ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE9


 スタジアムのドレッシング・ルームの奥のベンチに、レイフはじっと腰を下ろして、瞑想するかのように目を閉じていた。

 その表情は穏やかなものだったが、閉ざされた瞼が時折ぴくぴく動いているあたりに、彼が、内心に渦巻く様々な感情と闘っているのが見て取れる。

 州大会決勝戦の開始を待つ、この一時、ここに集っている少年達は皆それぞれ、己を圧しようとする緊張や不安に必死に立ち向かっていた。

 トムは壁に背中をもたせかけて、ヘッドホンをつけた頭を左右に軽く揺すっている。

 洗面所の方からは、先程から、ショーンが嘔吐する音が鳴り響いていたが、誰もそれに気にとめようとはしない。

 普段よりもいやに高く響いて聞こえる、チーム・メイトの靴底のクリートがコンクリートの床を打つ音に耳を傾けていると、こうしたプレッシャーとの闘いにもこの頃では慣れっこになりつつあったレイフでさえ、己の中で否応なしに沸き上がってくる緊張を意識せずにはいられない。

(今までの試合の中で、我ながら最高だと思えたプレイを思い出してごらん。細部まではっきりと頭の中に描きこむんだ)

 レイフは、以前クリスターに教えてもらった、試合前の緊張への対処法を思い起こし、これまでずっと忠実に守ってきたように今もまた試みていた。

(緊張するのは悪いことじゃない。むしろ何の緊張もなく試合に臨むよりは、楽しめるくらいの緊張はあった方がきっといいプレイができるよ)

 1年前の同じ時期、初めて挑む決勝戦を前に子供のように不安がるレイフを、クリスターは自信と確信に満ちた態度で力づけ、立ち向かう勇気を与えてくれた。

 その兄がいない今年、レイフは、彼の遺した全てを背負う覚悟でしゃにむに突き進み、1つずつ勝利をもぎ取ってきた。そうして今夜ついに、熱望した場所にいる。

(大丈夫だ、オレは今夜、最高のプレイをする。誰が相手でも負けやしない、オレをとめられる奴なんかいるものか。ブロックを仕掛ける奴は吹っ飛ばすか、フェイクをかけて見事に抜け去って、何度でもタッチダウンを決めてやる。そうして今夜―数時間後には、オレ達ブラック・ナイツは州チャンピオンに輝いてるんだ。ああ、そうさ、必ずやってみせるとも)

 そうならなければ、これまでの努力や苦労は全て水の泡と消えて、後には何も残りはしない。この手につかめるのは栄光か無かのどちらか1つなのだということは、強豪とか優勝候補と呼ばれた他のライバル・チームを下して、ここまで這い上がってきただけに、レイフには実感として分かっていた。

(いいか、勝つことだけを考えるんだ。他の可能性なんて、オレ達にはいらない)

 別にこの試合を落としたところで、世界が終わるわけではないのだという単純な事実さえ、ただ1つの夢だけを追い続ける、ひたむきな心には思い浮かびもしないようだ。

(大丈夫だ、大丈夫…)

 まるで祈りのように、誓いのように呟きながら、レイフはこみ上げてくる震えを押し殺そうとするかのように、じっとりと汗ばんだ手を握り締めた。

(オレ達は負けやしない、負けない、負ける…ものか―でも、もし負けたら…?)

 考えまいとすればするほど、心の間隙を縫うように襲い掛かってくる、悲観的な考えに、レイフはともすれば挫けそうになった。

(畜生)

 ついに、堪え切れなくなったかのように、レイフは、食い縛った歯の間から苦しげな吐息を漏らした。

(ああ、もしも―今ここに、この手をしっかりと握り締めてくれる、あいつがいたなら、重圧に負けて今にも崩れ落ちそうな肩を抱いてくれる、あいつがいてくれたなら―!)

 一瞬激しい恐慌に駆られそうになったレイフは、他の仲間達には気取られまいと用心しながら、肩を大きく上下させた。

(しっかりしろ、何、甘えたこと言ってんだ、おまえはエースだろ?)

 レイフが恐る恐る目を開くと、吐き終えてすっきりした顔でドレッシング・ルームに戻ってきたショーンの姿が視界に入ってきた。

(ああ、オレもあんなふうに簡単に、不安や緊張を吐き出して、すっきりできたらいいのになぁ)

 にこりと笑いかけてくるショーンに手を振り返し、レイフは、きょろきょろと辺りの様子を窺った。

 そろそろ集合の合図がある頃だろうとフランクス・コーチを探したが、つい先ほどまで他のコーチ達と何事か話し合っていた彼の姿は、近くには見あたらなかった。

「なあ、コーチ、どこ行ったんだよ?」

 レイフは、傍を通りかかったチーム・メイトを呼び止め、怪訝そうに尋ねた。

「ああ、ついさっき、客だって、スタッフがコーチを呼びに来てたけど―」

「何だよ、こんな大事な時に客だなんて―」

 レイフが不愉快そうに眉を潜めた、その時、ドアが開いて、当のフランクス・コーチがにこやかな笑みをうかべて部屋に入ってきた。

「皆、集まってくれ」

 レイフはやれやれというようにベンチから起き上がり、他のチーム・メイト達と同じようにコーチにもとに行こうとした。

 しかし、コーチの後ろに続いてドレッシング・ルームに滑り込んできた、背の高い男の姿を見た瞬間、レイフは何かに躓いたかのように足を止めた。

 仲間達の間から、はっと息を飲む音がした。

「クリスター…」

 呆然と呟いたのは、誰だったろうか。

 教え子達が動揺を押し隠しながら徐々に集まってくるのを、フランクス・コーチは背中で手を組んで、辛抱強く待ち受けている。その斜め後ろに、穏やかな顔をして立っているのは、誰あろう、これまで一度も試合を見に来なかったクリスターだった。

 少年達の視線は、かつてのリーダーの上に一斉に集中したが、どんな反応をしたらいいのか分からない、かけるべき言葉が見つからないというかのごとく、皆、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしたり、もじもじしたりしている。

「あー」

 ぎこちなく見詰め合うばかりの彼らを見かねたのだろう、コーチがこほんと咳払いをした。

「どうしたんだ、皆? クリスターの顔を見忘れたか?」

 すると、気を取り直したらしいトムが、陽気な声で言い返した。

「忘れるわけないだろ、その顔なら、今でも毎日、飽きるほど見てんだからさ」

「ああ、違いない」

 幾分ほっとしたような笑い声が、そこかしこであがった。はりつめていた部屋の空気が、たちまち和んだものに変わっていく。

 レイフは、まだ声を出すことができなかったが、誰かが腕を叩いて前に出るよう促すのに、ほとんど無意識に従って、動いた。

「やっとここに戻ってきてくれたんだな、クリスター、長いこと待たせやがって」

 なじるような口ぶりの中にも親しみのこもった声をかける、チーム・メイトの頭の向こうに、クリスターのはにかむような笑顔が見える。

「ごめんよ、なかなか試合に足を運ぶ勇気が持てなかったんだ。けれど、せめて今夜くらいは、皆のプレイをこの目で見たくて、ここに来た。僕は―」

 かつて苦労も栄光も共にした、チーム・メイトに対する優しさと信頼を眼差しに込めて、クリスターは皆の顔を1人ずつ見渡した。その視線がレイフの上でとまった時、彼は琥珀色の瞳を僅かに見開き、何か言いたげに口元を震わせた。

「去年、君達と共に決勝戦を戦った時―」

 クリスターは顔をしゃんと上げて、メンバー1人1人の胸に届くよう、真摯な口調で語りかけた。

「僕は持てる限りの力を出し、あの一試合のために全てを捧げた。まるで力の限りを尽くしている時には、己の全てが研ぎ澄まされ、純粋で、あらゆるものから解き放たれて自由であるかのようにね。君達だって、あの時、同じ感情の昂ぶりを覚えたはずだろう?」

 賛同の声が皆の間からあがるのに、深く頷き返し、クリスターは続けた

「…残念ながら、今夜、ブラック・ナイツの一員として皆と一緒に勝ちを取りに行くことはできないけれど、僕は、君らの活躍をスタンドから見守っている。客席とフィールドに離れてしまうけれど、君らが味わう高揚の片鱗に触れ、そして、栄光の瞬間を君達ともう一度共有できたらと思っているよ」

 クリスターは、チーム・メイトへの激励の言葉を言い終え、最後にもう一度レイフに視線を送ると、後はコーチに譲るよう、素早く脇に退いた。

 時間は押してきていた。皆そろそろ、最後の闘いの待ち受けるフィールドに出て行かなければならない。

「さて」

 フランクス・コーチは、興奮と闘志を全身に漲らせた、輝く瞳の少年達を見渡すと、自信に満ちた泰然たる態度で、簡潔で明快な指示を与えた。

「フィールドに出たら、出し惜しみをせず、全力で試合を戦え。我々は必ず勝つ。それ以外のことは考えるな」

 スタッフの1人が、時間の来たことを告げにきた。コーチはもう一度、少年達に愛情のこもった眼差しを向け、言った。

「さあ、行って来い。恐れず、怯まず、自分達の力を信じてな」

 おおっという、ときの声をあげて、ブラック・ナイツのメンバーは大きく開かれたドアに殺到していった。その多くが、微笑みながら見送るクリスターの手を握り締め、肩を叩き、あるいは、見ていてくれといような声や合図を送っていく。

「レイフ」

 いきなりクリスターが自分の名前を呼ぶのに、その場にまだぼうっと立ち尽くしていたレイフは、はっと我に返った。

「ほら、おまえも行ってこいよ。エースが出遅れて、どうするんだ」

「う、うん…」

 レイフが慌ててドアの方を振り返ると、フランクス・コーチが微妙な表情でこちらの様子を見ていた。

「あ、すみません、コーチ、今行きます!」

 レイフは、慌ててベンチに置いたヘルメットを引っつかむと、ドアの向こうに消えていく指揮官を追いかけて、走り出しかけた。しかし、思い直したように足を止めて、クリスターを振り返った。

「ク、クリスター」

 レイフの顔が、さっと紅潮した。意を決した彼は、クリスターのもとに素早く駆け戻った。

「レイフ、どうした?」

 不思議そうに問い返すクリスターを、レイフは手を伸ばして引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。

「ありがとう、試合、見に来てくれて…今ここでおまえと会えて、オレ、すごく嬉しい…! オレにとって、何よりの励みになるよ」

「ああ」

 実際、クリスターとこうして言葉をかわすだけで、レイフは、もう何も恐くなくなっていた。クリスターが見ていてくれる、彼のために戦うのだと思えば、無限の力が体の底から湧き出してくるような気さえする。

「兄貴、オレ、オレ…絶対、勝ってくるから―見守っていてくれよ、この試合が終わるまで…」

 クリスターは、レイフの強引な抱擁に身を預けたまま、彼がたどたどしい口調で訴える言葉に、静かに耳を傾けている。

「そうして、クリスターとの約束通り、ちゃんと州チャンピオンになって戻ってきたら―オレ、その時、おまえに聞いて欲しい話があるんだ」

「話?」

 訝しげにレイフの顔を覗き込もうとするクリスターの頭を、レイフはぎゅっと肩に押さえつけた。戦いを前にした興奮のためばかりではなく、真っ赤になっている顔を彼に見られないように、今でも瞳から溢れだしそうな、本当の気持ちを彼に読まれてしまうことがないように―。

「うん、とっても大事なことなんだ。今はちょっと言えないけど、今夜の試合に勝てたら、オレ、きっとおまえに打ち明けるだけの勇気が持てる。だから、クリスターも、その時は逃げずに、最後までオレの話を聞いてくれよ」

 そう言いながらも、レイフは、このまま離したくない、少しでも長く触れることで力を奮い立たせようというかのごとく、クリスターを抱きしめ続けた。

「レイフ…分かったよ。さあ、おまえはもう行かなくては―」

 クリスターの優しい手が、促すようにレイフの肩を叩く。

「うん…」

 レイフは、まだクリスターとは別れがたかったが、そんなことも言っておれず、しぶしぶ身をもぎ離した。

「それじゃ、行ってくるよ、クリスター」

 照れくさそうに視線を逸らし、鼻の頭を引っかいて告げるレイフに、クリスターは愛情のこもった笑顔を向ける。

「僕は、ずっとおまえを追いかけているよ。おまえの活躍を全て、この目に焼き付けるつもりでいる。そう、一瞬たりとも見逃すものか…これが、僕とおまえの高校生活最後の試合なんだ。おまえも本当の本気を出して、思う存分戦っておいで、レイフ」

 これからスタンドに行って、たぶん両親や友人達と一緒に試合を観戦するのだろうクリスターを、レイフはちょっと切ない気分になって見つめた。

(本当なら、おまえは、こんな所に1人残って、オレを見送るはずじゃなかった、一緒に皆が待っているフィールドに向かうはずだったのに―)

 だが、それはもう、今更考えても仕方のないことだった。

 レイフは最後に、クリスターに屈託なく笑いかけながら親指を立てて見せると、くるりと背を向け、開いたドアの向こう、フィールドという戦場目指して、走り出した。

 絡み付いてくる何かを振り切るよう、通路を走り抜け、角を曲がると、黒い服装に身を包んだ観客が多く見られるアーバン校サイドのスタンドが初めて目に入った。

 ふいにレイフは、現実ではない、別の世界にでも迷い込んだような錯覚に襲われた。

 フィールドを照らす眩しいライトの中、レイフは、忘我の気分のまま、自分を待ち受けるチーム・メイト達に加わる。

(ああ、本当に、ここまで来たんだ。去年と同じこのフィールドに、オレ達は再び勝つため、戻ってきた)

 スタンドにこだまするブラック・ナイツという声援にぼんやり耳をかたむけているうち、レイフは、自分の中にふつふつと熱い闘争心が湧き上がってくるのを感じた。

(ああ、何もかも去年と同じだ。大丈夫、今度もオレ達は勝てる)

 敵側のサイド・ラインを眺めやると、ウォーム・アップをしている相手チームの選手が目に入った。部門別ランキングの上位に食い込む優秀な選手が何人もいるだけあって、その体格を一瞥しただけでも、手強い相手になるだろうことは予想がつく。

 しかし、彼らが何者であろうが、恐いとはもう思わない。

(クリスターが言ったように、オレの全てをこの試合に捧げ、力を出し切ればいい…そうすれば、必ず勝てる)

 瞬く間に戦闘モードに入っていく、レイフの顔つきは猛々しいものに変わり、琥珀色の瞳は、獰猛な肉食獣を思わせる金色に爛々と輝きだした。

(勝ってみせる!)

 コイン・トスの結果、オープニングのキックはブラック・ナイツが手に入れた。

 試合の開始直後、ブラック・ナイツは緻密さで定評のある攻撃で前進を続け、瞬く間に、レイフのランにより、最初のタッチ・ダウンを奪う。

 決勝戦ともなれば、大学のリクルーターの数も半端でなく多かったが、レイフは、彼らの貪欲な目に自分がどう映るかなど、全く頓着していなかった。

 彼の頭の中にあるのは、ただ1つ、この試合を勝ちたいという執念だけだった。

(そうさ、この後にくるものなんか、オレはもうどうだっていいんだ。カレッジの名門チームに入るとか、そこで4年、プロ・チームとうまく契約にこぎつけるとこまで何とか怪我もせずにがんばって、いい成績を残したいなんて、もう思わない。ここで勝てたら、たとえ怪我をして二度とプレイできなくなっても、たぶんオレは構わない。いつの間にか、オレにとって、フットボールはそれほど重要なものじゃなくなっちまった)

 戦いの興奮の最中にありながら、レイフの中の依然として冷めた部分は、そのことを自覚していた。

(ずっと、どうしてなんだろう、何で今までのようにフットポールに素直にのめりこめないんだろうって、不思議に思ってた。今じゃ、オレもエースとしての責任や何やら面倒なことを一杯しょいこんだせいで、無邪気に楽しめなくなっちまったんだろうって考えてた。このプレッシャーから解放されたら、また前のようにフットボールが大好きになるって…でも、そんなに簡単なものじゃないみたいなんだ)

 前半有利に試合を進めていくブラック・ナイツへは、観客席からの熱い声援が惜しみなく降り注がれる。空気を奮わせる、大勢の人々の声の響きも拍手も、レイフに去年の決勝戦を想起させていた。

 攻撃権をもぎ取って、新たなフォーメーションを組むために移動しながら、レイフは素早く観客席を眺めやった。

 どこに坐っていると別に教えられたわけでもないのに、レイフは、不思議なほど素早く、正確に、求める人の姿を大勢の観客でひしめきあうスタンドの中に見つけ出した。

 黒っぽい服に身を包んだ有象無象の只中、そこだけが真紅の火を上げて燃えているかのように、レイフにはっきりとその存在を伝えてくる。

(そう、どんなに遠く離れても、オレがおまえを見失うはずがない)

 レイフと同じ姿をした若者が、確かに、そこに立っていた。切り離されてしまった、置き去りにしてきた、レイフの魂の半分…。

(クリスター)

 レイフは奇妙な動揺が胸に走るのを覚えながら、きゅっと唇を噛み締めた。

(でもさ、おまえ、一体そんな所で何をしてるんだよ…? やっぱおかしいよ、何で、オレの傍にいないんだ?)

 何もかもが1年前のあの日の体験と酷似しているというのに、一番肝心な部分が、レイフの記憶とは大きく違う。

(そして、オレは一体、ここで何をしているんだろう? クリスターがいないフィールドに、エースとして立ち、必死になって戦っている、オレは…?)

 レイフは歯を食い縛りながら攻撃の構えを取り、己の前に立つ、QBショーンの背中を睨みすえた。

 ふいに、その背中が別の者の背中とだぶって見えるのに、レイフは愕然と目を瞬いた。

 それは、QBとしてレイフの前に立ち続けた、クリスターの頼もしい背中、彼が常に見続け、共にありたいと願い続けた兄の後ろ姿だった。

(ああ、やっぱり…何もかも、去年とは変わっちまったんだ。この試合も、オレにとってのフットボールの意味も―)

 ヘルメットの陰で、レイフは人知れず、ほろ苦い笑みをうかべた。

(それなのに、オレは、どうして戦っているんだ? 何のために勝とうとしている? 一生懸命努力しても、それで、オレは何をこの手に掴めるのか…)

 ふと、何か冷たいものが腕を濡らすのに、レイフは雨が降り始めたことに気がつく。

 この雨を受けて冷たいと感じるのは、フィールドにいようが、スタンドにいようが、同じはずだ。

 レイフが味わう闘いの昂揚は、スタンドにいるクリスターの胸にもきっと伝わって、その体を熱くするだろう。

(そうだ、今、オレの全てをクリスターが見てるんだ。あいつの前で、生半可なプレイなんかできるものか、オレはあいつの分も、思う存分暴れまわって、完全燃焼してやる。そうすりゃ、あいつもきっと…フィールドにはいられなくても、少しは気持ちよくなれるよなぁ)

 これは、レイフとクリスターの高校時代最後のフットボール・ゲームだ。2人にとって大切な一戦を、悔いの残る思い出にはできない。

(クリスターがいないという現実が変えられないものだとしても、オレはこの試合に勝ちたい。だって、あいつがオレにそれを望んでいるんだから―フットボールで天辺に立つっていうのが、オレ達が長い間、一緒に追い続けた夢だから…)

 一瞬鎮火しかかったレイフの瞳に、再び激しい闘志が灯る。身の内に力が漲り、冬の雨の冷たさも、激しいプレイによる疲れも一気に吹き飛ばす。

「SET」

 攻撃再開を告げるショーンの声が、フィールドに響き渡った。

「HAT、HAT…HAT!」

 レイフは力一杯地を蹴って、クリスターと自分、2人の最後の夢に向かって猛然と駆け出した。




 必死になって努力すれば、叶えられない夢などない。

 力の限りを尽くせば、きっとどんな困難な道程も乗り越えて、あの栄光に満ちた頂点に辿りつける。

 だが、その夢が叶った時、目指した頂上に立った時、オレが見つけるのは、果たして、オレが本当に欲しいと思うような何かなのだろうか…?




 長いようでいて実際にはとても短かった、夢に見続けた場所での闘いが終わった後、レイフは1人、ぐっしょり濡れたフィールドに長いこと立ち尽くしていた。

 試合が終了した途端強くなった雨足に追われるよう、スタンドを埋め尽くしていた観客達の大半は、既にスタジアムを去っていた。

 残っていた者がいたとしても、照明のほとんど落ちたフィールドの片隅に、黒っぽいフードつきのジャージーに着替えてぽつんと佇む、赤い髪の青年に注意を向けることはもはやない。

 今年の大会は終わったのだ。 

(ここは、夢のフィールド…ブラック・ナイツの―オレとクリスターの…)

 何を思ったか、レイフは濡れたフィールドにぺたんと腰を下ろし、そのままごろりと仰向けに横たわった。

 瞬く間に冷たい水が服に染みてきたが、燃焼しきった体はまだ熱く、体温が急速に奪われていくことも、レイフは気にならない。

 雨が降ってくる暗い夜空の彼方を見透かすよう、彼はじっと目を凝らした。

(ああ、これで本当に何もかも終わっちまった。この4年オレ達を駆り立ててきた、大きな目標はなくなっちまった)

 目の奥から熱いものがこみ上げてくるのを覚えた、次の瞬間、見開いた両目から涙がぽろぽろとこぼれ出した。

「レイフ」

 フィールド・ハウスの方から己を呼ぶ声が聞こえたが、レイフは応えず、何もない空を睨み続けた。

 やがて、濡れた地面を歩く足音が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。いつまでも起き上がる気配のないレイフを心配して、迎えに来たらしい。

「何をやってるんだ、おまえは…」

 呆れたような声がするのに、レイフが目だけを動かすと、すぐ傍に佇んでいるクリスターの姿があった。黒っぽいコートを着て、傘はさしていない。

「いつまでここにはへばりついている気だ。他の連中は皆、バスに乗り込んで、おまえが戻ってくるのを待っているぞ」

 レイフの顔が、雨だけでない、別の水で濡れていることに気付いたのか、クリスターは口調を柔らかくした。

「もう行こうよ、レイフ。そのままじゃ、いくらおまえでも風邪をひくぞ」

 レイフの目に映るクリスターの顔が、ふいにぼやけて、見えなくなった。

「クリスター、オレ…ごめんよ、オレ―」

 レイフは涙にむせながらクリスターに謝ろうとしたが、こみ上げる悲しみに喉が詰まって、言葉にならない。

「謝ることなんてないよ、レイフ、おまえはよくやった。今までで最高のプレイを、今夜おまえは僕に見せてくれた。試合の間、皆の視線はおまえに釘付けだったよ。あれは僕の弟なんだと…僕がどんなに誇らしかったか、想像できるかい?」

 クリスターの優しい言葉は、しかし、レイフをますます居たたまれない気分にさせた。

「でも、結局勝てなかったなら、いくらいいプレイをしたって意味がない…!」

 レイフは激しく頭を振り、涙を迸らせながら、強い口調で言い返した。

「絶対優勝してみせるって約束したのに、本当にあと少しで勝てそうだったのに、最後の最後で逃しちまった…畜生、畜生、悔しい、悔しい! ああ、オレのやることって、ほんとツメが甘いよなぁ」

 最後には悔しいのを通り越して泣き笑いのような顔になりながら、自分を執拗に責めるレイフを、クリスターは辛抱強く慰める。

「いいか、レイフ、おまえもチームの皆も、惜しむことなく全力を尽くして戦ったんだ。何一つ、恥じることも、後悔することもない。実際、今夜の決勝戦は、どちらが勝ってもおかしくないくらい、とてもいいゲームだった…今シーズンで一番の名試合だったと、スタンドのいた皆も口をそろえて言っていたよ」

「でも、オレ、勝ちたかったんだ。クリスターにもう一度、天辺に立ったブラック・ナイツの姿を見せてやりたかったんだよっ」

 レイフは、圧倒的な哀しみに胸ふたがれて、両手で顔を覆い泣きじゃくった。

「子供みたいに泣くなよ、レイフ」

「別にいいじゃないか、兄貴以外は誰も見てないんだからっ。オ、オレは、ずっと我慢していたんだ。例え試合に負けたって、エースはエースだから―最後までちゃんと責任は果たそうと思って、テレビとか雑誌のインタヴュアーの質問にもしっかりと答えた。ほんとはすぐにでも独りきりになって泣きたかったのに、平気な顔して、がんばったんだ。そうして、ようやっとオレは解放されたんだから、今は泣きたいだけ泣いていいだろっ」

「…そうだね」

 ぴしゃんと水が小さく跳ねる音がしたので、びっくりしたレイフが顔から手を離すと、クリスターが彼の傍に跪き、その顔を覗き込んでいた。

「でも、レイフ、僕は今夜、優勝するよりいいものを見せてもらったと思っているよ。おまえの実力を、本当の本気を見られたんだ。ありがとう、レイフ、僕は心から満足しているよ」

「兄さん」

 クリスターの手がレイフの手首を掴み、引っ張った。レイフはやっと地面から上体を起こし、優しく微笑みかけてくるクリスターの顔をじっと見返した。

 瞬間、レイフは、自分の中で、ふっつりと何かが切られたように気がした。

「終わった…終わっちまったよ、オレの…オレ達のフットボール、今夜でもう全部終わっちゃったよぉっ…」

 レイフはクリスターに抱きついて、わんわんと大声をあげて泣いた。これまで胸の中に溜め込んでいたものを全て吐き出してしまおうとするかのように、顔をぐしゃぐしゃにして、泣き続けた。

「レイフ、レイフ、今夜の試合が終わったって、それで世界が終わるわけじゃない。むしろ、おまえのフットボール・プレイヤーとしての道は、これから大きく開けていくだろう。これは、その前のちょっとしたほろ苦い経験でしかないんだよ」

 クリスターはレイフの肩をあやすように叩きながら、穏やかにかき口説いている。その声は、どこまでも優しく、温かく、深い満足とある種の幸福感に満ちてさえいた。

 クリスターの意識は既に、この試合の後、レイフに訪れるだろう大きなチャンスに向けられているようだ。その点、レイフの心情とは大きくかけ離れていた。

(たった一つの試合の終わり? ちょっとしたほろ苦い経験…? 違う、クリスター、違うんだ…オレが、終わっちまったと泣き叫ぶくらいに哀しいのは―)

 どうしてクリスターには分からないだろうともどかしくてならなかったが、それを口で説明するには、レイフはまだあまりにも取り乱していた。

 今のレイフは、クリスターの腕に身を預け、声にならない嗚咽をあげながら、名状しがたい喪失感を噛み締めることしかできなかった。

「こんな所で立ち止まって、泣き続けることなんてない。おまえはこれからもずっと、フットボールを好きなだけ続けられる。もっと大きな舞台で、もっと大きな勝利を掴む機会は、いくらでもあるんだ」

 今大会のMVPは、どうやらレイフが取ることになったらしい。昨年クリスターが予言したことが現実になったわけだ。しかし、それについて、レイフ自身は、あまり嬉しいとは感じなかった。大学リクルーター勢が己に与えた最高の評価も、気にならなかった。

(オレにとってのフットボールは終わった。いや、それはもうとっくに終わってたんだ。今夜、はっきりそのことが分かったんだよ、クリスター)

 1年前のあの日、初めて州チャンピオンとなった瞬間、このフィールドで、レイフはクリスターと並んで立ち、勝利の喜びに浸っていた。

(あれが、フットボール・プレイヤーとしてのオレの最高の時だったんだ。たとえこの先、カレッジやたとえプロの世界に入って、どんなに大きな試合を戦って、勝利を掴んだとしても、オレは、1年前のあの時と同じほどの感動は覚えないだろう。たとえ、どんなに素晴らしい仲間達に恵まれ、オレ自身まだフットボールを愛しているのだとしても、この胸が完璧に満たされることは二度とないだろう―そこに、おまえがいないなら…)

 いつまでも自分にしがみついて泣き止もうとしない弟を、クリスターは驚くべき忍耐力を発揮してなだめながら、何とか立ち上がらせた。

「さあ、皆の所に戻ろう、レイフ」

「う、うん」

 ようやくレイフは、クリスターに支えられるようにして、フィールド・ハウスの方によろよろと足を踏み出した。

 ふと顔を上げると、一度は先に立ち去ったものの、いつまで経っても来ないレイフを心配したらしい、トムやショーンが入り口の向こうから遠慮がちに顔を覗かせているのに気がついた。

「やべ、大泣きしているの、見られちまった」

「おまえがもともと泣き虫なことなんか、皆知ってるよ」

 レイフは唇を尖らせてクリスターを軽く睨んだ後、彼の腕から身を離し、トム達の方に手を振った。

「ねえ、レイフ…さっき試合の前に、僕に聞いて欲しいことがあるって言ってたけれど―」

 クリスターの躊躇いがちの言葉に、レイフははっと息を吸い込んだ。

「話していいよ。逃げずに、聞くから…」

 ぱらぱらと降りしきる冷たい雨の中、クリスターは真摯な眼差しでレイフを見つめ、佇んでいる。

(優勝できたら、その時、クリスターにオレの本当の気持ちを話そう。約束をちゃんと果たせたら、愛してるって、伝えられるだけの勇気もきっと持てる)

 自分がつい数時間前に固めた決意を思い起こし、レイフは、切なげに瞳を揺らした。くしゃっと顔を歪めて笑うと、その瞳からまた少し涙がこぼれた。

「ごめん、オレ―今はちょっと無理…みたい…」

 何かがつかえたように、それ以上声を出せなくなるレイフに、クリスターは理解に満ちた顔で頷いた。

「そうか。いいんだよ、レイフ、落ち着いて、ちゃんと話ができるようになったら、いつでも僕の所においで。おまえは、僕にとって、この世の何よりも大切な弟だ」

 クリスターはレイフの頭に軽く手を置き、ごくさりげない調子で、囁いた。

「…愛しているよ」

 きゅうっと、レイフの心臓が切なく、苦しく、締め付けられる。

「うん」

 レイフは紅くなって俯き、手の甲で目の周りや鼻を乱暴にぬぐうと、クリスターと並んで、ゆっくりと歩き出した。

 最後に一度だけ、立ち止まり、レイフは後ろを振り返った。

 過ぎ去りし夢のフィールド。

 クリスターの前で散々泣いたせいだろうか、荒れ狂っていた感情はようやく鎮まったものの、今度は全身をひしぐような空虚に襲われていた。

 今のレイフは、今シーズンの話題を集めたフットボール選手ではなく、これから先どうやって生きればいいのか分からず途方に暮れる、ひとりの高校生だった。

 しかし、この哀しみと虚脱感もじきに薄れていくだろう。そうすれば、これからどうするのか、考えることもできるようになるかもしれない。

(ああ、今から1年後、オレは一体どこで何をしているんだろう…?)

 急に寒さを意識して、ぶるっと身を震わせるレイフの手をクリスターが掴み、しっかりと握り締めた。

「大丈夫だよ、レイフ」

 クリスターの手は温かだった。触れている部分から、クリスターの体温が伝わって、レイフを少しばかり元気にしてくれた。

 レイフは素直にこくんと頷いて、クリスターに導かれるがまま、もう誰もいない、三ヶ月に及ぶ全ての熱狂の過ぎ去ったフィールドを後にした。


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