ある双子兄弟の異常な日常 第三部

Paradise Lost

SCENE1

 あの悪夢の瞬間から後に続いた、嵐のような混乱状態については、今でも語ることはおろか、思い出すこともできればしたくない。

 凄まじい修羅場を実の父親と繰り広げたはずだが、彼が泣きながら発した怒号と罵りの言葉はほとんど記憶から抜け落ちている。おそらく、思い出すのも耐え難いからだろう。

 僕でさえここまでのダメージなのだから、父親思いのレイフの受けた衝撃はどれほどのものであったのか、想像するに難くない。

 レイフ。僕と一緒に罪を犯してしまった、愛する弟―。

 あの日を境に別れたきり、僕は、その後の彼の消息を知らない。




 懐かしい我が家。

 二度と再び戻ってくることは許さないとラースに宣告を受けてから、早、ひと月半、クリスターは、かつて当然のようにそこで暮らしていたことが夢のような気分で、道路を隔てた場所に立ちながら、その建物をじっと見つめていた。

 腕時計をちらりと見下ろす。19時30分。

 もう1時間以上、彼はここで待ち続けていた。

 こんな所に1時間も突っ立って、一体何をやっているのかと思わないでもないが、あの家まで行って自ら扉を叩くだけの勇気は、さすがのクリスターにも持てなかった。

 7月のことであり、この時間でも外はまだ明るいが、普段ならば、そろそろヘレナが帰宅してもおかしくない頃合だ。

(もしかしたら仕事が大変で、近頃は帰るのも遅くなっているんだろうか…家よりも先に事務所を訪ねていったほうがよかったろうか。ここに来たって、どうせ僕が中に入れてもらえることはないんだろうし…)

 クリスターがそう考えていると、低いエンジン音と共に見慣れた白い車が視界に入ってきた。

(母さん)

 手を振って知らせようか、近づいて声をかけようかとクリスターが迷っているうちに、白のシボレーのドアが開き、紅い髪をタイトにまとめたヘレナが現われた。

 いつも凛として美しい母が、久しぶりに見るとどこか疲れたような顔をして見えたことに、クリスターははっと胸を突かれた。

(父さんの体調が悪くて、今は母さんが1人で社を仕切っているとは聞いたけれど…)

 先日街で偶然出会ったラースの部下から聞きだした父母の近況を、クリスターが半ば呆然となりながら思い起こしていた時、懐かしいハスキーな声が彼の名前を呼んだ。

「クリスター?」

 クリスターは思わず、息を飲んで、立ちすくんだ。恐る恐る目を上げると、ヘレナがまっすぐにこちらを見返していた。

「母さん…」

 もしも愛する母の目に、あの日ラースの目の中に見たのと同じ嫌悪や拒絶の感情を見いだしたら、クリスターは居たたまれなくって、きっと逃げ出していただろう。

 しかし、こちらに向けられたヘレナの顔はどこか悲しげではあったものの、その眼差しに他人を見るかのような冷たさはなく、母はやはり変わらぬ母だと、クリスターを安堵させた。

 彼女はクリスターに手を差し伸べようとして、一瞬躊躇うように家の方を振り返った後、意を決し、ゆっくりと息子のもとに近づいてきた。

「クリスター、心配したわ…」

 ヘレナは、明晰な彼女らしくもなく、突然表れたクリスターに何と言葉をかければいいのか分からないというように、口ごもった。

「母さん…久しぶりだね。心配させてごめん、でも、僕なら大丈夫だよ」

 母との間に気まずい沈黙が訪れることを恐れるように、クリスターはぎこちなく口を開いた。

「しばらくの間は色々大変で、なかなか連絡を入れることもできなかったけれど、今やっと落ち着いたところなんだ。まあ、万事解決とまではいかないけど、今のところ住む場所はちゃんとあるし、9月から始まる大学もローンを組んで何とかなりそうだから、その点は安心してくれていいよ」

「結局、あのまま…恋人と一緒に暮らしているの…?」

 クリスターは母の気遣わしげな視線を避けて、うつむいた。

「うん…僕があんまり年の離れた恋人を持つことに、もしかしたら母さんは抵抗があるかもしれないけれど、サンドラはいい人だよ。ほとんど身一つで家を飛び出して、混乱したまま転がり込んだ僕を、何があったのかと問い詰めもせず受け入れてくれた…僕もつい彼女の好意に甘えて居ついてしまったけれど、出て行けと言われたことも、嫌な顔をされたこともない。それどころか、学費についても援助を申し出てくれている…さすがに、それは申し訳ないから断って、ローンだけで何とかしようとは思っているけれどね」

 ヘレナはしばらく沈黙して何事か考え込んでいる様子だった。クリスターが庇護を受けている年上の恋人とは、彼女も面識があるのだから、多少複雑な気持ちはあるのかもしれない。

「学校が始まったら、学生寮に入るか、同じ学生仲間でアパートのシェアリングができる相手を探そうと思っているよ」

 一応言い訳のように付け足して、クリスターは改めて、母を恐る恐る観察した。

 サンドラとの関係よりも、よほど、クリスターにとって、ヘレナにどう思われているのか気になることがある。

 そう、「あのこと」を、ヘレナはどう思っているのだろう。不運なラースのように実際目の当たりにしたわけではなくとも、双子の間に一体何があったのか、彼女も知ってしまったはずだ。

「父さんのことを聞いたんだ…クインシー・マーケットの近くで、アンドルーにばったり会ってね。その…具合が悪くて、事務所にも随分長いこと出てないんだって? それほど調子が悪いの? 病院にはちゃんと行っているのかい?」

 クリスターがヘレナの反応をうかがいながら、ためらいがちに語りかけると、彼女の美しい顔が僅かに曇った。

 医師の言いつけを守ってしばらく禁酒していたラースは、再びアルコールに溺れ、今ではほとんど出社などできない状態だという。

(ブライアイン達の裏切りやヘレナさんの流産でしばらく荒れてたこともあったラースさんだけれど、それでも、今ほどひどい状態じゃなかったと思うよ。一体、何があったんだ、クリスター?)

 詳しいことは何も知らない父の部下に正面から追及されて、本当のことなど言えるはずもないクリスターは黙り込むしかなかった。

(僕らの関係を怪しんでいる節のある父さんには、何も気付かれないよう用心しようと思っていた矢先だった…それを、寄りにもよって、あんな場面を見られてしまうなんて、何という失態だ。そうは言っても、あの時の僕にレイフを拒否することなどできなかったろう。そうだ、僕とレイフはやっとお互いの気持ちを正直に打ち明けて、確かめ合ったんだ。あの一時、僕達は確かに幸せを掴んだのに…その報いが、この惨憺たる現状だなんて)

 擦れ違いや誤解、迷いや苦悩の末にやっとレイフと結ばれた、あの時のことを思い出すと、クリスターの胸は相克する2つの感情に引き裂かれそうになる。

(ああ、僕はレイフと愛し合ったことを後悔しているのか…それとも、父に見られたせいで、あいつとのつながりを無理矢理断ち切られしまったことが悔しいのか…まだ自分の気持ちさえ整理がついていないけれど、はっきりしているのは、もう何もかも取り返しがつかないということだ)

 クリスターもレイフも深く傷ついたが、一番痛手を受けたのはどうやらラースのようだ。あれほど溺愛した子供達に二度と戻ってくるなと勘当を言い渡し、自らも自暴自棄に陥って、アルコールに逃避している。

 頼もしかった父の心がこんなにもろく崩れてしまったことに、クリスターは何かしら信じられない思いだったが、同時に、彼を傷つけてきた不幸の連続と、最後のとどめのような、親子の断絶となる今回の事件を思えば、無理もない気もした。

(何だかまるでジェームズの望みどおりになったみたいだな。いや、こうなることまで見透かして、何もかもあいつが仕組んだなんていうのは、いくらなんでもうがちすぎか。そうだとも、ジャームズのせいになどするな。僕達が犯したことの結果、大切な家族は粉々に壊れてしまったんだ)

 クリスターは、見たくない現実からつい顔を背けようとする自分を心の中で叱り付けた。

「あの人の具合は、残念だけれどあまり思わしくないわ…体も心もね。ラースが心配で、ここに戻ってきてくれたの?」

「うん…」

 母の言葉に、良心がちくんと痛むのを覚えながら、クリスターは小さく頷く。

「ありがとう、でも…あなたは今のラースには会わない方がいいわ。会ってもきっと辛い思いをするだけよ…ラースも、あなたの顔を見たら、きっとまた取り乱して、どうしようもなくなるでしょう。ごめんなさい、クリスター…あの人が落ち着くまで、もう少し待ってちょうだい」

「母さん、ごめんだなんて…そんなこと…」

 クリスターは慌てて口を開きかけるが、出かかった謝罪の言葉は、形になる前に舌の上でばらばらに崩れていった。

 一体何に対して謝るのか。謝れば、壊れてしまった大切なものを元通りにできるのか。

(僕には、何も言えない…通り一遍の言葉ですませられるような、そんな簡単なことじゃない。第一、僕は…こんな不幸と悲しみを父さん達にもたらしておきながら、それでも、僕は―)

 途方に暮れたような顔でじっと押し黙っているクリスターを見て、ヘレナは、どこか試すような口ぶりで静かに言った。

「レイフが今どこでどうしているか、聞かないの、クリスター?」

 いきなり核心の部分に鋭く突き刺さるような問いをなされて、クリスターは肩をびくりと震わせた。

「ずっと気になっていたはずよ…あなたの姿を見つけた時、私はてっきりレイフの行方を尋ねに来たのかと思ったわ」

 相変わらす鋭く冴えた母に、胸の奥に秘めた想いを見透かされたような気がして、クリスターは慄いたように目を見開いた。

(そうだ、僕はずっと、レイフがどうしているのか知りたくて、気が狂いそうだった。もちろん父さんのことも心配したけれど、それはむしろ口実で…母さん達に会えば傷つくのを覚悟してここにやって来たのは、やっぱりレイフに会いたい、それが駄目なら、せめて、どうしているかだけでも知りたいという、この期に及んでも懲りない、あいつを求める、僕のどうしようもない心のせいなんだ)

 いつもはもっと巧みに言葉を操って、いくらでも言い抜けできるクリスターが、今はしゃべること自体を忘れてしまったかのように固くなって立ち尽くしている。そんな彼をヘレナはもの思わし気な眼差しでじっと見つめ、それから、溜息混じりにぽつりと漏らした。

「あなた達を初めからひとつに産んであげたら、よかったのかしらね…」

 クリスターは何かしらはっとなって、ヘレナの聡明な、今は深い悲しみに沈んで見える顔を眺めた。

「レイフは今、ビョルンの家にいるわ」

 クリスターの胸の中で、その心臓が大きく跳ねた。

「ニューヘイブンのビョルン叔父さんの所に…? そうか、どおりで、この辺りでは、レイフの噂を聞かなかったはずだ」

 クリスターは、ヘレナの兄である、彼ら兄弟を子供の頃から可愛がってくれていた、物静かで賢明な叔父の姿を思い浮かべた。

「叔父さんがレイフを保護してくれているなら、安心だね…最近は随分ましになったけれど、一時はマスコミがレイフの暴力事件を取り上げて、うるさかったから…彼らが家庭内のごたごたまでスクープしないかとひやひやしてたんだ」

 レイフがニック相手に起こした暴力事件は、裁判や訴訟問題に発展することはなかったものの、アイドル的な人気でマスコミにも露出していたレイフだけに、一部のタブロイド紙などは、あることないことひどい記事をかきたてた。そして、これは大事に発展しそうだと警戒した大学側の判断で、結局テキサス大はレイフの入学を取り消した。レイフが何の断りもなく消息を断ち、事態の収拾にあたってくれるはずのラースまでも一切の話し合いに応じなくなってしまったのでは、彼らの処置も仕方がなかった。

「ビョルンの話では、レイフはこの頃やっと落ち着いてきたようよ…しばらくは家の中に閉じこもってほとんど口もきかなかったのが、今ではビョルンと一緒に食事のテーブルについて、当たり障りのないことなら普通に会話できるようになってきたって…」

「そう…」

 レイフの今の様子を聞かされると、クリスターは胸の中を激しくかきむしられるような気分になった。

「叔父さんは、僕達が父さんに勘当された事情を…全て承知しているのかい…?」

「いいえ、あなたが知られたくないと思っていることは知らないはずよ。それに、レイフが聞いて欲しくないと思っていることをあの子を傷つけでまで聞き出そうとする人ではないわ。何か、よほどの事件が家庭内で起こったとは察しているでしょうけれど…そうね、一度だけ、ビョルンは私に何があったのか尋ねたわ。私は答えなかった。それきり、兄は何も言わない」

 ビョルンの優しさに感謝しつつ、クリスターは悄然と項垂れた。自分達がどれだけ愛する人達に心配と悩みをもたらしたのかを思いしらされて、すまなさで胸がいっぱいになっていた。 

(でも、確かにビョルン叔父さんのもとでなら、レイフはここにいるよりかずっと精神的に落ち着いて、これからのこともじっくり考えられるようになるはずだ。そうだ、僕の考えに振り回されることなく、今度こそあいつの意思で、これから先どう生きるか決められるようになる)

 そこまで考えて、レイフは結局、自分と関係のない道を選び取り、手の届かないどこか遠くに行ってしまうのかと、クリスターは無性に寂しくなった。

(レイフの精神状態を慮れば、今はそっとしておいてやるのが、あいつのためなんだろうけれど…なら、僕はいつまで待てばいい…このまま二度と会えないなんてことにはならないだろうか…? もう決して離れないと誓ったばかりなのに…どうして、僕達はまた離れてしまったのだろう…?)

 なまじ、レイフが今どこでどんなふうに暮らしているという話を聞いてしまったがために、弟へのつのる想いを、クリスターは抑えることができなくなった。

「クリスター、あなた、レイフに会いたいのね…?」

 母の的確な言葉に、クリスターは思わず震え上がった。緊張を解くため、大きく息を吸い込んだ。

(レイフ…レイフ、おまえは僕を愛していると言った。僕もおまえを愛している、今でも―)

 兄弟で愛し合うことが本当に許されないことなのか確かめようとした、あの行為の後、2人は、この世界の現実というものを、もっとも残酷な形で思い知らされた。

 それでも、あの時の記憶が脳裏に蘇れば、レイフの声、ぬくもり、肌の感触、何もかも全てがたまらなく恋しい。胸がつぶれそうなほど、恋しい。

「母さん、僕は…」

 クリスターの震える唇から漏れ出たのは、ほとんど涙声だった。

「僕はレイフを…」

 その時、家の方から、誰かが荒々しくドアを開く音が聞こえた。

「クリスター!」

 雷鳴にも似た、深い憤りをはらんだ声が自分の父親のものだと、クリスターはとっさに理解できなかった。

「と、父さん…?」

 母の体の向こうに、よろよろと覚束ない足取りで家の中から出てきた男が見えた。

 それがラースの変わり果てた姿なのだと悟ったクリスターは、愕然となった。がっしりと逞しかった体はこの僅かの時間で随分と痩せ、そのくせ腹は出て、大量の飲酒のせいか顔は赤らんでいる。

 その震える手に重たげな拳銃が握られているのを見つけた時、クリスターは凍りついた。

「父さん、まさか、そんな…」

 目にしている光景が信じられなくて、悪い冗談か夢を見ている気分になりながら、クリスターは喘ぐように呟く。

「言うな!」

 ラースはクリスターの言葉を遮って、激しく吼えた。

「おまえはもう俺の子供じゃない、よくも…よくも俺の前に、その汚らわしい顔を出せたな…二度と来るなと言ったはずだぞ」

 クリスターを睨みつける血走った目には、理性を凌駕する怒りがたぎり、ほとんど狂気じみてさえいた。

「ヘレナから離れろ、クリスター、離れるんだ」

 ラースは両手で拳銃を構え、ゆらゆらと不安定に揺れる銃口を、石と化して立ち尽くしているクリスターに向けた。

(父さん、父さん、ねえねえ、僕ね、今日、コーチに足が速いって誉められたよ)

(おお、さすがは父さんの子だなぁ。試合を見に行く度にどんどんうまくなっていくんだから、おまえもレイフも、全く大したものだよ)

 かつて、どれだけ父親に愛され可愛がられていたか、クリスターはふいに思い出した。

 クリスターとレイフに向けられた、あの温かな眼差しと笑顔、優しい声、抱き上げられたり頭を撫でられたりした手の感触―遠い子供時代の記憶が、クリスターの脳裏に鮮やかに蘇る。

 どんなことがあっても、父は自分達を愛してくれている、決して裏切ったり傷つけたりしないと、あの頃は疑いもなく信じていた。

 今、その父親は怒りに我を忘れ、クリスターに銃を突きつけている。

(あれだけ父さんを傷つけておいて、のこのこ戻ってくるなんて、僕が馬鹿だった…許してもらえると、心のどこかでまだ期待していたんだろうか。だとすれば、とんだ甘えだ…やっと分かったよ、僕の家はもうここにはない…なくなってしまったんだ)

 ふいにこみ上げてきた喪失感、後悔と羞恥の思いに、クリスターは力なく項垂れた。

「僕は、あなたの前に姿を現すべきじゃなかった…ごめんよ、父さん…」

 クリスターの慙愧に満ちた呟きなど耳に入っていないのだろう、ラースは、忌々しげに何事か吐き捨てながら、トリガーにかかった指に力を入れた。

(撃たれる…!)

 クリスターは思わず、目を閉じた。

「ラース、やめて!」

 父親に殺されると半ば覚悟した瞬間、ヘレナが鋭く叫んで、クリスターを庇うように大きく腕を広げ、その前に立った。

「ヘレナ…!」

 ラースは動揺した。

「そこをどけ、そんな奴を庇うことはない…そいつはもう俺達の子供なんかじゃない。畜生だって、親の前であんなことをしやしないだろう…おお、そうとも、そこをどくんだ。そいつは俺がこの手で撃ち殺してやる!」

 逆上し、殺気立つラースに対し、しかし、ヘレナは毅然とした態度を崩さなかった。

「ラース、ラース…あなたが何と言おうとも、クリスターは私達の子供、私があなたのために産んだ子よ…自分がどれほど双子の誕生を待ち望んでいたのか、一度に2人も子供を授かったことを喜んだのか、忘れたの?」

 激情の発作に駆られ、まともな判断もできなくなっているラースに、ヘレナは忍耐強く接し、彼に本来の愛情深い心を取り戻させようとかき口説いた。

「そんなことを…今の俺に思い出させるな! いいから、そいつから離れろっ」

「いいえ、ラース、あなたにクリスターを殺させるなんて馬鹿なこと、私が見過ごすと思って? どうしても、その物騒なものを下ろせないと言い張るなら、いいわ、この子と一緒に私も撃ちなさい」

 狂乱する父を前に一歩も引かず、必死の説得を試みる母の気迫に圧倒されて、その背中を呆然と見ているだけだったクリスターが、その瞬間、顔色を変えた。

「母さん!」

 まさかラースがヘレナまで撃とうとするとは考えられなかったが、今の彼の混乱振りでは、誤って発砲しないとも限らない。

「危ないから、そこを退いてくれ、母さん」

 しかし、ヘレナは腕を広げてラースの前に立ちはだかったまま、振り返りもせず、クリスターに言った。

「大丈夫よ、ここは私に任せて…行きなさい、クリスター」

 クリスターは瞳を揺らせながら、母の背中を見つめた。

「母さん…」

「いいから、早く行きなさい…!」

 叱責のように厳しく響く母の声の中にある何かが、クリスターの心の琴線に触れた。

(父さんをこんな無残な状態に追い込んでしまった僕でも、母さん、あなたは許してくれるんですか? 生けていけと言ってくれるんですか?)

 クリスターはヘレナをじっと見つめたまま、ゆっくりと後ろ向きに数歩下がった。視線を上げると、途方に暮れたような顔をしたラースが、のろのろと銃を下ろしていくのが見えた。

 ふいに、目の奥が焼け付くように熱くなるのを、クリスターは覚えた。

(父さん、19年間息子として愛してくれて、本当にありがとう…それから、母さん、こんな僕でもまだ我が子として愛し、命がけで庇ってくれたあなたに、僕はどれだけ感謝してもしきれない…ありがとう、母さん)

 ラースは拳銃を取り落とし、その場にがっくりと崩れ落ちた。そのまま顔を覆って、心の底から搾り出すようにむせび泣きだす彼に、ヘレナがすぐに駆け寄っていく。

(さよなら…!)

 クリスターは踵を返し、その場から離れた。まるで何かに追われるように、その足はどんどん速くなっていく。

 歯を食い縛って嗚咽が漏れそうになるのを噛み殺し、こみ上げてくる熱い涙を堪えながら、父と母、かつて自分を守り育んでくれた『家族』から、クリスターは立ち去っていった。


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