる熱い吐息を交わし合った。
 夢にまで見たこの一瞬。互いの体に回した腕の中、レイフはクリスターのもので、クリスターはレイフのものだった。いや、これはもはや、目が覚めればはかなく消えてしまう夢ではない。これから先ずっと―そう、死が2人を分かつまで永遠に、この絆は続くだろう。
 長いキスと抱擁の後やっと身を離した2人は、どちらも少し息を弾ませながら目を見合わせ、困ったように笑い合った。
「オレ達ってば、最低…これって、やっぱ軍規違反? ばれたらきっと、双子のホモなんかいらんって、ここから蹴り出されるぜ」
 クリスターはちょっと考え込んだ後、軽く肩をすくめた。
「それで除隊になったら仕方ないね。また別の場所を探すだけさ」
「ん…」
 外見の印象は随分変わっても、これだけは以前と同じ、穏やかで自信に満ち溢れたクリスターの声に耳を傾けながら、レイフは、唯一無二の相棒が傍らにいるという圧倒的な幸福感と共に、捨ててきた過去に所属する、かつて愛した人達に対する惜別の想いを噛みしめていた。
(さよなら、懐かしい皆…オレ達は、この瞬間から2人一緒にまた新たな旅に出るよ。たぶん、もう二度と会えない人達もいるだろう。風の便りにオレ達の噂を聞いて、心配したり理解に苦しんだりするかもしれない。でも、どこにいて、どんな暮らしをしていても、きっとオレ達はオレ達なりの幸せを見つけているはずだから…)
 レイフはクリスターと共に屋上の周囲に張られた金網の前まで行って、すっかり夜の帳の下りた基地とそれを取りまく黒々とした広大な占有地、その向こうに見える街の灯、更に遠くに広がる漠々とした地平を眺めた。
(本当に、オレ達、随分遠くまで来ちまったなぁ…)
 都会のボストン育ちの目には、異国にも等しいほどに違って感じられる気候や風土。2人一緒に生きられる居場所を得るために、こんな場所まで来なくてはならなかった。
 そんな感傷に浸っていたレイフの脳裏に、その時、あるイメージが浮かびあがり、目の前の現実の風景と重なった。
(あっ…)
 凍てついた冬の夜。吐く息は白く、指先はかじかんで痛かった。頭上には死人のように青ざめた月。霜枯れた草を踏みしめながら、クリスターと2人、必死になって歩いていた。
(そうだ、あの一夜のことなら、今でもオレは鮮明に思い出せる。でも…)
 行くあてなど全くなかったにもかかわらず、共にいられる場所求めて、ひたすら前進し続けた。そうして目の当たりにした、あまりに広い世界―慣れ親しんだ日常とはかけ離れた場所で、自分達の小ささや無力さを思い知らされながらも、2人ならばどんな試練にも立ち向かえるという確信を胸に、しっかりと手をつなぎ合って佇んでいた、幼い自分達がいた。
(おかしいな、オレ達が一晩さ迷ったあの北東部の凍てついた平野と、この南部の早春でも随分温かくて緑も多い土地は全く似ても似つかないのに…ただ、今もあの時と同じ、クリスターが隣にいる。そうして、やっぱりオレ達は、これから先どこに行って、何者になるかも知れない身で…確かに、ガキの頃に比べれば強くもなったけれど、まだまだ世の中にはオレ達の知らないこと―きっと辛くて酷くて汚いことだって、たくさんある…)
 奇妙な既視感に襲われながら、レイフは、しばし黙り込んだ。これから先、自分達を待ち受ける見知らぬ世界、新たな出会い、乗り越えなければならない試練に思いを馳せて、ぶるっと武者震いをした。
「どこまで、行けるかなぁ…」
 胸にためていた息と一緒に吐き出したレイフの感慨に、傍らに立つクリスターが迷いのない声で答える。
「どこまでもだよ、レイフ…僕達が共にいても許される場所が見つかるまで―」
 レイフははっとなって、クリスターを振り返った。
 その決然とした横顔は、レイフと共に生きるために他の全てを投げ打ってここまで来た、クリスターの揺るがぬ心を感じさせた。いつの間にか、その手はしっかりとレイフの手を握り締めている。
 レイフは大きく頷いて、クリスターが眺めているのと同じ光景へと再び視線を戻した。
 2人の琥珀色をした瞳は、遥か遠くの別世界を見据えて、炎のように激しく輝いている。
「ああ、もちろんだとも…どこまでもオレ達2人、あの地平の向こうのそのまた先へ、そう…」
 レイフは、長い間縛られていた心がクリスターのそれと共に解放されていく喜びに満ち、晴れ晴れと笑いながら、言い放った。



 そう、世界の果てまでも―!
 
 
 
 



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