ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第7章 FAKE
SCENE5
その感動的なオープニング・セレモニーから一夜明けた日のことだ。
いつも通り朝早くからトレーニング・ジムに入っていたレイフは、少し遅れてやってきたトムから、思わぬ知らせを聞いた。
「何だって、ダニエルが学校をやめて、海外に行く…?」
青天の霹靂のような話にしばし絶句するレイフに、返って、トムの方が戸惑った。
「おい、知らなかったのか? てっきりクリスターを通じて、おまえにも知らせが行ってるかと思っていたんだが―」
レイフはまだショックが抜け切れないまま、トムに向かって、鋭い口調で言い返した。
「初耳だよ。って、本当なのかよ、その話…おい、おまえは一体誰から聞いたんだ?」
まだ信じられないという顔をしているレイフに、トムは考えこみながら、慎重に口を開いた。
「昨日寮で、ダニエルのルームメイトから聞いたんだ。急なことだけど、自主退学して、あいつの親父さんが仕事で赴任しているロンドンに行くことになったらしい。…体がよくなったら、向こうの学校に編入することになるのかな。まあ、ダニエルが負った怪我や、J・Bから受けた酷い仕打ちを考えれば、親にしてみりゃ、とてもじゃないけど、このままここにあいつを1人で置いておくことはできなかったんだろうな」
レイフは打たれたかのように、呆然と立ち尽くした。
「そんな…」
ダニエルがクリスター以上に、ある意味酷い暴行を受けたことは、レイフも知っていた。
そして、ダニエルの両親が、息子を事件に巻き込んだクリスターに非常に立腹しており、オルソン家との接触を一切拒んでいるため、彼がどうしているのかなかなか事情が伝わってこないこともあって、密かに気を揉んでいた。
それが、自分達の預かり知らぬ所で、いつの間にかそんなふうに話が決まっていたなどと、何だかだまし討ちでもされたようなショックだった。
それから、レイフは、はたと気付いた。
「クリスターは…ダニエルがいなくなるなんて一言も言ってなかった。そうだ、たぶん、あいつもまだ知らないんだ」
この残酷な知らせを聞いたら、クリスターはどれだけ傷つくだろう。
病室に閉じこもりきりのせいか、この数日間やけに塞ぎがちな兄を思い、レイフの胸はますます痛んだ。
ダニエルはクリスターの恋人だ。そう考えると、レイフの胸中には、なかなか割り切れない、複雑な感情が揺らめきあがったが、さもしい嫉妬よりも、今はこの知らせがクリスターに与える影響の方が気がかりだった。
(クリスターは、以前からダニエルのことをとても可愛がっていた。一時あいつがひどく荒れてたことがあったけど、ダニエルが傍にいてくれたおかげで、それもいつの間にか落ち着いたんだ…クリスターが自分では認めているかどうか分からないけど、あいつはダニエルに支えてもらっている)
そのダニエルが、こんなふうに突然手の届かない所に行ってしまって二度と会えないなどということになれば、今また精神的に参っているクリスターはますます不安定になりかねない。
「おい、それで―ダニエルは、いつボストンを発つんだよ?」
何だか切羽詰った気分でレイフが尋ねると、トムは怯んだような顔をした。
「どうしたんだよ?」
トムの顔に浮かんだ表情に、嫌な予感を覚えながら、レイフは問うた。
「いや、それが―今日なんだ」
「何だって?!」
レイフの大声に驚いた、トレーニング中の他のチーム・メイトが、何事かと一斉にこちらに顔を向けるのに、レイフは慌てて手で口を押さえる。
今更だが、レイフはトムを引っ張って、トレーニング・ルームの隅に移動して、そこで改めて追求した。
「今日ボストンを発つって―おい、一体何時のフライトなんだ?」
「確か、12時丁度発だったと思うよ」
レイフは素早く、後ろの壁にかけられた時計を確認した。
「ローガン空港か…車を病院まで飛ばして、クリスターを連れて行くとして―ぎりぎり間に合うかどうかってところだな」
頭の中で、素早く、これからの段取りを組み立ててみる。大丈夫だ。間に合わせてみせる。
「レイフ…」
レイフは、おろおろと心配そうに見守っているトムを振り返ると、その肩を叩きながら、頼もしげな口調で言った。
「知らせてくれてありがとうよ、トム。おまえが言ってくれなきゃ、手遅れになるとこだった。心配するなって、オレが何としてもクリスターをダニエルに会わせてやるからさ」
そのまま、レイフは取るものもとりあえず、トレーニング・ルームを飛び出した。
クリスターにこの急な知らせを伝えるため、そして、彼を連れて空港に向かい、ダニエルに一目会わせるために、車を急ぎ走らせて病院に向かった。
(いくら子供が可愛いからって、親って奴は、時に残酷なことをしやがる)
クリスターのもとへ急ぐ途中でも、レイフはともすれば、この強引な決定を下した者に対する率直な怒りをかきたてられそうになった。
こんな時ほど、自分達がまだ世間的には何の力も持たない子供なのだということを思い知らされる。
(ダニエルだって、このままクリスターと引き離されたりしたら、どんなにか悲しむだろうに…ああ、けれど、ダニエルがクリスターと付き合っているってことは、たぶんあいつの親は知らないのかな…? 同性愛だなんて知ったら知ったで、また話がこじれるか)
ダニエルの親が同性愛についてどんな考えを持っているかは知らないが、たぶんクリスターとの関係を喜びはしないだろう。親の権限を行使して、反対し、何としても引き離そうとしても不思議ではない。
レイフはますます苛立って、苦々しく、眉を逆立てた。
(ええい、くそっ、男同士で好きになったって、別にいいじゃないか。あいつらが互いに必要としあってるのなら、それを認めてやってくれよ。ああ、でも―)
そう言う己は、彼らの関係についてどう感じているのか。自問したレイフは軽く煮詰まりそうになった。
同性愛を認めるかどうかではなく、もっと個人的な感情の部分で、彼らを許せるか…?
(クリスターの相棒はオレだけだ、ダニエルにだって、譲れない…そんなことを母さん相手に宣言したこともあったけど―)
クリスターがダニエルと付き合っているのを知ってから、レイフは散々思い悩んだ末に、当分の間静観することに決めた。その後すぐにJ・Bの件で頭が一杯になったため、2人の関係についてはあまり深く考える機会はなかった。
だが、忘れたわけではなかった。レイフだって、やはり傷ついていたのだ。
(そうだとも、オレだって、やきもちくらい焼いたさ。クリスターがオレ以外の誰かの支えを必要としているなんて認めたくなかった…でも、やっぱりオレは、クリスターが大事だから、ダニエルを突然失って、あいつが落胆するのは見たくないし、ダニエルだって…あんなにクリスターのために一生懸命な、いい子のことを憎いなんて思えない。だから、あの2人が傷ついたり、心残りになるような別れ方はさせたくない。そうだ、今は離れるしかなくても、また近いうちにきっと会えるさ…せめて、あいつらが自分の口でそう伝え合えるようにしてやりたい)
そう結論付けて、胸の中のもやもやしたものを吹っ切ったレイフの口元には、やっと明るい笑みが浮かんできた。
(だって、未来のことは、どうなるか分からないじゃないか。あいつらは、いつかまた出会って、新しい関係を始めるかもしれない…)
考えてみれば、イギリスなんて、それほど遠くない。高校を卒業したら立派な大人なんだし、クリスターのことだから、アルバイトで稼いで、やりくりをうまくして、会いたい時にいつでもダニエルに会いにいけるはずだ。
(そうなったら、オレはまたやきもち焼くんだろうなぁ。ううん、オレ、もしかしたら損な役回りをしているのかもしれないけど、まあ、いいや。クリスター、オレはただ、おまえに幸せであってほしい)
病院の駐車場に些か強引に車を突っ込むと、レイフは玄関から病室まで、エレベーターなど使わずに、一気に駆けあがった。
「クリスター!」
レイフが荒々しくドアを開くと、クリスターは仰天したように目を瞬きながら、顔を向けた。
「レイフ、一体どうしたんだ?」
戸惑いの混じったクリスターの呼びかけも、とにかく焦りが先立つレイフは、イライラと遮った。
「いいから、早く服を着替えろよ、クリスター」
説明する時間も惜しいとばかり、レイフはクローゼットからクリスターのシャツやジーンズを引っ張り出して、ベッドの上に投げ出した。
その様子を、クリスターはじっと押し黙ったまま、眺めている。
「クリスター」
レイフは一瞬、この闘い傷ついた兄に、大切な人が去っていこうとしている事実を、どんなふうに知らせたらよいのか迷ったが、結局ありのままに伝えることにした。
「気を落ち着けて聞けよ、ダニエルが学校を辞めたんだ。あいつの親が決めたらしい。そうして、すごく急な話なんだが、今日、あいつはボストンを経って、イギリスに行くって―」
レイフが息せき切って話し出した途端、クリスターは慄いたように瞳を見開き、さっと顔を背けてしまった。
それを見たレイフは、たちまちピンときた。唖然となった。
「おい、まさか、おまえ―知っていたのか、ダニエルがこの街から出て行くって…?」
クリスターの手がぐっと握り締められるのを認めながら、レイフは、ここの所クリスターが随分と沈んでいる様子だったことを思い出していた。入院生活のせいでうつになっていたわけではなく、ダニエルのことで落ち込んでいたのだ。
「ああ、1週間ほど前にウォルターから聞かされたよ。残念だし、辛いけれど、ダニエルの親がどうしても彼を連れて行くというのだから―仕方ないだろ?」
レイフには全てもう合点がいったのに、まだ平静を装って取り繕おうとするクリスターの頑なな態度に、彼は思わず眉を吊り上げた。
「仕方ないだって…おまえにとって、それだけで片付けられる話じゃないだろ? 大体、知っていたなら、どうして―今日まで、自分からダニエルに会いに行こうとしなかったんだ? あいつの病院の名前くらいは、知っていたはずだろ? 親に迷惑がられても、一目くらい会ったって構わないじゃないか、遠慮なんかすることねぇんだよ、ダニエルはおまえのこ…恋人なんだからっ」
レイフは真剣に訴えるが、クリスターは、そんな話を聞くのは耐え難いというかのごとく、頭を振った。
「僕は―ダニエルに会わす顔がないんだ。僕のせいで、彼はあんなに酷い目にあって、学校を去らなくてはならなくなり、体にも大きな障害が残るかもしれない…それなのに、僕がどうしてあの子の前に立てるだろう、何と声をかけることができるだろう」
レイフは、思いもよらない弱音を吐くクリスターを見て、一瞬、言葉を失った。
(全く、こいつは、賢いくせに、どうしてこんな馬鹿なことばかり、思いつめちまうんだろう)
クリスターがダニエルに会いたくないはずがない。それなのに、今言ったようなことをずっとぐるぐると考え続けて、身動きを取れないでいたのだ。
「無責任だし卑怯だとも思ったけれど、僕は、どうしても―」
「うるさいっ!」
レイフはくわっとなって、まだ言い訳を続けようとするクリスターの言葉を途中で荒々しく遮った。
「それ以上下らないことをぐだぐだ言うな! ダニエルに会わす顔なんか、この際どうだっていい、要はおまえがどうしたいかなんだ。クリスター、おまえはダニエルに会いたいんだろ? だったら、素直にそうしろよ。こんな時まで自分の心をごまかすな。いいか、ダニエルはイギリスに行っちまうんだぞ、今会いに行かなきゃ、おまえはこの先ずっと後悔する」
レイフのまっすぐな言葉に、クリスターははっと息を吸い込んだ。
今更のように、そのことを現実として認識したらしい。
「ダニエルが…行ってしまう…」
苦しげに呟いたかと思うと我が身をかき抱いて身震いする、クリスターを見かねて、レイフは彼を軽く抱擁した。
「さあ、クリスター、もういいから、とにかく空港まで急ごう。大丈夫だ、きっとまだ間に合うよ」
すると、クリスターはそれ以上レイフに逆らうことはせず、黙ったまま、こくりと頷いた。
その後は、二人とも、それ以上時間を無駄にすることはなく、素早く準備を整えて、病院を飛び出した。
本当は外出許可をもらわなければならなかったのだろうが、そこまでする余裕はなかった。どのみち明日にはクリスターは退院する予定なのだから、数時間くらい病院から姿を消しても、別に構わないだろう。
クリスターにとってはおよそ2週間ぶりの外出だが、それが恋人との突然の別れのためだなどと、何とも胸が詰まるような話ではないか。
運命というやつは、このところ、やけにクリスターに厳しい。
つのる焦燥感を無表情の仮面の下に封じ込んだままの兄を助手席に乗せて、車を走らせる最中、レイフはそんなやるせない思いを噛み締めていた。
ボストン、ローガン空港。
国際便が幾つも乗り入れている割にはこぢんまりとした地方空港に、レイフとクリスターが到着したのは、11時過ぎだった。
「急げよ、クリスター!」
空港と向き合う形である大きな立体駐車場から空港ビルへと直接つながっている通路を駆け抜け、一階にある出国ロビーに辿り着いた彼らは、ダニエルの姿を必死に探し求めた。
ダニエルが搭乗する便は12時丁度発のブリティッシュ・エアウェイズで、ロビーの上の方に設置された大きな電光掲示板を確かめると、既に『オン・ボード』の表示が出ている。
時間をつぶす場所も特にないような簡素なロビーなので、大抵の乗客はチェックイン後はさっさとゲートに入ってしまう。
一応ロビーの端から端まで手分けして探してみたが、ダニエルの姿は見つからず、2人は、大勢が列を作って順番を待っている、セキュリティの前で途方に暮れたように立ち尽くした。
「時間的に考えて、もう中に入っちまったか…」
レイフの悔しげな呟きを聞いたクリスターは暗い顔をして、俯いた。
「クリスター…」
レイフの心配そうな呼びかけを聞いて我に返ったクリスターは、再びしゃんと顔を上げた。
「レイフ、もういいよ…残念だけど、一足遅かったんだ」
レイフの肩に手を置き、大丈夫だというかのごとく頷きかけるクリスター。また無理をして、平気な顔を装おうとしている兄を見て、レイフはついかっとなった。
「いいや、よくなんかないっ!」
レイフはクリスターの手を荒々しく払いのけると、搭乗客で込み合うセキュリティのすぐ前まで歩み寄った。
「レイフ?」
怪訝そうなクリスターの声が後を追ってきたが、それも無視し、大きく息を吸い込むと、レイフはいきなり大声で叫んだ。
「ダニエル・フォスター!!」
もともと声の大きいレイフのあげる大音声は、よく通った。
セキュリティ・チェックを待つ人々は一体何事かとぎょっとなり、あるいは半分飛び上がりそうなりながら、自分達のすぐ傍で仁王立ちしている大男を振り返り、その真剣な面持ちに恐れおののいたかのように、慌てて彼から遠ざかろうとする。
「ダニエル、聞こえるか、ダニエル・フォスター! クリスターがおまえに会いに来ているぞ。早く、出てこいっ」
恥とか遠慮という概念は、この際無視して、ターミナル中に響き渡れとばかり、大声で呼ばわり続けるレイフの目は据わっている。
「レ、レイフっ」
一体何をしでかすのかと赤くなったり青くなったりしながら、レイフのもとにすぐに駆け寄ってきたクリスターが、その腕を掴んで、揺さぶった。
「馬鹿、こんな場所で妙な騒ぎを起こすな。不審者だと思われたら、面倒だぞ」
クリスターがそう心配するのももっともで、既に近くにいた警備員達がレイフの行動に不審な眼差しを向けて、じっと様子を窺いながら、近づきつつある。
「だって、せっかくここまで来たのに、もしかしたらまだ傍にいるかもしれないのに、ダニエルをみすみす諦めることなんてできないじゃないか…オレは、クリスターにそんな口惜しい思いなんかさせたくないんだ」
「レイフ…」
まるで自分のことのように必死になっているレイフの顔を見て、クリスターは絶句した。
喉の奥に何かつかえたように微かに喘いだ後、彼は、やっとの思いで再び口を開いた。
「いいんだ、レイフ―僕のことで、おまえまで、そんなふうに心を痛めるのは―」
たどたどしくクリスターが言いかけた、その時、セキュリティ・ゾーンのシールドの向こうからちょっとした騒ぎが聞こえてきた。
レイフとクリスターは弾かれたように顔を上げて、シールドの向こうに視線をやった。
「おい、あれって、もしかして―」
レイフはクリスターの腕を掴み、期待のこもった口調で囁きかけたが、彼は息を詰めて見守るばかりで、何も応えようとはしなかった。
やがて、ざわめきたつ乗客達が左右に分かれ、その向こうから車椅子に乗った小柄な少年が姿を現した瞬間、レイフは思わず小さな快哉をあげていた。
「クリスターさん!?」
切迫した小さな顔が必死になって何かを探し求めるように辺りをきょろきょろと眺め回し、ついに、客達の向こうに立ち尽くしている赤い髪をした長身の男を見つける。
「クリスター…さん…!」
たちまち、その大きな青い瞳が潤み、声が震えるのが、ここからでも分かった。
「ダニエル…」
クリスターは呆然と、その名前を呼んだ、
ダニエルは懸命に車椅子を操ってクリスターに近づこうとし、ついには我慢しきれなくなったかのように、自分の足でふらふらと立ち上がった。
「ダニエル!」
クリスターは堪えきれなくなったかのように、自分に向かって両手を差し出しているダニエルのもとへと駆け出した。
「馬鹿、動くな…」
ダニエルは、クリスターに近づこうと歩き出しかけたものの、手術したばかりの体には到底無理なことで、すぐによろめいて転倒しそうなる。
クリスターも怪我をしているのはダニエルと同じだが、もともとの体の造りと体力が違う。以前と少しも変わらぬ俊敏さで動いた彼は、無事な方の左腕を素早く伸ばすと、ダニエルの小柄な体をすくい上げるようにして、しっかりと抱きとめた。
「クリスターさん、クリスターさん…」
ダニエルはクリスターの胸にしがみつきながら呼びかけるが、その声は溢れ出す涙と嗚咽の中に紛れて、それ以上は言葉にならない。
クリスターは、そんな彼の頭をあやすように撫でながら、何事か囁きかけている。
彼らの向こうには、ダニエルに付き添っている母親らしい人の姿が見えたが、この短い時間の中で懸命に互いの想いを伝えようとしている2人を前に、彼女も言葉を差し挟むことはできないようだった。
(ああ、よかったなぁ、クリスター)
ダニエルと親密に語り合っているクリスターは、このところずっと張り詰めていたものが解けて、めったに見られないほど素直な、年相応に若者らしい表情をしていた。
その厳しい瞳は和らいで、しっとりと濡れている。もちろん、辛いし、哀しいのだろうが、少なくともこうして顔を合わせて言葉をかわすことができたおかげで、絶望的な暗さはぬぐいさられていた。
そうして、遠慮がちに少し離れた場所に立ちながら2人の様子を静かに見守るレイフも、切ないながらも、満ち足りたような穏やかな気分になっていた。
(あ、あれ…?)
微笑みながら、うんうんとしきりに頷いていたレイフは、ふいに、目から涙が零れ落ちたのにびっくりとして、手で押さえた。
自分のことじゃないのに、おかしなくらいに気持ちがぐらぐらと揺れ動いて、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
(ああ、また伝染しちまった…ったく、参るぜ)
クリスターの感情が伝わって、つい涙目になっている自分を笑いながら、レイフはさり気なく壁の方に移動して、人目を避けることにした。
ダニエルを見送った後、レイフは意気揚々と車を停めてある立体駐車場まで戻っていった。その後ろを、クリスターが黙然とついていく。
「ほら、オレの言ったように、ちゃんと間に合っただろう?」
「うん」
クリスターの声がまた少し沈んでいたので、気になったレイフが振り向くと、彼は駐車場の向こうに建つ空港施設の方をぼんやりと眺めていた。
丁度、建物の陰から、離陸した飛行機が空高く上がっていくところだった。
レイフはクリスターに倣って、しばし目を細めて、どんどん空に昇って小さくなっていく機体を追った。
それがダニエルが乗っている機かどうかは分からないが、切なげな眼差しで遠くなっていく機体をじっと見送っているクリスターの心中は、レイフにはよく分かった。
(本当に、素直でない奴)
懸命に何かを堪えるかのごとく微動だにしないクリスターの背中を、レイフはしばらくの間、車に寄りかかりながら見守っていた。ふっと溜息をつくと、ゆっくりと近づいていき、その肩に手を置いた。
触れられた途端、クリスターはびくっと身を震わせる。
「こんな時まで、無理すんなよ、クリスター」
低く柔らかな声で囁きかけると、レイフはクリスターの顔は見ないようにしながら、その体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「ダニエルと別れて辛いのは、おまえにとって当たり前のことじゃないか。平気なふりをすることなんてねぇんだ。泣きたけりゃ素直に泣いて、胸に溜め込んだものは全部吐き出しちまえよ。その方が、よほど気分がすっきりして、楽になれるぜ」
クリスターは声に出しては何も応えなかったが、レイフの手をはねのけることはせず、その抱擁におとなしく身を委ねている。
レイフが辛抱強く待っていると、やがて、クリスターの頭がレイフの肩の上にそっと置かれ、微かな震えがそこからレイフの体に伝わってきた。
(クリスターが、泣いている)
抑制された、ごく静かな嗚咽に耳を傾けながら、レイフは、胸の中心から切ないながらも温かな感情がじわじわと広がっていくのを覚えていた。
(どうせ泣くなら、遠慮なんてせずに、もっと盛大に声をあげて泣けよ。ほら、オレはこうしてお前の傍にいて、黙って受け止めていてやるからさ)
クリスターの肩越しに空港の彼方に広がる青い空を睨みつけている、レイフの目はいつの間にか潤んでいた。
(クリスター)
涙と共にこみ上げてくる愛しさに、胸が詰まりそうになる。
(おまえが二度と傷ついたり悲しんだりすることがないように、おまえがいつも幸福でいられるように…オレは全力を尽くす)
レイフはクリスターの体に回した腕にぐっと力を込めながら、祈るかのごとく、心の中でそっと語りかけていた。
(オレはおまえを守り、幸福にするために生きているんだよ、クリスター。この世に、おまえ以上に大切なものなどあるものか)
たとえ、人として許されないことでも、誰からも理解されないことだとしても、胸の奥から自然に溢れ出してくる、この熱い想いはごまかせない。
(おまえを愛している―)
そのまま駐車場の片隅でレイフとクリスターがじっと身を寄せあっていた、その時、たまたま入り口から入ってきた男が、2人見つけて、ぎょっとなったように立ち尽くした。
他人の視線に気付いたクリスターが、怯えたように身を固くする。
(せっかくいい雰囲気なのに、邪魔しやがって)
レイフは眉根を寄せながら頭を傾けて、ぽかんと口を開けて自分達に見入っている中年の男を不機嫌そうに睨みつけた。どこか非難がましく感じられる他人の注視に悪びれるどころか、開き直って、にやりと不敵な顔で笑いながら言い放った。
「何、人のことを物珍しげにじろじろ眺めてやがるんだよ、おっさん。双子を見るのは初めてなのかい?」
その言葉に男は震え上がった。慌てふためきながら逃げていく男を、レイフはクリスターと一緒に見送り、それから、顔を見合わせて笑いあった。
「さ、そろそろ病院に戻ろうか、兄貴。ホームシックったって、どうせ明日は退院なんだ、後一晩くらい我慢できるだろ?」
レイフがからかうように言うと、クリスターはむっとしたように目を細めて、レイフのわき腹を軽く小突いた。
「僕がちょっと弱みを見せたからって、調子に乗るなよ」
「今更照れなくったっていいじゃん。なあ、これからもたまにはあんなふうに素直になってよ、可愛いから」
レイフは、へらへら笑いながらクリスターにじゃれつこうとするが、思い切り足を踏まれて悲鳴をあげる。
「兄貴をからかうな」
「ひっでーな」
ぎゃあぎゃあと大げさに喚きだすレイフ相手に、いつもの素っ気無い調子で返すクリスターは、晴れ晴れとした顔になっていた。
少なくとも今は、レイフの腕の中で流した涙と共に、ダニエルとの別離がもたらした痛みも薄らいだように見える。
レイフは安堵の息をつきながら、ここに来るまでとは随分様子の変わったクリスターを助手席に乗せて、帰路に着くべく、車を発進させた。