ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第7章 FAKE
SCENE6
クリスターは先程からずっと、緊張した面持ちで、時々学校帰りに利用するカフェの奥まった場所にある席に坐っていた。
以前はよくダニエルやアイザックとここに立ち寄り、特にJ・Bとの攻防を繰り広げた頃には何時間もねばって―店にとっては迷惑だったかもしれないが、学校関係の知り合いと出くわすことはめったにない穴場だったので重宝したのだ―作戦会議をすることもあった。
今となっては、遠い昔のことのようだ。
落ちつかなげに窓の外を眺めやり、街路を行きかう人々の上に視線をさ迷わせ、クリスターは溜息をついた。
腕時計の時間を確かめると、約束の5時を少し回った所だ。
(本当に、ここに来るんだろうか…? やっぱり僕の顔などもう見たくないと気を変えてしまったのかも―)
そんな不安が胸に差すのを覚えた時、店の扉が大きく開いて、どこか慌てた様子の1人の客が中に入ってきた。
クリスターは弾かれたように、そちらを振り返った。
店の扉を入った所で、誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見渡している、ひょろりと痩せた黒髪の青年―その視線が、じっと息を詰めて固まっているクリスターの方についに向けられる。
その張り詰めた顔を見た瞬間、クリスターの胸の沸きあがった感情は、とても一言では言い表せないものだった。
とにもかくにもお互い自由の身となってこうして会えたという喜び。あまりも多くの犠牲を払わせてしまったという負い目。あの時ああしていればよかったのにという様々な後悔が一斉に押し寄せてきて、束の間、クリスターの声を封じた。
「アイザック」
やっとの思いで、クリスターは久しぶりに会う友人に呼びかけた。その声は僅かに震えていた。
「クリスター…」
アイザックのクリスターに対する感情も、やはり相当に複雑なものなのだろう。
顎が尖って見えるほどに痩せた、その顔を微かに強張らせ、アイザックはその場に凍りついたように立ち尽くした。
しかし、大きく見開かれた黒い瞳は、強い光を放って、クリスターの上にひたと当てられている。
本当は、互いに対してこんな後ろめたさを覚えてしまうような関係になるはずではなかった。もっと早くに様々な誤解を解く努力を払っていれば、かけかけえのない親友同士として、今でも一緒にいられただろう。
だが、2人の間に実際起こってしまった出来事は、今更変えられない。
ようやく、アイザックは意を決したように、クリスターのテーブルに近づいてきた。
「久しぶりだね」
勇気を振り絞って、クリスターは声をかけた。
「ああ…あの大修羅場の一夜から、もうじきひと月になるのか…」
アイザックはクリスターの三角巾で固定された肩を見て、痛ましげに眉をしかめ、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「突っ立ってないで坐れよ、アイザック」
微苦笑混じりにクリスターが促すのに従って、アイザックは彼の前の席に身を落ち着けた。
「その肩…ちゃんと治るんだよな?」
「完治させたいなら、時間をかけて慎重に治療した方がいいそうだよ。でも、来週辺りには、この厄介な固定は取れて、様子を見ながらのリハビリとトレーニングが始まる予定さ。さすがに以前のようにハードなスポーツをするのは無理でも、日常生活に支障が出ることはないと思うよ」
既に達観したような穏やかさで応えるクリスターから、アイザックは居たたまれなくなったかのように顔を背けた。そうして、急にこみ上げてきたやり場のない怒りに任せてテーブルを打った。
「畜生…!」
店にいた他の客達が一瞬うろんそうな顔を向けてきたが、クリスターがじろりと一瞥するのに慌てて目を逸らした。
「こんなことになるのなら、やっぱり、あの時、おまえ1人をあそこに残して行くんじゃなかった。何としても、一緒に脱出するべきだった…いいや、俺が代わりに残っていればよかったんだ。ああ、これも俺のせいだ、俺がJ・Bの手管にまんまと引っかかって、おまえらを裏切るような真似をしたから―」
澱のようにずっと心の奥底で凝っていた感情を吐き出すアイザックを、クリスターは懸命に宥めようとする。
「アイザック、馬鹿なことを言わないでくれ。僕がこんな目にあったのは、いわば身から出た錆だよ。むしろ僕は、君をこんな窮地に追い込んだ自分が許せないくらいだ…入院中、君の事は時々訪ねてくれるウォルターから聞いていたけれど、僕のせいで君が犯罪者として裁かれることになったらと思うと居ても立ってもいられなかった。だから、君の不起訴処分が決まって、僕がどんなに胸を撫で下ろしたことか。本当によかった、アイザック…そうして、今日ここで僕に会ってくれたことにも感謝するよ。僕は、君にどれほど恨まれても仕方がない人間だからね」
「何、馬鹿なこと言ってるんだよ。大体、俺の方こそ、勝手な思い込みでおまえを恨んで―いや、もうこんな話はやめよう。きりのない繰言になっちまう」
「そうだね」
丁度カフェのウエイトレスが注文を取りに来たので、それを頃合に、2人は話題を変えることにした。
「レイフの奴は、どうしてるんだ?」
アイザックが、努めて、以前のような自然さを取り戻そうとしながら、口を開いた。
「うん、元気でやってるよ。待ちに待ったシーズンが始まってからはフットボール三昧で、調子もいいようだし、あいつにとって今は一番充実した時期じゃないかな」
「おいおい、他人事みたいな顔して、とぼけるなよ。おまえがレイフのコンディションをチェックしてないわけがないだろ」
クリスターがわざとはぐらかすような返事をすると、アイザックはつい生来の癖が出て、追及口調になる。
「今はそれほどでもないさ。さすがに、口ばかり出してうるさがられるのも嫌だから、影ながら見守るにとどめているよ」
「プレシーズン・ゲームからこっち、ブラック・ナイツが下馬評を覆す連戦連勝だってのは、俺も聞いてるよ。こう言っちゃなんだが、予想外だった。シーズン直前におまえが…こんなことになって、チーム・メイトは皆大きなショックを受けただろう、きっと、そのダメージを引きずって、下手すりゃがたがたになっちまうんじゃないかって思ったよ」
「僕も…それについては、とても心配して、怪我をした直後にフランクス・コーチとも色々話し合ったよ。どうすれば、皆の精神的なショックを和らげることできるか、チーム全体が浮き足立つことなく、シーズンを迎えられるかが、第一の課題だった。まあ、そうは言っても、僕にできることは実際ほとんどない…僕とコーチの結論は、レイフを中心にチームを立て直すこと、レイフにエースとしての自覚と責任に目覚めてもらい、チームのまとめ役として立ってもらうことだった」
「それは、レイフにしてみれば、降って沸いたような話で、さぞ戸惑ったことだろうなぁ」
「ああ。でも、どうしてもレイフに引き受けてもらうしかなかった。そのために、僕も必死でレイフを説き伏せたよ…初めは怯んで、逃げ出そうとさえしたレイフだったけれど、ついには覚悟を決めてくれた。あいつが毅然として立つことで、チームもいい感じでまとまることができたんだ」
「ふうん…でもさ、あの甘ったれのレイフが、おまえなしで本当にうまくやれるのか?」
揶揄するようなアイザックの口調には若干の疑いがにじんでいる。新聞部の部長として、フットボール・チームの取材にも熱心だった彼のレイフに対する評価は、残念ながら、少々厳しかった。
それに対し、クリスターは軽く眉を跳ね上げながら、自信ありげに断言する。
「そんな心配は無用だよ、アイザック。レイフは、エースして立派にチームを引っ張ってくれているよ。あいつは変わった。僕がいなくても大丈夫どころか、今やっとあいつは本来の実力を存分に出せるようになったんだと思うよ」
アイザックは腕組をして、しばし難しい顔で考え込んだ。
「でもさ、エースだなんて、面倒なことの苦手なあいつに務まるのか? それも、あいつは『完璧なクリスター』の跡を継いだようなものなんだ。ポジションが違うから関係ないなんてことはない、おまえに匹敵する存在感を発揮しないことには、エースだなんて認めてもらえない。その点、今のQBよりもしんどいだろう。どうしてもあいつの上におまえの面影を重ねちまう、周囲から受けるプレッシャーは相当きついはずだぜ。実力はあってもいざって時に頼りにならない、精神面での幼さが、あいつの最大の弱点だったじゃん」
さすがに鋭い所をついてくる、アイザックの分析に、クリスターは手厳しいなとばかりに顔をしかめた。
(もしも今レイフがここにいて、この辛辣な批評を聞かされたらどんな反応をしただろうか)
ふと、ここにはいない弟の上に、クリスターは思いを馳せた。
(真っ赤になって怒り出すかもしれない。それとも、結果を出すことで自信をつけつつある、確かに僕が見ても変わったなと思える今のレイフなら、多少の辛口批評には動じない余裕を見せて、軽く笑い飛ばすだろうか)
やがて、クリスターの口元には、ゆったりとした笑みが広がっていった。
「そりゃ、最初は僕も、いきなり大きな責任を背負うことになったレイフが、エースとしての重圧に耐え切れるのか、少しは心配したよ。でも、実際シーズンが始まってみれば、それさえも杞憂だったと分かったんだ。まあ、覚悟を決めればあいつも変わるだろうとは思っていたけれど、予想以上の変貌振りには、さすがの僕も驚いたかな」
クリスターの顔に、何とも満足そうで誇らしげな、しかしどこか寂しげでもある表情が浮かぶのを、アイザックはじっと見守った。
「レイフは確かに気分屋で、自己を制御するのは苦手だけれど…僕は、そんなしようのない弟をその気にさせることが昔から得意だったんだ」
クリスターは、何かしら遠い眼差しをしてぽつりと呟いたが、その小さな呟きは、コーヒーを運んできたウエイトレスによって遮られたため、アイザックの耳には入らなかったようだ。
アイザックは、熱いコーヒーを一口すすった後、思案顔のクリスターを見上げ、にやりと笑った。
「ふうん…おまえがそこまで言い切るなら、間違いはなさそうだな。俺も、変身したレイフの活躍ぶりに興味がわいたよ。ブラック・ナイツの次の試合でも、体が空いてりゃ、見に行こうかな。そうだ、おまえもどうせ応援しに行くんだろ? なら、一緒にどうだよ?」
アイザックが誘うのにクリスターはちょっと迷うような顔をした。しかし、結局きっぱりと首を横に振った。
「いや、僕はやめておくよ…ああ、そんながっかりした顔をしないでくれ。実は、今シーズンが始まってから、僕は一度もブラック・ナイツの試合は見に行ってないんだ」
「見に行ってないって…何でまた…?」
不審そうに眉を寄せて追求しかけたアイザックだが、クリスターの肩に巻かれた包帯に目をやって、開きかけた口を閉ざした。
「まあ、僕もまだ、フットボールの試合を落ち着いて観戦できるほどには、心情的に回復していないってことかな。それに、僕が姿を見せたら、返って、今絶好調のレイフの集中力をかき乱してしまいそうな気もするし―」
クリスターは悩ましげに溜息をついた。
「クリスター、おまえの気持ちは分からないでもないけれど、レイフはきっと、おまえに自分のプレイを見てもらいたがってると思うぜ。思い切って、ちらっとでも見に行ってやれよ、あいつにとって何よりの励みになるはずさ」
アイザックの同情のこもった優しい声を半ば上の空で聞き流しながら、クリスターは反射的に相槌を打つ。
「うん」
フィールドを自在に駆け回るレイフの力強く躍動感に満ちた動き、彼の上に降り注がれる惜しみない拍手と賞賛の声―想像するだけでも、クリスターの胸には熱いものがこみあげてくる。あれは自分の弟なのだと、きっと周囲に誇りたくなるだろう。
自らは、フィールドに立つことは二度となく、近くても遠いスタンドに、他の観客達に混じって坐りながら―。
「たぶん、そのうちに―きっと、そうするよ」
時が経てば、自分が置かれた、この新しい状況にもきっと慣れるだろう。レイフが見事に克服し、順応したように。だが、今まだ、あの懐かしい、昨年の栄光の記憶も生々しい場所に戻る勇気はない。
コーヒー・カップを手に物思いに沈み込んでいるクリスターを、アイザックは、かけるべき言葉がなかなか見つからないとでもいうかのごとく見守っている。
どことなくしんみりとした空気が、2人が坐っているテーブルに流れた。
「…ああ、そうだ」
いつまでも黙り込んでいる訳にはいかないとでも思ったのか、アイザックがついにこの長い沈黙に終止符を打った。
「おまえに伝えるべきことがあったんだよ、クリスター。俺も今朝親父から聞いたばかりのニュースなんだけれどさ」
クリスターはちらと目を上げて、アイザックの顔を正面から見た。
「ウォルター経由のニュースというと―ジェームズに関してかい?」
アイザックが関わった事件の首謀者でもあり、たぶん記者としても彼のように怪物的な犯罪者には関心を覚えているのだろう、ウォルターはジェームズの処分の行方を熱心に追っているのだ。
気持ちが沈んでいても相変わらず勘は鋭いクリスターに、アイザックは幾分ほっとした顔になった。
「ああ、その通りさ。ジェームズの奴の起訴が決まったことまでは、おまえも知っているのかな?」
「ああ…」
ジェームズの名前を聞くと、今でも何とも言えない緊張感と興奮に身が引き締まる気がする。クリスターは心臓の鼓動が早まるのを意識しながら、慎重に答えた。
「次は罪状認否手続きに入るんだろう…? 奴のことだから、あくまで罪を認めずに無罪を主張して法廷を引っ掻き回しかねないけれど―それとも、言い逃れようのない証拠があれだけ出れば、さすがの奴も今回は観念するのかな…?」
「それがさ、罪状認否手続きは3日後に予定されていたんだが、昨夜急に、ジェームズの奴、体調を崩してな、拘置所から警察病院に搬送されたそうなんだ」
不安に駆られたかのように声を低めて言うアイザックに、クリスターはとっさに何と応えればいいのか分からなくなった。
「ジェームズが…入院…?」
この知らせに、クリスターは自分でも驚くほどのショックを受けていた。
「そうなんだ…逮捕された時点で、既にジェームズの病気のことは分かっていたんだが、奴が引き起こした事件の悪質さから保釈も認められず、拘置所に一月近くもいた間に更に病状が悪化したようだ。あいつの病気は特殊なもので、拘置所内では対応しきれなかったんだろう」
「ジェームズの容態は、それほど悪いのか?」
クリスターは愕然となって聞き返す。
「そこまで具体的なことは、俺にも分からないよ。だが、ジェームズは不治の病でもうあまり長く生きられない―そう調べ上げたのは、おまえとダニエルだったよな。なら、おまえの方が、ジェームズの身に今何が起きているか、俺よりずっと詳しいはずじゃないか?」
「ああ、確かに、僕には分かっている…そのつもりだったけれど、何だか実感がわかなくて…おかしいな、どうして僕がこんな不安な気分になるんだろ?」
自分を震撼させているものの正体が分からなくて、クリスターは動揺を噛み殺しつつ、頭を軽く振った。
ジェームズを最後に見たあの夜―自由の利かなくなった体を最後の力を振り絞るようにして引きずりながら、じりじりと迫ってきた彼の鬼気迫る表情が、忘れようとしても忘れられない。
(僕を殺してくれ)
冗談めかして囁きかけてきたあの台詞には、実は本気も混じっていたのではないかと、今になって、クリスターには思われる。
「大丈夫か、クリスター、顔が青いぜ」
アイザックが気遣わしげに声をかけてきて、クリスターの腕にそっと手を置いた。
「ジェームズとの最後の闘争は、おまえにとって生易しい経験じゃなかった。トラウマになるのも無理はないけど―もうジェームズ・ブラックはおまえには手の届かない場所に行っちまったんだ。あいつのことであれこれと思い悩んだ所で、何にもなりゃしない。…ううん、この知らせ、おまえには黙っていた方がよかったのかな…?」
アイザックの囁きに、クリスターは力なく微笑みながら首を振った。
「いや、教えてくれてありがとう、アイザック。君が教えなかったとしても、結局僕は自分でジェームズの状況を知ろうとしただろうからね。一時は、あいつがちゃんと拘置所に閉じ込められているって確認しないと不安で堪らなかった。今でも、聞けば心をかき乱されるくせに、どうしても聞かずにはいられないんだ。ある意味、あいつとの腐れ縁はまだ―たぶん、あいつが本当にこの世から消滅するまで続きそうだな」
「クリスター…」
「あんまり健康的な精神状態とは言えないけれど、たぶん、これも時間が解決するしかないんだろう。僕のこの怪我が癒えて、今の自分の体の状態を僕が正しく受けとめられるようになるのに時間がかかるのと同じようにね」
半ば諦念したような笑みを薄く浮かべるクリスターをアイザックはしばしもの言いたげに見つめていたが、結局、これ以上この話を続けるのは好ましくないと判断したようだ。
「分かった、忌々しいJの話はここまでにしとこう。なあ、クリスター」
「うん?」
アイザックは、これもどう切り出すか少し迷ったようだ。一瞬間をおいてから、思い切ったように続けた。
「ダニエルが自主退学して、ロンドンに行っちまったのは残念だったな。俺も、できれば一目会っておきたかったが―あの時俺はまだ拘置所内にいて、保釈されるかどうか微妙な時だったし、親父も俺に余計な心配をさせまいと黙っていたんだ。実際、すべて後から聞かされたんだよ。また随分急な話だったらしいな」
「うん…」
別れて間もない恋人のことが思いだされて、ほろ苦い気分になりながら、クリスターは頷く。
「おまえは、あいつが発つ前にちゃんと会えたのか? ダニエルの親とかなりもめたと聞いたけれど―」
「ああ。話を聞いたレイフが、尻込みする僕を強引に空港まで連れて行ってくれたおかげで、短い時間だったけど、ダニエルと話すことができたよ。実際僕は、ダニエルに対するすまなさが勝って、彼と会うのをためらっていたんだけれど―思い切って、会ってよかった。あのまま顔を見ずに別れてしまったら、僕の胸にはずっと後悔が残ったろうし、ダニエルをまた余計に傷つけてしまったろうからね」
「へえ、レイフがねぇ…気の効かないあいつにしては、なかなかやるじゃないか。俺も、ダニエルがイギリスに行っちまったって聞いた時から、気になっていたんだ。おまえらが、お互いわだかまりのないきれいな別れ方ができたかどうか…あからさまにはしていなかったけど、結局付き合ってたんだろ、おまえら?」
「まあね」
クリスターは一瞬とぼけようかとも思ったが、アイザック相手に本心を隠すのも今までの経緯を考えるとためらわれたので、今度ばかりはあっさりと認めた。
「あー、やっぱり…ダニエルの方はおまえに恋しているのは見え見えだったけど、おまえは、俺の前ではあまりそういう雰囲気は出さなかったものな」
「そりゃ、君にはこんなことうかうかと話せないよ、おかしな記事を書かれたら困るし」
「俺はしょうもないゴシップなんか書かねーって、いつも言ってるだろ。ああ、でも―」
まるでかつて新聞部の部室でダニエルも交えて一緒にふざけ合っていた時に戻ったかのような調子でそう言った後、アイザックはふいに切なげに目を細めた。
「寂しくなるな―あの可愛いダニエルがもうここにいないと思うと…」
アイザックの呟きに、クリスターも瞳を揺らして、ひっそりと頷いた。
(クリスターさん…僕、向こうに行っても一生懸命勉強して、きっといつか自分の力でアメリカに戻ってきます。あなたに認めてもらえるような立派な大人になって、もう一度あなたに追いついてみせるから―どうか、僕のことを心の片隅にでも覚えていてください)
空港での別れの際、初めは気持ちを昂ぶらせてろくに話せなかったダニエルが、最後には生き生きとした光を瞳に宿し、決意に満ちた強い口調で宣言したのをクリスターは思い出していた。
J・Bの手下によってあれほど惨い目に合わされたのだから、どれほど深い心の傷が残っていても不思議ではなかった。
体も心を壊された恋人の悲惨な姿と対面することを半ば覚悟していたクリスターに、ダニエルは意外なほどの芯の強さを最後に見せてくれた。
(ああ、ダニエル…僕は決して君を忘れない。短い間だったけれど、君が傍にいてくれて、よかった)
あの時、胸から迸った熱い感情にまかせて、クリスターは人目もはばからず、ダニエルをひしとかき抱いた。
恋人の感触を覚えておこうとするかのようにしがみついてくるダニエルのか細い体を腕の中におさめて、クリスターはやっと、心から素直に彼のことを愛しいと思うことができたのだ。
「大丈夫、いつかまた会えるさ」
ぽつりと、ダニエルに対して言った言葉を確かめるかのように唇に乗せてみる。
「そうだな…いつか―」
アイザックが感慨深げな面持ちをして、相槌を打った。
クリスターはゆっくりと瞬きをして、アイザックの方に顔を向けた。
「そう言えば、アイザック、君は―今後、どうするんだ? 落ち着いたら、学校には戻れそうなのか?」
アイザックはクリスターをまっすぐに見つめた。クリスターが不安に思うほど長い間そうした後、ふっと微笑んだ。
「いや―俺も、あれだけの事件に関わって、一時はジェームズの共犯として告訴されかかった身で、何事もなかったかのようにこのまま学校に留まるというわけにはいかないよ」
「それじゃあ…君も、行ってしまうのか…?」
思わず呆然と呟いてしまったクリスターの反応に、アイザックは少し驚いたようだ。
「あ、いや…そりゃ、うち学校は所謂名門だし、何かと煩い人間だっているだろうけれど、何だか納得できないと思ってね」
アイザックの眼差しを避けるよう、慌てて俯き、口ごもりながら言い訳をする。クリスターは動揺していた。
「仕方ないさ…俺だって、別に無罪放免って訳じゃないんだ。ジェームズの罪を告発する、所謂司法取引をして、どうにか不起訴処分に免じてもらっただけで、何らかの罪の償いはしなくちゃならない。コリンは俺を許すと言ってくれたそうだが、俺の気持ちがおさまらないし、それにミシェルは、意識を取り戻したとはいえ、社会復帰できるようになるまでには相当に長いリハビリを続けなければならない。これから、弁護士も交えて慰謝料などの相談もあるし、迷惑をかけちまった親父のもとに戻って、しばらくは大人しくするよ」
「それじゃあ、ウォルターと一緒にロスに行くのか」
「ああ、結局そうなるだろうな。まだしばらく、こっちに残って片付けなきゃらならない手続きやら、交渉ごともあるが―ジェームズの公判が始まるのを待つかもしけないけど、それはあいつの病状を考えるといつになるか微妙だな。実際、これからのことについては俺も、まだ具体的に考えられるほど心の整理はついていないんだ。たぶん、何もかも片付いたら、向こうの学校に編入することになると思うよ」
「そうか…」
たちまち、クリスターの胸を何ともいえない寂寥感がふさいでいく。
(ダニエルに続いて、アイザックまでいなくなってしまうのか。あれだけの事件に巻き込まれてしまった僕達が、以前と同じでいられるわけがないとは分かっていたはずだけれど―)
クリスターがじっと黙りこくっているので、アイザックは心配になったらしく、何事か声をかけようと口を開きかけたが、それより先に、クリスターは思い切って言葉を継いだ。
「すぐにボストンを離れるわけじゃないなら―まだしばらくの間は、僕とこうして会ってくれるな、アイザック?」
「えっ?」
アイザックは何を言われたかとっさに分からず、きょとんとして、はにかむように笑うクリスターの顔を凝視した。
「君がいなくなると寂しくなるから、今のうちにできるだけ、一緒にいたいなと思うんだ。君さえ、僕と話すのが嫌じゃなければ…だけれど―」
意地っ張りのクリスターにとって、こんなことを口にするのは非常な勇気がいったが、今度こそ、いつも裏切り続けたこの大切な友人に対して、真摯で正直であろうと心に決めていた。
もっとも、ダニエルに対しても同様だが、別れを前にしてやっとこんな正直な気持ちになれたなんて、我ながら何とも情けなかった。
「クリスター」
アイザックはしばらくぽかんと口を開けたまま、クリスターの言葉をじっと反芻していた。その頬が見る見るうちに赤らみ、目がじわじわと潤んでくる。
己の発した言葉の意外な効果に、クリスター自身驚いていた。
皮肉屋で天邪鬼のアイザック。なかなか素直になれないという点では、彼はクリスターと似通っていた。しかし、クリスターの発した率直なメッセージは、今度こそ彼の胸にしっかり届いたようだ。
「クリスター…当たり前じゃないか、俺は、おまえのことがすげぇ気に入ってるんだ。色んな擦れ違いや誤解があったけれど、やっぱり俺は―」
アイザックは一瞬言葉を切った後、照れくさそうな笑みを浮かべて、小さな声で確かめるように問いかけた。
「なあ、俺達は今でも友達なんだよな…?」
クリスターは、アイザックの目を正面から見ながら、頷いた。
「うん…君は僕の掛け替えのない友人だよ、アイザック」
壊れかかった友情を修復するのに、遅きに失した訳ではない、クリスターはかろうじて間に合ったようだ。
(アイザックも近いうちに僕から離れていく…そのことは、もう仕方がない。でも、いつかまた会えた時には、何のわだかまりもなく、親しい友として再会を喜び合えるような間柄でいたい)
クリスターにとって、ダニエルだけでなくアイザックまでも自分の傍らから去っていくのは痛手ではあった。しかし、少なくとも、こうして2人とも危機を脱し、心を通わせる機会を持てた。
それだけでも、自分には充分過ぎるほどの幸運であり幸福なのだという思いを、クリスターは今しみじみと噛み締めていた。