ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第7章 FAKE

SCENE7

 わっというどよめきが、総立ちになった観客達の間からあがった。

 ボールをしっかりとキープしたレイフは、ぐんぐんスピードを上げて敵ディフェンス2人を抜きさると、もはや誰にもとめられない勢いでサイドラインを疾走する。

 この試合、とにかくレイフを潰そうと、プレイの大半で2人、3人がかりのタックルをかけてくる相手を、彼は稲妻のようなスピンをかけてかわし、時には逆に相手が失神寸前になるほどのあたりでぶちのめしながら、ひたすら前進しようとし続けた。

 そのプレイには実際観客達の目を見張らせるものがあった。大胆で、攻撃的で、猛烈な気迫に満ちていた。

 かつての優柔不断さは影も形も見当たらない。フットボール・プレイヤーなら誰もが羨む天性の資質に、今は揺るぎない精神力が備わったかに見える。

 キャリーでも、ブロックでも、レイフの手のつけられない攻撃を止められる者は誰もいなかった。

 第4クォーターも残りわずかとなった最後の攻撃。レイフは、彼のランを何としてもとめようとする捨て身のタックラーを引きずったまま、強引な力技でついにエンドラインを超えた。

「し、信じられねぇ…何で倒れねぇんだ」

 レイフの腰にしがみついたまま呆然と呟いたのは、ライバル・チーム、ヒル高校のLBニックだ。

 巨大な体躯を武器にした反則すれすれのあくどいプレイや、下卑た挑発行為で、これまで幾度もレイフを逆上させてきた因縁の相手を、彼はじろりと見下ろした。

「おい、いつまで男の腰に抱きついてる気だよ。いい加減離しやがれ、この変態!」

 腕を振り上げ、ぶるぶるっと大げさに腰を振るレイフから、ニックは慌てて手を放し、飛びすさった。

 強豪と謳われ、エースQBクリスターを欠いた今年のブラック・ナイツよりも有利と評されていたにも関わらず、結果はヒル高校の惨敗。州ランキングのLB部門でベストスリー入りするほどのニックにしてみれば、まさかここで自分達が敗退するとは夢にも思っていなかったようだ。

「去年までは、クリスターがいなけりゃ何もできねぇ、ガキのへたれ野郎だったのに…」

 ニックは、地面に膝をついたまま、悔しげに吐き捨てる。

 それを聞きとがめたのか、既にその場から立ち去りかけていたレイフは、足を止めて、振り返った。怒りと口惜しさに真っ赤になっているニックの顔をしげしげと眺め、口を開いた。

「オレはもう、今までと同じオレじゃない。クリスターがいないから今年のブラック・ナイツは弱いなんて、もう誰にも言わせねぇよ」

 ふんと鼻息も荒く言い捨てると、レイフは、開幕から既に三勝をあげて、喜びに沸き立つチーム・メイトのもとにゆったりと戻っていった。

 今回はかなりラフ・プレイが目立ったが、背筋をしゃんと伸ばして悠然と歩くレイフには、ダメージは全く見当たらない。

 緊張も見せず、己に期待された仕事を見事にやってのけたレイフは、名実共にエースの名にふさわしい風格をまといつつある。

 プレシーズン・ゲームから始まった、レイフの目覚しい活躍は、フットボールに関心のある人々の耳目を集めていた。

 作年までは、圧倒的な存在感を持つ兄の陰に隠れて目立たなかったレイフが、今年は別人のような成長ぶりを見せ付けている。40ヤード走で最近では自己最高の4.27秒を記録したという、他を寄せ付けないスピードに、今は思い切った大胆なプレイもできる度胸が備わり、超高校生クラスのプレイヤーとして、その周囲では早くも大学のスカウト達が熾烈な争奪戦を始めていた。

『白い奴で、あんな走りをする選手を見たことがあるか? きっと黒人並みに筋肉がしなやかで柔らかいんだろうな』

 この試合でも、スタンドに陣取るリクルーターの口からは、そんな溜息混じりの賞賛の声があがっていた。

『あのパワーとスピードで突っ込まれたら、並大抵のブロックでは止まらんだろう。だが、あんな強引なパワー・プレイが続くと、いつ怪我をしないかと見ていてひやひやするな』

『いや、今のレイフは力技だけじゃない、前回の試合では見事なフェイクをかけて、ディフェンスに触れさせもせずにうまく抜いたぞ。あの体格であんな俊敏な身のこなしができるなんて、全く信じられないと目を剥いたよ』

 レイフは以前からカレッジでプレイすることを望んでおり、来年には高校を卒業する。こんな逸材を逃がしてはならないとスカウト達はかしましいが、渦中にあるレイフ自身は、周囲の騒ぎには一切関心を見せなかった。

(オレはただ、目の前の試合を1つずつ勝ち進むことに全力を尽くすだけだ。チームのために、そして、オレに後のことを託してフィールドを去ったクリスターのために―)

 カレッジの名門チームに入りたい、更にその先にはプロになりたいという夢や野心よりも、今のレイフをしゃにむに動かしている、強い想いがある。

(今年も、ブラック・ナイツは優勝してみせる。そのためなら、オレは何だってやってやる。困難な道だということは初めから分かってるさ。でも、どんなに辛くて苦しくても弱音など吐くものか、これはオレがクリスターから任されたエースとしての責任だ。他の誰にも任せられない、クリスターが残したものならば全て受け取る。オレのものだから―)

 宿敵ヒル高校との試合に大勝してはしゃぎまくるチーム・メイト達のもとに戻り、彼らの荒っぽい抱擁を受けながら、レイフは顔を上げて、大勢の観客達で埋め尽くされた応援席を眺めやった。

 ライトに照らされたスタンドには、父や母も含めて知った顔がいくつも見られたが、そこに、レイフが誰よりも自分の活躍を見て欲しいと願う、クリスターの姿はない。

 強い輝きを放つレイフの金色の瞳に、仄かな影が差した。

(今夜こそは必ず見に来てくれって、あれほど言ったのに―クリスターの奴…)

 高校の試合に出るようになって以来、何かと自分達双子を目の敵のようにしてきたニックを相手にした最後のプレイは、我ながら会心の出来だった。あれをクリスターに見てもらえなかったなんて、残念でならない。

(オレのがんばりはまだまだ足りないのかな…? この程度で満足して手を抜くんじゃないって意味なのか? それとも、自分が姿を見せると、またオレが甘えを出して頼りたがるとでも思っているんだろうか…?)

 残念そうに肩を落とし、小さく悪態をついたレイフだったが、チーム・メイトやコーチの呼びかけに、すぐに我に返った。

「レイフ、おまえがいてくれて本当に助かるよ。俺の力だけじゃ、クリスターが抜けた穴なんてとても埋められないからな」

 クリスターの代わりにQBとなったショーンも、ここまでの試合で勝ちを重ねることで、ようやく肩の抜けてきたのか、時折笑顔を見せる余裕も出てきた。

「いいや、おまえもよくやってくれてるよ、ショーン。今夜も、ヒル高校相手に3本もタッチダウン・パスを決めるなんて、大したものさ」

「なあ、今夜、ちょっと思ったんだけどさ」

「何をだよ?」

「もしかしたらさ、このままずっと勝ち進んで―本当にまた優勝できるかもしれないって…」

「今頃何言ってんだよ、当たり前じゃん、オレらは必ず優勝できる」

 レイフが明るく笑いながら肩を叩くと、ショーンもはにかむように笑い返す。

 ショーンに限らず、ここまで勝ち進んで次第に自信をつけてきたチーム・メイトは、クリスター不在の心細さを口にすることもなくなってきた。忘れたわけではないが、二度と戻らない者の面影をいつまでも引きずり続けることもできない。

 本当は未だに深い喪失感を覚えているレイフも、ここで無闇にクリスターのいない寂しさを漏らして、せっかくいい感じに盛り上がってきたチームの雰囲気に水を差すわけにはいかなかったのだ。

 それでも―。

 チーム・メイトの輪の中に溶け込んで、屈託なくふざけあったり、笑いあったりしながらも、レイフの目の奥底には、皆と同じ熱狂には浸れない、冷めたものがあった。

 ここまで順調に勝ち進んできても、なぜかレイフの胸には、去年初優勝に向かって皆で力を合わせ、1つずつ勝ちを取っていった時ほどの熱い感動は生まれてこない。

 たった一度の優勝経験のせいで、勝つことに去年ほどの新鮮味が感じられなくなったのだろうか。あるいは、エースという責任を背負い、やはり自分もぎりぎりいっぱいで、いちいち一つ一つの勝利に浮かれ騒ぐように精神的な余裕がないのだろうか。

(いや、そんなことじゃねぇ…オレが、1年前のように勝利に素直に酔えないのは…)

 レイフ自身少し前から薄々感じ取っていた、その理由が、今夜はひとしお身にしみる。

 クリスターがいない。

(大好きなフットボールで勝利して嬉しくないはずがないのに、どうしてかな…ああ、やっぱり、オレにとって重要な部分が、去年までとはまるで変わっちまったんだ。クリスター、おまえがいない勝利は、こんなにも味気なく感じられるよ)

 明るく笑いあう仲間達と共と眩しいライトを浴び、観客席からの拍手に応えながら、レイフはまるで子供のような、堪えきれない寂しさに襲われるのだった。



 いつの間にか、フットボール・シーズンが始まって、早くもひと月が経過しようとしていた。

 それは同時に、レイフ達シニアにとっては、高校最後の年が始まったことも意味し、皆そろそろ真剣に進学先を決める必要にも駆られてきた。

 レイフは当面フットボールの試合で頭が一杯で、この先に待ち受ける学生としての現実などまだ何一つ片付けられていないが、フットボールを引退したクリスターは、早々とハーバードに進学を決め、願書を提出した。

 もとから件の大学の研究室で世話になっている教授には相談していたらしいが、フットボールをやめた後のクリスターの変わり身の早さに、レイフは少しばかり鼻白んだものだ。

 とはいうものの、さすがに今度ばかりは、レイフはクリスターをとめられなかった。とめたくても、その理由がもう見つからなかった。

 2人一緒にカレッジ・リーグに進み、更にその先にはプロになるという、子供の頃からの夢は完全に断たれたのだという現実を突きつけられたようで、着々と大学進学の手続きを進めるクリスターを見るにつけ、レイフの気持ちは沈んだ。

 クリスターは今でも学校の帰りに病院に通い、リハビリを受けている。普段の生活にはもうほとんど支障がないように見えるが、スポーツができるまでには回復していない。

 自分達はこれから先どうなるのだろうと考え出すと、楽観的なレイフでさえ煮詰まりそうになるのだが、2人共に納得のいく、一緒に幸せになれる道はどこかにあるはずだか信じて、今は己のなすべきことに集中しようとしていた。

 レイフはクリスターを大切に思っている。誰よりも愛している。だから、この先もずっと一緒にいたい。

(オレが、クリスターに頼らなくても充分にやっていけるほどの力をつけ、大人として自立すれば、クリスターも勝手な思い込みをやめて、やっぱり2人で生きていくのが一番いいという気持ちになってくれるかもしれない)

 たとえどんな紆余曲折があっても、最後には自分達は共にあるだろう。そういう運命にあるのだと、単純に、レイフは信じていた。

(ダニエルに続いて、アイザックまで遠くに行っちまった。クリスターは口に出しては言わないけど、やっぱり寂しがってるだろう…なかなか素直になれないクリスターでも、そのうちオレのところに話くらいしにくるかもしれない。そうしたら、オレ、クリスターが飽きるまでずっと傍にいて、あいつの言うことに耳を傾けていてやるよ)

 そんなことを想像するレイフの脳裏には、ダニエルの旅立ちを見送った後、静かに涙を流すクリスターをじっと抱きしめた時の切なくも温かな記憶があった。

(オレは、おまえを支えたい、守りたい…おまえが幸せになるためなら、何だってするよ。オレは、おまえのために生きているんだ…たぶん、あの時、クリスターも分かってくれたと思う)

 自分の前で初めて弱さをさらけ出したクリスターとああして束の間心を通わせることのできた経験が、クリスターが離れていくという不安に苛まれていたレイフに、この所少しばかり自信と余裕を取り戻させていた。

 クリスターの心中を気遣いながらも、彼の方から何らかのサインを送ってくるのを、半分は待つ構えでいた。

 後から思えば、レイフの方からもっとクリスターにべったりくっついて、何くれと世話をやき続けていればよかったのかもしれない。

 だがレイフは、クリスターから託された使命を果たすことに日々集中しており、負傷して以来フットボールからは完全に身を引いてしまったクリスターとは、共に過ごす時間はますます少なくなっていた。

 以前のレイフならば、こんな状況になれば、寂しさと不満を訴えてクリスターにつきまとおうとしたものだが、その点、やはり彼はかつての甘ったれではなくなっていた。

 それに、たとえクリスターが傍にいなくとも、彼から託されたチームに貢献することで、レイフは孤独を忘れることができる。

 一方、チームからもレイフからも身を引き、独りきりで取り残されたクリスターは、レイフの想像する以上に孤独だったのかもしれない。

 だから、その寂しさを紛らわせるために、クリスターがフットボールとは全く関係のない場所に慰めを求めるのも、ある意味仕方のないことだったとも言える。

 それでも、クリスターが新しい相手と交際を始めたという話を最初に聞いた時、レイフは、何だか手ひどく裏切られたような気分になった。

 因縁の深いヒル高校との試合で勝利した、その夜遅く―レイフはこの嬉しい知らせを早く伝えようと意気揚々とクリスターの部屋のドアをノックした。

 この頃、クリスターの帰宅時間は10時を回ることが度々あった。もともと大学の研究室に通っていたり他のつきあいがあったりと門限などあった試しのない生活をしていたクリスターなので、レイフもそれまで不審に思うことはなかった。

 だが、あくまで単純にクリスターを喜ばせたいために部屋を訪れたレイフは、そこで、クリスターから思わぬ告白を受けることになった。

「え…ちょっと待てよ、一体誰と付き合ってるだって…?」

 どういう経緯でそんな話題になったのかはショックのあまり忘れてしまったが、気がつけば、レイフは呆然とそう問い返していた。

「うん…恋人として付き合っているかというとちょっと微妙なんだけれどね。何しろ相手はうんと大人だから、さすがの僕も経験値が違いすぎてリードできない、恋愛対象というよりもむしろ弟扱いされて、すっかり甘やかされているような気もするし―」

 クリスターはコーヒーを飲みながら、不本意そうに顔をしかめた。J・B戦の緊張から解き放たれたせいだろうか、触れれば切れそうな、あの鋭さは、今の彼からは影を潜めていた。年相応の高校生らしく見えると言えば聞こえはいいが、何だか精彩を欠いていて、やはり心身ともにまだまだ本調子ではないのだと、クリスターびいきのレイフでも思わざるを得ない。

「いや、だから、今さ、あの美人の女医さんと一緒にいたから今夜は遅くなったって、言ってなかったっけ?」

 レイフは束の間固まってしまった頭脳を無理矢理動かして、念のためにもう一度確認してみた。

「うん、そうだよ」

「つまり―ええと、オブライエン先生と交際してるって…あの美人の女医さんの…? いやいや、冗談きついぜ、クリスター」

 引きつった顔で笑い飛ばそうとするレイフを、クリスターはどこか神経質な目つきでちらりと見やった。

「僕は嘘も冗談も言ってないよ、レイフ…確かに、僕みたいな高校生とキャリアのある大人の女性がなんて、大っぴらにはしにくいかもしれないけれど、僕は確かにサンドラと付き合ってるよ。言っておくけど、彼女が誘惑したんじゃないからね。僕が熱心にアプローチをかけて、やっとの思いで口説き落としたんだ。でないと、10才以上も年下の男の子なんて全く対象外だと、彼女は鼻にも引っ掛けてくれなかったろうさ」

「ええと…」

 レイフは、どことなく後ろめたそうに顔を背けているクリスターを凝視しながら、のろのろと首を傾げた。

「そ、それじゃあ、本当にあの女医さんと付き合ってるのかよ? い、いつの間に、そんなことに…」

 やっとクリスターの言わんとしていることを飲み込んだレイフは、呻くように呟いた。

「確かに、クリスターの好きそうなタイプだと言って、からかったことはあったけど、まさかマジで手を出すなんて―」

「何だよ、その非難がましそうな目は」

 むっとしたらしい、クリスターは眉を吊り上げ、睨みつけてくる。

「だ、だってさ、だって―確かに、オレだって惚れ惚れと見蕩れちゃうくらいカッコいい人だけど、オブライエン先生って、一体年はいくつなんだよっ?」

「たぶん、33、4才くらいだよ…ちゃんと聞いたわけじゃないけど…」

「かっ」と、レイフは何かが喉に詰まったかのように真っ赤になって、言い返した。

「かかかか母さんと同じくらいの年じゃないか、いくら若く見えるからって、オレらから見ればもうおばさんだよっ。うっわーっ、信じられねぇ!」

「馬鹿、大声を出すな!」

 一階のリビングでテレビを見ている両親に、何の騒ぎかと上がってこられては困るので、クリスターは、今にも錯乱状態に陥って喚きだしそうな弟の口を、慌てて塞いだ。

「母さんよりはまだずっと若いよ…大体、独身女性に『おばさん』はないだろう。僕が好きで付き合っているんだ、別に年齢なんてどうだっていいだろ? いいか、このことは母さん達には絶対に言うなよ、分かっているだろうな?」

 口を酸っぱくして言い聞かせるクリスターの顔を、レイフは彼の腕から逃れようともがきつつ、睨みつける。

 親に言えない、自分でも何となく後ろめたく思ってしまうという時点で、その交際はどこか間違っているのではないかと、色恋の経験値は圧倒的に低いレイフではあったが、普通に思う。

 レイフの眼差しにこもった非難に、クリスターは居たたまれなくなったかのように瞳を揺らして、ひっそりと呟いた。

「サンドラと一緒にいると何だかほっとするんだ…だから、頼むから、今は騒ぎ立てたりせず、僕のことは放っておいてくれ」

 クリスターの声の内に何かしら切迫したものを感じ取ったレイフは、それ以上暴れるのをやめた。

「大体、おまえには、僕に構うよりも他にするべきことがあるだろう? おまえには、同時に2つのことに気を配るなんて器用なまねはどうせできないんだから、今はフットボールに専念しろよ。僕のことなら、取り合えずサンドラが面倒を見てくれるから、おまえの心配なんて無用だよ…」

 クリスターの腕からそっと身を離したレイフは、気まずそうに立ち尽くしている彼を探るように見返した。

「クリスター」

「うん…」

 憤懣やるかたないレイフは、一瞬もっと追求してやろうかと口を開きかけたものの、クリスターが警戒するかのごとく身構えるのに、その気が萎えてしまった。

 恋人と親友を一気に失ったクリスターが次に手を取ったのは、十どころかもっと年上の自立した女性だという。

(このマザコン…)

 決して納得などしたくなかったが、クリスターが不安定になっている今、どうしてあのドクターなのか、クリスターを見舞いに行く度にちょくちょく顔をあわせたり一度はカフェテリアでコーヒーを奢ってもらったこともあったりと、彼女とはまんざら知らない仲でもないレイフには、何となく分かってしまった。

(ああ、確かに母さんにそっくりだもんな。クリスターが嫌がる女の感情的な部分がなくて、いかにも芯が強そうで、落ち着いてて、包容力があって、高校生と分かって付き合うくらいなんだから、きっと肝だってすわってんだろ)

 一途にクリスターを恋い慕い、懸命に支えようとしてきた可愛いダニエルは、いなくなってしまった。一時は友情に亀裂が入ったものの、やっと心を通わせることができたと思った途端、アイザックもまた去っていった。

 クリスターは今、他人に対して虚勢を張ったり、自分を完璧に見せかけたりすることも一切したくないほど、本当にもう心が弱ってしまっているのだ。だから、そんな必要のない相手―そのままのクリスターを丸ごとあやすように抱きしめてくれる、母親みたいな女がいいのだ。

 心理学的にもっともらしい分析などしなくても、レイフにさえ、そのくらい読めてしまう。

(でもさ、なりふり構わず、こんなにあからさまに他人に寄りかかっていくなんて、兄貴らしくないぜ…いや、これまで無理してきたのが、ついに限界が来て、張り詰めてたものがふっつり切れた後ってのは、人間、ここまで弱くなっちまうのかな。たとえそれが、クリスターだって―)

 そこまで考えた途端、急に悔しさがこみあげてきて、レイフは、わなわなと震えだした唇をきつく噛み締めた。

 クリスターが救いを求めて手を伸ばしたのは、この期に及んでもレイフではなく、ヘレナの分身のような他の人だなんて―。

「レイフ…?」

 どうしようもないやりきれなさを懸命に堪えていたレイフは、クリスターの躊躇いがちの呼びかけを聞いた途端、ついかっとなって、怒鳴り返した。

「ったく、寄りにもよってあんな年増と付き合うなんて、クリスターの気が知れねぇよ。面倒を見てくれるって、何だよ、それ? お、おまえのプライドは、一体どこにいったんだ? 若いツ…ツバメだなんて、あ…遊ばれてさ、後で泣いたって、オレは知らないからなっ」

 言った途端、レイフのもろい涙腺は決壊し、目からどっと涙が噴き出した。

 それを見たクリスターが息を飲むのに、ますます居たたまれなくなったレイフは、くるりと踵を返して、荒々しい足取りで部屋を出て行った。

(畜生、今度こそ、素直にオレのとこに来てくれるって思ってたのに、またしてもスルーだなんて、ありかよっ。大体、オレは今、兄貴を喜ばせたくって必死にがんばってる最中なのに、もうフットボールのことは忘れたような顔して、チームに近づこうともしないで…あんな―クリスターのことは何も知らない、他人のもとに逃げこんでさ)

 自分の部屋に戻るや、腹立ち紛れにドアを叩きつけるようにして閉じ、レイフはいらいらと頭をかきむしった。

(1人でこんなに一生懸命になって、オレ、馬鹿みたいじゃないか)

 ちくんと胸を刺す痛みに、レイフは切なげに顔をしかめる。

(何のために、オレは―)

 レイフはふと、先程のクリスターの様子を思いうかべた。いつも自信に満ち溢れた、レイフを支え引っ張ってきてくれた頼もしい兄が、今はまるで別人のように脆い顔をしていた。

(クリスター…)

 しばらくはかっかと燃え上がっていた気持ちが収まらず、いらいらと部屋の中を歩き回っていたレイフが、何かに気がついたかのように、急に足を止めた。

(サンドラと一緒にいると何だかほっとするんだ)

 レイフの方をまっすぐに見ようとはしなかったにも関わらず、ひどく意識して、ちらちらと視線を投げかけてきたクリスター。

(大体、おまえには、僕に構うよりも他にするべきことがあるだろう…僕のことなら、取り合えずサンドラが面倒を見てくれるから、おまえの心配なんて無用だよ…)

 あの時は頭に血が上って気がつかなかったが、今振り返れば、レイフに言いたいことがありそうだったのに、懸命に抑え付けようとしていたような気がする。

(クリスター、おまえ…?)

 レイフは、ドアの方を振り返り、一瞬、そこを開いて、もう一度クリスターの所に戻ろうかしかけた。だが、ついためらうように足を止めた。

(クリスターがあんなふうに意地を張り出したら、オレが何を言っても、決して自分から折れやしない。黙っていると決めたことは、絶対白状なんてするものか。畜生、参ったな…なあ、クリスター、おまえはオレに一体どうして欲しいんだ…?) 

 レイフは、途方に暮れたように、肩を落とした。

(クリスター、おまえの心は複雑すぎて、いつだってオレを悩ませる)

 レイフは悶々とした気分を持て余しながら、力のない足取りで部屋の中に戻り、ベッドにどさりと腰を下ろした。

 弾みで、そこに無造作に積み重ねられていた何冊かのフットボール雑誌が崩れ、レイフの手に当たる。

 レイフは、その一冊を何気なく手に取って、膝の上に置き、しばし凝視した。

 自分で買ったものもあるし、クリスターがさり気なく置いていったらしいものも混じっている。関心などないふりをして、レイフに関係のある記事は今でもちゃんとチェックしているのだ。

(自分のことは心配しないで、オレにはフットボールに専念しろってか…それが、おまえの望みなのか…?)

 苦いものを無理やり飲み下そうとするかのごとく、レイフは顔をしかめた。

 全てにおいて『完璧』だったクリスター。フットボール・プレイヤーとしても将来を嘱望されていたのに、今はその夢を絶たれてしまった。移り気な周囲は、新しいヒーローの出現に気を取られ、少しずつ、かつての彼の勇姿を忘れていく。

 レイフだって認めたくはないが、それが、今のクリスターを取り巻く現実だ。

(オブライエン先生といてほっとするっていうのは、たぶん本音なんだろう…それで本当にいいのか、おまえは幸せか? フットボールを思い出させるものは一切遠ざけて、これまでの自分は全て捨て去って、新しい恋人と過ごすことでおまえが受けた傷が少しでも癒されるというのなら、オレは―)

 レイフはふっと寂しげな、しかし、落ち込みかけている自分をどうにかして奮い立たせようとしているかのような、健気らしい笑みを浮かべた。

(ああ、そうだ。オレ、何馬鹿なことを言ってたんだろ、クリスターがオレの期待通りの反応をしてくれないからって、ガキみたいにぼやいてさ。オレは別に、クリスターを手に入れて自分が満足したいために、柄でもないエースなんかはって、あいつのいないフットボールを続けているわけじゃない)

 自分にとって一番肝心なことを思い出したおかげで、レイフは、見る見るうちに落ち着きを取り戻し、晴れ晴れとまではいかなくとも、迷いを吹っ切ったような顔になっていった。

(オレは、おまえを幸せにするために生きている…おまえが望むなら、オレは本物の天才にだってなってみせるし、どんなに強く勇敢にもなって、エースとしてチームを見事に率いてみせる―おまえを誰よりも愛しているから)

 この信念さえ揺るがなければ、クリスターが当面の間年上女にのめりこもうが嫉妬など感じない―とまではさすがに言えないが、もう少し度量の大きい男として、クリスターを見守る気持ちにはきっとなれる。

(大丈夫だとも。もうしばらくの間くらい、我慢できるよ)

 レイフはぱちぱちと両手で自分の頬を軽くはって、気合を入れた。

(細かいことまでは分からないけど、要するに、クリスターはまだ素直にオレの手を取れるような精神状態じゃないってことなんだ。それならいいよ、無理強いなんてしないから。でもオレは、あいつに向かって差し伸べた手を引っ込めたりしない。だって、オレが一生のパートナーだと思えるのはあいつしかいないし、あいつにとっても、それは同じはずなんだ)

 自分達2人の将来のことを真剣に考え出すと、単純なレイフでさえも、不安に駆られ、行き詰まりそうになる。しかし、前向きに、目の前に立ちふさがる現実は変えられる、がんばっていればきっと何とかなると信じようとしていた。

(だから、とにかく今は、オレができることに全力で取り組もう。エースとしての責任を最後までやり遂げて…そうして、あいつとの約束、もう一度ブラック・ナイツの皆と優勝という天辺まで辿り着いたら、その時こそ、オレは―)

 レイフの想いは、まだ見ぬその日にまで、一気に飛んだ。

 それは、何もそう遠い日の話ではない。ふた月もしないうちに、今季の結果は出ている。

 ブラック・ナイツが昨年に引き続き、二度目の優勝を決めるだろう、その日―。

(クリスターの所に行って、今度こそはっきりと、胸を張って、オレの気持ちを伝えるんだ)

 優勝の高揚感を借りれば、レイフも思い切って、大胆に、普段はなかなか言えないような言葉でも、クリスターに真正面から言えるだろう。

 レイフは高鳴ってくる心臓の鼓動を懸命に抑えながら、このところずっと胸の奥に抱いている想いを口に出してみた。

「クリスター、オレ―」

 言った途端、ぱっと顔全体が火のついたように熱くなり、握り締めた手の内は、どっと噴き出した汗でぬるぬるになってしまう。

 レイフはベッドの上に仰向けに倒れこみ、はあっと溜息をついた。

(ううん、ちゃんと言えるかなぁ…?)

 一瞬心もとない気持ちになりかけたが、いいや、いざとなれば大丈夫だと自分に言い聞かせた。

(だってさ)

 レイフは、ちょっと複雑な気持ちになりながら、本音を言えば二度と思い出したくもないような、J・Bを最後に見た夜、彼が最後に残した言葉を思い起こした。

 興奮状態にあったレイフは、ジェームズの言ったことなどほとんど耳を素通りして覚えていないのに、その台詞だけは後になって思い出され、レイフの中で引っかかっていた。

(本当に大切なことは、言葉で伝え合おうとしなければならなかったんだって―あの野郎は言いやがった。そんなこと、Jなんかにいちいち言われなくたって分かっている。でも、オレ達が今まで、その点で手を抜いてたっていうのは紛れもない事実だなぁとも思うから―)

 言葉などなくても簡単に通じあってしまう自分達だからこそ、最も大切なことは、ちゃんと正面から向き合って、言葉で伝えあわなければならない。

(そうすれば、オレもクリスターの心は複雑すぎて分からないなんて悩まずにすむし、オレの気持ちをあいつが無視して、勝手に物事を決めちまうなんてこともなくなるだろう。当たり前と言やぁ、当たり前のことなんだけどさ。友達相手なら普通にできることなのに、一番近しいあいつにそうすることが、こんなに難しいなんて…)

 そう反省がてらひとりごち、また1つ、レイフは切なげな溜息をついた。

「クリスター、オレ、おまえに話したいことがあるんだよ。とても大切なことだから、最後まで逃げずにちゃんと聞いてくれよ…」

 そうやってレイフは、予行演習とばかりに、クリスターに言おうと練っている告白を、真っ赤になりながら、ひとり、呟いてみるのだった。


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