ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第8章 Paradise Lost

SCENE4

 くすくすくす…。

 そっくり同じ、ふたつの幼い声が、笑いあう。

 ベッドの中の温かい暗がりで、子供達はぴったりと寄り添いあい、じゃれあったり、お互いの肌の匂いをかいだりしながら、甘い幸福感に浸っている。

 ああ、これは夢、懐かしい幼年期の記憶だと、レイフはぼんやり思いながら、薄っすらと微笑む。

 とうに大人になったはずのクリスターとレイフ。だが、ここには、小さな子供のままの2人がいる。

(気持ちいいね)

 片割れが屈託なくそう囁くのに、レイフも素直に頷いて、彼の体に腕を回し、甘えた声で囁き返す。

(うん、ずっと、こうしていたいよね)

 クリスターの柔らかい唇が頬っぺたや瞼の上にちゅっと押し付けられるのに、レイフも応えるよう、無邪気なキスを返す。

 それは、ごく自然で、当たり前のことのようで、こうして一緒に抱き合って眠ることに、2人とも何の抵抗も疑問も抱きはしない。

(ああ、幸せだよ、クリスター…オレとおまえの2人きり…このままおまえと一緒にいられるなら、他には何もいらない…)

 レイフは幸せのあまりに泣きそうになりながら、呟いた。

 夢の中にも現実のレイフの意識は入っていて、だからこそ一層、このなくしてしまった楽園への郷愁にも似た愛慕が、胸を切なく締め付ける。

 そんなレイフの唇に、再びクリスターが触れてきた。いつの間にか、それは子供の唇ではなく、レイフがはっきりと覚えている熱っぽさでレイフを求め、吐息を吸い、舌を絡めてきた。

(クリスター…クリスター、もう二度とおまえを離したくない…オレを離さないでくれ)

 本当に涙がこみ上げてくるのを感じながら、レイフは己の上にのしかかる、しっかりとした重みのある体をかき抱き、夢中になって、その唇を貪った。

 ゆらゆらと生暖かい水の中を漂うような、奇妙な浮遊感。唯一確かに感じられるものは、ひしと抱き合っている、相手の体の感触だけだ。

 しかし―。

(おまえ達は、一体何をしているんだっ?!)

 完璧だと思われた、2人だけの閉ざされた楽園は、突然落ちた雷のような怒声によって、木っ端微塵に砕け散った。

(父さん、やめてっ)

 動揺した少年の声が叫ぶ。

(ちゃんと自分達のベッドで寝ろと言っただろう。おまえ達はもう小さな子供じゃないんだぞ)

 問答無用とばかりに、伸びてきた太い腕が頭から被っていた毛布を剥ぎ取り、怯えて縮こまるレイフの肩を掴んで、相棒の腕の中から引きずり出した。

「嫌だ!」

 自分のあげた叫び声に驚いて、レイフははっと目を見開いた。

「う…あ…?」

 傍に怒りに満ちた父親の大きな体が立っているのではないかと、恐れ戦きながら、きょろきょろと辺りを眺め回す。

 しかし、ベッドの傍には誰もおらず、ここは現在自分が暮らしている伯父の家だということに気付いて、やっと安堵したかのように、レイフは深々と溜息をついた。

「ったく、シュールな夢を見ちまったぜ…何これ、欲求不満?」

 のっそりとベッドから身を起こし、苦笑混じりに呟く。

(子供時代の懐かしい記憶に、もう一度クリスターとやりたいって願望が入り混じったような、訳の分からないエロい夢…それを最後は父さんの雷で叩き起こされるなんてさ、ああ、気分悪いぜ)

 レイフは抱え込んだ膝の上に顔を突っ伏して、軽い調子でぼやくが、その瞳は暗く沈んでいる。

(父さんの葬式から、もうじき半月か…そう、あいつとまた離れ離れになって半月だ。考えてみりゃ、オレが、あいつなしでこんなに長い期間を過ごすのは初めてだよな。いや、11才の時にいっぺん似たような状況にはなったっけ…父さんと母さんが大喧嘩の末に別居して、オレ達も引き離された…あの頃は、あいつが恋しくて毎日泣いてたっけ…父さんがオレを慰めようとフットボールの試合や色んな所に遊びに連れて行ってくれたけど、全然楽しくなかったし、何を食べてもおいしくなかった。あの頃みたいに、あいつなしでは息もできないほどの苦しさは、大人になった今はさすがにないけど、でも、やっぱり落ち着かなくて…何だか、すごく変な気持ちだよ)

 ふいに、レイフはひどく心もとない気分になって、不安そうに己の肩を抱いた。

「会いたい…クリス…」

 しかし、唇にその名前を上らせかけただけで、胸がきしむように激しく痛んで、また黙り込んでしまう。

(呼んだって、あいつはここに来ない…どうせ会えない相手の名前を呼んでみても、余計に辛くなるだけじゃないか)

 レイフはベッドに座り込んだまま、しばらくぼんやりした。

(あいつとオレは愛し合っている恋人同士だけれど…そんなオレ達を受け入れてくれる場所は、ここにはない)

 父親を無残に死なせてしまったという罪悪感は、依然として、レイフの胸に深く根付いている。

(もう二度とあんな思いはしたくない…オレ達のために他の誰かを不幸にするなんて、絶対に嫌だ)

 しかし、ならば、クリスターのことを忘れて1人で生きられるのかというと、その考えを頑なに拒否する別のレイフがいる。

(結局、オレはこの期に及んでも、あいつをあきらめられずにいる…全く、我ながら最低だよな…。ああ、他の誰も、父さんのように不幸にすることなく、2人が一緒に生きられる世界がもしどこかにあるなら…オレはきっとあいつをそこに連れて行くのに…)

 それは夢のように抽象的な話で、実際あてがある訳では全くなかったが、諦められず、レイフは取りとめもない考えをひたすら追い続けていた。

(だってオレは、他人を傷つけるのは辛いけれど、それ以上にあいつが不幸な生き方をするのも嫌なんだ。父さんの埋葬場所で最後に見た、あいつの悲しそうな顔…あいつはオレを気遣って、何も言わずに去って行ったけれど、どこで何をしていようが、あいつがオレなしで本当の幸せを感じることなんかあるものか。すげぇ自惚れみたいだけれど、オレがあいつ抜きの人生なんか考えられないのと同じように、あいつだって今頃、これから先どうすればいいのか分からず、途方に暮れているはずだよ…って、ああ、くそっ、何馬鹿なこと考えてんだ、オレ!)

 レイフはいきなりはたとなって、苛立たしげに頭をばりばりとかきむしった。

(これから先の計画は今でも真っ白なままなのは、オレだけだよ。あいつは違う、一応は、将来の青写真はちゃんとできてんだものな。素適な恋人もいて、来月からは前途洋々たるハーバード大の学生だ。このまま逆らわずにレールに乗って進んでいけば、確実にエリートとしての輝かしい人生が開ける。それを、オレと一緒にいる方があいつは幸せになれるなんて、せっかく決まった大学を自分から蹴って、今この体たらくのオレが無責任に言えるか? オレのためにあいつの人生を滅茶苦茶にしてしまうかもしれないのに…そうだよ、今は辛くても、結局あいつにふさわしい世界で能力を存分に発揮できる方が、うんと充実して幸せな人生なのかもしれない…)

 そこまで考えて、すっかり自信を喪失したレイフは、これ以上落ち込む前に、逃げるようにベッドから這い出した。

(ああ、駄目だ、これから先のことを考えると煮詰まるばかりでさ…緊急避難的に逃げ込んだ、この家だけれど、そろそろ三ヶ月近くになるのか…伯父さんは優しいし、何も言わずにオレを見守ってくれるから、ついつい甘えて、ごろごろしちまったけれど、いつまでも、このまま何もせずにこの家にい続けるわけにはいかない。当たり前のことだよ…オレだって、もう19才の大人の男なんだから、自分のことくらい自分でちゃんと面倒見るべきなんだ。進学しないならしないで、そろそろ真剣に働くことを考えないと…)

 テキサス大からのせっかくのオファーを蹴ったことについては、レイフは今でも後悔していない。あれほど愛していたフットボールなのに、そろそろシーズンが始まる季節になっても、何の興味も覚えなくなっていた。

(ほんと、関心がなくなると綺麗さっぱりデリートって、こういうところは、オレ、呆れるくらいあっさりしてんだよな…だから、フットボールで身を立てるとか、そういう方向には行かないだろう。フットボール以外でオレができることって、何があるだろう…? まあ、体力には自信があるし、格闘技も得意だけど、それを活かす仕事って…ううん…警察官とか消防士とか、そっち系…? 獣医にならなってもいいなんて思ったことはあるけど、それはいきなりハードル高いよな…そのために死ぬ気で勉強しようとまでは思わないし…ああ、駄目だ、どれもピンとこないや…)

 レイフが実家を飛び出してニューヘイブンの伯父の家に逃げ込んでから、様々な変転があったが、それでも三ヶ月が経過しつつあった。

 父の突然の死からしばらく何も手につかなかったレイフも、そろそろ真剣に今後のことを考え始めていた。しかし、具体的に、これという目標を定めることはできずにいる。

(ただひとつ、はっきりしているのは…オレは、母さんのいるあの家には戻らないし、伯父さんとこのまま一緒に暮らし続けることもないだろう…たとえ伯父さんが、このままいてもいいと言ってくれても、オレはこの街で仕事を見つけて、新しい生活を始めようとは思わない。そうだ、オレは…どこかずっと遠い場所に行きたいんだ。見たことも、想像したこともない、遠い別世界に…)

 レイフがパジャマ姿のまま、裸足でぺたぺたと階段を降りていくと、ビョルンがキッチンでバディに餌をやっていた。

「おはよう、レイフ」

 レイフが入ってくるなり、バディは尻尾を振りながら駆け寄ってくる。その頭を両手でがしがしと撫で回してやりながら、レイフもビョルンにお馴染みの朝の挨拶をする。

「うん、おはよう、伯父さん…あれ、今日はどこかに出かけるのかい?」

 綺麗にアイロンのかけられたシャツにジャケットを身につけたビョルンの姿に、今日は日曜日だし、もしかしてデートとかではないのだろうかとちょっと怪しみながら、レイフは素朴に問いかける。

「ああ、今日は、私のボランティア団体の会合があってね。まあ、もっぱら議題は、例の軍のリクルーターとのいざこざに関してなんだが…私が受けた被害も含めて、会議の後、リクルーター側の代表者のマイルズ軍曹とも話し合うことになっているんだ」

「なぁんだ、せっかくの休日なのに、色気のない話だよな。伯父さん、まだまだ全然いけてるのにさ…でもさ、あんな嫌がらせをしてきた軍と話し合うって、危なくないのかよ? オレも一緒に行こうか…?」

「ボディ・ガードの必要はないよ、レイフ。既に先方から謝罪の電話はあったし、そんな物騒な話し合いにはならないだろう…私のことより、君は、今日どうするんだい?」

「取り合えず、午前中は、犬の散歩のアルバイトかな…その後どうするかは決めてないけど…」

「近所の奥さん達の間では、君の評判は上々のようだね。他人慣れしない、扱いにくい犬でも、君の言うことならなぜか聞くって…」

「へへ、犬は好きだし、得意なの…その代わり、猫とは相性悪いんだけどね。ああ、やっぱり、本気で動物相手の仕事をするとなると、そんな好き嫌いは言ってられないだろうなぁ」

 レイフが、じゃれつくバディの首をぎゅっと抱きしめながら漏らすのに、ビョルンは首を傾げた。

「え?」

「うーん、そろそろ真剣に働かなきゃって、オレ今、悩んでんの…」

 レイフがこの頃折りにつけ考え込んでいる難しい命題を口にすると、ビョルンはちょっと真剣な面持ちになった。

「そうだね…」

 出かける前で時間はあまりないだろうに、ビョルンは、レイフがコーヒーを飲んでいるテーブルの前の席に座って、まっすぐ彼の目を見ながら、口を開いた。

「仕事を見つけるにせよ、勉強するにせよ、私はいつでも相談に乗るし、協力を惜しまないつもりだよ、レイフ…君のことはヘレナに頼まれているし、私自身、君を大切な家族だと思っている。子供のいない私にとっては、本当に息子のようなものだ。だから、気兼ねなどせず、この家にずっといてくれてもいいんだよ。妻と別れて以来、1人で暮らすには、ここは広すぎると思っていたんだ」

 ビョルンの愛情のこもった温かい申し出に、嬉しいながらも少し困りながら、レイフは答えた。

「ありがとう、伯父さん…でも、オレ、いずれはこの家を出るつもりだよ。オレも伯父さんのことは大好きだけれど、いつまでも甘えているわけにはいかないし…何となく、この土地には長く暮らせない…暮らしたくないんだ…」

 レイフの拒絶が意外であったのか、ビョルンは優しい顔を少し曇らせた。

「この街には馴染めそうにないかい…? やっぱり、住み慣れたボストンの近くの方がいいのかな…? 独りになったヘレナのことが心配なら、しばらく実家に戻って、これからのことはまた改めて考えてもいいと思うけれど…」

「べ、別にこの街が嫌いなわけじゃないよ。実家からも、そんなに遠くないし…むしろ近すぎるって言うか…」

 ビョルンに追求されて、レイフはしどろもどろになった。訝しげな伯父の視線を避けるよう、窓の向こうにある庭を眺めやりながら、溜息混じり、ぽつりと漏らす。

「どこか遠くに行きたいなぁ…」

 レイフはまたしても、誰も自分のことを知らず、構いもしない、遠い未知の世界に思いを馳せた。ずきんと、胸の奥の小さく痛んだ。

「…君には、誰にも打ち明けられない、深い悩みがあるようだね、レイフ」

 レイフが内心ぎくりとして顔を上げると、ビョルンはレンズの曇りが気になったのか、眼鏡を外して、ポケットから取り出したハンカチで拭きながら、さり気ない口調で言った。

「無理に問い詰めようとは思わないが、私は、君のことがいつも気がかりだよ、レイフ…君の抱えている悩みが、どこか遠くへ行きたいとまで君に言わせているのだとしたら、尚更ね。実家で何があったにせよ、レイフ、そんなふうに君の将来を決めるべきではない。辛い現実からただ逃げるだけでは何の解決にもならず、君はいつまでも進むべき道を見つけられずに、迷い続けるだけだよ」

「伯父さん…」

 レイフは、さすがにヘレナの兄だけある、ビョルンの鋭い指摘に目を瞬いた。

「この三ヶ月、ボストンを離れたこの場所で暮らすことで、君が立ち直る機会を得られたと願いながら、私は君を見守り続けた」

 ビョルンは眼鏡をいじる手をとめ、レイフを正面から見据えた。普段は温和なくせに、いざ本気になると、いい加減な言いぬけは許さない鋭さを帯びる、その琥珀色の瞳は、全く誰かにそっくりで、レイフの胸を深く刺し貫いた。

「レイフ、君をそこまで傷つけた…今も苦しめている、その悩みは、君を愛し助けたいと真摯に思っている、ヘレナや私では助けにならないようなものなのかい…?」

 その口調にこもった、真率な気遣いと愛情に一瞬すがりつきたい気持ちに駆られたレイフだが、やはり、そんな甘えを自分に許すことはできなかった。

「う…ごめん…伯父さんの気持ちはとてもありがたいけれど、オレを心底大切に思ってくれている人達だから、余計に打ち明けられない…巻き込みたくないって思うんだ」

 レイフはいかにも辛そうに顔を歪め、唇をぎゅっと引き結んだ。

(オレの大好きな人達を、父さんの二の舞にさせちまうのは絶対嫌だ…だから、この秘密は、決して打ち明けられない…)

 ビョルンは、それでもしばらくはレイフの気持ちが変るのを期待して待つ構えだったが、やがては彼がどうしても答える気持ちにはなれないことを悟ったようだ。残念そうに、椅子から立ち上がった。

「分かったよ、レイフ…この件については、君の気が変って、私に打ち明けてくれる日を待つことにしよう。君の進路については、そうだな…今朝は私にも充分な時間がないから、また家でゆっくりできる時に改めて話し合おう。働くか進学するか、何も急いで結論を下すことはない。本当は、君の抱えた問題を片付けてからでもいいと私は思うけれどね」

 ビョルンは表情を和らげてそう言いながら、愛用のシルバー・フレームの眼鏡をかけた。

「ああ、眼鏡なんかかけずに、素顔のままの方がいいのに…」

 何の脈絡もなくぽつんと呟いた後、レイフは慌ててごまかすよう、不思議そうな面持ちになるビョルンに言った。

「あのね、伯父さん…確かにオレは、遠くに行きたいって言ったけど…それは別に、逃げ場所を探している訳じゃないんだよ…本当に、ただ逃げてるわけじゃないから、それだけは信じて…!」

「分かっているよ、レイフ」

 熱心に訴えるレイフの頭を軽くひと撫でして、ビョルンは車のキイを手にキッチンを出ていった。その後姿をじっと見送ったレイフは、胸の中にもやもやとわだかまるものを覚えながら、ポツリと漏らした。

「いや、伯父さんは分かってないよ…たぶん、誰にも分からない…」

 1人になったレイフは、まずは予定通り、犬の散歩のアルバイトをすませた後、午後は特にすることもないので、家に戻って、犬のバディと一緒にリビングでテレビを見ながら、簡単な冷凍ピザのランチを取っていた。

(逃げてるわけじゃない、か…うん、そうだよ、オレが探しているのは、辛い現実から逃げ隠れるための場所じゃないんだ)

 アルバイト中も今も、レイフはずっと心ここにあらずの状態で、遊んでもらいたくて庭に出ようとしきりに誘っていたバディも今は諦めて、その足元にじっとうずくまっている。

(そこでなら、大切な人を裏切り傷つける恐れもなく、オレがあいつと一緒にいても許されるような…そんな夢みたいな場所のことなんだよ。オレ達が2人で過ごした子供部屋はもうないし、一緒に頂点を目指したフットボールの夢も終わったけれど、それに代わるような何かを、どこか別の場所に見つけられたらいいと思うんだ)

 今朝、伯父と短い時間話し合った時にもらした自らの言葉を、レイフは何度も思い起こし、その意味について考え込んでいた。

(そんな場所が本当にあるのかどうか分からないし、どこに行けば見つかるのか、見当もつかないけどさ。ただ、このまま普通にここで仕事を見つけて、伯父さんや母さん、友達と今までどおりに付き合いながら築き上げていく、当たり前の道を進んでも、その先にオレとあいつが再び一緒になる未来は開けてこない…それなら、少しでも可能性のある選択肢に賭けてみたいんだ)

 テレビでは、開幕間近となったNFLの特集番組を流していたが、以前ならばのめりこむように熱心に見ていただろう、その番組に目は向けていても、内容は全くレイフの頭に入ってこない。

(あいつがどう思うか、ほんとは意見を聞かなきゃいけないんだろうけど、そこまでの確信はやっぱり持てないかな…だって、そろそろ大学だって始まるだろう。どうやら年上の恋人ともうまくやってるみたいだし…何事もきちんと計画的なあいつのことだから、どこか遠くに行ってやり直したいなんて漠然とした夢みたいな話をしたって、ただの感傷だろって、あっさり却下されるかも…ああ、くそ、また煮詰まってきたぞっ)

 レイフはくしゃくしゃと紅い髪をかき回し、溜息をつきながら、しばらく無視していたテレビ画面に目をやった。

 すると、丁度番組の合間のCMが映っていた。初めは新作映画かドラマの宣伝かと思ったが、すぐに違うと分かった。

(ああ、何だ、陸軍の新兵募集のコマーシャルかぁ…ううん、さすがにお金かけてる感じで、うまく作ってあるけど、こんな子供だましに引っかかって、タフでクールな兵隊さんに憧れて入隊するガキどもがいるとしたら、そいつら、相当頭よくないぜ…最悪、アメリカ軍はおつむの空っぽなマッチョばかりってことになっちまうよな)

 ビョルンからの刷り込みのせいか、あまり軍の勧誘活動にいい印象を持っていないレイフは、初めは批判的な気持ちで、いかにも血気盛んな若者の気を引こうとしていることが見え見えの、ハリウッド映画をモデルにでもしたようなはでな演出が続く画面を見ていた。

 もしかしたら本当にハリウッドに制作を依頼したのかもしれないし、メインになっているハンサムな兵士は実はプロの役者なのかもしれない。

 しかし、背景に映るのは、本物の米軍が展開している国々のようだった。砂漠や熱帯、アジアや欧州、見たこともない様々な世界が、そこに描かれていた。軍に入れば、この国を飛び出し、他の広い世界を知るチャンスを掴めると若者相手にアピールしたいのだろう。

 この種の宣伝を目にしたことは、レイフには何度もあったはずだから、これまでどおり、さらっと流して忘れてしまってもよかった。

 しかし、そのメッセージを読み取った途端、レイフは一転、画面に釘付けとなった。これも若者の気を引くための餌には違いないと頭で分かっても、心をわしづかみにされて、どうしても目が離せない。

(今までテレビや映画でしか見たことのないような国々…この町どころか、アメリカからも離れて、未知の世界に向けて飛び立つんだ。オレには想像もつかない、驚くような風景、異質な文化、聴いたことのない言語を使う人達がいる世界…いっそ、そこまで遠い場所に行っちまえば、もしかして、オレが探すものは見つかるんじゃないか…?)

 そう思った瞬間、レイフの頭はかあっと熱くなった。心臓の鼓動が急速に早くなり、呼吸をするのも苦しいほどだ。

 ほとんど衝動的に手近にあったメモとペンを引っつかみ、震える手でテレビ画面に流れる電話番号を書きとめる。

(ああ、オレって、一体どうしちまったんだ…? 軍隊なんて、今まで全く興味なかったし、愛国者って柄でもないのに…ガキの頃はランボーとかに憧れたけど、正義のヒーローは映画の中にしかいないことが分かるくらいには、もう大人だよ。伯父さんの話を聞いていなくたって、好き好んで外国にまで行って戦争したいなんて、これっぽっちも思ったことはないけれど…)

 どうにか冷静になろうとしても、突き上げてくる衝動を抑えきれない。これはもう百パーセント直感でしかなかったが、ともかくレイフは、書き留めたメモを手に、すぐに電話の場所に飛んでいった。

「あの…すみません、実は、オレ…ええっと…軍に入りたいんですが、どこに行って、何をどうしたらいいんですか…?」

 レイフがたどたどしくも電話越しに質問すると、軍の担当者は親切な対応で、最寄りの新兵募集センターの場所と電話番号を教えてくれた。

 高校をちゃんと卒業さえしていれば、入隊の資格はあるそうだ。志望者は、体力測定や知能検査など簡単な審査の後、教育訓練基地での訓練を受けた上で、希望と適正にあった部隊に所属されるという。

 頭が沸騰しているような興奮状態で、一通りの説明を聞き、礼を言って受話器を置いた時、レイフは、別にこんな回り道をしなくても、ビョルンに聞けば、軍のリクルーターの連絡先くらい簡単に分かったという事実に気付いた。

(ああ、でも…伯父さん、オレがいきなり軍隊に入るなんて言い出したら、ショックだろうなぁ。何しろ、軍の強引な勧誘活動に反対する親達のサポートしている人だから…その自分が保護している大事な甥っ子が、突然入隊なんて、ありえない。もしかしたら、オレに裏切られたって思うかも…あの優しい伯父さんを傷つけるのは、オレも嫌だよ)

 近しい身内の期待を裏切ることには敏感になっているレイフは、ビョルンの気持ちを考えて、よほど悩んだ。しかし、ほとんど視界ゼロのような、どこに向かって歩き出せばいいのか分からず、立ち尽くすばかりの日々にやっと差し込んできた光を諦めてしまうことは、やはりできなかった。

 結局、ビョルンに相談してからだと反対されるのは明白だったので、内緒で募集センターまで出向くことにした。

(ごめんよ、伯父さん…とりあえず、話を聞きに行くだけだから、黙って行くけど、許してよ。それに、もしも、このまま入隊ってことになっても、オレは、別に何の考えもなく、騙されるようにして、軍に入るわけじゃない…ちゃんと目的があってのことだから…)

 本当はすぐにでも募集センターを訪ねたい勢いのレイフだったが、今日はビョルンがそこの責任者と会うと言っていたのを思い出し、万が一にも鉢合わせをしたら気まずいだろうからと一日待つことにした。

 頭に血が上った今の状態で行ったら、本当に一時の感情だけでサインまでしてしまいそうだったので、それは正しい判断だったと思う。

 しかし、たった一晩とはいえ、秘密を抱えながら、大好きな伯父に普通に接するのは、レイフにとって難しかった。

 その夜、ビョルンはレイフと今後の進路について話をするつもりでいたのかもしれないが、レイフは、友達に電話をしたいとか何とか適当に言い訳をして、食事の後は早々に自分の部屋に引きこもった。

(伯父さんは勘がいいからさ。オレの様子がおかしいって、怪しまれる前に逃げとく方が無難でしょ…ごめんよ、明日募集センターで話を聞いた後、ちゃんと話すから…)

 そうして、一夜明けた、月曜日、レイフは伯父の所有する予備の車を借りて、30分ほど走った所にある、米軍新兵募集センターを訪ねた。

 大きなショッピング・センターに隣接されている、その建物の中には、陸軍だけでなく、空軍、海軍、海兵隊の募集事務所が入っていて、それぞれの部屋のドアには各軍のポスターが貼られていた。

(ふうん、軍の募集事務所って、こんな身近な所に普通にあるんだ…気がつかなかったけど、うちの近所にもあったんだろうか…?)

 たまたま部屋から出てきたリクルーター達が、レイフを見かけて、実に親しげに声をかけてくる。

「やあ、君は海軍に興味があって来たんだろう?」

「よかったら、海兵隊の事務所に寄っていけよ。話を聞くだけの価値はあるぞ」

 どこも新兵を欲しがっているのか、レイフに向けられる目には、親しげな中にも真剣に値踏みをするような色があって、怖いほどだ。

 レイフは一瞬迷ったが、結局、昨日テレビCMを見た陸軍のドアを叩いてみた。

 部屋の中にはデスクが三つあり、真ん中のデスクに座っていた、がっしりした体格の担当官がレイフを見るなり立ち上がり、声をかけてきた。

「陸軍に興味があるかい?」

「はいっ」

 思わず姿勢を正して答えるレイフに目を細め、つかつかと近づいてくる、その担当官の胸のネーム・プレートには『マイルズ』と書かれている。

(ああ、この人が、伯父さんの話してた、ここの責任者のマイルズ選任軍曹か…感じのいい人だな。他のリクルーターとは対立している伯父さんが、この人だけは信頼できるって言い切るくらいだから、たぶん信じていいんだろう…)

 マイルズに勧められて、デスクの傍のソファに腰を落ち着けるや、レイフはすうっと深く息を吸い込んで、切り出した。

「オレの名前は、レイフ・オルソン…今年高校を卒業したばかりの19才です。マイルズさん…ええっと、軍曹って呼んだ方がいいのかな…? 実を言うと、あなたのことは伯父のビョルン・エルバーグから聞いて、少しだけ知っています。でも、今日ここを訪ねたのは、伯父とは一切関係なく、オレの個人的な興味からなんです。どうかオレに、陸軍にどんな職種があるのか、海外を含めた色んな場所で活動するためにはどうすればいいのか、教えてもらえますか?」

 ここに来るまで、レイフは、ちょっと話を聞くだけだと自分に言い訳をしていた。

 しかし今、マイルズ選任軍曹を目の前にして質問を投げかけた時、彼の答えがどんなものであれ、自分の気持ちは既にほとんど決まっているのだということに、レイフは気がついた。

(進路のことであんなに煮詰まっていたのが嘘みたいに、心がクリアーになっている。何だか、すごくビビッときたんだ…まるで運命って奴に出会ったような…)

 これだと思った時の自分の直感はほとんど外れないと、レイフには常日頃自信がある。

(そうだ、間違いない、オレはこのまま軍に入るだろう。直感だけで人生を決めるのかと皆から反対されることになっても、後悔なんかするものか。今やっとオレは迷いから解放されて、断言できる…これこそ、オレの探していた何かにつながる道なんだ…!)


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