ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第7章 FAKE
SCENE10
シーズンが終わった後、フットボール・チームのメンバーは皆、それぞれ学業や他の関心事に移っていき、ばらばらになっていった。
特に、今季限りで引退となったシニア達は、いよいよ学生としての現実、進学問題に本気で取りかからねばならず、かつての固い結束も次第に過去のものになりつつある。
チームの内の何人かは、希望する大学にスポーツ推薦で入れそうだが、多くはやはり、一般の学生と同じような手続きを踏まなければならない。
そんな中、レイフの周囲は、いまだに騒がしかった。
優勝校の選手を押さえ、今シーズンのMVPを取ったレイフは、その後スポーツ専門誌の全米ベスト選手にも選ばれた。今や、どの強豪大学が彼を獲得するかに、皆の関心も移っている。
実際、テキサス大学、ノートルダム大学、ミシガン大学等、フットボールの名だたる名門チームを抱える大学からの電話や手紙、時には家庭訪問による熱い勧誘は、一向に収まる気配もない。
レイフがまだどこの学校に進みたいと明言せず、具体的な条件を口にするわけでもないことが、一層彼の争奪戦に拍車をかけていた。
昨年には州チャンピオンに輝き、今年は惜しくも逃したものの、強いフットボール・チームを擁するということでアーバン校は知名度をあげた。得意満々の校長によって、学校の宣伝活動にも、フットボール・チームの活躍は使われるのだろう。
当然、エースとしてチームを支えたレイフは、校内ではヒーロー扱い。おまけに、雑誌やテレビで取り上げられたせいか、時々怪しげな記者や学校関係者以外のファンがカメラ片手に校内をうろつく姿も見られた。
ハンサムでスタイルがよくて、性格も人懐っこくて可愛いので、一部でちょっとしたアイドルのような人気が出たらしい。
それまであまり女の子に好かれた経験のないレイフは、『人生最大のモテ期』を迎えても、浮かれるどころか戸惑い気味で、普通の高校生に戻りたいと半ば本気で友人達にもらしていた。
レイフが自分の置かれた状況の目まぐるしさに適応できずにいるうちに、周りの友人達は次々に大学の申し込み手続きを終え、フットボール・チームの中で、レイフと同じように推薦のもらえた選手も契約をすませた。
とっくに願書を提出し、面接の手ごたえも上々だったクリスターは、余裕の構えで合否結果が送られてくるのを待っている。
そんな中、レイフだけが、まだ正式にどこの大学に入るとも返事をしていなかった。
レイフにしても、本当は、頭の中には希望する大学、カレッジ・チームがないわけではなかった。以前から気になっていたテキサス大学は、一度クリスターのスカウトに訪れたシュミットが、ラースの大学時代のチーム・メイトで、レイフがもしテキサスに来るなら自分の息子のように世話をしようと約束してくれていたし、何より、そこのコーチに惹かれていた。それから、ネブラスカ大のスカウトは、レイフがこれほど注目を集める前からその才能を買っていて、とにかく熱心な勧誘に、レイフも心が動いていた。
しかし、レイフは、家を出ることにも、この土地を離れることにも、なかなか踏ん切りがつかなかった。
クリスターが地元の大学に進学し、レイフがテキサスなりネブラスカに行ったとなると、彼ら双子兄弟は、生まれて初めて離れ離れで暮らすことになる。一体どのくらいの頻度でクリスターと会えるのだろうと想像すると、正直、レイフは恐かったのだ。
それに、レイフは、カレッジでフットボールを続けることそのものに、以前ほどの興奮を覚えなくなっていた。
アルバイト先の獣医のケンに、つい、『動物のお医者さんになるには、どれだけ勉強しなくてはならないのか』と尋ねてしまうほど、これまでひたすらまっすぐに突き進んできた、将来の展望が見えなくなっていた。
別に、本気で獣医になりたい訳でも、プロ・フットボール・プレイヤーになるのが嫌になったわけでもないが、レイフの迷いは一向に晴れなかった。
そんな具合に、レイフが去就を決められないでいるうちにも年は明け、学校も二学期に入った。この頃になると、さすがに進学指導のカウンセラーやラースも本気で心配し始めた。
『一体、何を迷っているというんだい、レイフ? 考える時間なら、充分あったはずだろう? いくら先方が君を欲しがっているからと言って、こうも返事を先延ばしにしては、我慢の限界がくることになりかねない。大体、君はプロ選手ではなく、高校生なんだ。スポーツができるから優先的には入れるとはいえ、大学はそもそも勉強をするところなんだよ、その辺りを君ははきちがえていないかね?』
『なあ、レイフ、心配なことがあるなら、ちゃんと説明してくれ。父さんは、昨日もシュミットから電話でせっつかれたぞ。おまえの将来に関わることだから、よく考えて、おまえにとって一番いい大学に行ってほしいが、それにしたって、もう一月だ。そろそろ決心しても、いい頃だぞ?』
そんなふうに、周囲からプレッシャーをかけられても迷いは吹っ切れず、精神的にかなり追い詰められてきたレイフは、思い切って、クリスターに悩みを打ち明けるとこにした。
これまでクリスターは、レイフの進路について、一切口を挟もうとしなかった。あれほどレイフがカレッジ・チームに進むことを望み、チャンスが来たことを我がことのように喜んでいた兄なのに、何も言わないことが、レイフにとっては意外でもあり、寂しかった。
(まあ、オレも、クリスターに進路の相談なんて持ち掛けなかったけれどさ―だって、そうするといよいよ現実として自覚しなきゃならなくなる、オレとクリスターが、別の大学、それぞれの将来に続く別の道を歩いていくんだって―)
フットボールに熱中している時はそれほど意識しなかったが、いよいよレイフとは異なる自分の道を歩き始めたクリスターは、いつの間にか遠い存在になってしまっていた。ダニエルとの別れの際、心を通わせあうことができた記憶も、この頃では夢のようだ。
今でも一応同じ学校に通ってはいるのだから、たまにはクリスターの姿を校内で見かけることはある。しかし、今彼の周囲にいるのは、レイフの知らない生徒ばかりだ。クリスターと同じクラスを取っているのだから、優秀なエリート達ばかりなのだろう。そんな連中に取り囲まれたクリスターは、レイフにとっては近づきがたく、他人のように余所余所しく感じられた。クリスターの方も、レイフの存在に気がついたとしても、ただ遠くから視線を投げかけるだけで、決して近づいてこようとはしない。
(クリスターがどんどん遠くなっていく。このまま高校を卒業して、離れ離れになってしまったら…オレ達は、二度ともとには戻れなくなるんじゃないだろうか…? クリスターはハーバードのエリート街道まっしぐらで、オレはずっとフットボールばかりして、久しぶりに会う度に、心も体も似ているところは少なくなって―そんなの、嫌だ、嫌だよ。でも、実際問題、いつまでも、このまま答えも出さずに、ぐずぐずしているわけにもいかない)
レイフはクリスターの部屋の扉を切なげな目でしばし眺め、それから、思い切って、ノックをした。
「兄貴、オレだけど、ちょっといいかな?」
今夜は久しぶりに、クリスターも一緒に、家族でテーブルを囲んで夕食を取った。その席でも、レイフはラースに進学について追及されて困っていたので、クリスターにも今レイフがやってきた理由は察しがつきそうだった。
「ああ、入っておいで」
クリスターの声には、やはり、レイフの訪れを予期していたような響きがあった。
レイフは心を静めるために、すうっと深呼吸をした。
(オレは今、迷いを捨て去ろうとしているのか。それとも、一番大切なものを諦めようとしているのか―?)
レイフが思い切ってドアを開くと、クリスターは学校の授業のレポートか何かを書きかけていた手をとめて、こちら側に体を向けた。
怪我をした右腕は、こうして見る限り、支障なく動くようで、レイフをほっとさせる。しかし、用心のためか、ボクシングもやめているので、レイフには、クリスターがどの程度回復しているのか、正確なところは分からない。
身の内から湧き上がる熱を吐き出すようにスポーツに打ち込んでいた頃の猛々しさは、今のクリスターからはほとんど消えていた。少し痩せた顔は、ヘレナによく似た知性が前面に出て、ひんやりと冷たげだ。
(こいつは、本当にオレと双子だろうか…?)
レイフは急に不安に駆られて、確かめるように、自分の顔にそろりと指先を滑らせてみた。
「随分深刻そうな顔をしているね、レイフ?」
レイフは慄いたように目を閉じた。
(ああ、でも、この声は変わってない…オレのクリスターだ)
レイフは後ろ手でドアをしめると、黙ってクリスターのベッドに近づき、その端に腰を下ろした。クリスターは椅子を引き寄せて、そんなレイフの前に坐った。
「さっき父さんと言い合った話の続きかい?」
「うん…まぁ…」
レイフが言いにくそうに口ごもるのを見て、クリスターは困った奴と言いたげな溜息をついた。
「父さんがイライラするのも無理はないと思うけれどね。この期に及んで、一体何を迷っているんだい? 条件を引き上げようとか、そういうつもりでもないだろう?」
「ち、違うよ…何だか、車やアパートメントやら、高価なオプションがついてくるってことをにおわすスカウトもいたけど、オレ、そういうの好きじゃないし…いい環境で思う存分プレイできたら、それで充分だよ」
「それじゃ、おまえの期待する、いい環境って、どんなものなんだい?」
「そりゃ、いい仲間にコーチがいて…やっぱボウル・ゲームに出られるくらい強いチームがいいよ。ネブラスカ大やマイアミ大にも惹かれたけど、やっぱ、テキサス大とかいいかなって思ってるけど…」
クリスターは深く椅子に坐ったまま、顎の下で指をピラミッドの形に組み、じっとレイフの目を見据えた。
「そこまで固まっているのなら、なぜ、いつまでも返事を先延ばしにするんだい?」
柔らかな口調ながら、核心の部分に食い込まれて、レイフはうっと言葉に詰まった。
「だって―だってさ、テキサスって南部だよ、こことは随分土地柄も違うだろうし、第一遠すぎるよ。めったに帰ってこられないかも知れないじゃないか…?」
「おいおい、高校を卒業したら、おまえはもう一人前の男なんだぞ? 知らない土地に1人で行くのが心細いなんて、子供じみたこと言うなよ」
突き放すように言うクリスターに、思わずかっとなったレイフは、激しくなじるような口調で、食い下がった。
「そ、そう言うおまえは平気なのかよ、クリスター? オレ達今まで、離れ離れになって暮らしたことなんて、なかったじゃないかっ?」
クリスターはレイフの眼差しを避けるよう顔を俯け、膝に置いた手を組んだり解いたりしながら、低い声で言った。
「どこの家の兄弟だって、そのうち独立すれば、家族とは離れて暮らすようになるものさ。確かに、最初のうちは寂しいし辛いかもしれないけれど、僕達だって、そのうち慣れるよ」
クリスターは、まるで、レイフに対してだけでなく、自分にもそう言い聞かせているようだった。
「クリスター…」
レイフはきゅっと唇を噛み締めて、黙然と考え込んでいるクリスターを見返した。
(そのうち慣れる? それだけかよ、もっと他に言うことあるだろ、オレがいなくなっても、おまえ、本当にいいのかよ?)
レイフは身を乗り出すようにして、クリスターの反応を探ったが、彼の伏せられた顔には、諦めたような虚無感が漂うばかりだった。
(どうして―?)
2人の間に、気まずい沈黙が漂った。
「オ、オレさ、この間、ケンに聞いたんだ、獣医になるにはどうしたらいいのかって」
いきなり、レイフが話の流れを大きく変えて口走るのに、クリスターは怪訝そうに顔を上げた。
「獣医…? 何だよ、それ…?」
「う、うん、やっぱり大学って勉強するとこだろ、せっかくだから、オレも将来に生かせるようなことを一応学んでいた方がいいのかなって、この頃ちょっと思うんだ。もちろんプロにはなりたいけど、途中で怪我することだってあるかもしれないし…オレ、動物好きだから、獣医なら、なってもいいかなぁって…」
わざと明るく何でもないことのように言いながら、レイフは、クリスターの様子を内心びくびくしながら窺った。
フットボール選手になること以外の将来など考えなかったレイフが、こんなことを突然言い出した心情を、クリスターは測りかねているようだ。
「ケンから聞いただろうけど、大変らしいよ…医学か生物関連のコースを初めに取って、そこから獣医学部を受けることになるのかな。医学部より難関だと聞いたけれど…目指すなら、よほど本気で取り組まなければならないと思うよ」
あくまで現実的なクリスターの指摘に、レイフはしょんぼりと肩を落とし、困ったように頭をかいた。
「うん…そうだよな、やっぱ無理かなぁ。オレ、今までフットボールばかりで、勉強はいい加減にしてたし―こんなことなら、ちっとは勉強にも身を入れとくんだったなぁ」
「フットボールに取り込むのと同じほどの本気を発揮できるなら、不可能ではないと思うよ。おまえは、好きなことや興味のあることに関しては、すごい集中力を発揮するからね。フットボールなら、どんなに複雑な作戦だって、おまえ、一度の説明で飲み込むじゃないか? ただ―おまえが今になってそんなことを言い出した理由が、ちょっと気になるけれどね…まあ、ここまで来れば、ただの夢じゃなくて現実としての細かい部分が色々見えてきて、これまで気にならなかった些細なことが不安になってきたのかな…?」
クリスターは顎に手を添えて、じっと考え込んでいる。
(だって、仕方ないだろ。このままフットボールを続けたって、オレは、おまえと一緒に優勝した時のような高揚感は二度と得られないだろうって、分かっちまったんだ。カレッジもプロになるって夢も、今じゃ少し色あせちまったんだよ)
しかし、そんなことを、自分に夢を託してフットボールを断念した、この兄に言えるはずもなく、レイフは切ない気分で黙り込んでいた。
「これから先どう生きれば分からずに途方に暮れているのは、僕ばかりではなかったようだね。おまえはいつも、まっすぐひたむきに夢に向かって突き進んで、それは決してぶれないとばかり思っていたけれど―」
感慨深く呟いた後、クリスターはレイフを正面から見据え、真剣な口調で諭しにかかった。
「でも、そんな迷いは一時的なものだと思うよ、レイフ。おまえが子供の頃からずっと追いかけてきた夢に、やっとここまで近づいたんだ。不安がらずに、思い切って飛び込んでいけば、おまえの望むような道は開けるはずだ。おまえには実力がある。せっかく掴んだチャンスを、今は生かすことだけを考えるべきだよ」
クリスターの確信のこもった眼差しを受け止めるのは、今のレイフには辛かった。いくら兄に励まされても、夢に対する情熱をかき立てられない自分に、落ち込むばかりなのだ。
(少し前のオレなら、もちろん嬉しくて有頂天になっていただろう、大チャンスなんだろうけどさ…ああ、こんなはずじゃなかったのにな)
レイフが子供の頃からずっと思い描いていた夢の中では、クリスターが常に彼の傍にいた。どんなに望んでも、それはもう叶わない。
「なあ、そういや、クリスターはハーバードに入って、その先、どうするんだよ? 何を勉強して―将来は何になりたいとか、考えてるのかよ…?」
レイフの思わぬ切りかえしに、今度はクリスターが痛い所を突かれたというかのごとく、びくっと肩を揺らせた。
「兄貴は賢いし、その気になったら、何にでもなれそうだもんなぁ。むしろ、才能がありすぎて、なかなかひとつに絞れないんじゃないか?」
「まあ、僕みたいな手八丁は、何でも適当に器用にこなすけれど、結局どれひとつものにできないというのが現実に近いんだけれどね―今も、いくつか興味のあるクラスはあるけど、将来にどうつなげるとか、まだ、そこまで具体的なことは決めてないよ。学問としての心理学は好きだけれど、やっぱり僕は、セラピストとかには向いてないと思うし―ああ、そうだ…!」
何を思いついたのか、クリスターの声の調子が、ふいに弾んだものになった。
「いっそ、医者になろうかな…」
いきなり何を言い出すのかと、今度はレイフが目を丸くした。
「オレが獣医なんて言ったから、張り合おうってのかよ。まあ、おまえなら、苦労せず、獣医でも人間相手の医者でもなれそうだけどな」
「スポーツ医学を学ぶんだよ。うんと腕のいい医者になって、そうしてさ、いつかおまえが―プロのフットボール選手になったら、僕が主治医になってやるよ。いい考えだと思わないかい?」
遠い目をして、そんな本気なのか冗談なのか分からない話を楽しげにするクリスターに、レイフは半ば戸惑いつつ、適当な相槌を打つ。
「ふうん…兄貴がオレの専属ドクターになってくれるなら、何かと心強いし、安心だろうけどさぁ」
レイフの賛同に、クリスターは目を輝かせ、更に熱っぽく語り続けた。
「だろ? おまえが所属するチームのホーム・グラウンド近くにある病院に勤務して、そのうち開業するんだ。おまえが怪我しないように、体調を常に整えていられるように、僕がずっと診てやるよ。お互い近くに家を構えてさ…いや、その頃には、僕達はまた一緒に暮らせるようになっているかもしれないね、きっと、そうだよ。たとえ今は遠く離れ離れになってしまっても、大学を出るまでの数年間の辛抱じゃないか…あ…」
クリスターはふいに我に返ったような顔になり、口をつぐんだ。束の間明るさを取り戻した顔が、見る見るうちに、再び暗く閉ざされていく。
「ク、クリスター…?」
心配になったレイフが伸ばした手を振り払い、クリスターは己の体を抱くようにしながら、やけに神経質な声をたてて笑った。
「馬鹿だな、一体何を言ってるんだろう、僕は…別に医者になるつもりなんてこれっぽっちもないのに…大体、そんな先のことなんて―僕たち2人とも、どうなっているかも分からないじゃないか。もしかしたら、おまえは他に大切な人を見つけて一緒に暮らしているかもしれない、その頃には、僕のことなどもう必要としなくなっているかもしれない…」
自嘲するよう呟くクリスターを見ているうちに、レイフは何だか堪らなくなってきた。気持ちが昂ぶるまま、べッドから跳ね起き、クリスターの肩を強く掴んだ。
「兄さん…!」
クリスターがはっと身を固くしながら、顔を上げる。
「なあ…どうしても―どうしても、離れなきゃならないのか…? このまま一緒にいちゃ、駄目なのかよ? 何年も先の夢物語よりも、オレは今、おまえに傍にいてもらいたいのに―」
レイフが切々と訴えると、クリスターは苦しげに顔を歪め、こみ上げてくる何かを堪えるよう、唇を噛み締めた。
クリスターの手が上がり、肩を掴みしめるレイフの手を振り払おうとするが、レイフは逃がすまいと一層力を込める。
すると、クリスターはもうレイフの手をほりほどこうとはしなくなったが、ある意味分かりやすい拒絶よりもレイフを途方に暮れさせる、暗く空虚な目を向けてきた。
「現実を見ろよ、レイフ。僕とおまえがずっと一緒に暮らし続ける理由なんて、もうどこにもないじゃないか…? フットボール以外に、僕らが共有できるものが他にあるというのかい?」
今の自分を見ろと言いたげに両手を広げるクリスターを前に、レイフは泣きたい気分になった。
フットボールは、クリスターとレイフにとって、唯一、共有することのできる世界だった。そんなことは、もう随分前から分かっていた。
他には、2人が関心を持つ分野、得意なこと、友人や仲間達、何一つ重なる部分はない。
フットボールを離れたクリスターが、日々何をし、考えているのかさえ、レイフにはほとんど把握できない。
それでも―。
「理由なんか―理由なら、ちゃんとあるよ…!」
レイフは声を詰まらせながら、言い返した。
(おまえを愛しているから一緒にいたいって、それだけじゃ駄目なのか? どうしても、許されないのか、オレ達が兄弟だから―?)
クリスターは、レイフが必死に伝えようとしている何かを敏感に感じ取ったのか、慄いたように目を見開いた。
「レイフ…?」
「オレさ、オレ、決勝戦の前に、兄さんに言ったよな…どうしても話したいことがあるって、逃げずにちゃんと聞いてくれって―優勝したら打ち明けようなんて自分に言い聞かせてさ、惜しい所で負けちまったから、その後はどうしてもきっかけがつかめなかった」
触れたクリスターの肩から、緊張と惑いが震えとなって伝わって、レイフの心臓の鼓動を速くする。
「…ああ、覚えているよ」
クリスターは、レイフの眼差しに耐え切れなくなったかのように、目を閉じた。一呼吸ついて気持ちを静めると、再び目を開けて、まだ少し躊躇いながらも、勇気を奮い起こしたように言った。
「おまえが話せるようになったら、いつでもおいでと僕は答えた。逃げずに、ちゃんと最後まで聞くからって―」
クリスターは動揺を鎮めようとするかのごとく手を握り締め、レイフの言葉をじっと待ちうけている。
「クリスター、オレ…」
レイフは喉をごくりと鳴らして、クリスターの張り詰めた顔を見つめた。
何度も何度も、頭の中でシミュレートしたはずなのに、いざとなると全て吹っ飛んでしまって、なかなか言葉になって出てこない。
それでも、レイフはたどたどしくも懸命に、自分の気持ちを伝えようとした。
「オレは、おまえと…この先もずっと一緒に歩いていきたいんだ。オレのパートナーはクリスターだけだから…どうしても離したくない、だって、オレはおまえを―」
レイフの心臓は、今にも爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされている。体は火がついたように熱く、今にも震えがきそうだった。
だが、その時、レイフの耳はドアの外のごく小さな物音を捕らえた。
レイフにひたすら向けられていたクリスターの目が、はっと我に返ったように瞬きをし、素早くドアの方に向けられる。
(あ…)
レイフは、クリスターの肩を掴んだまま、喘ぐように肩で息をついた。
クリスターのことだけを考えて、激情で溢れんばかりだった胸に、しんと冷たいものが突き刺さった。
「ク、クリスター…」
ドアの外も気になったが、ここまで言いかけたのなら、いっそ思い切って最後まで言ってしまえと、更に言い募ろうとするレイフの口を、クリスターの手がそっと封じた。
「おまえには無理だよ、レイフ」
現実を思い出したらしいクリスターは、ひどく優しい口調でそう囁いた。瞬間、レイフの頭の中は真っ白になった。
「おまえには、たとえ僕と2人で幸せになれたとしても、それによって傷つくだろう、他の人達のことを忘れてしまうことはできないよ」
クリスターは俯き、辛そうに唇を震わせた。
「目を覚ませよ、レイフ、僕達は、どこまで行っても兄弟でしかありえないんだ」
どこかで聞いた台詞だと、レイフはぼんやりと思った。
(ああ、そうだ…オレが言ったんだ。昔、クリスターと寝た後…オレ達は恋人同士だ、愛してあっているんだから一緒にいようって訴えるこいつに、オレはそう言って、それ以上関係を続けることを拒んだ)
ほろ苦さがこみ上げてくるのを覚えながら、レイフは、顔を伏せてしまったクリスターの上に、切なげな眼差しを注いだ。
(ああ、本当に痛いよなぁ…おまえに、それを言い返されるなんて―)
震える唇を噛み締め、喉の奥からせりあがってくる熱い塊を、レイフは無理やり飲み見下した。
レイフは、クリスターの肩からそろそろと手を離した。
(それでも、オレは、おまえを本当に愛している…)
レイフは今に溢れ出しそうな涙を押さえながら立ち上がり、つかつかとドアに近づいて、大きく開け放った。
「何やってんだよ、親父…!」
案の定、そこには、気まずそうに立ち尽くしているラースがいた。
「い、いや…すまん、おまえらが何を話しているのか、つい気になってな…ちゃんとノックをして、尋ねるつもりだったんだが、おまえが何やら声を荒げたりするのが聞こえて、入りづらくなってな」
ぽそぼそと下手な言い訳をする父親を、レイフは、涙の滲んだ目で睨みつけた。
「そんなこと、親父には関係ねぇだろ! オレとクリスターが自分達の進路について深い話をしたって、別におかしくも何ともないじゃないか。オレ達は2人きりの兄弟なんだぜ。他の誰ともできないような相談でも、こいつとなら心を開いてすることができるんだ。邪魔、するなよっ」
怒りに燃えた顔つきで、ぽろぽろと涙をこぼしながら、父親に対して久しく投げつけたことのないような激しい言葉を吐くレイフに、ラースはショックを受けたようだ。
「レイフ」
クリスターの戒めるような声を背中に聞いて、レイフは少しばかり冷静を取り戻した。手で涙を荒っぽくぬぐいながら、努めて抑えた声で、ラースに謝った。
「すまねぇ、親父…ああ、オレが悪いんだよな。大学のこと、せっかくいい話をたくさんもらってるのに、いつまでもぐずぐずと決心せずに、心配かけてたから―」
レイフは、高校を卒業後は、大学のチームに入ってフットボールを続ける。それは、既に決まった道筋となっていた。今更変えようにも、レイフには、どうすればいいのかも、どんなふうに変えればいいのかも、分からない。
(ああ、現実っていうのは、つくづく…夢と違って、わずらわしいことだらけだな)
レイフは気持ちを静めようと何度も息をして、やっとの思いで、ラースに向き直った。
「父さん、オレさ、決めたよ。卒業後には、テキサスに行く」
まるで自分ではなく、他人が言っているような気分だった。いつの間にか涙も引いたレイフは、無表情に告げた。
「シュミットさんに、そう連絡しておいてくれよ…待たせてすみませんでした、オレは、卒業後はあなたのチームに入りますって」
「レ、レイフ?」
ラースは、いきなりのレイフの宣言に、面食らったように目を瞬いた。
「テキサス大にって、おまえ、本当に…おお、やっと決心がついたのか? そうか、よかった…なら、早速シュミットに電話を入れても、いいんだな…?」
「そう言ってるだろ!」
また少し神経を逆撫でされたレイフは、唸るように言い返す。
(クリスター、どうして黙っているんだ…?)
クリスターは、レイフに全て決めさせようとしているのか、一言も口を挟もうとはしない。しかし、その眼差しがずっと己の背中に注がれているのを、レイフは痛いほどに感じる。
(何か言ってくれ、クリスター…言ってくれよぉっ…!)
レイフは、後ろを振り返り、まっすぐにクリスターのもとに駆け寄って、その体を激しく揺すりながら訴えたくなった。
(このまま黙って、オレを行かせるのかよ…? おまえ、本当はオレを手放したくないんだろ? おまえが行くなと言ってくれたなら、オレ、テキサス行きなんか蹴ったって構わないんだぜ?)
必死に自分を抑えているレイフの顔に何を見たのか、ラースが眉をしかめる。
これ以上、ここにいては感情が抑えきれなくなる、一番知られてはならない父親の前で、クリスターに対する気持ちをぶちまけてしまいそうになる。
そう悟ったレイフは、ラースの体を乱暴に押しのけるようにして、クリスターの部屋から出て行った。
2人で幸せになるために愛する者達を傷つけることなど、レイフには無理だと、クリスターは言った。その通りなのかもしれない。
レイフはほとんど絶望的な気分で、重い体を引きずるようにして、自分の部屋に戻っていく。
(オレが、一番愛しているのは、他の何にも増して欲しいと思うのは、おまえなのに―)
そう思うと、引き裂かれた心の傷口が痛んで、堪えきれなくなった涙が溢れて、レイフにはどうしようもなかった。