ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE8

 11月の第一金曜日、ブラック・ナイツは大差で相手チームを下し、正規シーズン日程を終了した。

 週明けから、学校内は、六戦全勝で地区リーグの首位に立ち、プレーオフに進出することが決まったフットボール・チームの話題で持ちきり。注目の的となった選手達には新聞部の取材が授業の合間を狙って、押しかけているという。

 当然、クリスターの耳にも生徒達の噂話は耳に入ってくるし、中には、わざわざ声をかけてきて、弟の活躍を称える者もいる。

(このまま波に乗ってプレーオフに臨めば、州チャンピオンも夢じゃない…去年の優勝経験で自信もついていただろうし、全体的な戦力は昨シーズンよりむしろアップしていたくらいなんだ。僕1人が抜けたくらいで揺らぐチームではなかったということかな。それにしても、皆、実によくやっている)

 未だに一度も自ら試合に足を運ぶことはなく、学校生活でもかつての仲間達とは距離を置き、まるでかつて自分がフットボールに熱中したことなど忘れ去ったような顔をしているクリスターだが、チームの好調を聞けばやはり嬉しいし、試合後にその内容を密かに分析するなど、常に関心を持ち続けていた。

(もう僕が心配する必要もないかな…最初は、僕がこんな体でチームに顔を出したり、試合を見にいったりしたら、返って皆に悪影響を及ぼすかもしれないなんて気遣ったけれど…今なら、僕のことは、『かつてのチーム・メイト』として普通に受け入れられるだろう)

 安堵と共にクリスターの胸を過ぎる、一抹の寂しさはあるものの、さすがにこの頃では慣れてきたのか、苦しいほどの痛みは覚えなくなっていた。

(そうだな、そろそろ僕も、ブラック・ナイツの試合を見に行ってみようか…そうすれば、レイフも喜ぶだろう。それに僕も―観客の1人としてフットボールを観戦しても…自分があそこには二度と戻れないのだと思い知らされても、たぶん、もう大丈夫だ)

 確認するかのように、そっと己の胸に手を置いてみても、そこはもうしんと凪いでいて、かつてクリスターを夢に向かって駆り立てた、狂おしいまでの熱情は消えうせていた。

(どれほど辛くとも、時間が経てば、人間、現実を受け入れられるようになるものだな。フットボールができなくなることがこんなに辛いなんて思わなかったと泣いた僕でも…いつの間にかあの夜に流した涙を忘れて、淡々と目の前に置かれた課題をこなすように、日々、前に進んでいる)

 フットボールで頭が一杯のレイフ達はともかく、他のシニアは、進学指導のカウンセラーの面接を終えてから、この方、SATを受けたり、カレッジ・エッセイを何度も書き直したり、成績表を大学に送ってもらったりと忙しく、どことなくカリカリしている。

 クリスターは卒業に必要な単位はほとんど取得し、フットボールに裂く時間もなくなった分、余裕を持って、粛々とそれらの手続きを進めていた。ハーバードにMIT、エール大等に推薦状と願書を提出してしまえば、後は面接を待つだけで、特にすることもない。

 合否については、クリスターは、こう言うと他の生徒達には嫌味になりそうだが、全く心配していない。スポーツ推薦で入学してきた優秀な選手も大勢いる、フットボール・チームでエースを張り続けるために人知れず耐えてきた労苦に比べれば、それはクリスターにとって無理せず楽に進める道だった。

(結局、僕にはこっちの方があっているのかな…? 僕はレイフと違って、フットボールがなくとも生きていける。その気になれば、きっと何だってできる…今はまだどこに行って何をすればいいのか決められない僕だけれど、そのうち、新しい夢だって見つかるさ)

 学校でのつきあいは、親しかったアイザックやダニエルがいなくなったため、それほど面白くはなかったが、大学の研究室では以前よりも長い時間を過ごすようになった分、親しい相手もできた。同じレベルで話せる、優秀なエリート達―高校卒業後、彼らの仲間になるのも悪くはないとクリスターも思っている。

(アイザックやダニエルとだって、連絡を取ろうと思えば、いつでもできる。それに、今は恋人と呼べる相手もいる訳だし、これで寂しいはずがない。そう、僕は今でも充分幸せだ)




 放課後、クラスの仲間としばらくカフェテリアで過ごした後、1人、まっすぐに駐車場に向かって歩きながら、クリスターはもうほとんど支障なく動くようになった右肩に触れてみた。

(予想よりも遥かに経過はいいし、やっぱり僕は運がよかったんだ。このことについては、もちろん治療してくれたサンドラに感謝するよ)

 穏やかに目を細め、大分葉の黄色くなってきた街路樹の下を時折擦れ違う知り合いに声をかけながら、クリスターは平和な日常が戻ってきたことのささやかな喜びを噛み締めていた。

(僕が失ったものや犠牲にしたものを差し引いても、たぶん、今の状況は満足できるもののはずだ。ダニエルやアイザック、コリンにミシェル…父さんや母さんにも、たくさんの苦しい思いをさせてしまったけれど、あの人達に二度と災厄は訪れないと保障されただけでも、僕はどんなにか救われるし…それに、レイフはようやっと僕を乗り越え、夢に向かって邁進し始めた。あの時僕が思い切らなければ、こうはならなかったろう…あいつの変身ぶりを見る度、一層強く確信できる、僕はやはり間違っていなかったのだと―)

 吹き抜けていく風が木立を揺らし、飛び散った金色の葉が、高い所からクリスターの上にはらはらと落ちかかってくる。

 クリスターはふと足を止め、頭上を覆う木の枝を振り仰ぐと、舞い落ちてくる葉を遮るように手をかざした。

(だから、僕は、決して後悔などしない)

 満足そうな笑みを浮かべてクリスターが目を閉じた、その時、そんな彼を冷たく嘲るような声が耳の中に響き渡った。

(君は、実に全く大した嘘つきだねぇ、クリスター)

 ようやく取り戻した平穏を一気に覆されたような気がした。忘れたくとも二度と忘れられない、悪意に満ちた声音に、クリスターは慄いたように目を見開いた。

(いかにも罪のない被害者ぶった顔をして、周りの人間達全てを欺いて―ついには自分自身さえも、そうして欺いてしまおうというのかい?)

 クリスターが声の主を探して頭を巡らせると、金色の葉を散らす街路樹の1本に背中をもたせ掛けるようにしている、ほっそりした金髪の若者の姿が目に入った。

(まさか、なかったことにできるとは思っていないよね、君の張り巡らせたあざとい策略を? あの日、あくまで犠牲的精神に基づいて行動したかに見えた君が、一方でそんな計算をしていたなんて、誰も思いつきもしないようだったけれど、僕には分かった。君の考えなら、僕には手に取るように分かる…なぜなら、僕だって―自分の究極の望みを果たすためとあらば、そのくらいの大芝居は平気でやってのけただろうからさ)

 クリスターはその場に打たれたように立ち尽くしたまま、体の脇に垂らした右手をぐっと握り締めた。

(今更そんな善人面はするなよ、クリスター、全く君には似合いもしない。被害者面は尚更だ。君は、自分の書いたシナリオどおりに見事に登場人物を操って、舞台を成功させた。そうして、この僕に勝った。僕はそんな君に心から敬意を表するよ、この僕を上回る、君の中の悪魔にね)

 金髪の若者―ジェームズ・プラックは天使のようなあの無邪気な笑みをたたえて、クリスターを挑発している。だが、これが現実の彼であろうはずがない。

 本物のジェームズ・ブラックは警察病院に収容されて、体を蝕む病魔と闘っている最中だと、クリスターは伝え聞いている。

 ならば、今クリスターの前に現われたこの若者は、何なのだ。とても死にかけている人間とは思えないほど生き生きとした力に満ち、クリスターにとってのジェームズが常にそうであったような、限りない邪悪さを発散させている―

(そう、僕だけが知っている。クリスター、君が愛する者達全てに対して犯した、ひどい裏切り、大きな嘘を―)

 限りない優越感に浸りつつ、ジェームズは、歌うかのような調子でクリスターに囁きかけてくる。

 よく見れば、彼は、クリスターが最後に見た時と同じ、この季節にはふさわしくない夏物の薄手のジャケットを着ていた。

 微かな違和感を覚えながらも、クリスターはこみ上げてくる敵意に突き動かされるよう、ジェームズに向かって皮肉っぽく笑いかけた。

(今更、それが一体どうしたというんだい?)

 本物か偽物か、現実かただの幻かなど知るものか。自分がいまだにジェームズにこだわっている事実をまざまざと意識しながら、クリスターは熱を込めて語りかけた。

(僕の嘘を知る唯一の人間である君は、どうせ、もうじき死ぬじゃないか。僕自身は、この先誰にも話すことはない、墓場まで持っていくつもりだ…秘密は、こうして永遠に秘密のまま保たれるというわけさ。どんな大きな嘘だって、皆がそれを望み信じている限り本当なんだ…いや、意地でも真実にしてみせる)

 このところずっと生気を欠いていたクリスターだが、敵手を前にほとんど反射的に燃え上った憎悪と闘争心のせいか、たちまち全身に力が漲るのを感じた。

(そうだ、おまえなど早く死ねばいい。そうすれば、僕もいつまでもこんなふうにおまえの影に悩まされることもなく、安心して暮らせる。おまえは僕の中の悪を映し出す鏡―おまえが滅びるのと共に、僕は僕の暗い側面も永遠に葬りさることができるんだ)

 火を吹きそうなクリスターの目を涼しげに見つめ返しながら、ジェームズは呆れたように問い返した。

(おやおや、また随分と都合のいいことを考えるものだねえ。しかし、果たして君の思うようにうまくいくのかな。君を悲劇のヒーローと頭から信じ込んでいる、おめでたい奴らはともかく―君に一番近しいレイフでさえも、最後まで騙しとおせる自信はあるのかい? 君を心から信じきっている、あの素直でまっすぐな弟君を裏切ることに躊躇いはない?)

 もしかしたら、このしたり顔の忠告者を見せるのは、他ならぬ己の良心の呵責だろうか。疼くような痛みを胸に覚えながら、クリスターはジェームズの姿をしたものを鋭く睨みつけた。

(ああ、何としても、あいつには僕の嘘を信じていてもらう。他の誰にもましてあいつにだけは―見破られてはならないんだ)

 固い声で、己に言い聞かせるように呟く。そんなクリスターの胸にたち込める不安を見透かすよう、ジェームズは猫のように妖しく目を細め、嘲笑った。

(ああ、全くだ。見破られたら、おしまいだものね…純粋なだけに裏切られたと分かった時の怒りは深く激しいだろう、レイフはきっと君を許しはしないよ?)

 その言葉に、クリスターは寒気を覚えたかのように我が身をかき抱き、きつく目を瞑った。

(そんなこと、君に言われなくても、分かっているさ。僕は、誰よりもレイフの気性を熟知している。だからこそ、あいつにだけは知られてはならない…これからも僕は、我ながらぞっとするような嘘をつき続けるんだ)

 歯を食い縛り、クリスターは挫けそうな心を叱咤しながら、そう己に言い聞かせた。

(どのみち、僕は、もう後戻りはできないのだ)

 壊された右肩が、ふいに、焼け付くように感じられた。

(あははは、そうやって一生、いつ真実が明るみに出るか恐れながら生きるがいいさ、この裏切り者…!)

 不安に震えるクリスターを嘲笑するジェームズの声は、いつまでも続くかに思われた。そして―。




「クリスター」

 己を呼ぶ低く柔らかな声音と、肩を揺する優しい手の感触に、クリスターはかっと目を見開いた。途端に、息をすることを思い出したかのように空気を吸い込み、肩を大きく上下させて喘いだ。

「大丈夫? うなされていたわよ、あなた…」

 クリスターを覗き込んでいるのは、艶やかな黒髪を肩に垂らした、知的で美しい女の顔だ。

「サンドラ…?」

 クリスターは慌てて身を起こし、ここはどこかを確認するかのように、周囲を見渡した。

 何度も訪れたことのある、サンドラ・オブライエンの住まう高級アパートメント。窓の外、宵闇の彼方には、州議事堂の金色のドームがぼんやりと浮かび上がって見える。

 今夜はオペラに連れて行ってくれるというので、リビングのソファの上で雑誌を読んでサンドラがドレスアップするのを待っていたら、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。

 クリスターは脱力し、黒の革張りのソファの上にどさりと身を預け、目を瞑った。

(夢か…そうだ、あれは、ただの夢だったんだ)

 ようやく気持ちを静めたクリスターが、再び目を開け、念のためもう一度、恐る恐る辺りを窺ってみると、やはりジェームズの姿は、初めからそんなものは存在しなかったかのように影も形もなかった。

 クリスターは安堵のあまり、深い溜息をついた。あんな夢を見るなんて、心の中に、よほど深い不安や迷いを抱えているのだろうか。

「クリスター、顔色が悪いわ」

 気遣わしげな囁きに注意を向けると、サンドラがソファの傍に膝をついて、肘掛を固く握り締めているクリスターの手をなだめるようにさすっていた。

「調子が悪いなら、今夜出掛けるのはやめにしましょう。落ち着くまで、ここでゆっくり休めばいいわ」

 物思わし気な灰色の目をじっと見返し、クリスターは不本意そうに顔をしかめた。

「平気だよ、サンドラ…ちょっと夢見が悪かっただけさ。大体、あなたはいつも僕を甘やかし過ぎるよ、何だか子ども扱いされてるみたいで、好きじゃないな」

 だが、意地を張ってそう言う口調にも、隠し切れない不安や甘えが滲んでいるのに気付き、クリスターは我ながら唖然となった。

「そうなの?」

「うん…」

 サンドラが、クリスターの反発に気を悪くするどころか、可愛らしいものを見るかのような温かな眼差しを向けてくるのに、彼は居心地悪そうに身じろぎした。

(ああ、この間レイフにマザコン呼ばわりされたけど、そうじゃないと否定しきれないな、この様じゃ。でも…) 

 自己嫌悪に駆られて溜息をつく、クリスターの頭を優しく撫でて、サンドラは静かに立ち上がった。その手を、クリスターはとっさに捕まえた。

「クリスター?」

 クリスターは掴んだ手をどうしようかと迷いながら、おずおずとサンドラを見上げた。

「そんな心細げな目で見なくても、私はどこにも行きはしないわ、クリスター。今夜のあなたは、本当に、いつもと人が違ってしまったみたいね…そんなに悪い夢だったの…?」

 サンドラの穏やかな低い声質は、ヘレナによく似ていて、他愛のない話でも、その声に耳を傾けているだけで、クリスターは何となく気持ちが落ち着いた。

「サンドラ…ごめんよ」

 クリスターがいきなり、不安に耐え切れなくなった子供のように、腕を伸ばしてしがみついてくるのに、包容力のある年上の女は一瞬驚いたものの、大した動揺は見せず、黙って彼の背中に腕を回し抱きしめてくれた。

(ジェームズの言う通りかもしれない。僕は、愛する者でも何かと理由をつけて騙し、利用する…この優しい女のことも、たぶん―)

 サンドラには、クリスターと同じくらいの年に自殺した弟がいたのだと、彼は早いうちに聞き出していた。身近な者の死を止められなかったことをサンドラが密かに悔いていることも、見抜いていた。そんな心の隙間に食い込むことで、クリスターは彼女の関心を引き付け、ついにはその愛情も手に入れた。

 サンドラは、もしかしたら今でも、情緒不安定なクリスターは放っておくと自殺しかねないと本気で心配しているのかもしれない。クリスターにはそんな気は毛頭なかったが、あえて積極的に誤解を解こうとも思わなかった。

(でも、こんな嘘偽りで罠にかけるようにして手に入れた愛なんて、きっと長くもたない。そのくらい僕だって覚悟しているさ。この女は馬鹿じゃない、じきに僕の本性に気付いて、去っていくだろう。でも、レイフのことは…何が何でも、僕は最後まで騙しとおさなければならない)

 クリスターは何とも心もとない気分に駆られ、夢の中に出てきたジェームズの悪意に満ちた顔を避けるよう、サンドラの温かな胸に顔を埋めた。

 真実を知れば、レイフは、決してクリスターを許しはしない。

(大丈夫だ、僕はきっとうまくやる。大体、単純なレイフには、僕の思惑など想像もつかない…こんな怪我まで負って、心身ともに弱っている僕を疑うことなど、万が一にもあるものか)

 それでも―クリスターは、ジェームズの警告のせいで気が弱っているせいでもなく、自身に向かって執拗に言い聞かせた。

(僕は、常に用心し続けなければならない。子供の頃からいつもそうだった、僕が秘密にして隠そうとしていたことを、レイフはいつも、どうやってか最後には探り当ててしまうのだから―)


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