ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第8章 Paradise Lost
SCENE2
兄弟で愛し合うオレ達の有様を見て、吐き気に駆られた父さんが、扉の向こうで苦しみ喘いでいる。
胃が引っくり返りそうな勢いで嘔吐する、耳障りな音を聞きながら、オレは、ひどく恥ずかしくて惨めな気分になっていた。クリスターの重みが体から離れたのに、慌てて床から這い上がり、まるで取り繕おうとするかのように必死に服の乱れを直した。
『父さん…父…さん…』
しばらくは恐くてとても動くことなどできなかったけれど、父さんが本当に苦しそうだったから、心配になったオレは、そろそろと部屋の外の様子を見に行った。
クリスターが何か言った。
オレは応えず、扉に手をかけ、恐る恐る、顔を覗かせた。
『父さん…』
悪戯がばれた後、叱られるのを承知でつい親に声をかけずにはいられない、何か言って欲しいと願う子供になったような気分でオレが呼びかけると、壁に手をついてぜいぜいと喘いでいた父さんの背中が大きく震えた。
父さんはオレを振り返った。まるでオレが誰なのか分かっていない、他人を見るような目をしていた。
心配したのだろう、いつの間にかクリスターが部屋から出てきて、オレの斜め後ろに寄り添うようにして立った。
クリスターはもう一度、オレに声をかけた。今度は何を言われたか分かった。
『行こう、レイフ…』
オレ達2人を見比べる、父さんの目つきが険しくなったと思った、次の瞬間、信じられないことが起こった。
雷が落ちたような物凄い声で怒鳴られて、オレの頭は真っ白になる。
そうして、気がつけばオレは、唸り声をあげながら突っ込んできた父さんに引っつかまれ、力任せに殴られていた。
こんな激しい折檻なんて、オレが子供の頃悪戯して叱られた記憶をひっくり返して探しても、見つからないだろう。
涙混じりの声で散々罵られたはずだけれど、実際何て言われたのかは覚えてない。殴られて痛いのより、父さんをここまで傷つけたこと、父さんに嫌われたことが胸に痛かった。
抵抗もできず、一方的にぼこぼこにされているオレを助けようと割り込んできたクリスターが、今度は、父さんともみ合いになった。
またしても、耳を覆いたくなるような怒号と罵り。
クリスターが必死で宥め落ち着かせようとしても、狂ったように暴れる父さんには通じない。
クリスターの顔も、今にも泣き出しそうなほど、悲痛に歪んでいる。
クリスターと父さんが格闘しているのを眺めながら、オレはうわ言のように呟いていた。
『やめてくれ、やめてくれ…』
ついに、クリスターに力いっぱい突き飛ばされてバランスを崩した父さんは、よろよろと後ろ向きに下がり、床に尻餅をついた。
そのままオレ達を呆然と見上げたかと思うと、今度は顔を真っ赤にして泣き出した。泣きながら、オレ達が生まれてきたことを呪い、オレ達を愛し育てた自分を罵った。
クリスターは疲れたように肩を上下させながら、そんな父さんをしばらく見つめ、それから、壁に背中を押し付けたままじっと息を殺しているオレを振り返った。
こんなにも傷つき、途方に暮れたクリスターの顔は、オレも見たことがないかもしれない。きっと、オレも同じような顔をしていたはずだけれど…。
オレ達は父親の呪詛の篭った泣き声を聞きながら、お互いをひたと見つめ続けた。
クリスターの喉が何か言いたげに上下に動いたが、どうしても言葉に出ないようだった。
オレはクリスターの傍に行きたかった。けれど、どうしてもそうすることができなかった。
父さんの絶望的な嘆きはいつまでもやまない。
これ以上、この場所にいることに耐えられなくなったオレは、殴打の跡の痛む体を壁から引き起こし、オレを食い入るように見ているクリスターから顔を背けるようにして、出て行った。
オレはクリスターを置いてきてしまった。クリスターもオレを追いかけようとはしなかった。
あれほど真剣に、二度と離れはしないと誓い合ったばかりの2人なのに…。
父さんがオレ達に向かってぶつけた言葉のほとんどは忘れているけれど、オレが逃げ去る時、最後に聞いた、むせび泣くような言葉だけは忘れられない。
『おまえ達はもう俺の子供じゃない、俺の子供じゃない…』
父さんは何度もそう繰り返していた。
『おまえ達はもう俺の子供なんかじゃあない…』
そうなのか、父さん?
『俺の子はいなくなってしまった』
ああ、それならオレ達は、一体何になったんだろう…?
天気のよい、日曜の朝。
レイフがあくびを噛み殺しながら階段を降りていくと、大きな金色の犬が、待ちきれないかのようにリビングの方から駆け寄ってきた。
「ああ、おはよう、バディ」
尻尾を振りながらまつわりついてくるレトリバー犬の鼻先を軽くひと撫でしてやって、レイフはまっすぐキッチンに向かう。
「ちょっと待っててくれよ。朝飯食い終わったら、すぐ散歩に連れて行ってやるからさ」
コーヒーのいい匂いの漂ってくるキッチンに入ると、テーブルについて新聞に目を通していた叔父のビョルンが顔を上げた。
「おはよう、レイフ」
「うん…おはよう、伯父さん」
レイフはまだ少しぎこちなさの残る笑顔を、赤味がかった金髪の、ヘレナによく似た知的で端正な容貌の伯父にちらっと向けた。
彼が、父親と繰り広げた、あの悪夢のような一幕の後、ボストンを離れてビョルンの家に預けられてから、そろそろふた月になろうとしている。
「こらこら、慌てんなよ、バディ」
床に置いてやった皿に顔を突っ込むようにしてドッグフードを食べているバディに優しく声をかけながら、レイフは冷蔵庫からミルクのビンを取り出してマグカップに注ぎ、それをぐいっと飲み干した。
「バディはすっかり君に懐いてしまったね。よく知らない人間には警戒して、なかなか慣れてくれない犬なんだが…」
夢中で餌を食べている犬の背中を指先で撫でているレイフに、ビョルンは眼鏡の下の優しい目を細めながら言った。
「ふうん、そうなんだ。でも、オレとは最初に会った日から仲良しだもんな、バディ」
レイフが気安く呼びかけると、彼の言葉が分かるとでも言うかのように、バディは顔を上げてバウと吼えた。
バディは、もとの飼い主から虐待を受けて、動物保護団体に一時預かりになっていたのをビョルンが引き取ったという経緯を持つ。
昔いた環境がよほどひどかったのか、後ろ足に軽い障害が残り、この家に来た当初はがりがりに痩せて、人を決して信用せず、世話をするビョルンもなかなか手を焼いたという。
やっとビョルンを信じられる相手と認識して心を開いても、来客がある時には、怯えて家の奥に隠れてしまう。
それが、レイフがこの家にやって来た日、先に近づいてきたのはなぜかバディの方だった。
傷ついた心を抱え、ビョルンともろくに言葉をかわさず、自分の殻の中に閉じこもって日がな一日塞ぎ込んでいるレイフの傍に、バディはいつの間にかやってきて、温かい体を押し付けてきた。その、どこか哀しそうな優しい茶色の目でじっと見つめられると、レイフは気持ちが和むのを覚え、やがて少しずつ笑顔を取り戻していった。
「彼は自分がたくさん傷ついたから、傷ついた人の心にも敏感なんだろうね。きっと、君のことを放っておけないって思ったんだよ」
ビョルンの言葉に軽く頷いて、レイフは彼と一緒に朝食を取るためにテーブルに着いた。
伯父の家は、このキッチンも含め、どこもとても清潔で、居心地よく整えられている。
手入れの行きとどいた庭に面した明るいキッチンで、こんなふうに誰かと一緒にくつろいで食事をしていることが、何だか、つい数週間前の荒れた状態の自分を思えば、レイフは信じられなかった。
「伯父さんの煎れるコーヒーって、何だかクリ…母さんの味に似てる」
かつての自分の朝の生活を思い出して比べると、やはり切なくなってしまうのは、仕方がない。
「それはおいしいという誉め言葉だと思っていいのかな?」
まだ他人と正面から目を合わせることはできないレイフだが、もともと親しい叔父相手なら差し向かいでものを食べられるようになっただけ、随分な回復具合と言えるだろう。
初めの半月ほどは、バディと一緒に自分の部屋に引き篭もって食事をしていたものだ。
「今日は天気がいいから、バディも連れて、ドライブでもしようか」
「そうだね…」
レイフはキッチンの窓の外の陽光溢れる庭に目をやりながら、ぼんやりと応える。前の持ち主もきっと庭好きだったのだろう。芝生の上に心地よい木陰を作り出す、枝を張り伸ばした木々。その向こうには小さな温室の屋根が光っている。そこにある、祖母から譲り受けた見事な蘭の鉢植えが、伯父の自慢だ。
「ピクニック・ランチを作るよ」
「伯父さんって、感心するくらい、まめだよね」
「一人暮らしじゃ、そんな機会もなかったけれど、何でもよく食べてくれる君がいるおかげで、今は料理のし甲斐もあるからね。私は結構腕のいいコックだろう?」
「うん…」
まだ完全には打ち解けることはできないで、硬さの残る、ぶっきらぼうな態度を取るレイフに、ビョルンはいつも忍耐強く接してくれる。
どこまで事情を知っているのか知らないが、深く追求することはなく、レイフがそっとして欲しい時には放っておいてくれ、必要以上に干渉しない、ビョルンだから、レイフも一緒に暮らせるのだ。
ビョルンはまだ四十前の若さで大学教授を務めている。彼の父親もそうだったが、ヘレナの家系は皆インテリばかりだ。そのせいか、ラースとはあまりそりが合わないのをレイフも知っている。
(何だか、クリスターがこのまま大学入って順調にエリート・コースを進んだら、こんな雰囲気の大人になるんじゃないかなぁ)
もっとも、クリスターの持つ、うっかり触れれば切られそうな鋭さや冷たさはビョルンにはない。いつも温和な笑みを湛えた優しい人柄で、大学でも生徒達に人気だというのも頷ける。
ラースは柔弱だと嫌っているようだが、決してそんなことはない。いつだったか、レイフがここに隠れていることをかぎつけて乗り込んできたやくざ紛いの記者を毅然とした態度で論駁し、すごすごと帰らせた姿に、やはり、あの母の兄だけあるなとレイフは見直したものだ。
他人に頼りにされやすいからか、もともと他人のために何かしたいという気持ちに溢れているからか、ボランティアとして貧しい地区の学校を訪問し、高校生達相手に講演をしたり、その父兄からの相談にもよく乗ったりしている。
今はもっぱら、ダウンタウンの高校に出入りしている軍のリクルーターを追い出す運動に熱心で、甘い言葉と奨学金をちらつかされて、うっかりサインしてしまった生徒を親達と一緒になって保護し、契約破棄まで持っていったこともある。おかげで、一部のリクルーターからは睨まれて、嫌がらせの電話もちょくちょくかかってくるが、ビョルンは怯まない。
ハンサムで女の人にもさぞかしもてるだろうに、一度短い結婚生活をしたきり、後はういた話のひとつもないビョルンを不思議がって、レイフは一度、また結婚しようとか恋人を作ろうとは思わないのかと聞いてみたことがある。
すると、ビョルンは少し困ったような目をして、レイフの顔をつくづくと眺めて、こう言った。
『ずっと好きな人がいるんだよ…ただ、その人はとっくの昔に結婚して、今は子供までいて幸せな家庭を築いているから、私は今更その人に好きだなんて言って困らせるつもりはないんだ。一度うまくいきそうだと思う相手と結婚してはみたものの、私にとってやっぱり、愛しているのはその人だけだったんだろうね、結局は妻とは離婚してしまった。だからもう、相手を傷つけるだけの結婚なんて、二度としないよ』
いつから片思いなのか知らないけれど、1人の相手をここまで想えるなんて、すごいロマンチストだと、恋愛経験はほとんど皆無のレイフは感心したものだ。
(一生忘れられない相手なら、オレにだっているけれどさ…クリスターのことなら、オレはきっと一生だって愛していられる…それをもう一度、あの時のように素直に口に出して言えるのか、分からないけれど…)
考えが、離れて暮らしている兄に向かうと、レイフの胸は恋しさと切なさ、傷つけてしまった父に対する罪悪感を伴う痛みに、引き裂かれそうになる。
クリスターが今、『恋人』であり庇護者でもある、サンドラ・オブライエンと一緒に暮らしていること、大学生活も何とか無事に始められそうだという話は、ビョルンを通じて、母から聞いている。
(クリスターの進路まで、オレのせいで駄目になってしまったらどうしようって心配したけれど、それは回避できたみたいで、ほっとしたよ…ああ、でも、そうすると、やっぱりオレとクリスターはこのまま全く別の道を歩いていくことになるのか。オレはまだ、自分のこれからのことなんて、全く考えることもできないけれど、逆立ちしたって、オレにゃ、クリスターと同じ大学に進むなんて無理そうだからな)
そんな現実を思えば、ますます気が滅入って、レイフは八方塞の心地で溜息ばかりついている。
(オレがこの先どこに行って何をするにせよ、それはきっと、クリスターと遠く離れた別の場所になるだろう…ああ、まさか、このまま二度と会えないなんてことはないよな。会いたい…クリスター、会いたいよ…そうだ、今ならもう変なマスコミに追いかけられることもないだろうし、こっそりボストンに戻って、あいつに会いに行ったって構いやしない…)
レイフの心は何度もクリスターに会いに行く計画に傾きかけるが、そんな時に決まって思い出すのが、最後に見たラースの悲惨な姿、怒りと嘆きのこもった、その声なのだ。
(駄目だ、やっぱり行けない…オレ達は父さんを裏切って、あんなにひどく傷つけたのに、何食わぬ顔をして、あいつに会いに行くことなんてできない)
レイフの希望は何度も呆気なくくじけ、そして、その度に胸の奥から抑えようもなく突き上げてくる別の想いがある。
(ああ、それでも、オレはやっぱりあいつを愛してる…あいつとオレは恋人同士なんだってこと、否定なんかできない、あんなふうに愛し合って、確かに幸せを感じたことを忘れられやしない。だから、いつか…そうだ、今すぐは無理でも、きっといつかオレ達は再会して、一からやり直すことができるはずだ。父さんだって…理解することはできなくっても、時間が経てば少しは落ち着いて、ちゃんと向き合って話くらいできるようになるよ…)
実際問題、ラースとの和解についての見通しは全く暗かったが、そんなふうにでも考えなければ、レイフが今の状況に耐えることはできなかったのだろう。
(そうだ、虐待されて散々な目にあったバディが今はこんなに元気になってるように、時間が経てば、人が心に受けた傷は癒えてくるんだ。オレやクリスター、父さんだって、きっと…そうさ、時間さえあれば…)
8月に入ったばかりのこの日、レイフの気持ちは少しだけ前向きな方に傾きつつあった。
それが一気にまた逆向きに覆されたのは、その同じ日のうちのことだ。
「誰だよ、こんなことしやがったのは…ひでぇな」
バディを連れてドライブがてら遠出してビーチまで出かけ、一日のんびり過ごして家に戻ったレイフとビョルンが見つけたのは、何者かによって荒らされた家だった。ビョルンが手入れした庭は踏み荒らされ、庭木は折られ、窓も1枚、石を投げ込まれて割られていた。
「参ったな、温室の蘭の鉢がほとんど全滅だ」
レイフが、何か盗まれたものはないか、家の中をバディと一緒に調べていると、外の被害状況を調べていた伯父が気落ちした顔で入ってきた。
「家の中は大丈夫だよ、伯父さん。荒らされたのは外だけで、内部に侵入しようとした形跡はないところを見ると、泥棒じゃあ、ないんじゃないかな」
「ああ…私も、そう思うよ。たぶん、彼らの仕業だろう」
温和な性質の彼にしては珍しく、ビョルンは憎々しげに舌打ちした。
「ていうと…この間、親に秘密で強引にサインさせた高校生の件でもめたっていう、軍のリクルーター? マジかよ…この間は脅迫めいた電話をかけてきやがったし、一応軍人の端くれのくせに、やることが陰湿だよな」
ダウンタウンの高校に送りこまれた、軍の勧誘担当官に反発する父兄を支援する、ボランティア団体に所属しているビョルンは、最近彼らとの間でトラブルが起きたらしく、嫌がらせを何度か受けていた。
「警察に連絡した方がいいんじゃないか? これじゃあ、チンピラとやること変わらないぜ」
「彼らがやったという証拠はおそらく出ないだろうが…被害届けくらい出した方がいいだろうな。これで満足しておさまってくれればいいが、うちの団体に支援活動をやめさせようと更に妨害がエスカレートされたら、相手が相手だけに少々厄介だ」
「大丈夫だよ、伯父さんのことなら、このオレが守ってやるからさ。お世話になってるお礼だよ。相手が軍人だろうが、腕っ節なら、オレぁ、負けないって。ボディ・ガードとしては最強だから、安心してよ」
レイフが頼もしげに胸を叩いてみせると、ビョルンは顔をしかめて、苦笑混じり、やんわりと彼の申し出を断った。
「気持ちは嬉しいけれど、頼むから、この件には首を突っ込まないでくれよ、レイフ。おまえに危険なまねをさせたりしたら、ヘレナに合わす顔がなくなるよ」
「でもさ、このままじゃ、伯父さんが困るじゃないか」
レイフが言い返すのを、ビョルンはそっと手で制し、穏やかなのに反論を許さない毅然とした口調で言った。
「多少の報復があるくらい、覚悟してやったことだよ。それに、暴力で問題解決をはかるのは私の主義に反するんだ。大丈夫だよ、レイフ、こんな馬鹿げた嫌がらせをするのは一部のリクルーターだけだ。新兵募集センターの責任者のマイルズ先任軍曹は、私も面識があるが、話の分かる人物だ。一度会って、今回の件について話し合おうと思っているよ」
一見柔和そうなのに、こうだと決めたことについてはてこでも動かない。ビョルンのこういう頑固さは、ちょっとクリスターに似ている。そう思った途端、レイフは、何だか胸がきゅんとなって、逆らう気を根こそぎなくしてしまった。
(どうしよう、ぐっときた…伯父さんってば、時々クリスターみたいなんだもん…)
だからと言って、いきなり抱きついてじゃれつく訳にもいかず、物欲しそうな目で、てきぱきと割れた窓ガラスを片付けている伯父の動きを追ってしまう。
「さあ、壊れてしまったものを嘆いても仕方がない。庭の片付けは明日にして、食事の準備をしよう」
「う、うん…あ、オレも手伝うよ」
にこりと笑ってレイフの肩を叩き、ビョルンは家の奥に向かう。その後を、レイフがほとんど条件反射のようについていき、更に犬のバディが尻尾を振りながら追いかける。
もう遅い時間になっていたので、冷凍のピザを温めて、後は残り物のスーブとサラダで簡単な夕食をすませると、レイフはビョルンと一緒にリビングに移り、バディの相手をしながらテレビを見ていた。
いつもなら、そろそろ部屋に戻って寝る時間だったが、目が冴えて眠れそうになかったレイフは、リビングにしつこく粘っていた。伯父の家での平穏な暮らしを他人に乱されたせいで気が昂ぶっていたのかもしれないし、もしかしたら、虫の知らせのようなものを感じていたのかもしれない。
ふいに、廊下の電話が鳴った。
「誰だろ…」
先程の出来事のせいで、レイフはまた嫌がらせの電話じゃないかと警戒し、とっさにビョルンを見やったが、彼は大丈夫だというように頷き返し、応対に出て行った。
バディの金色の毛皮を撫でながら、レイフは気遣わしげに顔を上げて、壁を隔てて聞こえてくる叔父の声に耳を傾けていた。
「はい…ああ、なんだ、ヘレナか」
硬かったビョルンの声が、たちまち親愛の情のこもった、柔らかな優しい響きのものに変わる。
それを聞いたレイフも、ほっと肩の力を抜いた。
「今日はレイフと一緒にビーチに出かけていたんだよ。まだ起きているから、彼に代わろうか?」
レイフも、相手がヘレナだと知って安堵したものの、電話を代わってもらって、直接彼女と話すことにはまだためらいがあったので、膝の上に頭を乗せているバディにどうしようかと相談するような目を向けた。
「どうしたんだい、黙り込んで…えっ、何だって…?」
ヘレナと話す時はいつも楽しそうで、普段よりも饒舌になるビョルンが、急に、声のトーンを落とした。
レイフは再び顔を上げて、扉の方を見やった
「ヘレナ…落ち着くんだ、何があったのか、もう一度言ってくれ…」
微かに漏れ聞こえる伯父の声の中にある何かが、レイフの胸を嫌な感じに騒がせた。
(母さん…?)
不安がらせないよう、そっとバディの体を押しのけて、レイフは床から起き上がった。
「今、病院からかけているのか…傍には誰かいるのか?…クリスターには連絡はついたんだな?」
何となく息詰まる気分で、レイフはそろそろと扉を開いた。
足音を殺して廊下に出ると、まるでレイフに聞かれるのを恐れるように受話器を耳に押しあて、背中を丸めて、ひそひそと話しこんでいるビョルンの後姿が見えた。
「そうか、分かった。私も、すぐにレイフを連れて、そっちに向かうよ」
ビョルンは更にいくつか励ますような言葉をヘレナにかけて、受話器を置いた。そのまま彼は、電話をじっと見下ろしながら、しばし何事か考え込んでいた。
「伯父さん」
いつの間にか喉がからからに渇いているのを意識しながら、レイフはかすれた声で、伯父の背中に呼びかけた。
するとビョルンは肩を小さく揺らせ、ゆっくりと振り返った。途方に暮れたように見えた顔が、レイフを認めるや、沈痛な表情をうかべた。
「今の電話、母さんからだよな…? 様子が変だったけれど、一体、うちで何があったんだ…?」
ビョルンはまっすぐレイフに近づいてきて、その肩に手を置いた。
「今日の夕方、ラースが倒れて、病院に運び込まれた。帰宅したヘレナが見つけた時には、既に意識がなかったそうだ…脳出血だったらしい。いいか、レイフ、落ち着いて聞くんだよ」
レイフは大きく目を見開いて、ビョルンの口が動くのを呆然と眺めていたが、その言葉はすぐには頭の中に入ってこなかった。
「えっ…何…? 何て言ったんだよ、伯父さん…?」
ビョルンは一瞬言葉に詰まったように黙り込んだ後、辛抱強く、小さな子供に言い聞かせるような口調で、もう一度、レイフにとって、これまでの人生で一番残酷な知らせを告げた。
「とても残念なことだが、搬送先の病院で先程ラースは…君のお父さんは、亡くなられたんだよ、レイフ…」